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文字数 5,326文字

 孝一郎の運転で車が走り始めると、ウタはすぐ鞄に入っていた機材を膝の上に出して、あれこれといじり始めた。モバイルPCやスマートフォン、デジカメなどは孝一郎の目からも分かるが、それ以外の機材は横目で見るだけではまったくなにがなにかは分からない。
 ──こんな仕事に関わらない方がいい。
 そうウタは言った。だから孝一郎が知る必要はないのだろう。
「……なんですか、それ」
 だが高速道路に入ったところで、孝一郎はつい助手席に声をかけていた。
 鞄に入っている機材のひとつひとつは小さいが、ウタはそれらをひとつずつ手にとって、PCと見比べながら動作チェックをしているようだった。
「んー? これは小型カメラで、これは発信機、これは盗聴器だし、こっちは逆に盗聴器発見機。で、これが超小型イヤホンで、こっちが同じくピンバッチ風超小型マイク」
「スパイか」
 思わず突っ込むと、あははっと思いがけず明るい笑い声が返ってくる。それがいかにも楽しそうで、孝一郎は顔をしかめた。
「……まさか嘘?」
「いや、本物だけど。確かにスパイみたいだよねー。でも、このくらいは、ルパン三世やCIAじゃなくても、ちょっとかじった人間なら意外に作れちゃうんだよ。さすがに映画みたいな超小型で高機能ってわけにはいかないけどね」
「使うこと、あるんですか」
「あんまりないね。けど、俺もこれまでにいろいろ学んできてさ、どこでなにが起こるか分からないって知ったから、そのための保険みたいなものかな、これは」
 一体どんなことを学んできたというのだろう。
 疑問に思ったが、話しながらも作業の手を止めないウタを横目に、孝一郎はハンドルを握って口を閉じることにした。聞いたところで、彼が正直に詳しく話すとは思えない。そう、それはきっと普通の一般人である孝一郎が聞くような話ではない──。
 よく晴れた平日午前中の高速道路はスムーズに流れている。この調子なら想定より早く依頼主の家に着けそうだった。
「……十一時過ぎには到着します」
「うん、良かった。何事もスピードは命だしね。さすがに俺も誘拐事件は専門じゃないし、なにが起こるか分からないからなー」
 機材のチェックが終わったらしく、今度はPCと睨めっこをしながらそんなことを言う仕事熱心なウタを横目で見る。
「誘拐、なんですか?」
「本当でも狂言でも、誘拐は誘拐さ」
 軽い調子に聞こえたが、たぶん真剣な言葉だった。
「……どうするんですか」
「誘拐についてどうかするのは俺たちの仕事じゃなくて、家族の選択だよ」
 そう、ウタは静かに言った。

 ──娘は預かった。娘を無事に返してほしければ、警察には知らせず、通し番号ではない五百万円を用意し、ハンドバックに入れて十六時、渋谷駅ハチ公前のベンチで座って待て。金の入ったハンドバックは身体の横に置いて手を触れるな。
 犯人の要求は要約するとそういうことだった。
 小説やドラマそのまま過ぎてむしろ現実味がないな、と途中から録音された犯人の(実際は作られたデジタルの)音声データを聞きながら孝一郎は思った。
 場所は三島家の広いリビング。
 誘拐事件だから念のため、と言ってウタはいったん離れたところに車を止め、薄汚れた白い車体の側面にマグネットを貼り付けた。マグネットには〝クリーンサービス スキット〟というロゴが描かれていて、なんだこれは、と眉をひそめた孝一郎に、ウタはグレイの地味な作業用ジャケットが投げてきた。
 掃除サービス業者のふりをしろ、ということらしい。
 スーツの上からジャケットを羽織るというなんともちぐはぐな格好をして、孝一郎はウタと一緒に三島家に来訪した。
 前回は夜の訪問だったから見過ごしていたが、明るい太陽の下で見ると、三島家は充分に広い家だった。シャッターの半分下りた車庫は車が三台は停められる大きさで、敷地内には広くはないが庭まであった。横浜元町という場所が場所だけに、本当の金持ちなんだな、と孝一郎は感心した。
 そしてその金持ちの家には相変わらず家政婦がいて、それが先日の夜訪れたときにお茶を出してくれた人と同じだったから、きっと常駐の家政婦なんだろうと推測できる。彼女は、似合わない掃除サービス業者の格好をしてやってきた二人が、依頼主の由利子とその妹と応接間で向き合っているところに、黙ってお茶を差し出した。
「……警察には?」
「まだなにも言ってません。……私、どうしたらいいんでしょう。有紗は家出じゃなかったんですか。誘拐だなんてそんな、まさか、どうしたら」
 真っ青な顔をして女主人はそう震える声で訴える。そんな彼女に対しても、ウタは変わらず冷静だった。
「ごく普通に考えて、誘拐の場合は即日連絡があるのがほとんどです。営利目的の場合、当然狙いは金銭。これを入手するためには、警察などの第三者の介入を極力避けることが重要であり、なによりスピードが誘拐を成功させる鍵になります。つまりオレオレ詐欺と同じですよ。相手に疑問を挟み込む余地を与えずに、警察に通報させる余裕を与えずに行うのが基本です。しかし今回はすでに有紗さんが自宅へ帰って来なかった当日の夜から丸一日と半、経っています。誘拐にしては連絡が遅い。私たちとしては昨日の段階で、家出の可能性が高いと判断していました」
「じゃあ、……いたずら?」
「ええ、その可能性もあります。しかし──」
 僅かな希望に縋るように眼差しをあげた由利子をまっすぐに見据えて、ウタは静かに声を強めた。
「誘拐したという電話があった以上、誘拐である可能性は捨てきれません」
「──そんな」
 力のない声が零れ落ちて、彼女は顔を両手で覆ってしまっていた。隣に座っていた妹が慌てて「姉さん、落ち着いて」とその肩に手を置いて慰め、それから気丈に顔を上げてウタの方を睨むような強さで見つめ返す。
「じゃあ、私たちどうしたらいいんですか」
「……誘拐の件について、御主人はなんと?」
「それが会議中なのか機内なのか、電話が全然つながらなくて。こんなときなのに」
 歯がゆそうに妹が唇を噛む。それまで二人と話すために少し前のめりになっていたウタが、彼女の言葉を聞いてふと身体を起こした。
「御主人は海外視察でしたっけ。どちらへ、いつまで?」
「確か北欧を中心にヨーロッパのいくつかの国を回るって。教育と社会保障のなにかで。確か今日か明日には帰ってくるはずなんですが」
「……ヨーロッパか。飛行機に乗ったら、長いな」
 低く小さく呟いたウタを、孝一郎は横目で見た。いつもの陽気さなど一切見えない厳しい顔で、ウタはどこか遠い目をして宙を睨んでいる。
 そんなウタを女性二人が悲愴な顔をして見つめた。
「あの、北島さん、私たち、どうしたら」
「個人的な意見を申し上げれば、警察に連絡を入れ、警察に相談するのというのが一番妥当な手だとは思います。それをどうしても避けたいというのであれば、警察に連絡を入れず、犯人の指示に従って金を受け渡すということもあるでしょう。……どうにしろ、私は助言しかできません。決めるのは奥さんです」
「そんな、だって、主人がいないのに、そんな──」
「ねえ、でも、いたずらの可能性もあるんでしょう? もしかしたら有紗ちゃんの家出を知った誰かが、いたずらでそういうことをしているのかもしれないわけじゃない。だったらまさか有紗ちゃんに危険なことなんて、」
「…………」
 縋るように眼差しを向けてくる女性に対して、ウタは表情を動かさなかった。
 どんなリスクがあるのかは分からない。
 そう告げるウタの態度に、二人は言葉を失っていた。しばらくの沈黙ののち、やがてウタはひそやかに息を吐いた。
「奥さま。私たちは今もお嬢さんの行方を捜しています。……ご報告が遅れましたが、現在、お嬢さんが親しくされていたと思われる友人が昨日より大学を休んでいるという情報がありまして、もしかしたら一緒に行動している可能性もあるとみて、捜索を続けているところです。ですが、彼女がまだ見つかっていない以上、たとえ本当にお嬢さんがただご友人と家出をしているだけだったとしても、これがいたずらや狂言であると断じることはできません。……私としては警察に相談するのが、良いかと思います」
「ダメよ、そんなのダメ! そんな、あの人に無断で警察に相談するなんて」
「──奥さま?」
 ウタが訝しく顔を歪める。
 けれど彼女はそれにも気づいていない様子で、両手で顔を覆った。
「主人に断りもなく、警察に連絡なんてできません……」
 それが由利子の結論だった。

「姉さん、いたずらの可能性もあるのよ。だったら念のために警察に連絡して、それで」
 そんなふうに妹に宥められても、由利子は警察には連絡できないと首を振った。その上で、助けてほしい、とウタに泣きつく。
 ウタは彼女の選択に異は唱えなかった。
「警察には連絡せずにお金を支払う、ということですね。分かりました。弊社は誘拐については素人といえますが、微力ながらサポートさせていただきます」
 当然、助言はするが結果に対して責任は負えない、と告げてのことだ。
 それでもいい、と同意した由利子に対して、非常のときに失礼とは存じますが、と前置きをして、ウタは契約書を取り出した。それは二日前にこの家で交わしたものとほぼ同じものだったが、つまりは失踪人捜索依頼とは別件として契約をするということだった。
 ──しっかりしている。
 事務所の散らかりようとは全く別だ、と孝一郎は驚いてから、そういえば事務所を整理している間に契約書は見なかったな、と気づいた。もしかしてそれだけは別にきちんと保管しているのかもしれない。
 ウタは丁寧に口頭で契約内容および契約料を説明し、由利子に印を押させた。
「……犯人は、一度目の電話ですでに指示を済ませています。つまり、二度目の電話がかかってくること、そこでなんらかの交渉することは期待できないと考えられます。五百万という金額も三島家が即日用意できない金額ではないと判断した上の金額ではないかと推測されます。つまり交渉の余地はなく、電話の主は、本日十六時に身代金の受け渡しをするか否か、だけを見ていると言えるでしょう」
 ウタは自身の推測を述べているだけにすぎなかった。
 だが、なぜか説得力がある。
「私の希望的観測を述べれば、ですから犯人の指示に従えば、お嬢さんを無事に返してもらえる可能性がある、と思います。──五百万円をご用意することは可能ですか?」
「五百万なら、五百万ならなんとか。私でも、動かせる口座に」
「……そうですか」
 頷いて、ウタは速やかにお金をおろすことを由利子に促した。
「できれば銀行には、怯えずに堂々とした態度で行かれてください。不安でしたら妹さんと──いや念のために妹さんには残っていただいて、お手伝いをしてくださっている女性の方とご一緒に。五百万程度であれば窓口でそのまま渡されると思いますので、あらかじめ封筒に入れるようお願いしておく方がよいでしょう。万が一、銀行から詐欺被害などを警戒され、なんのためかと尋ねられたら、〝主人が探していた趣味のクラシックカーが見つかって、すぐに手付金が必要になった〟といったような言い訳をすれば大丈夫でしょう」
「……どうして主人の趣味がクラシックカーということをご存じなのですか」
「駐車場を見れば分かりますよ」
 ぽかんとした由利子に、にっこりとウタは笑って見せる。
 その自然な笑みに緊張がほぐれたのか、由利子はそのあと意外にしっかりとした足取りで銀行へと出かけて行った。
 家に残った妹に、「少し失礼します」とやわらかく断りを入れて立ちあがったウタが合図をしてきて、孝一郎は彼のあとについて応接室を出た。ウタは妹の残る応接間を気にしたように玄関の方へ少し移動してから、ふうと小さく息をつく。それはつい先ほど見せた笑みよりも、もっと正直なため息で、孝一郎は気遣わしげにウタを見下ろした。
「所長?」
「……なかなか、いろいろあるね、いろいろと。ちょっと市川くんに状況報告するから、念のために真山さんも聞いておいてもらえる? はい。イヤホン片方、」
 そうイヤホンの片方を差し出されたが、身長差のあるウタとイヤホンを分かち合うには少し背を曲げなければならず、孝一郎はウタに身体を寄せた。
「──あ、市川くん?」
『所長、ちょうど良かった!』
 珍しく堰切る勢いで市川の声がイヤホンから聞こえてきた。ウタは携帯をマイクのように口元にかざして、少し眉をひそめてみせる。
「どうかした?」
『……すいません。ちょっと判断がつかない事態が生じまして。今、連絡しようと思っていたところでした』
「なに」
 ウタの短い問いに返ってきた答えは、まったく予想していなかったものだった。
『あの、杉山博志の部屋に、女子高生が集まり始めています』
「──はあ?」
 さすがのウタが、間抜けな声を上げた。
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