2-6
文字数 2,284文字
お互いが口を開いたのは、その店を出て歩き出し、角を曲がって店からずいぶん離れてからだった。早足だった速度を緩めて、ほうとウタが息をつく。
「……怖いもの知らずだなあ、真山さんは」
「っ、いきなりヤクザのところに連れてったのはあんだだろ!」
思わず怒鳴り返していたが、ウタはどこ吹く風でケタケタと笑い出す。
「そのヤクザ相手に一触即発だよ? ありえないよ。びっくりしたー」
「びっくりしたじゃなくて!」
気がつくと、手のひらにかいた汗が冷えて、ひんやりと指先まで冷たくなっていた。喉が渇いて張り付くようだ。日ごろから不愛想なおかげで、動揺が顔に出なかったが、実際にはとても緊張していたのだ。
繁華街の外れに辿りつき、二人で夜のオフィス街をゆっくりと歩ける段になって、ようやく孝一郎は深く息を吐き出した。
と、ウタがふと足を止める。
「でも、ダメだよ本当に、真山さん。口も手も出しちゃダメだって言ったのに」
「それはあんたが──っ」
連れていった本人が言うな、と言い返そうと振り返ったところで、まっすぐに見上げてくる眼差しにぶつかって、どきりと孝一郎は言葉を飲み込んだ。
どこか悄然と、申し訳なさそうに、弱々しい目を向けてくる。
「ごめんね。本当にただそばにいてくれるだけでいいつもりだったんだけど、まさか真山さんがかばってくれるとは思ってなくて」
「っ、俺がなにもしなかったら殴られてただろうが」
「うん」
「……あんた、まさか最初から殴られる気だったのか」
「殴られる気っていうか、早瀬のとこ行くと、二回に一回の確率で殴られるから」
「はあ!?」
どんな確率だ、と目を剥いた孝一郎の前で、ウタは軽く肩をすくめる。
「ああいうひとたちはさあ、自分が上だってことを明らかに思い知らせたいわけ。そういうのに理屈とか正当性とか関係ないからさ、お金で片づけるときもあるけど、結局一回殴ってすっきりしてくれるなら、まあそれでいいかなって。後に引きずる方が面倒だし」
隠された情報を手に入れるために殴られることを、彼は最初から覚悟していたのだ。それでようやく、なぜウタが自分を連れていったのか、分かった気がした。
孝一郎は顔を歪める。
「……つまり俺はいざというときの連絡役か」
「真山さん」
「あんたが殴られて倒れたときのためにそばにいろって話だったのか」
まるで腹の底に熱い塊があるようだった。
それが打ち震えて、ひどく不愉快な気持ちがこみ上げる。孝一郎は拳を握りしめた。そうしなければ、自分が今彼の胸倉を掴み上げてしまいそうだった。
「ふざけるな!! そんな仕事は二度とごめんだからな! 俺は帰る」
そう言い放って孝一郎はさっと踵を返す。
オフィスの方向に向かって長い道のりを歩き始めていた途中だったが、いろんなことがひどく腹立たしくて、もう一緒に戻る気にはならなかった。
「……真山さん。真山さん、ごめんなさい! バカなことに付き合わせちゃって変なことに巻き込んじゃって、本当にごめんなさい! ……あの、でも、早瀬はヤクザだけど、ヤクザでドSで最低なやつだけど、基本的に普通のひとには手を出さないから。うちと関係なくなったら、絶対手は出さないから!」
「っ」
必死でウタがそう追いすがってきて、いっそう苛立ちが湧きあがり、結局孝一郎は足を止めて、後ろから追いかけてきたウタの胸倉を掴んでいた。
そんな乱暴な行為さえも受け止めて、ウタはまっすぐに孝一郎を見つめる。
「……本当にごめんなさい。嫌だよね。こんな会社辞めたいよね。お給料は、危険手当も含めて、きちんと全部支払うから、明日事務所に来て──」
「バカかおまえは!!」
言葉を遮って、孝一郎は一喝していた。
分かっていない。
この年下の上司は、なぜ孝一郎がこんなにも怒っているのか、全然分かっていない。
「辞めたいとか嫌だとかそういうこと言ってるじゃない!! あんたの事務所じゃこういう付き合いも仕事なんだろ? 仕事なんだったら別に構わねえよ。だけど殴られるのを黙って見てろなんて、そんなものは仕事じゃないって言ってんだよ!!」
「…………え?」
パーカーの襟首を掴まれながら、ぼんやりとウタが声を洩らした。
何度も目を瞬かせている様子に呆れて、ちっと舌打ちすると孝一郎は突き放すようにして、掴んでいた胸倉を離す。
殴られるのが当然だと彼が思っていることも、それを黙って見ていろ、と彼が言い放つことも、なにもかもが許しがたいほどに腹立たしかった。それはあまりにも孝一郎の常識から逸脱しすぎている。
「また同じようなことをするんだったら、誰でもいい、他の奴を連れていくんだな。俺は二度とごめんだ」
「……真山さん、辞めたいんじゃ、ないの?」
「────」
目を丸くしたウタに問われて初めて、孝一郎はそのことに思い至った。
こんな、怪しく危険で腹立たしい仕事なんて、辞められるなら今すぐ辞めるべきだった。しかも勤め先のトップ自身が辞めていいと言っているのだ。今すぐ辞めればいい。
なのに、なぜだろう。こんな危険な目にあってもなお、孝一郎は辞めたいと思ったわけではなかった。
それは平穏への希求より、仕事への責任感が勝るからなのか。
──それとももっと違うものを選ぼうとしているのか。
胸に渦巻く自分の感情すらうまく掴み取ることができなくて、孝一郎は顔をしかめる。
「……任された仕事が終わるまでは、辞める気はありません」
最終的にはそんなふうに孝一郎は返していた。
「……怖いもの知らずだなあ、真山さんは」
「っ、いきなりヤクザのところに連れてったのはあんだだろ!」
思わず怒鳴り返していたが、ウタはどこ吹く風でケタケタと笑い出す。
「そのヤクザ相手に一触即発だよ? ありえないよ。びっくりしたー」
「びっくりしたじゃなくて!」
気がつくと、手のひらにかいた汗が冷えて、ひんやりと指先まで冷たくなっていた。喉が渇いて張り付くようだ。日ごろから不愛想なおかげで、動揺が顔に出なかったが、実際にはとても緊張していたのだ。
繁華街の外れに辿りつき、二人で夜のオフィス街をゆっくりと歩ける段になって、ようやく孝一郎は深く息を吐き出した。
と、ウタがふと足を止める。
「でも、ダメだよ本当に、真山さん。口も手も出しちゃダメだって言ったのに」
「それはあんたが──っ」
連れていった本人が言うな、と言い返そうと振り返ったところで、まっすぐに見上げてくる眼差しにぶつかって、どきりと孝一郎は言葉を飲み込んだ。
どこか悄然と、申し訳なさそうに、弱々しい目を向けてくる。
「ごめんね。本当にただそばにいてくれるだけでいいつもりだったんだけど、まさか真山さんがかばってくれるとは思ってなくて」
「っ、俺がなにもしなかったら殴られてただろうが」
「うん」
「……あんた、まさか最初から殴られる気だったのか」
「殴られる気っていうか、早瀬のとこ行くと、二回に一回の確率で殴られるから」
「はあ!?」
どんな確率だ、と目を剥いた孝一郎の前で、ウタは軽く肩をすくめる。
「ああいうひとたちはさあ、自分が上だってことを明らかに思い知らせたいわけ。そういうのに理屈とか正当性とか関係ないからさ、お金で片づけるときもあるけど、結局一回殴ってすっきりしてくれるなら、まあそれでいいかなって。後に引きずる方が面倒だし」
隠された情報を手に入れるために殴られることを、彼は最初から覚悟していたのだ。それでようやく、なぜウタが自分を連れていったのか、分かった気がした。
孝一郎は顔を歪める。
「……つまり俺はいざというときの連絡役か」
「真山さん」
「あんたが殴られて倒れたときのためにそばにいろって話だったのか」
まるで腹の底に熱い塊があるようだった。
それが打ち震えて、ひどく不愉快な気持ちがこみ上げる。孝一郎は拳を握りしめた。そうしなければ、自分が今彼の胸倉を掴み上げてしまいそうだった。
「ふざけるな!! そんな仕事は二度とごめんだからな! 俺は帰る」
そう言い放って孝一郎はさっと踵を返す。
オフィスの方向に向かって長い道のりを歩き始めていた途中だったが、いろんなことがひどく腹立たしくて、もう一緒に戻る気にはならなかった。
「……真山さん。真山さん、ごめんなさい! バカなことに付き合わせちゃって変なことに巻き込んじゃって、本当にごめんなさい! ……あの、でも、早瀬はヤクザだけど、ヤクザでドSで最低なやつだけど、基本的に普通のひとには手を出さないから。うちと関係なくなったら、絶対手は出さないから!」
「っ」
必死でウタがそう追いすがってきて、いっそう苛立ちが湧きあがり、結局孝一郎は足を止めて、後ろから追いかけてきたウタの胸倉を掴んでいた。
そんな乱暴な行為さえも受け止めて、ウタはまっすぐに孝一郎を見つめる。
「……本当にごめんなさい。嫌だよね。こんな会社辞めたいよね。お給料は、危険手当も含めて、きちんと全部支払うから、明日事務所に来て──」
「バカかおまえは!!」
言葉を遮って、孝一郎は一喝していた。
分かっていない。
この年下の上司は、なぜ孝一郎がこんなにも怒っているのか、全然分かっていない。
「辞めたいとか嫌だとかそういうこと言ってるじゃない!! あんたの事務所じゃこういう付き合いも仕事なんだろ? 仕事なんだったら別に構わねえよ。だけど殴られるのを黙って見てろなんて、そんなものは仕事じゃないって言ってんだよ!!」
「…………え?」
パーカーの襟首を掴まれながら、ぼんやりとウタが声を洩らした。
何度も目を瞬かせている様子に呆れて、ちっと舌打ちすると孝一郎は突き放すようにして、掴んでいた胸倉を離す。
殴られるのが当然だと彼が思っていることも、それを黙って見ていろ、と彼が言い放つことも、なにもかもが許しがたいほどに腹立たしかった。それはあまりにも孝一郎の常識から逸脱しすぎている。
「また同じようなことをするんだったら、誰でもいい、他の奴を連れていくんだな。俺は二度とごめんだ」
「……真山さん、辞めたいんじゃ、ないの?」
「────」
目を丸くしたウタに問われて初めて、孝一郎はそのことに思い至った。
こんな、怪しく危険で腹立たしい仕事なんて、辞められるなら今すぐ辞めるべきだった。しかも勤め先のトップ自身が辞めていいと言っているのだ。今すぐ辞めればいい。
なのに、なぜだろう。こんな危険な目にあってもなお、孝一郎は辞めたいと思ったわけではなかった。
それは平穏への希求より、仕事への責任感が勝るからなのか。
──それとももっと違うものを選ぼうとしているのか。
胸に渦巻く自分の感情すらうまく掴み取ることができなくて、孝一郎は顔をしかめる。
「……任された仕事が終わるまでは、辞める気はありません」
最終的にはそんなふうに孝一郎は返していた。