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文字数 5,782文字

 激しい物音とともに、さまざまな怒声が頭上を飛び交う。
 そのほとんどがまるで意味をなさない威嚇や罵声ばかりだ。
 その様子を目にして、なにかの冗談なのか、と孝一郎は思った。冗談というか、映画のロケか。──そう、まさにヤクザ映画の、カチコミシーンだ。
「……あー、もう、大丈夫かも」
 身体の下からそんな声がして、孝一郎は身体を起こした。
 その声は当然ウタのもので、銃口に狙われた彼の前に飛び出し、身体を抱き込むようにして床に伏せたため、その身体はまだ孝一郎の腕の中にある。
 すぐ近くで片山が、中途半端に倉庫の通用口に銃口を向けかけたたまま、その場に呆然と立ち尽くしていた。
 大きな音とともに開かれた通用口の扉から、どっと押し寄せるように入ってきたのは大勢の男たちだった。入ってきた途端、柄の悪い人相と格好をした男たちは、そこらにあるものを手当たり次第に蹴り飛ばし、口々に怒声をまき散らした。
 多勢に無勢だ。
 田澤を始め、孝一郎を捕らえていた男も、戦意を喪失してしまったようだった。
 やがて、粗暴な振る舞いを見せる男たちの後から悠然と、ひと際背が高い大柄な男が現れた。着込んだスーツの上からでも強靭な体つきをしているのが分かる。
 その男を、孝一郎は知っていた。
 腕の中でウタが、ふうと大きく息をついて、目の前に立った彼を見上げる。
「ちょうどいいところに来てくれた。ちょうど交渉中だったんだけど、いい話があるんだよ。──乾さん」
 乾はじろりと足元のウタを見下ろして、どこか忌々しげに顔を歪めた。それにかまうこともなく、にこにこと笑いながらウタが話を続ける。
「この人、木内興業の構成員で若頭前田哲司の舎弟、片山征也(ゆきや)さん。結構冷静だし、頭は切れるし、商才もある。傾きかけている木内興業に置いておくにはかなりもったいないところだよ。ちょっと使っているチンピラたちの質は悪いけど、それ以外はかなりお買い得な物件。今ならドラッグ密売ルート付き」
「乾……さん」
 すぐそばで勝手に紹介されている片山は、言葉を失っている。
「あ、知ってる? そう、こちら龍山会早瀬会長直参の幹部で、近年龍山会の跡目相続候補に躍り出た会長のご子息早瀬鷹の右腕の、乾隆司(りゅうじ)さん。ねえ、乾さん、俺は自信あるよ。若様は気に入る。まあ、あの子の元でやっていくには、片山さんの方にも相当の覚悟がいると思うけどね」
「……ずいぶんと勝手な計算だな、北島詩」
 乾の口から出てきたのは、腹に響くような低いドスの効いた声だ。
 しかし、相変わらずウタはヤクザを相手にしても、怯まず余裕の態度を崩さない。
「分かってるでしょ、乾さん。どこに利があるか。あなたが俺のことを嫌いなのは知ってるけど、感情で判断するのはよくないよ」
 ちっと乾が舌打ちした。それから「おいッ!」と連れてきたヤクザの舎弟に声をかける。
「こいつら、事務所に連れていけ」
 その指示に、いつのまにか怒声を収めていた男たちが従順に頷き、床に倒れ伏している男たちを含めて、倉庫の外へ引きずり出していた。腕を取られた、孝一郎を捕らえていた男が、窺うように片山へ視線を向けてくる。
 片山はその視線を受けて、ウタと乾を見やったが、結局なにも言わなかった。ただ、その手に握られた銃に乾が手を伸ばしても抗うことなく、それを手離していた。
 ──それで取引は終わったようだ。
 脅しと紙一重のウタの交渉から始まり、その話を聞いていたかのようなタイミングで乾が現れて、あっという間にその始末をつけた。
 孝一郎はただ呆然と、その一連のやりとりを眺めるしかできなかった。
 分からないことがありすぎて、いつ、なにを、誰に、どのタイミングで尋ねればいいのかも分からない。
 乾は不快そうに顔を歪めて、ウタを見下ろした。
「仕事が終わったら顔を出せ。あとでうちの会長に存分に可愛がってもらうんだな。勝手な交渉を始めた説明は直接会長にしてもらう。……なにしろ会長の情人を名乗るくらいだからな」
「いいじゃない。早瀬とは一度、忘れられない熱い夜を過ごしているのは嘘じゃないんだし。話に信ぴょう性が出て良かったでしょ?」
「……下種が」
 唸るように詰り、話は終わったといった様子で、乾は肩越しに後ろを少し振り返って顎をしゃくった。
 それを合図に乾の背中から、新しい人影が現れる。
 その姿を見て、ふわっとウタは今までとは違う柔らかさで頬を緩めた。
「──甲斐」
 ようやく孝一郎は、この顛末のからくりに気がついた。
 当たり前だ。誰かウタのいる場所を知っている人間がいなければ、こんなことにはならない。そして、その場所をGPSがあるから分かる、と豪語していたのが、甲斐だ。
 彼はどこか不機嫌そうに眉をひそめて唇を噛み、無言のままウタのそばに近寄ってくると、少し乱暴な手つきでウタの後ろ手を掴むと、強引に引き起こした。
 懐から取り出した万能ナイフで、結束バンドを断ち切る。
 そのときになって初めて甲斐は口を開いた。まるでか細く囁くような声で。
「……殴られたのか」
「うん。ちょっと額切っちゃった。だけど大丈夫。大したことない」
「他になにもされてないか」
「なにもされてない。大丈夫だって。……心配かけて、ごめんね」
 腕が自由になったところで、ウタが振り返り、甲斐と正面から向き合って、少し背の高い身長差を見上げるようにまっすぐに目を合わせて、静かに告げる。
 それでも甲斐の顔は晴れなかった。
「いいか。もしおまえになにかあったら、俺は関わった奴ら全員ぶち殺すからな」
「うん、分かってる。でも大丈夫。今回は本当になにもないよ」
「…………」
 遅れて床から立ち上がりながら、二人の問答を耳にした孝一郎は複雑に口をつぐんだ。
 無茶をするウタのことを心配するのは理解できるが、交わす会話はどこかひどく剣呑で、不穏で、不安定な空気を孕んでいる。
 なんだこれは、と孝一郎は思う。
 実際にウタが拉致されるときはあれほど冷静に仕事を優先した男が、日ごろは粗野な振る舞いと乱暴な口調を見せる男が、今はまるで泣きそうな顔をしている──。
「──まったく。五年前から全然成長してないな、おまえらは」
 不意打ちで挟み込まれた乾の呆れたような声に、二人が同時に顔をあげた。
 甲斐が急にばつの悪い顔をして、ちっと舌打ちを洩らす。
「……オッサンには関係ねえだろ」
「強引に引っ張り出しておいてよくそんな口を叩けるな。……まあ、いい。この貸しはいずれ返してもらう。まずは依頼の仕事をとっとと片づけることだ」
「はーい、了解しましたー」
 軽い調子で返したウタを不愉快そうに一瞥すると、乾は踵を返して倉庫を出て行った。

 ……散々に荒らされた倉庫に残されたのは、北島調査事務所の三名だ。
 それ以前にすでにいろいろと取り残された気分でいた孝一郎だったが、とりあえずチンピラやヤクザが姿を消して、危険因子がなくなったことにほっと息を吐いた。
 嵐は過ぎ去った。
 だが、今さらだが、なぜこんな嵐に巻き込まれる羽目になったのか、なぜ今自分がこんなところにいるのかを、心の底から問いたくなる。
 そうだ、一体なにが、きっかけだったかといえば──。
 孝一郎が視線を向けた先で、ウタは改めて自分の隣に立っている甲斐を見上げていた。
「──甲斐。ここに来てるってことは当然、対象者は見つけたってことだよね?」
「当たり前だろ」
 甲斐の答えはあっさりしたものだ。
「対象者放り出して助けに来たら、俺がおまえに殺される」
「さすが俺の甲斐。よく分かってる」
「────」
 甲斐に告げるそれが当てこすりのようにも聞こえて、孝一郎は顔を歪めた。それからウタはまるで甘えるように甲斐の腕を取って、にっこりと微笑みかける。
「じゃあ甲斐、近くに車あると思うから取ってきて」
「はあ!? その車はあのバカ素人が乗ってきたんだろ。なんで俺が──っ」
「取ってきて」
「……分かったよ!」
 ちっと盛大な舌打ちをして、なぜか孝一郎に睨むような一瞥を送ってから、憤然と甲斐が大股歩きで通用口から出ていく。
 一見するとウタの方が子どもじみているのに、二人のうちどちらが上位なのかは明らかだった。それが雇用者と被雇用者という関係が成せるものなのか、それとももっと別の理由によるものなのかはよく分からない。
 そうして、ただっ広く味気のない倉庫に二人取り残され、孝一郎は言葉もなく、少し離れたところに立つ上司の背中を見つめた。
 変な感じだった。
 ついほんの少し前まで、ここで二人して縛られて捕らえられていたのだ。そして三人倒して油断していたところに、新しい侵入者が現れて、また捕らえられた。結局助けられたのは甲斐のおかげだ。計算していると自信ありげに言っておきながらそんな顛末で、なんとも気まずく、どう声をかけていいのか分からなかった。
 やがて振り返らないまま、ふうとウタが大きく息を吐き出した。
「……ところで、真山さん。正直言って、俺、本気で怒ってるんだけど」
「は?」
 意表を突かれた言葉に、ぽかんと間の抜けた声が漏れる。そんな孝一郎を振り返って見返してきたウタの目は、表情の読めない静かな色を湛えていた。
「真山さんが強いのは分かったけどさ、銃には勝てないでしょ、銃には。なに銃の前に飛び出してるの。ありえないんだけど」
「……あんたが、撃たれるんじゃないかと思って」
「命の危険を承知でやることなんてない──とか言ってなかったっけ。銃の前に飛び出すのは命の危険じゃないの?」
「…………」
「大体、俺はそんなこと望んでないし。……真山さんなら分かるよね? 俺がこの仕事の責任者で、俺が判断を下すの。たとえ撃たれようがなにしようが、これは俺が責任を負うことなの。俺の仕事で勝手なことをするのはやめてもらえるかな」
 返す言葉がすぐには見つからなかった。
 手を出すな、とウタが言う、突き放すような厳しい口調で。
 その言い分が分からないわけではない。彼の言う仕事のルールは、整然を愛する孝一郎にもよく理解できるルールだ。だがどうしようもなく胸がざわついて、ひどく落ち着かない気持ちが身体の内側をかきたてた。
「分かったら、もう二度とあんなことしないで」
「──無理だ、それは」
 冷やかにウタが言い放つとほぼ同時に、孝一郎は返していた。
 考えるより先に口が動いたようだった。だが、はっきりと言葉にしたころで、いっそう自分の中の揺るぎない答えが見えた。
 孝一郎の簡潔で毅然とした返事に、今度はウタの方が「は?」とぽかんとした顔をあげている。その驚いたような眼差しを受け止めて、孝一郎はまっすぐに見つめ返した。
「同じ場面になったら、俺はまた同じことをする。間違いなくする。……あんたが望んでいようがいまいが関係ない。俺は、俺の判断に従う」
「……あのね」
「俺はなにがあっても、安全を優先する。身の安全を守ることより大切なことなんて存在しない。俺は安全を守るために、そのとき一番可能性の高い手段を取るだけだ。悪いが、あんたのやり方には納得できない。納得できないことには従えない」
 それは、どうしても譲ることのできない孝一郎のルールだ。
 長い沈黙のあと、重々しくウタが息を吐いた。
「……なんか、真山さんがリストラされた理由が分かった気がするな」
「っ!」
 瞬間、ドッと心臓が痛いほど鼓を打った。
 突然のあまりに思いがけない言葉に、全身が熱くなると同時に、背筋がぞっと冷えるような奇妙な感覚が身体を支配する。
「なにを、言って、」
 慄然と孝一郎はウタを見返した。
 今まで、ウタは孝一郎に前の会社のことを尋ねなかった。
 面接らしい面接がなかったにしても、三十歳の若さでリストラされた男の前歴を、そのリストラの理由を聞かないのは普通じゃない。わざと聞かないでいるのだ、とは薄々気がついていた。だが、孝一郎も自分から言おうと思わなかった。
 リストラされた理由を、自ら彼に説明したくなかった。
「真山さんは間違ってない。つくづくきちんと正しいよ。でも、自分の正しさばかりを押しつけるのは傲慢だよ。ぐうの音も出ないような正論を頑迷に押しつけられても、周りの人間はつらいだけだ。……きっと周りのひとたちは手を焼いただろうね」
「────」
 淡々とした声が、深く孝一郎の胸の奥に突き刺さる。
 そうだ。本当は分かっていた。リストラされる前から。仕事を干されたときから。自分のやり方がなにひとつうまいやり方ではないことは、よく分かっていた。
 正しさだけじゃ人は動かない。正論ばかり主張してもどうしようもない。
 融通のきかない自分が疎まれるのは当然だ。
「真山さんは、正しいことが必ずしも良いとは限らないと知っておいたほうがいいよ」
 次の就職のためにもね。
 言葉の裏にそんな彼の意図が聞こえた気がして、これまでのさりげなく遠ざけようとした気遣いめいた行為よりも直接的なその拒絶に、孝一郎はなにも言葉を返すことができなくなっていた。
 ……なんだ、俺はショックを受けているのか?
 呆然と言葉を失ったまま、無意識に孝一郎は身の内から湧き上がる震えを抑えるように拳を握りしめている。
 ショックを受けるなんて馬鹿げていた。
 もともと短期限定のバイトで、こんな事務所はとっとと辞めた方がいいと思っていたのは自分の方なのに。自分の主張が通らないことなんて、これまでに何度もあったことなのに。他人から疎外されることなんて、今まで何度もあったことなのに。
「……でも」
 ふとウタが小さく言葉を洩らして、孝一郎は目を瞬かせた。
「まあ、でも、それが真山さんなんだろうね」
 それは褒めているのか、貶しているのか。一体、どういう意味なのか。その答えを知りたくて、ウタに向かってなにかを問おうと口を開いて──。
「おい、車、持って来たぞ」
 ちょうどそのタイミングで通用口のドアが開き、甲斐の声が飛び込んできて、孝一郎はとっさに口をつぐんでいた。
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