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エピソード文字数 4,148文字

 要するに、すべてのきっかけはひと月前の事態急変から始まった。
 ……いや、実際に事態が急変したのはその二ヶ月前で、もっと正確に言えば実際には半年前の人事異動から始まっていたのだが──と、冷静に孝一郎は分析する。
 半年前の人事異動で、孝一郎の上司である総務部長の岡崎一道(おかざきかずみち)が北海道支社の支社長に抜擢されて異動していった。孝一郎の直属の上司には、総務部経理課生産担当グループ長がいるし、その上には当然経理課長もいるのだが、部長とはなにかとウマが合い、つまり彼から可愛がられていた。
 その四カ月後、前々期から続く業績不振を理由に、組織改編計画が打ち出され、上半期末に向けて第一回早期退職者募集という名のリストラが敢行されることになった。そして、管理本部(会社運営の軸になる人員を削ってどうする、と孝一郎はいまだに思うが)における早期退職者肩たたきリストの最上位に書かれていたのが「真山孝一郎」の名前だった。
 部長が去ってからの四カ月間、反りの合わない上司のおかげで、すっかり仕事を干された挙句にこの仕打ちだ。さてどうやって状況を打開しようかと思案していた矢先のことに、ショックを受けるというより、分かりやすいな、と孝一郎はむしろ呆れた。そして馬鹿らしくなった。
 岡崎一道が本社にいない今、自分の味方は誰もいない。残ったとしても、今後も無能な上司の元で一日の大半を無為に過ごすことは目に見えている。たとえ働かずに給料がもらえるにしても、そんな時間の過ごし方はまっぴらだ。
 素直に孝一郎は早期退職者に希望した。
「だから、おまえも会社に友だち作っておけって言っただろうが」
 とは、元上司・岡崎一道の言である。
 無事に割増退職金を受け取って七年半勤めた会社を退職し、早々に失業保険受給の手続きも終えた、無職二週間目の平日だった。
 出張で本社に戻っているところだから会いに来い、と元上司に呼びつけられ、のこのこと孝一郎はよく一緒に昼飯を食べに行っていた会社近くの喫茶店に顔を出していた。
 ちなみにこの喫茶店は外観からしてまさに昔ながらの純喫茶の様相を呈していて、黒板にランチ八百五十円と記して外に掲げておいても、その雰囲気に圧されて、常連客以外はなかなか足を踏み入れられない店だ。おかげで会社の近くだが、同僚はまず来ない。ついでに言うなら、なぜか喫茶店のくせに、コーヒーよりもランチのオムライスとハヤシライスがうまい店だった。
 アンティークなシェードをかぶった電灯が頭上にぶら下がる、いかにも古めかした内装の店内で、使い古したソファの四人席の前に座った元上司がいかにも楽しそうに言うので、孝一郎はくせで眼鏡の弦をさわりながら、苦々しく口を開いた。
「そんな簡単に友だちを作れるものなら、最初から作ってます」
「そうだよなあー。おまえ、性格悪いからな」
「本人を目の前にして失礼じゃないですか。大体、部長はもう俺の上司じゃないんで、一般常識的に、他人に対してその発言はモラル違反だと思われます」
「相変わらず面白いように面倒くさいな、おまえ。……まあ、リストラがあるのは前々から分かってたんだがなあ」
「総務でリストラっていうのが意味不明です。人員削減するとこじゃないでしょう」
「仕方ないだろう。開発部の方じゃ事業プロジェクトまるごと一つ削ったんだ。営業も総務もみんなで痛みを分かち合いましょうって話さ。だけど、まさかおまえがリストラの第一候補になるとは思わなかったな」
「そりゃ俺が岡崎派だったからでしょう」
「俺のせいかよ」
「課長が反岡崎なのは明らかでしたよ」
「俺のせいかよ」
 二度同じように聞き返しながら、岡崎は決して悪いと思っている様子はなく、ランチについてきたアイスコーヒーをストーローでずずずと音をたてて飲んでいる。別に孝一郎も、ただリストラの一因を分析しただけで、岡崎を責めたいわけではないので構わなかったが。
 支社長という立派な肩書を持った五十過ぎの男は、そうは見えないがっついた様子で、オムライスを平らげた。そして目の前でハヤシライスを口に運ぶ不愛想な元部下を見やる。
「しかし、なんでおまえスーツ姿なんだ?」
「スーツ以外に、外に着ていく服を持っていないので」
 食べ終えたスプーンを置いて、孝一郎が正直に答えると、ぶはっと岡崎が噴き出した。
「おまえ、本当に俺の予想通りに面白いな。友だちもいない、外に着ていく服をスーツしか持っていない仕事人間がリストラ! 哀れだなあ」
「……笑わないでください」
 笑いごとではない。孝一郎は不愉快そうに顔を歪めた。
 だが、岡崎は楽しそうだ。
「馬鹿みたいに真面目で有能で、派閥争いもそこそこ読めてるのに、対策できずリストラ」
「笑わないでください」
「ま、人間関係読めても、頼りになる友だちいなかったら、どうしようもねえよなあ」
「岡崎さん、もうやめましょう」
「しかもおまえみたいな面倒な男が再就職するのは大変だろうなあ」
「だから笑うなっつってんだろうが!」
 最終的にはそんな暴言が孝一郎の口から飛び出していた。
 二十歳近く年長の元上司に対する発言としては、先にモラル違反を指摘した岡崎が発した悪口より、ずいぶんと礼を失している。だが岡崎の方は、元部下に怒鳴られても特に気にとめた様子もなく、にやにや笑いを浮かべながら、アイスコーヒーに口をつけていた。
「俺はつくづく、おまえのそういうとこが好きなんだけどな。まあ、普通の連中には通じないだろうなあ」
「……分かってます。失礼いたしました」
 むっとしたままだが、孝一郎は頭を下げた。
 まさにそのときだ。
「超おもしれー!!」
 ケタケタと遠慮のない大きな笑い声が、岡崎の頭の後ろから起こった。
 は? と孝一郎が顔をあげて眼鏡をずりあげた視線の先で、岡崎の後ろの席に座っていた男が、椅子の背に腕を乗せて振り返る。ひーひーと引き笑いまで披露し、バタバタと椅子の背を叩きながら、男はすぐ目の前にいる岡崎に話しかけた。
「岡ちゃん、そっちの会話、おもしろすぎるよ!」
 若い男だった。明るい色をしたくしゃくしゃくるくるの髪に、猫のような大きく丸い目をしていて、その愛嬌のある顔立ちといい、椅子の背に乗り出してくる様子から垣間見える小柄な身体を包むラフなパーカー姿といい、とにかく一見してこんなビジネス街のど真ん中には似つかわしくない、大学生のような男だった。
 ──いや、年齢や格好はどうでもいい。問題は自分とは無関係の男がそこで笑っているということだ。
「盗み聞きはよくないなあ、ウタくん」
「だって聞こえてきちゃうんだもん、仕方がないじゃん。っていうかさ、岡ちゃん、支社長に昇進したんじゃないの? なのにすげー言われようだよね。胸がスカッとしちゃった」
「そうなんだよ、すがすがしい生意気さだろう? 俺もこれを気に入ってんだよ」
「……つーか、岡崎さん、それは誰ですか」
 自分の知らない人間にあれこれ言われるのは、とても気分が悪い。
 相変わらず許容量だけは半端なく大きい岡崎は、自分の息子でもおかしくないような若い男にため口をきかれても平然として、孝一郎の方を向き直し、ああ、と破顔した。
「この店の常連仲間だよ。ウタくんもよく来るよね、ここ。あ、名前なんだっけ?」
「北島詩(きたじまうた)でーす。ポエムの詩って書いてウタ。よろしくー」
 男は、椅子の背に乗り出した格好で、正面に座る孝一郎に向かってにっこりと笑い、ひらひらと手を振ってそう名乗る。
 気に障るほど軽い。孝一郎はうんざりした気持ちに正直に、顔をしかめてみせた。
「無関係な人は、こっちの会話に口出しをしないでくれますか」
「うわっ、なにその冷たさ! 超ときめくーっ」
「だろ。こいつ、これが素だからね。上司とか関係なくこの正直さだからね。俺は気に入ってるんだけど、どうしても人によって好き嫌いが分かれるんだよ。それでリストラ」
 わはは、と大声で笑う上司と見知らぬ他人の楽しそうな様子に、どう異論を挟むべきか悩んで、孝一郎は口を閉じた。
 ひとまずリストラの連呼を止めるように言うのが先決だろうか。
「あ、そういえば」
 ふと岡崎が笑いを止めて、年若い常連仲間を振り返る。
「ウタくん、半年前に事務員辞めたとか言ってなかった? どう、こいつ。リストラはされたけど、とにかく優秀有能。仕事は早いし丁寧だし記憶力はいいし頭の回転も速い。言うことなし。まあ、ただ融通は全然きかないし、面倒なやつだけどね!」
「あ、それ、いい! いただき。そういえば事務がいないままで困ってたんだよ。そろそろダスキン呼ばなきゃいけないかなあって社内で相談してたところなの」
 ……なぜ、事務員不在がダスキンを呼ぶことにつながるのだろう。
 そう思ったが、孝一郎がその疑問を挟み込む余地はなかった。
 気づけば、若い男は椅子の背に頬杖をつくように両肘を乗せてまっすぐに孝一郎を見ていて、その横で岡崎もまたまっすぐに孝一郎を見ている。
 なぜか二人とも晴れやかな笑顔を浮かべていた。
「良かったな、真山。再就職先がもう見つかったぞ」
「再就職先へようこそー。あ、俺の事務所、ここから歩いてすぐのところにあるから、今から案内するよ」
「…………」
 強引というか、いい加減というか──あまりに急な話の展開に、孝一郎は自然に重く下がっていく頭を支えるように額を押さえていた。
 これは縁なのか、幸運なのか、それとも罠なのか。
 だが、目の前に落ちてきた機会を理由もなく一蹴するのは趣味じゃない。断るにしろ受けるにしろ、一足飛びに決定する前に、きちんと段階を踏んで内容を精査すべきだ。
「……とりあえず、その事務所で詳しい話を聞かせてもらえますか」
 しばらく凍りついたように動きを止めて、頭の中でいろいろと思索を巡らせていた孝一郎は最終的に顔をあげて、二人にそう告げていた。
 そして、その十分後──。
 案内された〝俺の事務所〟で、孝一郎は心のままに叫ぶことになる。
「──なんじゃこりゃあ!!」
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