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エピソード文字数 3,563文字

 不思議な男だ、と思う。
 いろんな顔を持っているみたいだ、と孝一郎は思う。ウタのことを。
 軽々しくて明るくて、いろいろと大雑把でいい加減だが、もしかすると自分が考えているよりもずっと、彼は深くものを考えているのかもしれない。表に出さないだけで。
 ……というか、この男が本当に六時間前、半裸で俺の腹の上に乗っていたのだろうか。
 そのことにひどく違和感を覚えた。
「本当にごめんねー、真山さん。こんな時間まで付き合わせちゃって。始発はすぐ動き出すと思うけど、よければちょっと休んでいって。明日はお休みにしていいから」
 インターを下りて最初に見つけた牛丼屋で食事を済ませ、それから事務所に戻ったころには夜中の三時を回っていた。
 鍵を開けて入った事務所内には甲斐の姿はなく、ウタがそう孝一郎にソファを勧める。
「あ、もう襲わないから大丈夫!」
「当たり前です。それより所長はどこで休むんですか」
「俺はいいや。その、適当に。どうせソファ使っても、俺眠れないし」
 スーツの上着を脱ぎ、空いている椅子の背に掛けていた孝一郎は、ウタの言葉に視線をあげた。普段使っているとは思えない(実際に一週間前まではあらゆるものが積み上げられて実態すら確認できていなかった)部屋の一番奥の所長席に座り、そんなことを言う。
 孝一郎はネクタイを緩めながら、顔をしかめた。
「不眠症ですか」
「まあね。言ったでしょ。俺ってばひとり寝できないビッチなの」
 自らをそんなふうに言って、どこかひそやかにウタが笑う。
「添い寝するなら犬でも猫でもいいんだけど、俺、猫アレルギーだからさ」
「……上司が起きてるのに、寝られるほど俺も神経太くないんで。明日休みいただけるなら、所長が横になってください。眠れなくても横になって目を閉じて休んだ方がいいです」
 明日休んでいいと言われたのだから、遠慮なく孝一郎は一休みして始発が走り始めたら、早々に自宅に帰るつもりだ。車内での電話で、市川が会社に来たら本格的に仕事を始めるつもりなのは分かっている。であれば、優先的に休むのが誰なのかは明らかだった。
「俺はいいよ、真山さん」
「しばらく忙しくなるんでしょう。食べられるときに食べる。休めるときに休む。その方がいいんじゃないですか。俺は朝になったら家に帰ってしっかり寝るんで」
 先ほどの自分の発言を引用されて、ウタはうっと言葉に詰まっていた。
「……分かった。ごめんなさい。ありがとう」
 やがて素直に従って、ウタはソファに横になった。常備してあるブランケットを身体にかける。
「電気、消しますか」
 孝一郎はソファから少し離れた椅子に座ろうとして、ふとそれに気づき、部屋の入口のスイッチのところまで向かった。「うん」と返事が返ってきて、電気を消す。
 そうしても都会のど真ん中に立つ雑居ビルの六階は、二側面に設けられた窓から街のネオンサインや街灯の光が射し込んで、真っ暗にはならない。薄暗闇の中、孝一郎は椅子に腰を下ろした。背もたれに身体を預けると、ぎっと軋んだ音を立てる。
 ……散々な一日だったな、と孝一郎は目を閉じた。
 窓の外からはときおり車の走る音が聞こえる。
 まさか、夜の九時から横浜中華街の方まで往復ドライブをさせられるとは思ってもいなかった。いや、その前に、男に本気で殴りかかられたのも散々だったし、もっと言えば、その前に半裸の上司に襲われかけるなんて、平穏に生きてきた人生の中で初めてだ。
 まだ出会ったばかりの年下の上司は、本当に意味が分からなくて──。
「……真山さん、そこにいる?」
 その上司のひそやかな声が鼓膜を震わせて、ハッと孝一郎は目を開いた。その拍子に、ぎぎっと椅子が音を立てる。
 ソファの方を向けば、薄暗闇の中でウタが起き上がり、孝一郎の方を窺うようにしているのが分かった。その奇妙な雰囲気に、なぜかどきりと心臓が跳ねる。
「あ、いるんだったら、いいんだけど。ごめん、いなくなったかと思って」
「なんですか、それ」
「いや、同じ部屋にいるのに、知らない間に出て行かれたら怖いなって思えてきて」
 意味が分からない。それ以上に声が心もとない。
 様子が変だ、と感づいて、孝一郎は眉宇を寄せた。
「……大丈夫ですか?」
「うん。大丈夫。大丈夫だけど……。あの、嫌だと思うんだけど。絶対ダメだと思うんだけど、もしよければ、こっち来てくれないかな。せめてこっちの椅子、座らない? 絶対なにもしないから。見えるところにいてくれるだけでいいから」
 そう膝を抱えて暗闇の中で訴える姿は、まるで怯えて震える小動物のようだ。
 なんだこれは、と孝一郎は戸惑った。
 あまりに弱々しい様子のウタがそこにいた。
 いつもにこにこと笑っている、あの邪気のない陽気さがどこにも見えない。つい少し前まで依頼主と向き合っていた背筋を伸ばした真摯さも見えない。数時間前に孝一郎の上に乗って悪戯っぽく艶然と笑った男は、一体どこへ行ったというのか。
 ……彼の願いをかなえる理由はなかった。
 業務でもない。義理もない。けれど、なぜか孝一郎は立ち上がっていた。ソファのすぐ脇まで歩み寄ると、ウタは驚いたように、縋るように、そばに立つ長身を見上げてくる。
「どうしたらいい?」
 孝一郎の問いに今さらきまり悪そうにうつむいて、それからウタはブランケットを抱えたまま、おずおずとソファの足元の方に自分の身体を寄せて場所を空けた。ここに座ってほしい、というらしい。空けられたスペースを見下ろして、孝一郎は眉をひそめた。
 ……まだ彼と出会って一週間ほどしか経っていないのに。
 なにをしているのだろう。
 自分でも自分の行動を理解できずに、けれど縋るような目で促されて、孝一郎は狭いソファの空いた場所に腰を下ろした。
 その隣に並んでウタが座り直し、膝を抱える。
 大きめのソファは大の大人が二人並んで座っても、肩が触れ合うことはなかった。
「……おかしくないか?」
 数分、そのまま素直にソファに並んで座ってみたが、さすがにその状況の不自然さに堪えきれなくなって孝一郎は隣を振り返った。
「これじゃあ、あんた眠れないだろ」
「え? あ、でも、これでいいんだ。この方がさっきよりずっといい」
 言って、ウタはソファの背もたれに頭を預けるようにして、横目で孝一郎の方を見返した。暗闇の中でふと眼差しを和らげて、満足したように静かに笑う。
「ありがとう」
「っ」
 ずきりと心臓が鳴った。
 その理由が分からないまま、ほとんど反射的に孝一郎は手を伸ばし、隣に座る年下の上司の首根っこを捕まえていた。
 ぐいと引き倒すと、ころりとウタの身体が横倒しになり、彼の頭が膝に落ちてくる。
「わっ、なに……っ?」
「寝れないにしても横になった方がいいと言っただろ」
 驚いたウタが起きあがろうとジタバタと身体をひねったが、孝一郎は拍子に落ちかけたブランケットを手にとり、それをぞんざいな手つきで彼の頭からかぶせて、それ以上の動きを封じ込めた。
「大人しく寝てください」
「え、でも……」
 情けない声をあげて、膝の上でもぞりとウタの頭が動く。ウタがなにを気にしているのか分かった気がして、孝一郎はため息交じりに釘を刺した。
「変なことさえしなければいい」
「……うん」
 小さな声がいとけなく頷く。
 やがて寝がえりを打つようにして体勢を整え、ウタは素直に目を閉じたようだった。膝の上に乗っかったぬくもりが、規則正しく呼吸を繰り返しているのが分かる。
 それにほっとして──から、己のしていることに我に返って、孝一郎は天を仰いだ。
「…………」
 一体、自分はなにをしているんだろう。
 出会ったばかりの、しかもゲイで自分を襲った男相手に対して取る行動としてはかなりおかしい。おかしいが、もうこうなってしまった以上は動けない。自分に呆れて深くため息を落としながら、観念して孝一郎は眼鏡をとった。邪魔にならない、間違って壊れてしまわないようにサイドテーブルに眼鏡を置く。
 そうして少し動いたところで、二人を覆ったブランケットが落ちてしまいそうになって、慌てて孝一郎はそのブランケットをウタの背中にかけ直した。
 添い寝をするなら、犬でも猫でもいいと、ウタ自身も言っていたではないか。だから、これはでかい犬や猫を抱えているようなものだと思えばいい。
 自分に言い聞かせて、孝一郎はソファに背中を預けて目を閉じる。
 ……そういえば、他人のぬくもりに触れるのは久しぶりだ。
 膝の上で繰り返される規則正しい呼吸と心地好い熱に包まれて、孝一郎もまたそのまま眠りに落ちていた。
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