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文字数 4,005文字

『……ウタ』
 突然、話を止めるように甲斐が名前を呼ぶ低い声が、イヤホンから聞こえた。
 孝一郎は目を上げてウタを見やったが、そんな声など聞こえなかったかのように微動だにせず、まっすぐに有紗を見据えたまま、ウタは続けた。
「その子もね、きみみたいにそれなりにお金があって地位のある家のお嬢様で、家を出たときは十六歳だった。名家だかなんだか知らないけど、あれもダメこれもダメ、ああいう人とは付き合ってはいけないこういうひとと付き合いなさい、そんなことにがんじがらめにされて、兄弟もいたけど誰も頼りにすることもできず、最後にはどうしようもなくなって、家から逃げ出した。……まあ、もちろん家出をした本当の動機なんて彼女本人じゃなければ分からないけど」
 淡々として、感情の見えない声が語る。
 一人の少女の家出の物語を。
「ここで問題だったのは、家出をした彼女の本当の動機じゃなかった。彼女が家出したことでもなかった。誰も、彼女が家出したことを気に留めなかったことだよ」
「────え?」
 思いもかけない言葉だったのか、小さな呟きを洩らして、有紗が顔を上げる。
 ウタはそれを見ても、表情ひとつ変えなかった。
「親も兄弟も、彼女が家出したことを気に留めなかった。どうせいつものワガママだ。そのうち飽きて帰ってくるだろう。そんなふうに思って、放っておいたんだ。結局、捜索願を出したのは二週間後、興信所に頼んで探し始めたのは一カ月後。……そのときにはもう遅かった。家出中に知り合った友だちに誘われて、援交、ドラッグ、ウリ、十か月後にようやく見つけたときには、借金塗れのシャブ漬けにされて風俗に売り飛ばされていたよ」
「…………」
「一応、彼女を見つけて家に連れて帰ることはできたけど、彼女は自分が汚れてしまったこと、家族を傷つけたこと、家族に傷つけられたことに絶望して、」
 ウタが僅かに目を細める。
 そして、少女の話を静かに締めくくった。
「最後は自殺して死んだ」
「────」
「……ねえ、きみは彼女が馬鹿なんだと思う? きみみたいに、あの部屋にいる子たちみたいに、うまく立ち回れなかったせいだと思う? ──それは違うよ。あの子は馬鹿じゃなかった。末っ子で容量が良いところもあって、きみみたいに親を軽蔑してて、もちろんヤクザなんか嫌いだった。身体を安売りする女子高生を嫌ってた。だけど気づいたらヤクザに使われる安い女に堕ちていた」
 なぜだろう。
 感情のない声のはずなのに、淡々とした語り口のはずなのに、ウタの話の向こうに壮絶な悲しみが透けて見える気がして、孝一郎は顔を歪めた。
 それは、ただの仕事の話ではない。もっと深く心に刻まれた物語だ。
「もっと早く家族が動いていれば、こんなことにならなかったはずだ。彼女は身体を売らずに済んだ。汚れずに済んだ。死なずに済んだ──」
『ウタ、もういい』
 甲斐の低く抑えた声が話を遮り、ウタがふと我に返ったように目を瞬かせた。
 改めて目の前の少女を見つめ直す。
「……今回は、たまたま運が良かっただけだよ。あんな商売にどっぷりつかって美味しい蜜を吸わせてもらって、そのあと簡単に抜けさせてもらえるとでも思ってた? そんなことあるわけないのは分かっていたでしょ。間違いなく、気づいたらよく分からないお金を徴収されて、そのうち犯罪に関わったことを脅しに使われて、金を引っ張られて、闇金で多額の借金、借金返済のためにAVか風俗か──。ねえ、本当は世間知らずの女の子を堕とすなんてすごく簡単なことなんだ、ヤクザやチンピラにはね」
「…………」
「だけど、きみには探してくれる親がいただろ。いなくなったと分かったらすぐに興信所に連絡して探し始めてくれた。だから手遅れにならずに済んだ」
「……そんなの、父親に知られたら自分があとで怒られるからに決まってるわ」
「一晩中寝ずに連絡を待ち続けて、誘拐だと言われれば五百万を即金で用意して、今も震えながら家できみの帰りを待っているのが──旦那に怒られるからだっていうの?」
「────」
 容赦なく重ねられるウタの言葉に、有紗が顔を歪める。
 泣き出したいのか、怒り出したいのか、身体の内側に熱を溜めた彼女に向かって、「ねえ」とウタが柔らかく呼びかけた。
「きみがそれを愛だと思えなくても、優しさだと思えなくても、それでいいんだよ。誰かから優しさや愛情をもらったとしても、無理に同じだけの感情を返す必要はないんだから。でも、誰かが自分を心配してくれていることは忘れないで。そうしたら、」
 ──自分にも、少しだけ優しくなれる。
 溢れ出すなにかを堪えるように、ぎゅうっと有紗が唇を噛みしめた。そんな彼女を見るウタの目は、どこまでも優しい。
「家出をする気持ちはよく分かるよ。でも、やり方がよくない。自分を傷つけるようなやり方はダメだよ。一歩間違えただけで簡単に踏み外してしまうようなやり方はダメだよ。ねえ、きみはとても頭がいい。俺は、親を愛せとか和解しろとか、そんなことは言わない。大人を尊敬しろなんて言わない。だからきみはもっとうまく出し抜くんだ。親を、大人を」
「…………なにを、言ってるの」
「俺の本音。依頼はきみを探し出すことだから、それは守るけどね。なにもかも親側のやり方に賛成してるわけじゃないし、きみには傷ついてもらいたくない。だから親をうまく利用して、もっとうまいやり方を見つけて、きみの自由を見つけてほしい」
 孝一郎は無言でウタを見つめた。
 嘘のうまい男の、それがどこまで本当の気持ちなのか、分からなかった。すべてが本心のようにも思えた。
「クソみたいな親から逃れるにはね、家を出ただけじゃどうにもならない。ただ対立するだけじゃどうしようもない。自分たちが頭を使って、彼らより上手にならないといけないんだよ。──だから、やり直そう。次はもっとうまくやるんだ」
 ウタは手を差し伸べる。
「さあ、帰ろう」
 ウタをまっすぐ見つめながら、導かれるように有紗が持ち上がる。震える指先が、ウタの手に届く瞬間、彼女の瞳から涙が零れ落ちた。
「……なにそれ」
 そのとき、小さな声が漏れた。
 ハッと彼女がその声を──自分の彼氏を振り返る。
「全然意味わかんない。なんなの。……俺はなんだったの。利用、した、だけ?」
「博志、違う、あたしは……!」
 なにかを言いかけた有紗の手を先に掴んだのはウタだった。そのまま引き寄せて、なぜか部屋の内扉の前にいる孝一郎の方へ押し出してきたので、つい孝一郎はその少女を受け取っていた。
 博志は呆然としているようだった。
「……なんだよ。部屋だって貸したのに、今日だって──ちがう、ずっと、前からずっと、有紗に付き合ってあげてたのに。有紗のために、俺、いろんなことしたのに。……俺はただ利用されてただけかよ!」
「利用したんじゃない!!」
 孝一郎に肩を押さえられながらも、そう叫ぶように有紗が言う。
 けれど、その声はもう彼には届いていないようだった。震える手が慌ててまさぐるように、ボトムスのポケットに伸びる。
「──ウタ」
「動かないで」
 その手が取ったものを見て、思わず孝一郎は名前を呼んだが、ウタは博志から視線を逸らさずに短く言い返してきた。
 部屋には緊張の糸が張り巡らされている。少しでも動いたら、その糸がぷっつりと切れて、すべてが壊れてしまいそうで、身動きもできずに孝一郎は唇を噛み締めた。
 博志の手にしたものに有紗が気づいて、息を飲む。
「博志……っ」
「落ち着いて、杉山くん」
「なんなんだよおまえ。なにしに来たんだよ。いきなり出てきて好き勝手言ってんじゃねえよ! 俺の方が、ずっと有紗のことを考えてきたのに。今まで、俺が、俺がどれだけ有紗のためにがんばってきたと思って……ッ」
 喉から絞り出すような掠れた叫びと同時に、小さなナイフが前へ突き出される。
「なのに、なんだよ、部屋があれば誰でも良かったのかよ。俺じゃなくてもよかったのかよ。今さら家に帰るってなんだよ! ウリとかヤクザとか全然意味わかんねーよ……っ」
「っ!」
 少女の肩がびくりと震え、それを押さえる孝一郎の手にもつい力がこもった。
 だがウタは顔色ひとつ変えずに、小刻みに揺れるその切っ先の前に、ゆっくりと一歩を踏み出す。
「落ち着いて。誰でも良かったわけじゃない。きみじゃなくても良かったわけじゃない」
「おまえになにが分かる……!」
「大切なひとを守りたい気持ちは、俺にもよく分かるよ。有紗さんがきみに詳しく話さなかったのは、きみを巻き込みたくなかったからだ」
「……なんだよ、おまえ」
 凶器を前にしても臆する様子のないウタに怯えたかのように、博志がぶるぶると全身を震わせ始める。
「俺は、なんのために、なんで。俺、俺、ずっと、有紗のために、がんばったのに──」
「ッ」
 わっと彼の感情が溢れ出そうになった瞬間、いち早くウタの身体が動いた。
 まっすぐに手を伸ばして、博志の首を捕らえる。ぎゅっと強く、強く、彼は少年の頭を抱えて自らの肩に押し当てていた。
 震えるその耳に、優しく囁きかける。
「……だいじょうぶ。怖がらないで。心配しないで」
「っ──」
「きみはよくやった。本当にきみはよくやった。きみじゃなきゃダメだったんだ。……きみのしたことがすべて正しかったとは言えないかもしれないけど、きみは三島有紗にとってすごく大切だった。救いだった。守りたがった。……きみがいたから、彼女も少しは自分に優しくできたんだ。だから、きみはそのことについて堂々としていいんだよ」
 何度もウタは彼に「大丈夫」と囁きかけた。
 やがて、ウタの肩に顔を伏せた彼から、小さな嗚咽が零れ出した。

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