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文字数 3,944文字

 改めて聞いたら、北島詩は二十七歳だった。
 驚くべき童顔だ、と思う。自分よりたった三つ年下である。しかもそれで社長だというのだから、嘘か冗談のようだ。いや、孝一郎は年齢で能力を差別するつもりはないし、むしろ若くして一国一城の主というのはすごいことだと評価する気持ちさえある。
 だが孝一郎自身にはまったく想像がつかなかった。
 どのようにして、齢二十七にして──否、事務所を設立したのは二十三のときだいうから、齢二十三にして、探偵事務所を設立するに至るのだろうか。設立資金は、経営状態はどうなっているのだろう。……想像すると、あまり健全ではない経緯しか思いつかず、孝一郎は熱心に片づけをしながら、なるべく考えないようにした。
 大体普通に暮らしていたら、探偵事務所になんて縁がないものだ。浮気調査や素行調査など、どうしてもコソコソした、人の粗や裏を探す嫌なイメージしか湧かない。
 だが、ウタはいつもにこにこしていて、そういう薄暗いイメージがまったくなかった。
 というか、それ以前に働いているイメージがない。
 朝九時に孝一郎が出勤したときには、彼はもうすでに事務所にいて、奥のソファで横になっている。
 事務所のスタッフは、孝一郎が確認した限りは三人いて、十時頃には二十歳そこそこと見られる市川将人(いちかわまさと)(初めて事務所にやってきたときに一度も顔をあげなかったスタッフだ)がやってきてウタと一言二言言葉を交わし、そのあとは自席で大きなヘッドフォンをつけてパソコンと睨めっこ。もう一人の年若いスタッフ相田翔(あいだしょう)は元気よく事務所に出たり入ったりして、こちらも出入りするたびウタと言葉を交わすが、ウタはその間もソファから動かない。唯一孝一郎より明らかに年嵩の(たぶん五十代だ)荻村健(おぎむらたけし)は、ほとんど事務所には顔を出さず、電話でウタと話をしている。
 ウタが外に出るのは昼時と夕方だけで、しかも昼飯に出かけたくせに二時間くらい帰って来ないこともしばしばある。
 夜は孝一郎が先に帰るので、どうしているのかは知らない。
 三人のスタッフがどういう仕事をしているのかもよく分からないが、ウタの仕事が一番分からなかった。……まあ、どんな会社であれ、実際に社長というは、目に見えるような仕事などしないものなのかもしれないが。
 ──だが、しかし。
「なぜ毎日毎日ゴミを増やす……」
 ようやく床全体が見えてきた事務所の片隅で、ゴミ袋の口を縛りながら、こっそり孝一郎は息を吐いた。
 今日もまた孝一郎が出社したときにはすでにウタは事務所のソファに寝転がっていて、いつものように出勤してきた市川から雑誌の束を受け取るとすぐ、それを読み始めていた。
 真山がこの事務所に来るようになって実働四日目。その間、毎日こうだ。
 おかげで二日目には事務所内にあった雑誌類を分類して部屋の隅にきれいにタワー状に並べて整理したはずなのに、すでにウタのいるソファ周りにはいくつもの雑誌が散らばっている。……なんだかものすごく納得がいかない。
 ウタが読んでいるのはほとんどがファッション誌とタウン誌だ。
 これがまだビジネス誌だったら許す気にもなるのに、と孝一郎は拳を握りしめる。仕事をしていないならいないでもいい、せめてゴミを増やすな! と心の底から思う。
 とはいえ、いまだ業務内容がよく分からない事務所で、そのトップの動向に対して根拠もなく弾劾するわけもいかず、正直に孝一郎は目の前の作業が一段落したその日の午後、ランチから戻ってきたウタにさりげなく尋ねてみることにした。
「所長、書類の整理方法について相談があるのですが」
「なぁに?」
 戻ってきてすぐソファに仰向けに横たわって雑誌を広げた所長にそう声をかければ、彼は雑誌から顔を覗かせるようにして、軽く首を傾げてみせた。それを見下ろし、これが上司に報告するかたちなのかと思うと、孝一郎はどうも複雑な気持ちが湧いて渋面をつくった。前の会社なら、もちろんありえない。
「この事務所では終了案件をファイル化して保存している形跡が見られますが、これは顧客名別分類か、案件種類分類か、それともなにか別の分類か、どのような分類が望ましいでしょうか。あと資料と主張されるあの雑誌類ですが、本当に必要ですか」
 ちなみに前半部分はあらかじめ答えが想定できている釣りの相談で、最後の付け加えが一番訴えたいことだ。
 気づいているのかいないのか、ウタはのん気に相槌を打つ。
「分類? それはいいねえ。……そうだな、ファイルは種類別の上に、失踪者捜索についてはエリア別に詳細分類してくれるとすごくありがたいな。あと、雑誌は必要だから捨てないでね」
「全部、必要なんですか」
「うん、全部必要かな、基本的には」
「本当に?」
「その新しい人が中身全部スキャンしてくれるっていうなら、俺は捨ててもいいですよ」
 疑わしく孝一郎が問い返した途端、淡々とした声が鋭く二人の間にわけ入ってきた。
 ウタが寝そべるソファのすぐ前の席で、パソコンの方を向いてなにかの作業をしている市川だ。椅子に浅く座って背を丸め、ものすごく姿勢の悪い姿でキーボードを叩きながら、一切振り返りもせずに口を開く。
「データベースの基本はこっちで作ってあるんで、スキャンしてルールに従って名前をつけてタグつけて、パソコンに格納してくれたあとなら捨てていいですよ」
 こいつ仕事を増やす気か、と思ってから、ふと孝一郎は我に返る。
 いまどき大抵の雑誌はデジタル化しているというのに、なぜわざわざ紙の雑誌をスキャンしなくてはいけないんだ?
「だったら最初からデジタルにすればいいだろ!」
「あ、意外に賢い」
「っ」
 馬鹿にしているのか。と反射的に怒鳴りそうになった言葉を寸でのところで押し留める。それとほとんど間髪おかずに、ウタが噴き出した。
「あはは、二人の会話、超楽しいんだけど」
「楽しむなっ!」
「ああ、ごめんね、真山さん。でも俺がデジタルはだめなんだよ。紙の雑誌じゃないと頭に入ってこないの。かといって保管のためにデジタルも買ったら二重にお金かかっちゃうし。必要に応じて見返すこともあるから、そのまま残しておくかデータ化するか、どっちかになるんだよね」
「────」
 ウタのさらりとした物言いに毒気を抜かれて、孝一郎は返す言葉を飲み込んだ。
 しかし、残しておくということは、要するにあの部屋の片隅にいくつも並んでいる雑誌タワーを減らすことはできないということだ。もしくはあれらをデータ化する──。
 気が遠くなるような作業だ、と愕然とした孝一郎の様子を察したのか、ハッと市川は小さく鼻で笑った。
「ま、さすがに短期間バイトにはデータ化まではできないだろうから、残してもらう方向でいいんじゃないですか」
「っ」
 〝できない〟という言葉も、孝一郎が嫌いなもののひとつだ。
 仕事において人がやってできないことはほとんどないと思う。向き不向きはあるにしても、やってみもせずにその能力がない、と自分から告げるのはプライドが許さない。
 深く息を吸ってから、孝一郎は眼鏡をずりあげる。
「……分かりました。データ化も検討しましょう。このまま延々と増えていく一方ではいつかこの事務所が雑誌で埋め尽くされます。全冊をすぐにデータ化をするのは難しいでしょうから、過去のものからデータ化する方向で進めながら、雑誌の保管とデータ化について一番効率の良い方法とルールを考えましょう」
「いいの?」
 ウタが身体を起こした。目を丸くしてまっすぐに見つめてくる様子は、まるで無邪気な子どものようで、なんとなく居心地悪く視線を逸らした。
「今言ったように、まずはどうするのがよいかを検討するだけで、今すぐすべてをデータ化するわけでは、」
「ううん、それだけでもすごく助かる! ありがとう!」
 にっこりと笑って、はきはきとウタは言う。人の粗探しをするような事務所の所長のくせに、彼自身はとてもあどけなくて、困る。
「……いえ。では雑誌の保管量が最終的にどのようになるかはまだ分かりませんが、どちらにしろこの事務所には書棚が足りないと思いますので、書棚を追加したいのと、書類整理のためのファイルケースなどを追加で購入したいのですが、よろしいでしょうか」
「いいよう」
「では予算は──って、ちょっと待て!」
 軽々しく答えたウタが自分の懐から財布を取り出したところで、思わず孝一郎は敬語をすっ飛ばして声を上げていた。「なに?」と不思議そうにウタは目を瞬かせる。
「……なぜ、財布を取り出している」
「え、だってお金要るでしょ?」
「会社の経費は会社の金から出せ! 余計な混乱を招くだろ!」
「えーっと、これが、うちの金庫?」
「────」
 どう見ても個人用の財布を掲げて首を傾げたウタを前に、孝一郎は天を仰いだ。
 ……ダメだろう。これはダメだろう。ありえないだろう。個人経営とはいえ、こんないい加減であっていいわけがないだろう、孝一郎の常識からいって!
 毒を食らわば皿までだ。と孝一郎は思った。
「分かりました。この際ですから、この機に経理財務関係も全部きれいに整理しましょう」
「そんなことまでお願いしてもいいの?」
 尋ねながらも、ウタの丸い目は期待と嬉しさに輝いている。
 孝一郎はまたくせで眼鏡を触りながら、さりげなく視線を逸らした。
「──代わりに業務範囲が拡大しますので、時給の値上げを要求させていただくのと、あと残業代については時給の二十五パーセント割増をいただきます!」
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