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文字数 5,605文字

 さすがにウタは孝一郎に調査作業を手伝えとは言わなかった。
 だが、彼は孝一郎が退社する間際に、少し困ったような顔をしながら丸い純真な目をして、孝一郎を見上げてきた。
 ──一回おうち帰って休んでもらって、それでもし良かったら、でいいんだけど、夕方また会社来てくれない? 手伝ってほしいことがあるんだ。
 強制はしない、とウタは言った。嫌だったらそのまま一日休んでくれて構わない、と。
 ……嫌か、嫌じゃないか、という判断基準を設けられると孝一郎は困る。
 長年サラリーマンとして働いてきて、嫌だから仕事を断る、ということは考えたこともない。どんな理不尽なことでも業務命令であれば仕方ない。仕方ないとは思いつつも、納得がいかないときはとことん疑問や意見を述べるから、厄介者扱いをされていたわけだが。
 だが今回は、お願いごとの内容がよく分からない上に、正直言えば、行きがかりで関わってしまった少女の行方不明事件の進捗に興味があった。
 驚くような彼らの洞察がどこまであたっているのか、知りたいと思った。
 結局、孝一郎はいったん自宅に帰り、シャワーを浴びて仮眠をとって、夕方になってまたスーツに身を包んで事務所に足を向けていた。
「おつかれさまです」
 夕方五時に、そう事務所に顔を出せば、中にいたのは市川と所長のウタだけだった。他の三人は調査に出たままのようだ。
 やってきた孝一郎を見て、なぜかウタはぽかんと目を丸くした。
「……本当に来た」
「どういう意味ですか。来てくれって言ったのは所長でしょう」
 ソファに座ってモバイルPCでなにかを操作していたウタの目の前に立って、孝一郎はそう顔をしかめる。呼び付けておいて驚くとはどういう量見だ。
「いや、そうなんだけど。つくづく真山さんってすごいね。真面目だからかな。というか意外に強靭? いろいろされてるのにへこたれないよね」
「……へこたれる気持ちは充分にありますが」
「あ、ごめんごめん。褒めてるんだよ! というか、むしろ感動してる。そしてちょっと戸惑っている。これ以上、好きになったらどうしよう」
「っ、またなんかしたらセクハラで訴えるぞ!」
「やっぱり、なんかしたんだ、所長」
 二人の会話を聞いていた市川が呆れたように呟いていた。
 そういうことじゃない! と怒鳴るために大きく息を吸って、ふと我に返って孝一郎はやめた。この件で我を忘れるのはあまりにも馬鹿らしい。
「とにかく、事務所が忙しいようなので。バイトとはいえ、なにか役立てることがあれば手伝います。……一応、女の子のことも心配ですし」
 言い訳するように、最後にその言葉を付け加えておいた。
 家出少女を心配する気持ちより、この事務所の手腕の方が気になっているのだが、それは世間一般の道徳的に正直に言う必要はないだろう。
 孝一郎の言葉に、目を丸くしていたウタがふわりと柔らかい笑みを零した。
「ありがとう、真山さん」
 それから、彼はどこか申し訳なさそうに、目を伏せた。
「……ちょっと付き合って欲しいところがあるんだ」

 そばにいるだけでいい。なにがあっても、口も手も出さないでほしい。
 そんなことを言い含められて、ウタに連れられて向かった先は、東洋一と謳われる歓楽街の外れにある高級クラブだった。
 足を踏み入れる直前にウタが孝一郎を見上げた。
「約束して。俺になにがあっても、真山さんは絶対なにもしないでね」
「……なにがあっても、って」
 なぜそんな恐ろしい約束をしなければいけないのだろう。
 やはりつくづく孝一郎は後悔が遅かった。仕事へのプライドや意地や興味で足を踏み入れてはいけない世界だった。
 初めて足を踏み入れる高級クラブだった。というか、もっと手軽なキャバクラにさえ、孝一郎は行ったことがなかったが。自分より年若く相変わらずパーカーでカーゴパンツという軽々しい格好のままのウタが堂々とした態度で入店していくので、孝一郎もぐっと丹田に力を込めて彼に続いた。
「──早瀬の若様、いるんでしょ。北島詩が会いに来たって伝えてくれる?」
 出迎えたマネージャーにウタがそう告げて、ぎょっと孝一郎は隣に立つウタを振り返っていた。その名前は甲斐の口からすでに聞いている──ヤクザの名前ではなかったか。
 入り口で待たされたのはほんの少しの時間だった。
 やがてマネージャーが戻ってきて、恭しくウタと孝一郎を中へ案内する。まだ開店前の誰もいない豪奢な店内の脇を通って、連れて行かれたのは一番奥の個室だ。
 すでに目当ての人物はそこにいた。部屋に足を踏み入れたところで、彼らが立ち上がる。
「ご無沙汰してます、北島さん」
 口を開いたのは二人のうちの、背の低い若い男の方だった。
 その若さは孝一郎が一瞬、目を剥いてしまったほどだ。明らかにウタよりも若い。
 格好はノータイのスーツ姿だが、細身の身体を包むスーツはデザイン性の高い高級そうな一品で、理知的な細縁の眼鏡と合わさり、一見するとまるで学生で起業したベンチャー企業の社長といった雰囲気だった。つまりせいぜい大学生くらいなんじゃないか、という容貌をしている。
 ちなみにそのそばに控えるように立っている男は、一見して三十代半ばくらいの、長身の孝一郎よりさらに一回り大きいんじゃないかと思われるがっちりとした体格をした、いかにもヤクザなイメージそのままの男だ。
 にこやかに応対した彼に対して、日ごろは陽気なウタは笑みひとつ浮かべなかった。
「今回は仕事をご依頼いただいて御礼申し上げます。が、うちの社員に無断で接触するのは控えてもらうよう、前回もお願いしたと思いますけど」
「まあ、そう目くじらたてずに。座ってくださいよ。なにか飲みますか」
 青年の誘いにウタが首を振って断り、その流れで青年に視線で尋ねられ、孝一郎も無言で首を横に振った。……実際は、声は出さなかったのではなく、出なかったのだが。
 促され、ウタが腰をおろしたのを横目で見つつ、ソファに腰をかける。その沈み具合に、一般市民としては思わず腰をあげたくなったが、気合いで孝一郎は動揺を隠し通した。
 目の前の男も同様にソファに座ったが、体格のいい男の方は若い男に仕えるようにそばに立ったままだった。
 青年がにっこりと笑う。ヤクザとは思えない柔和な笑顔だ。
「こちらこそ依頼を受けていただいて、感謝していますよ。調査状況はいかがですか」
「それはこっちの科白」
 だがウタの方が彼の愛想をばっさりとぶった切る。昨夜依頼者に見せた真摯さとは間逆の、孝一郎が不安になるほどの不愛想だった。
「そっちはどういう情報掴んでいるのか、教えてもらえますか」
「なんのお話ですか?」
 お互いに丁寧な言葉遣いで表面上は穏やかに見える会話は、まるで刃物のような緊張感を孕んでいる。四者四様にお互いの動きを読もうと、意識を研ぎ澄ませているようだった。
 ウタはあくまで淡々と言葉を続ける。
「まさか俺が気づかないとでも思ったんですか。まあ、甲斐はバカだから気づかなかったかもしれないけど、早瀬さん、あんた情報を得るのが早すぎたよ」
「自分の飼い犬を悪く言うのはよくないですよ」
 彼──早瀬は、ウタとのやり取りを楽しんでいるようだった。
 孝一郎はちらりと横目で隣に座るウタを見たが、挑発めいた言葉にも彼は軽く眉宇を寄せてみせただけだった。
「じゃあ、そのひとんちの犬を勝手に手なずけようとするのはやめてもらえますか。俺に依頼したいなら直接言いに来てくださいよ」
「直接言いに行こうとしたら、あなたの番犬にうるさく吠えられて」
「……早瀬さん。あの女の子、俺たちに探し出してほしいんでしょう。なにを知ってるんですか。男ですか」
 うんざりした様子で話を戻したウタを前に、くくっと早瀬は喉を震わせて笑った。
 その笑い方はどこかひどく不穏で、聞いている方がぞくりと背筋が寒くなる。若く、どれだけ柔和な空気をまとってみせても、彼はヤクザなのだと孝一郎は不意に気がついた。
「さすが期待を裏切らないな、あんたは」
 評されたウタの方は、迷惑そうに顔をしかめ、深く息を吐く。
「……港湾新都市開発の関係者なんて他にいっぱいいるでしょ。ミシマの縁戚で県議会議員なんて大したポジションじゃない。あんたが狙うなら、もっと違うところを狙う。三島議員を直接押さえているわけがない。たぶん今回の件は、いくつかの持ちネタのひとつだ。せいぜい〝いつかなんかに使えるかも〟ぐらいのネタが、そう、偶然落ちてきた──」
「俺、本当にあんたが好きだよ、北島さん」
「深窓の御令嬢が姿をくらませて、母親が最初に連絡するのは友だち、旦那、自分の親だろ。議員と直接コンタクトを取ってる段階じゃあないだろ。その状況であの短時間であんたのところまで情報がいくとしたら、友だち関係しか思いつかない。違う?」
 途中で差し込まれた早瀬の不穏な言葉を無視して、ウタはそう言って、冷静に眼差しを上げた。まっすぐに見つめた先の早瀬は、口元に愉悦の笑みを浮かべていた。
「明解だな、北島さん」
「──男、知ってるんでしょ」
「彼女の男が誰かを知っている。だけど俺たちも知っているのはそれだけだ。今、その男がどこにいて、彼女が一緒にいるのかいないのかも分かってない」
 あっさりとそう答えて、早瀬はそばに立つ男に手で合図すると、男が脇に置いてあった鞄からノート大のタブレット端末を取り出した。慣れた手つきで早瀬がそれを操作し、特定の画面を表示させると、それをテーブルに差し出してくる。それらを眺めて、こっそり孝一郎は、ヤクザもIT化してるんだな、と感心していた。
 映し出されているのは学生証のコピーらしき画像だ。
「W大政経二年生、杉山博志。地方の小金持ちの息子ってところかな。出会いはゲームセンターでのナンパ。よく遊びに来ているクラブに、俺の知り合いが出入りしてて親しくしててね。本当に偶然、彼の彼女が三島議員の娘だって知ったわけ」
「ふうん。で、今は偶然、彼女の友だちと〝俺の知り合い〟が付き合ってたりするのかな」
 その揶揄に、早瀬は軽く笑うだけで答えなかった。
 ウタもそれ以上深くは突っ込まず、肩をすくめてみせる。
「リミットまであと二十四時間切ってる。じゃあ俺はさっさと彼女を探します」
 そう言ってウタが腰を上げたので、孝一郎もそれに続いて立ちあがった。さっと踵を返してウタが豪奢な部屋を出て行こうとしたが、個室を仕切るベルベッドの高級そうなカーテンに手をかけた瞬間、早瀬の笑いを含んだ声がそれをとどめた。
「情報料をもらってないな」
「……わざと情報隠しておいて、もらえると思っているんだ?」
 早瀬は奥のソファに腰を落としたまま、冷静に振り向いたウタを楽しそうに見上げている。だが、彼に控えていた男がいつのまにか近づいてきており、孝一郎は肌が一気に総毛立つような緊張を覚えた。
 その隣でウタはどこまでも冷静に早瀬を見下ろす。
「商売上手だね、早瀬さん。……知ってるよ、あんたのやり方は。自分たちで仕組んでおいて助けたふりで恩を売り、自分の思い通りにする。巧妙に、執拗に、陰険に」
「おい」
 ドスのきいた声がウタの言葉を鋭く遮った。ハッと孝一郎が視線を向けると、男がさらに一歩近付いてきて、鋭い眼光でウタを睨みつけるところだった。
 低く押さえられた静かな声は、怒鳴り声よりもむしろ凄みがあった。
「あんまりいい気になってんじゃねえぞ」
「……俺は、あんたたちがどんな商売をしようが興味ないよ。あんたたちがこの件をどこにどう高く売ろうが、どうでもいい。俺はあんたが望む通りに対象者を見つける。その邪魔をするなって言ってるだけ。もっと早くあんたの情報があったら、半日無駄にしないで済んだんだ」
「おい!」
「っ」
 男が手を伸ばしてウタの胸倉を掴んだ瞬間、ほとんど反射的に身体が動いていた。
「────ま、さん」
 半端に途切れた声が自分の名前を呼んだのだと気づいて、そういえば「なにがあってもなにもするな」と言い含められていたことを思い出す。だけど遅かった。
 孝一郎は、殴るために振りあげられた男の腕を、咄嗟に掴んで止めていた。
 間近で男が唸り声を上げた。握った二の腕の力と拮抗して、ぎりぎりと腕に力がこもる。
「おい、痛い目見たくないなら、手ぇ離すんだな」
「……失礼ですが、こちらも上司の身の危険には黙ってはいられませんので」
「俺のことはいいから、手を離して!」
「──乾(いぬい)」
 孝一郎は慌てたウタに押しとどめられ、巨漢の男は早瀬に止められて、それでようやくお互いに身体を引いていた。だが男は鋭い眼光で孝一郎を睨みつけたまま、孝一郎もその眼差しから視線を逸らさず、ウタの身体の前に自らの身体を滑り込ませる。
 そんな緊張の張り詰めた空間に、くくっと早瀬の不穏な笑いが零れ落ちた。
「新しい犬? なかなかいい猟犬じゃないか」
「……臨時のね」
「…………」
 犬というのは自分のことか、と憮然となって孝一郎は口をつぐむ。そんな孝一郎の複雑な心中とは打って変わって、早瀬は上機嫌に笑った。
「きゃんきゃん吠える飼い犬より礼儀正しい猟犬の方がよっぽどいい。その犬に免じて、今回の情報料はなしにしておこう。さあ、これ以上北島さんの貴重な時間を費やすのはさすがに申し訳ない。いいよ、もう行って。では頼みますよ、北島さん」
 彼の言葉にウタは少し不快そうに目を細めたが、結局は軽く頷いて了承の意を伝えて、踵を返す。
「──どーも。じゃあ失礼します」
 ようやくウタの声に少し軽い調子が戻ってきていた。
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