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文字数 4,659文字

「約束の五十二時間はとっくに過ぎていますよ、北島さん」
「……まだ三島県議会議員は帰国してないと思うけど?」
「ああ、乗り継ぎ便に遅れが出たらしいですよ。おかげで帰国する前に問題は解決できた。だけど約束は約束だ。守れなかったのだから、ペナルティだね」
 平然と言い放って、早瀬はグラスに口をつける。そして酒に濡れた唇を親指で拭いながら、艶然とウタを見上げてみせた。
「さあ、なにをして遊ぼうか」
「っ」
 ほとんど無意識に孝一郎が警戒して身構えると、それを抑えるように隣に立つウタが腕を掴んできた。
「……あなたと一晩付き合ったら到底身体が持たないから、そういう遊びは避けたいな」
「忘れられない夜だと言ってくれたのに」
「あのね。あんたが念入りにいたぶってくれたおかげで、あのあと爪が正常に伸びるまでどれだけ時間かかったと思ってるの? あれ、本気で日常生活に支障きたすんだから、やめてよね!」
 憤慨したように言って、ウタが見せつけるように手を突き出す。
「────」
 その指にはなにかが挟まれていた。
 孝一郎が訝しがるより先に、ウタはその指にはさまれた小さなチップを早瀬に向かって放り投げている。
「妹尾理子が売春とドラック密売にかかわっていた証拠になる盗聴データ。妹尾国土交通相の弱み、あなたが欲しかったものでしょ。……これでチャラだ」
 早瀬の手に渡ったのはSDカードだ。それはつい先刻までパソコンを使ってウタが用意していたものだ。
 思わず孝一郎は隣をちらりと横目で一瞥していたが、ウタも、そして早瀬もまるでそれがごく自然のことのように動じた様子はなかった。
「本当に、抜け目のない男で助かるよ、北島さん」
 嬉しそうな早瀬の評価に、ものすごく正直に不愉快そうにウタは顔を歪める。
「もう行ってもいい?」
「ええ、いいですよ。新しい猟犬も今にも食いつきそうな顔で睨んでいることだし」
 笑いを含んだその言葉に歩き出したウタが、個室を出る前に中を振り返る。
「最後にひとつだけ。何度も言うようだけど、うちのスタッフに手を出すのはやめてね。言っておくけど──乾さん、あんたもだ」
 これまでの会話の中で一番厳しい語調でそう言い放つと、ウタは乱暴な手つきで個室の重厚なカーテンを開けて、後ろも見ずに歩き出していた。

「まったく、どうしてあんたはそうなんですか。いい加減にしてください!」
 コインパーキングへと続く暗い深夜の道を歩く途中で辛抱が切れて、孝一郎はそうウタに叱りつけていた。
 ええ? とひどく心外そうにウタが孝一郎を見上げる。
「なんで。今日は暴力沙汰にならなかったのに」
「それは結果論だ!! 挑発したことには変わりないだろう! あんたは一日で何回危険な目に会えば気が済むんですか!」
「あ、それ、さっきの話の続き?」
 じゃあ聞くね、と言わんばかりにウタは足を止めて、孝一郎と向き合った。それがまたなんとも苛立たしく、孝一郎は震える拳を握りしめている。
「真面目に聞いてください!」
「うん、聞くよ。なに?」
「なに、じゃなくて……っ。今日一日であんたのやったことと言えば、怪しげな部屋に侵入してわざと捕まって、殴られて、拳銃を持った相手に平然と脅すような真似をして、しかも最後はナイフを持った相手にまっすぐ向かっていって。ヤクザに噛みついて。あんたは自分の安全っていうのを少しは考えて行動する気はないんですか!」
「────」
 孝一郎の憤りっぷりに、ウタが目を瞬かせた。
 きっと彼には分からない。彼には伝わらない。たとえそうだとしても、言わずにはいられないのは、自分の性だった。
 ぐっと腹の奥の怒りを抑えこんで、孝一郎は奥歯を噛みしめる。
「言ったでしょう。身の安全を守ることより大切なことなんて存在しない。いいですか。自分を大切にできない人間は、誰のことも救えません。自分にもしものことがあったら、守りたいと思った相手ももう守れなくなるんです。誰も救えなくなるんです」
 恐怖で竦んだ足。なにもできなかった自分。
 ……救えなかった命。
 後悔に押し潰され、自暴自棄になった孝一郎を、古武道本家を継ぐ伯父は強く諌めた。
 ──できなかったことを悔やむなら、自分がなすべきだと思ったことを、迷いなくできる人間になりなさい、孝一郎。
 ──誰かを助けたいと思うなら、生きることを考えなさい。
 自らが生きることこそ、誰かの助けになるのだから、と。
「自分があるから、いざというときに誰かを救えるんです。……あなたはもっときちんと自分のことを、自分の命を、安全を、考えてください」
「真山さん……」
 ウタがどこか呆然と孝一郎の目を見上げる。
 やがて、その顔がふわりと柔らかく綻ぶように微笑んだ。
「本当にまっすぐだなあ、真山さんは」
「っ、少しは真面目に……っ」
「真山さんは正しい。痛いぐらいまっすぐで、正しいよ」
 不意にはっきりとウタがそう言った。
「……っ」
 嘘つきな男のその言葉に、けれど嘘がないように思えて、なぜか胸が締めつけられる。
 ふっともう一度微笑むと、ウタは身を翻し、孝一郎に背中を向けた。一歩、二歩、ゆっくりと歩いて、孝一郎から離れて、そこで立ち止まる。
 振り返らない背中から、ひそやかな声だけが孝一郎に向かって投げかけられた。
「俺はね、真山さん。昔、一回死んだんだ」
「────」
 孝一郎は離れた背中を凝視する。
 ふとその小さな肩に、小さな背中に、夜の事務所で震えていたときの弱々しさが見えた気がした。どうしようもなく、一人で怯えていたあの夜の、心もとなさが。
「だから、もういい。俺はもう正しさなんていらない。そんなものを求めるのはやめた。たとえ正しくなくても、子どもたちが無事に帰ってくるなら、無事に生きていけるためならなんだってする。俺の命ひとつで誰かが助かるなら、それでいい」
「そんな──」
「ごめんね、真山さん。俺は、なにを言われても、こういうやり方を変えられない」
「…………」
 感情の見えない、その静かな言葉に、思い知らされる。
 ──自分の知らない世界がある。
 知らない闇がある。苦しみがある。痛みがある。
 きっと、その痛みを、闇を、自分が本当の意味で知ることはないだろう。本当に理解することはできないだろう。自分の考えが、彼に届かないのと同じように。
 けれど孝一郎は、手を伸ばしていた。
 少し離れたその背中に向かって、自ら危険に飛び込んでいく彼の手を掴むように。
「……なら、俺は何度でも言い続けます」
「っ」
 足を踏み出して、孝一郎は本当にウタの小さな肩を掴んでいた。驚いたように、その肩がびくりと震える。
「そういうやり方を、俺は何度でも否定します」
 振り返らずうつむいている男の肩を、両手で包んだ。手に少し力を込めれば、ウタの小柄な身体はあっけなく腕の中に収まりそうだった。
 ちょうど顎のあたりにうつむいたウタの頭がある。
 不意にその頭が仰ぐように見上げてきて、どきりと心臓が鳴った。
 なぜかウタは少し困ったような、まるで泣き出すのをこらえているような──それでいてどこか嬉しそうな顔をしていた。
「どこまでも真山さんは頑固だ」
「……頑固です」
「それだけ頑固じゃリストラもされるよね。本当に手を焼くよ。あなたみたいな人がそばにいたら、弱くて後ろめたさを抱えている人間は生きにくいもの」
「っ」
 いきなり痛いところを突かれて、つい孝一郎は両手を離していた。
 ウタはそのまま振り返り、まるで身体が触れるような近さで孝一郎と向き合う。
「この世界じゃそういう人間がほとんどだ。みんなが真山さんみたいに強いわけじゃない。正しいと分かっていても、なかなかそうすることができない。……あなたみたいな人は普通の社会から排除されて当然だったんだ」
「────」
 リストラされて当然だと、ウタが言い切る。
 だが、きっとそうなのだろう、と素直に孝一郎は思えた。自分のような無神経で自己主張が強く、頑迷な男はそうなってしかるべきだったのだろう。
 ……自分には見えていない。人の弱さや後ろめたさが。
 それでも、譲れないものは譲れない。譲りたくない。言いたいことを言わないで、するべきことをなにもしないで、後悔するのは嫌だ。たとえ、それで社会から排除されても。
「……でも、俺はそういうの、嫌いじゃないよ」
 ハッと孝一郎は目を瞬いて、目の前の男を見直していた。
 拒絶ではなく。
 彼は孝一郎を受け止めて──笑う。
「ありがとう、真山さん。心配してくれる人が一人でもいるなら、俺も、少しは自分に優しくできる」
 三島有紗に告げた言葉と同じことを自らに告げるウタのことを、孝一郎は見つめた。
 言葉もなく、目と目があって。
 無意識のうちに自分が腕を持ち上げていることに気がついて、孝一郎はうろたえた。……この腕はなんだ。抱きしめようとでもしたのか。
 不意にウタが笑みを深めた。
「でもダメだよ、真山さん。あんまり優しくすると、付け込まれるよ」
「……え?」
 問い返した孝一郎に微笑み返したかと思いきや、ウタは突然腕を掴むと、身体を伸ばすようにして、下からすくうように孝一郎の唇に自らの唇を重ね合わせていた。
「っ!?」
 咄嗟に孝一郎は目の前の身体を突き放していた。
 途端に、ハハッとウタが笑い出して、くるりと踊るように身体を翻す。
「油断大敵。気をつけないと、真山さん」
「バ、カかッ、おまえは! セクハラで訴えるぞ!!」
「同意があったらいいんだよね?」
「どこに同意があったんだ、どこに!」
 言い合いながら、繁華街の外れにあるコインパーキングへ向かって歩き出す。
 気がつけば、そろそろ夜が明けそうだった。闇が少しずつ薄れていこうとするその空を見上げて、「ああっ」とウタが悲痛な声を上げる。
「またこんな時間まで真山さんを付き合わせちゃった! ああ、もう本当にごめんね。深夜勤務手当、きちんと出すから!!」
「……それより危険手当を下さい」
「そういえば、そういう手当っていくらぐらいが相場なのかな。考えてなかったなー。どうせ危険なことするのは、俺と甲斐ぐらいだから」
 決めてください、と言いかけて、孝一郎は我に返る。
「危険なことはするな!!」
「あはは、そうだね。あ、そういえば真山さんには経理とか会計のこと、整理してもらえるんだから、手当のこととかのことも今度決めちゃおうか」
「…………」
「真山さんのいるうちに、いろいろやってもらおうっと」
 ──そうだ、自分は短期契約のバイトなのだ。
 今さらそう孝一郎は思い出していたが、機嫌良く目の前を歩く期間限定の上司の後ろ姿を眺めていると、そんなことはどうでもいいような気がしてきた。少しうつむいて、中指で眼鏡の弦を押し上げながら、ゆっくりと顔を上げる。
 焦る必要はない。
 もう少し、この事務所に付き合ってみるのも悪くない。
「あの事務所を健全な状況にするには、思った以上に時間がかかると思いますよ」
「そう? ……じゃあ、早く通常業務に戻らないとね」
 ふと足を止めて、ウタが振り返る。
 そうして孝一郎に向けた笑みが、どこまで本心からのものなのか──。
「帰ろうか」
「──はい」
 ただ孝一郎は目を細めて、その笑顔を見返した。
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