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文字数 3,476文字

「あ、時間かかるから、なんだったら真山さんも外で待ってていいよ」
 二階の部屋に入って薄手袋をはめたウタは、孝一郎にそう言った。
 すっかりウタのことを信頼した由利子は、「衣類には一切手をつけませんから」と約束したウタに促されて部屋の外に出されても、素直に従っていた。
 もちろん孝一郎はもともと一週間前に事務として雇われたバイトで、かつ今日は偶然そこにいたからという理由で連れてこられただけの運転手でしかなく、手伝えることなどないので部屋のドアの前でぼうっと立っているだけしかできないのだが、かといって部屋の外に出てあのか弱そうな母親と一緒にいるのも気まずい。
「いえ、迷惑でなければここにいます」
「じゃあとりあえずなにも触らないようにして、そこにいてくれる? そうだなあ、あともし俺が元通りにする場所を間違っていたら教えて」
 言いながら、ウタはただ部屋の真ん中に立って、部屋を見回している。
 ゆっくりと、隅々を観察しているようだった。それがなんだかとても不思議で、ぼんやりと孝一郎は彼を見つめた。
「……なにを、してるんですか」
「うん? 観察」
「なにが、分かるんですか」
「んー、いろいろ」
 部屋は一見してとても女の子らしく、整然と片づけられていた。白い壁紙に、明るいフローリング、カーテンは薄ピンク色で、ベッドの上の掛け布団は赤ピンク系のキルト、枕元には小さなぬいぐるみがごちゃごちゃと置いてある。デスクとそのすぐそばにある棚は薄い木目調で、本やノートや小物やCDなどいろんなものが片づけられていた。
 デスクの正面の壁にはコルクボードが掛っていて、写真やメモなどが飾られている。
 調べるならああいうところだろう、と孝一郎は思ったが、ウタが最初に手を伸ばしたのは枕のまわりだった。
 枕を持ち上げて下になにもないことを確認すると、それから枕のまくらに置かれたぬいぐるみを一つずつ調べていく。
 その次は本棚だ。調べていく合間に、片手で携帯になにかメモを打ち込んでいる。
「……写真、撮らないんですか」
「撮るよう、もちろん。最後にね」
 言葉は軽いが、今までにない素っ気なさで、孝一郎はそれ以上の口出しを控えた。
 真剣に丁寧に、集中して、ウタは部屋を調べている。見ていて、なにをしているのか不思議に思うこともあったが、彼の真剣さの前ではなにも言えなかった。
 ──心配し過ぎくらいでいいんです、こういうときは。あとで後悔するよりも。
 あの言葉は本気で言っていたな、と思う。
 まだ夜の十時じゃないか、と考えた自分のことが恥ずかしくなるほど、彼の言葉は真剣で深刻だった。失踪者捜索専門と名乗るだけの重みがあった。……さすがに、ずっと非常識だと思っていた彼のことを、怪しいと軽んじていた事務所のことを、少し見直そうという気持ちになった。
 ときどきおまえは視野が狭い──と、昔、岡崎一道に指摘されたことを思い出す。
 何事もきちんと見て、きちんと知ってから、評価を下すべきだ。
 事務所のソファでただ横になっているだけだった男は、目の前でこんなにも真摯に仕事に取り組んでいるじゃないか──。
「っ……と、所長!」
 感心して眺めていたその矢先、彼がクローゼットを開けていて、思わず孝一郎は慌てて声をひそめながらもウタに声をかけていた。
「……衣類には手をつけないって、約束を」
「んなの嘘に決まってるじゃん。服が一番ポイント高いんだから調べないでどうするの」
「いや、でも」
「はいはい、外野は黙って。大体俺ゲイだし、女の子興味ないし、女の子の下着とか見ても興奮しないし、警戒されても困るんだよね。対象者の部屋調査はね、経験上、家族を立ち合わせない方がいいの。いちいちうるさいから」
「…………」
 淡々と言いながらも、彼はクローゼットの中の衣類を一枚一枚丁寧に引っ張り出して、タグやデザインを調べている。
 ……見直した方がいいのか、しない方がいいのか分からなくなって、つい孝一郎は額を押さえて、ため息を漏らしていた。

 部屋の調査に一時間半、それから由利子と駆けつけた彼女の妹、三島有紗の叔母を通じて、少女の交友関係などの話を聞くのに一時間弱。
 依頼者の家を出て、車に戻ったときにはとっくに日付が変わっていた。
 事務所に戻るように指示され、行きと同じようにハンドルを握った孝一郎の隣で、ウタはモバイルPCを起動し、電話を片手になにやら作業を進めていた。
「──甲斐、俺。一次調査終了。データを送っておくから、とりあえず朝一番で市川くんが作業できるようにしておいて。あと今晩はとりあえず渋谷、行ってくれる?」
 拘置所戻りの男はまだ事務所に残っていたようだ。
「うん。いつものようにマキさんにも声掛けておいて。……いや、あそこのボランティアは融通きかないから話通さなくていいし。うん。そう。お願い。俺は今から事務所戻るよ。今から帰ったら三時過ぎかな。甲斐は朝、市川くんが来るころに戻ってきて」
「……三時前には着きますよ、多分」
 深夜の高速道路は予想より空いている。事故や取り締まりなどがなければ、予定より早く事務所に帰れそうで、電話を切ったウタについ孝一郎はそう告げていた。ウタは仕事に集中しているようで、PCに向かって作業をしながら、ふうん、と曖昧な相槌を打つ。
「そう? それはよかったなー。──あ!!」
「っ、なに!?」
 突然声をあげ、ものすごい勢いでウタが顔をあげて、孝一郎は驚きに危うくハンドル操作を誤りそうになっていた。いきなりなんだ、と思って、ハンドルを握りながら横目で見れば、ウタが勢いよく頭を下げる。
「ごめん真山さん!! こんな時間になるまで付き合わせちゃって!」
「…………」
 今さらである。そんなもの事務所を出発した時点で分かっていたことだろう。と思ったので、孝一郎はあえてなにも言わなかった。その隣でウタが「ああ!」と頭を抱えて嘆く。
「しかもなんかすごいお腹空いたなあって思っていたら、そういえば俺たち夕飯もきちんと食べてないよね!? うわ、最悪。俺ってば本当に最悪。お腹空いてるよね、真山さん。ああもう、全然忘れてた!」
「……深夜残業代はきっちりもらいます」
「当たり前だよ! あと、インター降りたらどっかでご飯食べよう。俺もお腹空いちゃってるの思い出した。もちろん俺が払うから。リミット七十二時間とか言われちゃってるし、しばらく忙しくなるから食べれるときにきちんと食べておかなきゃ」
 実際は孝一郎も途中から空腹を忘れていたので、ウタの提案のとおり、今から彼のお金で食べることができるなら特に不満はなかった。毒を食らわば皿まで、なのだ。今日のことについては、今さら多少のことで文句を言う気にならない。
 それよりも──。
「……失踪人の」
 ふと孝一郎は口を開いていた。ハンドルはしっかり握り、前を見たまま。
 孝一郎が言いかけたことに、うん? とウタが首を傾げる。
「失踪人の捜索が専門なんですか」
「うん。基本的にはね。違うこともするけど。そういうのは主に荻村さんが」
「……気づきませんでした」
「うん。まあ、今は繁忙期じゃないしね。春休み、夏休み、GW、長期間の休暇中からその休み明けに増えるんだよ、家出って。うち、まだ設立年は浅いけど、子どもの家出人捜索はそれなりに定評あるから、繁忙期はそれなりに忙しいよ」
「なんで」
 つい、孝一郎はそう口走っていた。
 彼は真剣だった。真剣に仕事をしていた。依頼主である三島由利子への繊細な応対、ヒアリング、時間をかけた部屋の調査──どれを取っても、ウタがこの失踪者捜索という仕事に対して本気で取り組んでいるのだと分かった。
 だからこそ不思議だった。
 なぜ二十三歳の若さで失踪者捜索専門の興信所なんて設立することになるのか。
 それを知りたくなった。つい半日前までは、深く関わり合いにならない方が良いと思っていたのに、なぜか今は彼のことが知りたいと思っている。
「……なんで、失踪者捜索専門の事務所を?」
「んー、なんでだろうねえ」
 帰ってきたのはそんな曖昧な言葉。
 横目で見たウタは、またPCに向かっていた。しばらく黙って先を待ってみたが、彼はそれ以上話す気はないようだ。強いてそれ以上聞く気にはなれず、孝一郎も口を閉じる。
 ──けれど言葉より雄弁に。
 黙り込んだ静かな横顔が、なにか理由を抱えているように思わせた。
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