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文字数 3,262文字

 まったく、と今度は孝一郎がそう唸っていた。
 あのあと素直に家に帰ることを了承した三島有紗を元町の家まで送っていき、依頼者の三島由利子に、彼女自身の意思による家出であったこと、それを協力した友人がいたこと、そして誘拐はその友だちによるちょっとしたおふざけの狂言であったことなど二時間以上かけて報告した、その帰り道だった。
 気がつけば、すでに日付も替わり、つい数日前と同じように深夜の高速道路を運転している羽目になっている。
 そして相変わらずウタは仕事で、ずっと市川と通信をしていた。
『友だちのおふざけで狂言誘拐、ですか』
「だって本当のこと言うわけにいかないでしょ」
『まったく甘やかしすぎですよ。……まあ、そういうところが所長らしいんですが』
 パソコンから聞こえる市川の声は、呆れていると同時にどこか嬉しげにも聞こえた。
「とりあえず、そういう感じで報告書つくってもらえる? それで後日改めて報告しに行くから。あと、そうだ、さっき言ってたデータだけど」
『いつものところに格納しておきました』
「仕事が早くて助かる。じゃあ、今日はもう上がっていいよ。相田くんも。──甲斐は?」
『まだ、事務所にいますけど』
「今日はもう帰っていいって言っておいて。じゃあ、おつかれさま」
『おつかれさまでした』
 深夜二時を軽く回った時間で、しかも一日いろいろ騒動があったというのに、まるで平凡な一日の終わりのようなあっさりとした挨拶を交わして、通話を切ったあとも、パタパタとパソコンでなにか仕事を続けている。
 どこまで仕事の鬼なのか──というか、それ以前に。
「……いい加減にしませんか」
 むっと顔をしかめたまま、とうとう孝一郎はそう口を開いていた。
 だが、その隣でウタは顔を上げもしない。
「んー、ごめん、もうちょっとで終わる。もう、あと三十秒」
「今やってる作業のことじゃありません」
「────え?」
 ずいぶん時間をあけてから、ウタは間の抜けた声を洩らして、運転席でハンドルを握る孝一郎を振り返った。
「あ、ごめん! ずっと運転させっぱなしで疲れた!? じゃあ、ちょっとパーキングで休んでいく?」
 もちろん孝一郎が訴えたかったのは、運転疲れなどではない。口を開くと同時に、ついため息が漏れた。
「そういうことではなくて。いい加減にしてほしいのは、あなたが今日一日で、怪しげな部屋に侵入してわざとつかまったり、殴られたり監禁されたり、拳銃を持った相手に平然と脅すような真似をした挙句──」
「あぁっ!!」
 話の途中で、素っ頓狂な声が上がって、驚いて孝一郎はハンドルを握り直した。
 運転中に驚かすようなことはやめろ、と怒鳴り返そうとして、横目で見れば、ウタは頭を抱えている。
「ごめん、真山さん! パーキングに車を入れてる余裕はないや。申し訳ないんだけど、事務所に帰る前にもう一軒寄ってもいいかな?」
「…………」
「話はそのあとにしてもらってもいい?」
 本当に申し訳なさそうにそうお願いしてきて、孝一郎は渋面をつくって口を閉じた。
 ……この邪気のなさそうな態度の、一体どこまで本当なのか。
 ものすごく疑わしかったが、結局この数週間で何度唱えたか分からない呪文を、ハンドルを握りながら再度唱えることにする。
 毒を食らわば皿まで。
 今日一日で続けざまに、平凡な人生では考えられないようなことを経験したのだ。ここまできたら、あと一軒ぐらい大したことじゃない。腹に据えかねる話は一番最後でいい。
 ──と思ったのだが。
 その〝もう一軒〟を前にして、孝一郎はさらに眉間のしわを増やす羽目になっていた。
「どうも。──若様、いる?」
 相変わらずの気やすさで、出迎えたマネージャーに声をかける。
 店に向かう前から分かっていたが、場所は、孝一郎が人生二度目に足を踏み入れることになった高級クラブである。華やかなこの店が、どれだけ危険を孕んだところなのかは、もう充分知っている。
 少し離れたコインパーキングに駐車したところで、ウタに「車で待ってる?」と聞かれたが、当然言下に否定した。
「なんだ、二度とごめんだって言ってたから、行かないって言うのかと思ってた」
「……問題は場所ではなく、あんたの態度の方です」
「あ、そっか」
 納得したような声が、軽すぎる。
 孝一郎がなにを言っても、本当は聞く耳を持つタイプじゃないだろう。この短い付き合いて、すでにそう分かってきていたが、それでも孝一郎は言わずにはいられなかった。
「挑発するのは絶対に止めてください」
「そうだね。あ、でも、それ真山さんもだからね。絶対手を出さないように!」
「…………」
 逆に注意を促され、思わず顔をしかめて隣を振り返ったところで、マネージャーが戻ってきて、孝一郎は口をつぐんだ。
 案内されたのは奥の個室。当然そこには、前回と同様に早瀬と乾がすでに待ち構えていた。この数日間の間で、顔を合わせるのが三度目になる乾は相変わらずむっつりとした顔で控えており、二度目になる早瀬はにこやかだった。
 前回と同様、部屋に入ってきた二人にソファを促して、にっこりと笑う。
「やあ、どうやら仕事が片付いたようですね」
「おかげさまで、さきほど無事に三島有紗を家に帰してきましたよ」
「良かった。十五歳の家出なんて、悲劇ですからね」
「……そうですね」
 お互い笑みを浮かべながら交わす会話はとても穏やかに聞こえるが、部屋には息が詰まるような緊張感が張り詰めていた。
 くくっと早瀬が喉を震わせて、嬉しそうな笑い声を洩らす。
「そうだ。北島さん、僕の情人を名乗ってくれたらしいじゃないですか、嬉しいな」
 対するウタも、ええ、と柔らかく頷いた。
「リップサービスってやつでね。喜んでくれたなら幸いです」
「だけど、あなただってまさか俺が、俺の知らないところで情人が勝手に交渉をするのを赦すとは思わないでしょう?」
 言葉だけは柔らかく、正面に座るウタを見つめる眼差しに剣呑な色が混じる。
 だがウタは平然としていた。
「まさか、早瀬さんに無断で、早瀬さんの仕事の交渉なんてできるわけないじゃないですか。俺が交渉していたのは、あくまであの木島興業の片山さんですよ。片山さん自身が俺のホラ話をどこまで信じて、どう折り合いをつけたのかはよく分からないですけど」
 ──言い訳というよりも、へ理屈だ。
 孝一郎でさえそう思うのだから、早瀬や乾がそう思わないわけがなかった。
 そして、その上で早瀬は、そんなウタとの会話を楽しんでいる。
 彼は上機嫌な様子でテーブルに手を伸ばして、高級そうな琥珀色の液体の入ったグラスを取り上げると、光に透かすようにして弄んだ。
「乾がわざわざ迎えに行っているとか」
「ああ、俺もまさか乾さんがあんなところにいらっしゃるとは思いませんでした」
「あなたの飼い犬にワンワンうるさくせっつかれたようですよ」
「ええ、だからそれは甲斐が乾さんと交渉した話でしょう。乾さんがどういう条件でそれを飲んだかは知らないけど、俺と早瀬さんとは関係のない話じゃないですか?」
 ハハッと早瀬が声を上げて笑った。
 場違いなほど愉快そうな笑い声に孝一郎が眼差しを上げた先で、早瀬はウタを見据えながらぞっとするような愉悦の笑みを口元に浮かべていた。
「相変わらず冷たい男だ。つくづく犬が哀れになる」
「…………」
「まあ、俺はあんたのそういうところがたまらなく好きなんだが。──あんたの見立てどおり、あの男は使えそうだ。俺の好みをよく理解してくれていて嬉しいよ、北島さん。それに免じて、情人の勝手な振る舞いは見なかったことにしておこう」
「それはどうも。じゃあ、そういうことで」
「けれど、タイムオーバーだな」
「────」
 話は終わりとソファから立ち上がったウタを早瀬の言葉が押し留め、ウタはソファに悠然と座る交渉相手を振り返っていた。
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