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文字数 3,919文字

 ……思えば、遠くに来たものだ。
 窓の外を眺めて、孝一郎は力なく思った。
 実際には、遠いというほどの距離じゃないのは分かっている。電車なら湘南新宿ラインで横浜まで四十五分。窓の外から見える赤い華やかな門が夜も鮮やかに輝く中華街までなら一時間弱だ。別に大騒ぎするほど遠いわけじゃない。
 要するに、気持ちの問題だ。
 予定もなく夜中に元町まで運転させられる羽目になれば、そんな気持ちにもなる。
「先の信号を、左折ね」
 助手席で道案内をするのはウタだ。
 何の因果か、その隣の運転席でハンドルを握っているのは孝一郎である。
 車はハッチバックの古めかした小さな普通乗用車だったが(そして事務所と同じくうんざりするくらい雑然としていたが)、ナビシステムだけは最新式を取り付けてあって、ウタの案内は必要ないはずだが、なぜか彼は意気揚々とナビに先んじるように案内をしていた。
 夜十時を過ぎていた。事務所を出たときにはすでに九時を回っていて、渋谷から首都高速に乗って横浜公園出口まで行き、中華街の賑わいを横目にぐるりと回って元町のほうへ。
 依頼主の家がそこにある。
 ──というのが、突然現れた暴漢ならぬ事務所唯一の正社員、西尾甲斐(にしおかい)の話だった。
 その夜、事務所に突然現れた甲斐は、サイドテーブルに置かれていた、ウタが孝一郎と自分のために買ってきたと思しき弁当とビールに問答無用で手をつけながら話し始めた。
『早瀬んとこの若様からのご依頼。とあるところの御令嬢が今日の夕方五時から行方不明なんだと。家出か誘拐かもまだ不明。……おい、食わねえなら俺食うぞ』
 ちなみにウタはもう一つの弁当とビールを孝一郎に勧めてきたが、事態を申し出たところ、結局甲斐がそれにも手を伸ばしていた。
 孝一郎のソファの隣に座っているウタは、器用に足をソファのへりに乗せるように膝を抱えて、その膝の上に頬杖をついて呆れた様子で、正社員の部下を眺めた。
『……っていうかさあ、甲斐の勾留期間って明日までじゃなかった? どうせ被害届取り下げの釈放条件で依頼受けてきたんでしょ。やめてよねー、俺、ヤクザ嫌いなんだから』
『────』
 思わず無言で孝一郎は隣を振り返っていた。
 一方、所長の渋い顔も気にした様子なく、甲斐はビールを呷って笑った。
『だから俺が窓口してんだろ。なんかあったら全部俺が責任とるから安心しろって毎回言ってるだろうが』
『そんなの当たり前でしょ。ヤクザと悶着起こしていちいち勾留される社員の責任なんて取る気ないよ最初から。──で、御令嬢がなに』
『行方不明。いつもなら遅くとも五時には家に帰宅するのに帰って来ず、携帯電話はつながらず、夜七時を過ぎても友人などに連絡を取っても誰もなにも知らず、真っ青になった母親があちこちに電話して、その情報がめぐりめぐって、俺釈放』
『いくつ』
『十五、高校一年生』
『いまどきの高校生の行方不明三時間でその反応って、なかなか珍しく敏感な親だね。そういう事情があるから、早瀬が絡んでくるわけ?』
『そ。ほら、港湾の新都市開発計画あるだろ。早瀬の若様はあそこに一枚噛みたくて仕方がないらしくてさ、今回の対象者のお父上はかの有名なミシマグループ会長の縁戚で、現在は県議会議員だが国政も狙ってる政治家さん。恩を売るにはちょうどいいってわけ』
『……興味ない、そういうの』
 うんざりとした様子でウタは息を吐いた。
 その横で、孝一郎は早くこの場から逃げ出したかった。ヤクザだの政治家だのどうにもまっとうな話じゃなくなってきている気がする。だからこんな怪しい事務所に長居はよくないと思っていたのだ。だが、ソファの端に座らされ、隣にはウタ、前には近くから引っ張ってきた事務チェアに座って弁当をかき込む甲斐がいるとあっては動きづらい。
『興味なくても仕事は仕事。タイムリミットは五十二時間後。二日後の夜九時までに解決』
『なに、その短さ。ありえないんだけど』
 ものすごく不満げにウタが呟いたが、甲斐は二個目の弁当の最後の一口をビールで流し込みながら、ポケットから取り出した紙切れをウタに差し出す。
『場所はこれ』
『しかも元町? 遠いなぁ。今から行ったら帰って来れないよ』
『車を持ってきた。御苑の駐車場に置いてある』
『……ところで俺はそろそろ帰宅しようかと思うのですが』
 きっと、孝一郎がそれを言い出すのは遅すぎたのだ。
 そう腰をあげかけた孝一郎を、目の前に手を差し出し、ストップの仕草でそれを押しとどめたのは甲斐で、横からはウタが腕を掴んでそれ以上立ち上がるのを防いでいた。
『っ、──なんですか、これは』
『俺、免許持ってない』
『俺、ビール二本飲んじまった』
『…………』
 どうしてこんなことになるんだろう。
 なにもかもが遅かった。この場を逃げ出すタイミングも、──後悔も。

 夜十時三十分、依頼者宅。
 ロールアップしたカーゴパンツにパーカー、スニーカー姿の若者と、スーツを着こなしきっちりネクタイを締めた長身の男の奇妙な二人連れを迎えたのは、いかにも上流家庭の奥様らしい上品な、けれど憔悴した様子の女性だった。
 すでに話を聞いていたのか、現れた二人の姿に彼女は最初不審そうな顔をしたが、ウタが「北島調査事務所から来ました」と言うと、素直にドアを開けた。
 広い玄関のすぐ脇の応接室に通されて、孝一郎はまず〝こんないかにもな応接室のある家〟そのものに驚いたが、その後すぐに、家政婦らしき女性がお茶を運んできて、目を剥いた。そういうのはテレビドラマだけの世界だと思っていた。
「北島調査事務所の北島です。彼はアシスタントの真山です」
 だがウタは動じた様子を一切見せずに懐の財布から名刺を取り出して、女性と二人との間にある大理石のテーブルにそっと差し出した。細く白い指がそれを受け取る。
「……あの、お話はお聞きしてます。以前、市長のお子さんを見つけ出されたとか」
「守秘義務があるので以前関わった案件についてはお話することはできませんが、一応、失踪者捜索を専門に扱っていますので、ご相談をお聞きすることができるかと」
「────」
 失踪者捜索専門の興信所だったのか。
 と驚いて横を向いたのは孝一郎だ。しかも、いつも軽々しく非常識な男がこんなに普通に応対できるなんて、それも驚きだった。
 憔悴した様子の子の家の女主人三島由利子(みしまゆりこ)を前に、冷静にウタは今回の事件の経緯を聞き出していた。そこには普段のいい加減さは一切ない。どこかウタらしい柔らかさは残しつつも、冷静で真剣で丁寧な対応のおかげで、初めの方は動揺のあまり話があちこちに飛んでいた由利子も、やがて落ち着いて状況を説明できるようになっていた。
 彼女が言うには、娘──三島有紗(ありさ)がいなくなったのは「家出」なのか「誘拐」なのか、よく分からないのだという。
 最近、反抗期なのか、あれこれ逆らってばかりで、家にいても全然話をしなくなっていたのだという。しかし学校を休んだり遅刻したりはしておらず、学校でも問題行動はおこしていなかったらしい。
 三島有紗が授業のあとのクラブ活動を終えて、学校を出たのは四時四十分頃のこと。
 これは同じクラブの友人に、由利子があとから電話して確認したことだ。いつも一緒に駅まで帰るという彼女が最後の目撃者だという。
 彼女が通っている高校は自宅から歩いて十五分ほどのところにあり、友人を駅まで送っていったあと、いつもであれば彼女は駅から引き返すようにして、遅くとも五時頃には自宅に帰ってくる──はずが、この日は帰ってこなかったというわけだ。
 電源が入っていないのか、携帯電話は通じない。
 メールの返信はもちろんない。
 そんなことは今までなかった。遅くなるときは必ず連絡があるし、遅くなっても七時を過ぎることはない。
 ……素晴らしい箱入りっぷりだ、と孝一郎は思ったが、もちろん口にはしなかった。いまどきの高校生で門限が七時なんて驚きだ。女の子だから心配するのは分かるが、まだ夜の十時ではないか。運動系の部活をやっていたり、塾通いをしている高校生なら、外を歩いていることもありうる時間じゃないのか。
 そんな孝一郎の胸の内と同じように当人も感じているのか、由利子は肩を落として窺うようにウタを見た。
「一晩もたっていないのにこんな大騒ぎをして、私の、心配しすぎなんでしょうか」
「いいえ、そんなことありませんよ」
 そのウタの返事の迷いのなさに、ちらりと孝一郎は隣を一瞥している。
 ウタはまっすぐに由利子の目を見ていた。
「家出にしろなんにしろ初動が大切なんです。普通に考えてみてください。家出をしてから一週間後と一日後、どっちが見つかる可能性が高いか。分かりますよね」
「────」
「心配し過ぎくらいでいいんです、こういうときは。──あとで後悔するよりも」
 その言葉に明らかに由利子はほっとしたようだった。
 泣きそうな顔を伏せた彼女に、ウタは落ち着いた声で続ける。
「ちなみに今、奥様お一人のようですが、ご主人にこのことは?」
「ええ。主人に伝えて、相談の上で専門家の方に声をおかけすることになったのですが。ただ実は今、主人が海外視察で不在でして。心細いので、近くに住んでいる妹を呼んで、今来るところで」
「……なるほど。わかりました。では、まずお嬢さんの部屋を調べさせていただけますでしょうか」
「はい」
 そうして彼女は素直に、二人を娘の部屋に案内した。
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