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文字数 5,463文字

 仕事は嫌いではない。むしろ好きだ。大好きだ。
 やるべきことがあって、それを効率よくこなしていくのは気持ちが良いし、自分の提案がかたちになるのは楽しい。さらに自分の仕事が誰かの役に立てばやり甲斐も感じる。
 しかし前の会社では仕事は分担するもので、個人評価というよりもグループ評価が主体だったため、関連部署からの評価を直接感じることはほとんどなかった。
 だからなのだろうか。
 ウタの無邪気な褒め言葉を聞くたびに、ひどく落ち着かない気持ちがするのは。
「うわ、すごーい。真山さんってなんでもできるんだね!」
 ことあるごとに「ありがとう」「すごい」「嬉しい」と連発するウタの言葉を、最初孝一郎は社交辞令なのだと思っていたのだが、どうやら違うようだった。というのも、彼はあまりにも気負いがなさすぎ、かつ対する孝一郎の反応を気にしなさすぎた。
 事務所に出入りする際にふと目についたことを、ただその場で口にする。
「あ、これ真山さんがやったの? すごく分かりやすいね。──あ、俺、下行くところだから、ついでにゴミ出していくよ」
 変な男だ、と思う。
 褒めるということは、刻一刻と片づけられていく事務所に興味がないわけでもないようだが、孝一郎の仕事についてはほとんど野放しだった。突然現れた孝一郎に(仕事を頼んだのは確かにウタだが)ここまで勝手に事務所内を片づけられても、文句のひとつもない。
 いつだって、にこにことのん気に笑っている。
 やりたいようにさせてもらえるのはありがたいが、それは信頼されていると取るべきなのか、いい加減な性格だと見るべきなのか、判断が難しいところだ。
「……所長、少し確認ですが」
「なぁに?」
「この事務所、実質的にはみなバイトなんですか? 社員は所長ともう一人だけ? というか給与の支払いってどうなってるんですか」
「あ、そうそう。荻村さんも市川くんも相田くんもバイトで、基本的には日給制だから、こう毎月最終日に働いた日給分を」
 そう財布から現金を取り出したウタを見て、嫌な予感を感じて孝一郎は顔を歪める。
「……支払明細はどうしてるんですか。少なくとも確定申告には必要だと思いますが」
「あー、そういえばその時期になると、いつも税理士さんがいろいろ書類を作れって──」
「いや、やめようこの話は! これまでの話は聞かなかったことにする!」
 ──やっぱり単なる片づけのできない、いい加減な男なだけだ!
 呆れて天を仰ぎたい気持ちを抑えて、孝一郎は眼鏡の弦を押しあげた。
 つい経理財務関係も整理すると啖呵を切ったが、これがまた大仕事で、まずあちこちに分散して保管(放置ともいう)されていた書類を取り出し、必要と思われるものを選んで集めなくてはいけなかった。そうしてようやく内容に目を通せるようになったかと思えば、あるべきはずの書類はなく、多くは記載が中途半端で、まったく一体どうやって設立してからこの四年間、確定申告を行ってきたのかを教えてほしいぐらいの状態で──。
「で、その社員っていうのはどこにいるんですか。まさか勤務実態がないとか言わないでしょうね」
「ああ、甲斐(かい)のこと? 甲斐は、いつもはきちんと働いてるよ」
 どうやら甲斐というスタッフがいるらしい。珍しくその名前だけ呼び捨てであることに気づいて、孝一郎はウタに目をやる。ウタは少しだけ困ったような顔をした。
「ただねえ、ちょうど真山くんがうちに来た日から勾留中でさあー。刑事さんにはとことん嫌われてるし、起訴はされないだろうけど勾留期間いっぱいいっぱい──だから、あと二日ぐらいはたぶん帰ってこれないんじゃないかなあ」
「…………」
「あっ、勾留っていっても、別に甲斐が悪いことしたわけじゃないからね!」
「…………」
 警察は悪いことしたと疑われる人間を逮捕勾留するのだと思う。
 そんなわけで、孝一郎はこの事務所について深く知らない方がいい、と確信した。
 過去の確定申告なんて知ったことじゃない!
 いつのまにかあれもこれも引き受けてしまい、やると宣言した仕事をすべてやり終えるためには、目算でも一カ月以上かかりそうな計算にまでなっている。だが、できれば、とにかく深く立ち入らず、黙々と素早く仕事を片付けて、一カ月以内にはこんな怪しい会社とは縁を切ってしまった方がいい。絶対にその方が良いに決まっている。
 そんな焦りが出たのか、つい作業に没頭してしまい、孝一郎がふと乾いた目を瞬かせて我に返ったときには夜になっていた。
「……うん?」
 窓の外は暗く、事務所の壁にかけられた時計は八時過ぎを差している。
 バイトの身分で残業まではするつもりはなかったのに、と孝一郎は顔をしかめた。
 しかもよく見ると、いつのまにみんな帰ったのか、事務所には誰もいない。念のため廊下にあるトイレも覗いたが、いなかった。
 ──おいおい、俺は事務所の鍵なんか知らんぞ。
 さすがに少し胸が冷えた。
 勤務五日目のバイトがこの事務所の鍵を持っているわけもなく、かといってこんな顧客情報の管理ができているのか怪しい事務所を施錠もせずに出ていくこともできない。
 まさか、このまま一晩ここにいろというのだろうか。いや、さすがに所長か誰かが帰ってくるだろう。いくらなんでもそこまで非常識ではないだろう。そう思ったが、この一週間弱でむしろ常識が通じないことが分かってきているので安心もできない。
 仕事を続ける気持ちがすっかり萎えて、孝一郎は書類を放り出すと、近くにあったソファに腰を下ろした。
 肩が固まり、目が疲れている。孝一郎は眼鏡を外し、手のひらで顔を覆うようにして親指と薬指でこめかみを強く押さえた。
 こんなに仕事に集中したのは久しぶりだったかもしれない。前の会社の仕事にはルールがあった。あらかじめ枠があり、筋があり、工夫や新手はあっても、ある種の単調さを拭えなかった。そういう意味では、この仕事はひどく自由だった。
 腹が立つことも多いが、やり甲斐があるのは確かだ。
 意外に働きやすいと思っていることも嘘じゃない。
 ……働きやすい?
 ふと孝一郎は自分の胸の内に問い返す。前の会社のように社是や社内規定もなにもないのに? 年若い上司は大雑把でいい加減で片付けも満足にできないのに?
 ──ああ、すごいすっきりしたね。真山さん、ありがとう。
 だけど無邪気な声が、そう言って。
 そう、なんのてらいもなく、言うから。
 だから──。
「……やまさん、真山さん? ね、起―きーてー」
 遠くで、誰かが名前を呼んでいるのが聞こえた。
 どこかのん気な柔らかい声だ。
 それから、暖かなぬくもりも感じる。
「真山さん、起きないの? ……いいのかな。起きないと、やっちゃうよ?」
「──はあ!?」
 ハッと孝一郎は目を開けていた。
 一瞬、眩しさに白く視界が焼けて、それから戻ってきた視界に映ったのは、自分の腹の上に乗る上半身裸の──北島ウタだ。
 ぽかんと孝一郎は、目の前の男を見上げる。
 事務所の中だった。煌々と明るい電気の下、狭いソファの上で足を放り出すように孝一郎は横たわっていて、その腹の上にウタが腰をおろしていた。仄かに感じていたぬくもりはこれのようだ。ソファでひと息ついてそこでうっかり寝てしまったのか、と思い出したが、この状況はまったく想定外だった。
 というか、意味がよく分からない。なぜ北島ウタは半裸なのか。
「あの、所長?」
「だってさあ、真山さん、俺のベッドで無防備に寝てるんだもん。それってさ、俺に乗られちゃってもいいってことだよね?」
「──はい?」
「俺、真山さんのこと、すごく気に入っちゃったんだよね。背は高いし、なんでもはっきり言うし、仕事ばりばりするし、カッコイイんだもん」
 いつもの無邪気さでそんなことを言う。
 こんな状況でありながら、そうまっすぐに褒められたことに戸惑いを感じて、孝一郎はずれた黒縁眼鏡を押し上げた。
「……すいません。こういう状況は、今まで想定したことがないのですが」
「不測の事態は楽しむのが一番じゃない?」
 孝一郎は憮然と口をつぐんだ。
 不測の事態なんて、ひと月前のリストラから続きっぱなしで、もう充分すぎる。
 胸のない、男のなめらかな肌を目の前にして、腹の上に彼の硬い尻となにやら熱い塊を感じているこの状況など、到底楽しめるわけがない。
 ちらりと横目で周りを確認すると、ソファそばのサイドテーブルの上にはどこかで買ってきたらしい弁当と缶ビールが二つずつあって、その上に彼が来ていたシャツが無造作に放り出されているのが見えた。
 孝一郎は自分の腹の上に乗る上司に視線を戻した。
「……いくつか確認をいいですか?」
「なに?」
「俺は男です。つまりあなたは同性に対して性愛を感じる指向を持っているということでしょうか。あと俺のことを気に入った上でこの状況ということかと思いますが、強引に行為に及ぶことは同性同士でも公序良俗に反することだという認識はありますか。最後に、今ほどここを〝俺のベッド〟と称しましたが、それはどういう意味でしょうか」
「……最後にそれを聞くんだ?」
 そこでまたウタが、ぶはっと弾けたように笑い出し、むっと孝一郎は顔をしかめた。
 笑われるのは好きじゃない。
 孝一郎の機嫌を損ねたとすぐに気がついたのか、それでもウタは腹の上から降りようとせずに、笑いを収めようとした途中の緩んだ笑みを孝一郎に向けて零した。
「俺ね、ゲイで、しかもひとり寝ができないビッチなの。このソファは夜どうしてもひとりのときに使う〝寝れない〟俺のベッド。夜、この俺のベッドに寝ていた以上は、同意があるということで、和姦成立」
「どういう理屈を──と待て! こら、おい!」
 呆れて言い返そうとしたときには、ウタは孝一郎のネクタイに指を絡ませ、シャツのボタンを外し始めていて、慌てて孝一郎は右手でその手を掴んでいた。ちなみに左腕は自分の身体の下に埋まっていて動かせない状況になっている。
「なに普通に続けようとしてるんだ。バカかおまえは。これ立派な強制わいせつ罪だぞ!」
「……同意があればいいよね」
「ないだろ同意がどこにも! くそっ、面倒くせえな!!」
 唸るように言って、孝一郎は仕方なく本気を出した。
 掴んだ腕を軽く捩じり、前へ突き出す。それだけで「痛っ」とウタは悲鳴をあげ、身体のバランスを崩した。その隙に、自分の身体を起こすと同時に彼を床に落とす。……ただし床に強く打ちつけないようには気をつけて。
 あっけなく形勢は逆転し、ウタの腕をひねり上げたまま、孝一郎はソファに座り直した。
 体格差が違うのだ。鍛え方も、力も違う。
「痛たたたっ、ごめんごめん謝るから! 謝るから許して!」
「……もう、こんな強制わいせつ罪をしないと約束しますか?」
「やらない、やりません! 多分!」
「多分じゃねえだろ! もう二度とやらないって約束して──」
 そう言い含めようとしたそのとき。
 不意に耳が捉えた物音に孝一郎が顔をあげたとほぼ同時に、視界の片隅に黒い影が飛び込んできた。
「っ!」
 咄嗟に背中を逸らしたにも関わらず、突然現れた拳が孝一郎の額を掠める。
 勢い身体が後ろに倒れ込むのが分かって、その巻き添えにするわけにもいかず、孝一郎はウタから手を離した。支えのない身体がそのままソファに沈むやいなや、ハッと見開いた視界がすぐさま黒い影に遮られ、身体を起こすより先に胸倉を掴み上げられる。
 反射的に自らを捕らえた手首を掴んだが、形勢は悪かった。
 やばい、本気で殴られる。
 その予感に、無意識に孝一郎は頭をガードしようと片腕を上げて──。
「ストップ甲斐!! 真山さんを殴ったらいますぐ解雇するよ!!」
「────」
 予感は当たらなかった。
 ウタの声に、孝一郎の胸倉を掴んだ手はそれ以上の暴行を止めていた。まるで突き放すように掴まれていた襟を放されて、孝一郎は反動で背中からソファに沈み込む。
「……襲われてたくせにお優しいな、ウタ」
「それ誤解だから。俺は襲われてないし、優しくもない。まったく本当に乱暴者なんだから! いい加減にしてよ。ごめん、真山さん、大丈夫?」
「……大丈夫です」
 慌ててとりすがるようにソファのとこに膝をついて、ウタが心配そうに顔を覗いてきて、孝一郎は身体を起こしながら応えた。
 見れば、突然現れた黒い影の正体は、孝一郎ほどではないが長身のしなやかな体つきをした若者だった。
 ウタと同じ年ぐらいだろうか。
 黒いカーゴパンツに黒いシャツという黒尽くめの出で立ちのせいか、どこか不穏な雰囲気を漂わせる男は、孝一郎とウタを見下ろしてふんと鼻を鳴らす。
「じゃあ俺のいない間に新しい男をたらし込んだか」
「甲斐、だから違うってば。彼は新しいバイトで、むしろ俺が彼を襲ってたところ」
 その通りだ。
 大きく頷きたい気持ちを孝一郎は押さえた。代わりに、これが勾留中だったという唯一の社員か、とずれた眼鏡を整え直しながら見やる。
 視線に気づいた甲斐が鋭い目つきで孝一郎を一瞥したが、面白くなさそうに眉をひそめてすぐに逸らすと、ぶっきらぼうに口を開いた。
「おい、ウタ、色恋に現抜かしてんじゃねえぞ。──仕事だ」
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