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文字数 5,637文字

 プッと回線が切れる小さな音がした。
 どこか呆然としたような市川の声が、その音の意味を説明する。
『……所長の接続、切れました』
『あの、バカ!!』
 甲斐が手加減なしに本気で詰った。
 パソコンからは──接続の切れたウタからは、当然なんの反応もない。
『どうなってる! 相田、状況報告!』
『えっと、たった今、二人がマンションに入りました。所長は出てきていません』
『くそっ、おまえは車と合流しろ。──市川!』
『──はい。カメラ、二人捉えました。妹尾理子の顔、確認しました。同伴の男性、二十代後半、身長は百七十後半、確かにチンピラい格好です。鍵、持ってるみたいです、中入ります。……それと、三島由利子が改札に到着しました』
『っ、この、くそ忙しいときに!』
 その騒然とした会話を、孝一郎はどうすることもできないまま聞いていた。
 甲斐は怒っている。本気で苛立っている。
 ウタが部屋から出てこなかったからだ。逃げるべき場面のはずだったのに、逃げられる時間は僅かでもあったはずなのに、彼は自らすすんで部屋から出てこなかったからだ。
 ──もしかして、クスリ、やってる?
 最後に聞こえた声は、今まで聞いたことのないような、ひどく乾いた声だった。
『……三島由利子の姿を確認した。受け渡し二十分前。俺は今から三島由利子をサポートする。現段階では身代金の行方の方が、対象者に近い』
「っ、それじゃあ所長は──!」
 発作的に孝一郎は、パソコンから聞こえてくる甲斐の声に言い返しかけたが、孝一郎の方のパソコンはマイクのない受信一方で、その声は届かない。
『分かりました、お願いします。……品川の方、どうしますか』
『部屋でなにを見たかは知らんが、あいつの予想なら確率は高いだろ。昼飯食ってから向こう出たら、そろそろ着いてるか、着くかだ』
『東海道新幹線は本数が多いので、絞りきれませんよ』
「…………」
 甲斐と市川は、ウタのことは放って会話を続けている。
 孝一郎は身動きができなかった。どうしたらいいのか分からなかった。状況が分からない。先を読めない。判断ができない。だから言葉を発することさえできずに、ただそこで呆然とするしかできない。
 いつのまにか、孝一郎は爪が食い込むほどに拳を握っていた。
 昨夜と一緒だ、と閃くように思う。おまえはどうせなにもできないのだから、殴られるのを黙って見ていろ、と言われたような──そんな。
 そんなこと、ごめんだ。
 孝一郎はドアの内ノブに手をかけた。
「はい、ダメーっ! ドアは開けない!」
「っ」
 途端に助手席からそんな声が飛び込んできて、驚いて孝一郎はドアを開けかけた手を止め、背中を振り返っていた。
 助手席にするりと忍び込むように乗ってきたのは、相田翔だ。
 どこにでもいそうなごく普通の若者らしい格好をして、頭にはヘッドフォン、フリース生地のジャケットの襟元からマイクらしき小さな黒い物体が顔を覗かせている。
 なにか口を開こうとした孝一郎の目の前に手を出して言葉を遮ると、助手席に置かれていたパソコンを膝に乗せて、相田は会話を続けた。
「──相田、車と合流しました。俺、今から品川、回りますか? 無駄足になるかもしれませんけど、可能性の高い方に俺が行った方がいいかと。ここには、人手もあるようだし」
『人手?』
 いつもの人の良い顔をしたまま相田は、運転席で言葉を失っている孝一郎を一瞥して、少し笑った。
「ええ、所長の身を案じて今にも飛び出していきそうな新人さんが一名」
『そんなくそ素人、役に立つかバカッ』
『見張りと状況報告ぐらいならできるでしょう。甲斐さん、今は猫の手でもあった方がマシです。通信機器の使い方は俺の方で教えますから』
「ここにあるし、所長のケータイ、使えばいいんじゃない?」
『ちっ』
 市川と相田の言葉に、不愉快そうに甲斐が舌打ちをする。
 甲斐が孝一郎の存在を認めていないのは、その空気感で嫌というほど分かった。だが、ぐっと唇を噛みしめて孝一郎は黙る。
 役に立たないと思われても仕方がない。実際に自分は彼らのしている仕事に関してはずぶの素人だ。けれど、そんななにもできない自分がふがいなくてたまらなくて。
『──分かった。相田、おまえは品川に回れ。市川は中の様子を探る方法を考えろ。それからその素人を使えるようにしとけ。俺はしばらく三島由利子につきっきりだ。いったん通話は切るぞ。なんかあったら即つなげ。いいか、最優先は三島有紗の捜索だからな!』
 不愛想に甲斐がそう言い放って、プッと接続が切れた音がした。
 と、相田が少し運転席を振り返り、孝一郎に向かって肩をすくめてみせる。
「まったく、甲斐さんって困った人見知りだよね」
『……相田、おまえのその感想、すごく間違ってると思う』
「違うの? だってATフィールド全開でしょ」
『それ本気で違う。っていうか、無駄口叩いてるヒマないんだけど。とりあえずそこの人にケータイ渡しておいて。あとは俺の方でなんとかするから。今、新幹線の到着時間と構内の乗り換えルート送った』
 年の近い同僚同士はさすがに気安いらしい。
「了解。じゃあ俺、すぐ品川行くね」
『着いたら連絡して。それまでは他に集中するから通話は切る』
「うん。じゃあ、またあとで」
 にこやかに言って、相田は懐から携帯を取り出すと通話を切った。それから言葉を挟むこともできず、それらのやりとりと運転席で聞いていた孝一郎に、「はい」と車内に置いてあったウタの携帯を手渡す。
「これ使って。すぐ市川くんから電話かかってくると思うし。あと所長だけど、身元の分かるものは全部置いて行ってるから、簡単に興信所の人間だってばれないだろうし、基本的に器用で機転もきく人だから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。──じゃあ」
 あっさりと相田はそう手をあげると、車を出た。
 と思いきや、閉めかかったドアを開けて半身を入れるようにして顔を出す。
「あと、車の鍵はかけておくこと。指示なしで動かないこと。交通ルールを守ること。未成年者の安全を最優先にすること。とにかく所長を信じること。これ、最低限、覚えておいて。じゃ、気をつけてね!」
「────」
 朗らかにまくしたてられ、その勢いに孝一郎があっけにとられているうちに、相田はドアを閉めてさっさと歩き始めていた。
 ──とにかく所長を信じること。
 それがこの事務所のルールか。
 そう顔をしかめ、複雑な思いで眼鏡をずりあげたところに、手の中の携帯が震えて着信を知らせてきた。

 三十分──いや、三十五分か。
 ウタが口八丁で潜入した部屋に、妹尾理子とチンピラ風の男が入室してから。
『とりあえずそのマンションについて、変化があったら報告してください。どんな小さな変化でもいいので。主には玄関の出入りです。杉山博志の部屋とは無関係でも、念のためマンションの玄関に出入りする人は全員チェックしてください。所長の持って行った機材の中にデジカメがありますよね、それで出入りした人間は一人残らず片っぱしから撮ってください。こちらでも杉山博志の部屋のカメラはモニターしているので、そこに動きがあればこっちでも分かります。とにかくただそこを動かないで玄関を見張ってください』
 市川の指示は、ものすごく早口ではあったがシンプルだった。
 それに従い、使い方を教示された携帯とカメラを握って、孝一郎はバックミラーを睨みつけている。
 携帯はアイコンをひとつ押すだけで、市川につながるようになっているし、助手席に置かれたパソコンは常時ネット接続をしていて、杉山博志の玄関先をモニタリングしているだけでなく、指定のキーを叩くだけで市川へ報告ができるという、専用のアプリケーションが起動している。
 これがプロの仕事のやり方なのか。
 つくづく孝一郎の知らない世界だった。
 部屋への侵入だってよく考えれば不法侵入だ。それにウタが最後に口走った〝クスリ〟というのは、きっと孝一郎が慣れ親しんでいる市販薬でも処方薬でもないのだろう。
 不特定多数の女子高生、クスリ、チンピラ風の男……。
 想像するといろいろと面白くなかった。そんなところに残ったウタの気が知れない。
 それこそあの器用で機転もきく、頭もいい男が、なぜ残るという選択をしたのか分からなかった。それはウタの、判断ミスではないのか。
 じりじりと腹の奥が焼きつくようだった。
 この三十分の間で、他の階に住む住人が一人出てきたが、それ以外はまったく動きがない。……何事もなく出てくればいい。そんな望みは虫が良すぎるというのなら、せめて早く動きがあってほしい。どうなっているかを教えてほしい──。
 そう強く祈ったそのとき、視界の片隅に黒いものが過った。
 どきりとしてバックミラーを見直すと、駅の方面の角を曲がって車がやってくるのが見えた。徐々に減速していく様子に、すぐ孝一郎は市川に連絡する。
「車がきた。アパート前に停まる。黒のワンボックスカー、車種は──」
 車種までは分かったが、なにぶん目が悪いため、ナンバープレートまで読めない。
『デジカメで撮影してください。ズームでナンバープレートと、できれば中を。そこから中、見えますか?』
「フルスモークだから難しいな。目の前で停まった。出てくる気配はない」
『動かないで、カメラ構えて待機していてください。……甲斐さん、今、大丈夫ですか』
『──どうした』
 市川は通話を甲斐につないだらしいが、身代金を奪取した犯人を追いかけている最中だからなのか、聞こえてきた甲斐の声はひそやかだった。
『フルスモークのワンボックスカーがアパートの前に停まりました』
『分かった。動きを見逃すなよ。こっちは今、電車の中だ』
『──出てきました』
 市川の声に、孝一郎はハッとパソコンを振り返っていた。モニタリングしている杉山博志宅の玄関扉が開いて、二人の人間がもつれるようにして出てくる。
 背の高い方はチンピラ風の男で、その腕に首を押さえつけられるようにして抱えられている人物は、その戒めから逃れるように暴れていた。
 捕らわれた人物が強く相手の胸を押して、その勢いで隠されたカメラの方を見上げる。
 ウタだ。
「……殴られてる」
 思わず孝一郎は呟いていた。モニターは映像だけで音はない。その映像の中で、暴れ喚いているように振る舞いながら、一瞬カメラの方を見たウタの顔には、明らかに傷があった。額のどこかが切れて血が出ていて、それが目に入ったのか片目を閉じていて。
『チンピラい男が所長を捕まえたまま、部屋から出てきました。所長は若干の怪我を負っている模様。……入り口の車は動いてないですか』
 市川に言われて慌てて、カメラを手に窓越しにアパートの玄関を振り返る。
「誰も出てきた様子はない」
『二人が玄関へ向かいます。玄関、注視してください。出てきたら、できる限りばれないように車内から撮影を』
「……おい。これ、車で連れて行かれるんじゃないか。このまま放っておいていいのか」
 淡々とした市川の言葉に思わず、孝一郎は声を上げていた。
 すかさず甲斐の突き放すような声が返ってくる。
『動くな、放っておけ』
「でも!」
『素人は黙ってろ!』
 ドスを効かせた声が低く唸り、孝一郎は言い返す言葉を飲み込んだ。
『いいか。俺たちの仕事は対象者の身柄を探すことだ。そっちの状況はウタが勝手に始めた不始末だ。未成年者の安全を優先する。あいつがいてもそう言う。絶対に動くなよ』
「っ」
 それがこの事務所のやり方か──人の安全を犠牲にするような。
『玄関の様子はどうですか?』
「…………今、出てきた。車の後部に、所長が押し込められて」
 胸の内にうずまく苛立ちを押し殺して、ウタが車の後部席に押し込められる様子を、そしてチンピラ風の男が助手席に回って車に乗り込む様子を、孝一郎はカメラに収めた。
「助手席に男が乗った。……車が発進する。本当にこのままでいいのか!?」
『GPSがある。行き先は特定できる』
 目の前で、黒のワンボックスカーが走り去っていく。
 あの車に、ウタが乗っているのに──怪我をしたウタが。
 ぎりぎりする思いで孝一郎がハンドルを握りしめたまさにそのとき、市川の緊張した声が耳に飛び込んできた。
『甲斐さん、携帯のGPSが部屋から動いていません。たぶん部屋に隠したか、没収されて置いて行かれたか。GPSで追いかけることはできません』
「っ」
『大丈夫だ。携帯以外のGPSがある』
『でも、身につけていた電子機器はたぶん全部没収されてます』
『大丈夫だ。あいつのGPSは見つからない』
『なにを根拠に──』
『身体に直接埋め込んであるんだ。金属探知機でも持ち出さなきゃ見つからねえよ』
「────」
 思わず言葉を失っていた。
 そんな孝一郎と同じくらい驚いた様子で、「え?」と問い返したのは市川だ。
『GPSを身体に直接? なんで、そんな。……俺、聞いてません』
『……まあ、単なる保険のつもりだったし、俺もウタも、誰にも言ってねえからな』
『────』
 告げられた言葉にぞっとしたかのように、市川が黙る。孝一郎も言葉が出なかった。
 甲斐も身体にGPSを埋め込んでいるというのか。
 ……それはつまり、それほどリスクを抱えているということなのではないのか。
『とりあえずこっちが優先だ。別に拉致られたからって一時間以内に殺されたりしねえし、簡単に殺されたりしねえから、今は放っておけ。──おい、聞いてんのか、バカ素人』
 通話はすべて聞こえていた。
 だが、その命令については聞いてはいなかった。
 孝一郎は車をすでに走らせていた。
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