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文字数 3,832文字

 真山孝一郎は平穏と整然を愛する男だ。
 とはいえ特別に潔癖症というわけではない、と自分では思っている。
 では、なぜ整然を愛するのかといえば、そうすることが効率的な業務遂行に役立つからであり、効率的な業務遂行は単純に〝気持ち良い〟からだ。
 特別に潔癖症というわけではない──が、限度はある。
「わー、あっという間にきれいになったね。ねえねえ市川くん、見てよ。床が見えるよ!」
 ほんの三時間前に出会ったばかりの男──北島ウタが、孝一郎の隣でそう感動の声をあげた。ほとんど反射的に、キッと殺気に満ちた眼差しを孝一郎は彼に向けている。
「床が見えるよ、じゃねえっ、とっととそのゴミ捨てて来い!!」
「はーい、了解しましたー」
 出会って三時間しか経っていない社員候補の男に強い口調で命令されても、ウタは飄々とした様子で突き出されたゴミ袋を二つ受け取り、軽い足取りで事務所を出ていっている。
 孝一郎はまとめた紙ゴミを足元にどっさりと置くと、はああ、と大きく息ついた。
 ようやく部屋の入り口から左手一番奥の壁側に備え付けられたミニキッチンまでの通路ができたところだった。
 足の踏み場がない、という言葉通りの状況を孝一郎が見たのは初めてだ。
 ウタによって案内されたのは、オフィス街の一角にある雑居ビルで、六階でエレベーターを降りてすぐ右手側にあるドアを開けた先が彼の言う事務所だった。……ただ残念ながら、孝一郎の目にはオフィスではなくゴミ置き場にしか見えなかったが。
 ドアを開けたすぐ目の前にまず雑誌が積み重なったタワーがいくつも立っており、しかもそのほとんどが途中で崩れ倒れ、それから中身のよく分からないCDケースやビデオテープ、DVDなどが大量に床に散らばっていた。それらの合間を埋めるようにプリント用紙や衣類らしき布、それに正体の分からない大小さまざまな機械類が大量かつ乱雑に落ちている。
 よく見たら、長方形をしている部屋の真ん中に、普通のオフィスのようにデスクが五つほど集められていて、パソコンなどの機材があり、その機材を覆い隠すような書類の山の影から人の頭が覗いているのが分かった。
 そんな状況を見て度肝を抜かれた孝一郎が「なんじゃこりゃあ!!」と叫びをあげたところで、ウタが気にした様子はまったくなかった。
「あー、一応デスクの向こう側にソファがあるから、そっちで話をしようか」
 のん気にそう言って指差した先に、確かにソファらしきものはあった。だがそこに辿りつくまでには、さまざまな困難を乗り越える必要があるのは明らかだった。少なくともなにも踏まず崩さず倒さず、そこに到達できるとは思えない。
 目の前の信じがたい惨状を前にした孝一郎は、呆然としたまま口を開いていた。
「……話の前に、やることがあると思うんですが」
「えー、なにそれ?」
「っ、片づけに決まってるだろう!!」
 そんな孝一郎の怒声を合図に始まったのが、打ち合わせ場所と、そこに向かうまでの動線を確保するための大掃除だった。
 とにかくドアを開けたすぐ目の前のものから片づけ始めたのだが、しかし三時間経っても、まだ〝なんとか歩ける〟通路をほんの一部確保したに過ぎない。どう短く見積もっても、この事務所を本格的にきれいに整理整頓してまともになるには一週間はかかるだろう。
 ため息交じりに作業している間に乱れた髪を手ぐしで撫でつけたところで、ふと我に返って、孝一郎は思わず額を押さえていた。
 ……なにかおかしい。
 いや、なにかおかしいどころじゃなく、自分は一体ここでなにをしているのだろう。
「おつかれさまぁ。ついでに差し入れ買ってきたよ」
 ドア前に突っ立っていた孝一郎の後ろから、明るい声がそう投げかけられた。
 この事態の原因──北島ウタだ。
「みんなでひと休みしよう」
 嫌な予感を覚えてうっそりと振り返った孝一郎の方に向かって、彼が近所のコーヒーショップの紙袋とコンビニ袋を掲げ、駆け込んできた。──かと思えば、不意に入ったすぐのなんでもないところで、カクンと膝から折れるようにして躓く。
「っ」
 咄嗟に孝一郎は手を伸ばし、その胴体を横から抱えるように支えていた。
「片づけたそばからゴミを増やす気か!」
「あはは、ごめんごめん。ありがとう」
 悪びれた様子もなくウタは笑い、それから顎をあげるようにして、百八十センチをゆうに超える長身の孝一郎を仰ぎ、目を瞬かせる。
「真山さん、すごくいい反射神経してるんだね。しかも背も高いし。なんだかときめいちゃうな」
「そんなことより身体を起こしてください」
「うん。コーヒーとアイス、買ってきたんだ。食べない?」
「……こういうときは普通、もっと飲みやすい冷たい飲み物を選びませんか」
 季節は秋。だが、よく晴れた日に延々と片づけ掃除をしていれば、じわりと汗ばみ、喉も渇くというもの。こういうときの差し入れは冷たい缶コーヒーあたりが定番ではないのか──と孝一郎は呆れたが、ウタはきょとんと眼を丸くしただけだ。
「え、じゃあ、要らない?」
「……いただきます」
 とりあえず孝一郎はコーヒーとアイスを受け取っていた。
 ウタはそのあとまだ片づいていない部屋の中の方へ器用に足を踏み入れて、奥のデスクに隠れるようにしているスタッフに「はーい」と上機嫌にコーヒーとアイスを配っている。
 その様子を見て、孝一郎は顔をしかめた。
 大体、片づけをしていたのは主に孝一郎で、ウタは孝一郎のそばで、捨てていいか否かのジャッジメントをしていただけにすぎず、他にこの空間に存在している人物はデスクに埋もれたまま顔を出してもいないのだから、「みんなでひと休み」はおかしいだろう。
 ──というか、そもそも問題はそこじゃなく。
 コーヒーとアイスを受け取ったはいいが、手を洗いたい、と思って封を開けずに孝一郎は、戻ってくるウタを待ち構えた。
「すいませんが、そろそろ棚上げになった話を結論づけたいのですが」
「棚上げした話ってなに?」
「採用の件です」
「ああ、そうだ! どうしようか。今日はすごく半端だから時給でいいかな?」
「…………はい?」
 無意識に受け取った差し入れを近くに積み上げられている雑誌の山にいったん置いて、スラックスの後ろポケットからハンカチを取り出して手を拭いていた孝一郎は、少し間の抜けたタイミングで問い返していた。えっ、とウタが驚いたような顔をする。
「今日のバイト代、要らない? 掃除とはいえせっかく働いてくれたのに」
「もちろん今日の分のバイト代はいただきますが、そうではなく。……せっかくいただいたお話ですが、この事務所で働かせていただくのは私には不向きだと思いますので」
「ええっ、こんな中途半端で俺のこと放り出すの!?」
「っ──」
 すっかりはっきり断る気だった孝一郎は思わず、ぐっと言葉に詰まっていた。
 〝中途半端〟は、孝一郎が嫌いなもののひとつだ。
「だって真山さんがいなかったら、これこのままだよ!? こんな半端じゃ今日やったことも無意味になっちゃうし。正式採用のことはあとでゆっくり検討してもらうとして、とにかくバイトでいいから最後まで片づけてくれない?」
 そんな性格を読んだわけでもないだろうに、ウタは悲愴な顔で縋るように見上げてくる。
「…………」
「時給千五百円!」
 誰もがうらやむ高額バイトだ。孝一郎は大きくため息をついて、眼鏡を押しあげながら顔をあげた。
「……分かりました。時給千五百円、一日労働時間は八時間で、土日休みの実働七日間。この条件でお受けします」
「本当に? ありがとう!」
 飛びつかんばかりの勢いで、ウタは喜んだ。そうすると童顔と相まって本当に大学生のようだと、孝一郎は思う。周りからは不愛想だとか態度が悪いとか冷たいとか言われてきた孝一郎だが、これでも他人が喜ぶ顔を見るのは嫌いじゃない。
 ──まあ、いいか。
 どうせ、すぐに再就職先が見つかるわけじゃないし、この程度の仕事ぶりでこんなに喜ぶなら、それもいいだろう。たった一週間の仕事だ。
「では、しばらく休憩したら片づけを再開して、今日はあと一時間ほど作業を続けさせていただきます。それで今日は四時間勤務ということでお願いします」
「うん、いいよ」
 にこにこと満面の笑みを浮かべてウタが頷く。
 そのタイミングで、はたと孝一郎は我に返っていた。
 今さらだった。聞くにしては遅いにもほどがある。だが聞かないわけにもいかない。
「……ところで、ここはなんの会社で、北島さんはどういう立場なんでしょうか」
「っ」
 神妙な顔をして尋ねた孝一郎に対し、ウタは目を丸くしてから盛大に噴き出した。
 質問しただけなのにそうして笑われるのはとても不愉快で、孝一郎が顔を歪めると、彼はなんとか笑いを収めながら、口を開く。
「ああ、ごめんごめん! そっか全然説明してなかったっけ。うちはねえ、いわゆる興信所です。探偵事務所って言ったほうがわかりやすいかな。──で、俺は、その所長」
「所長?」
「そう事務所の所長。つまり会社の社長。よろしく!」
 まったく貫禄のない軽薄さで、ウタがそう手を上げる。
 その目の前で、平穏を愛する男・孝一郎は、事態の急変についていけず、混乱する重い頭を支えるように額を押さえていた。
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