第21話 台湾に行きたいわん!④(九份)

文字数 7,479文字

最後の目的地は、台湾北部にある山あいの町「九份」(ジョウフェン)です!!
台北市内からは遠いんですか?
九份は、新北市瑞芳区の海沿いにある山地に拓かれた町なの。

台北市内からは、電車と路線バスで片道1時間半ほどかかったわ。

中正紀念堂を見学した後に、九份へ向かったんですよね?
そうそう、中正紀念堂駅から再び淡水信義線に乗って、台北車站(台北駅)台湾鉄路管理局(台鉄)の宜蘭線に乗り換えたの。
台北駅は、台北MRT(地下鉄)と台湾鉄路管理局(在来線)と台湾高速鉄道(新幹線)の三つの駅が合わさっているんですね。
自動券売機で瑞芳駅までの片道きっぷを買い、台鉄の改札を入場すると、ベンチで駅弁を食べながら待っているお客さんがたくさんいて、おどろいたわ!
駅構内と車内で飲食禁止というルールが適用されるのは、地下鉄だけなんですね。
ホームで電光掲示板を見たら、走っている列車の種類がいくつかあってね。

駅員さんに教えてもらったところ、ふつうの乗車券で乗れるのは區間車」(普通列車)と區間快車」(快速列車)の二種類なのだそうよ。

区間車と区間快車っていうのは、自由席なんですね。
「自強號」(特急列車)というのは、指定席特急券が必要らしいわ。
普通列車の旅はどうでしたか?
台北市から新北市に向かって、だんだん緑が濃くなっていってね、車窓を眺めるのが楽しかったわ!
瑞芳駅で下車して、路線バスに乗り換えたんですよね。
瑞芳駅から5分ほど歩くと「區民廣場」というバス停が見つかって、そこから「金瓜石」行きのバスに乗ったの。

路線バスは、地下鉄で使った「悠遊卡」(Easy Card)で乗れたわよ!

これはちょうど、バスから降りたところ。

いよいよ九份まで来たわよ!

わあ、山ですね! 山!!
けっこう高いところに町があるんですね!
九份と金瓜石の境に標高588メートルの基隆山があってね。

九份老街の近くにある登山道入口から250メートルほど石段を登れば、基隆山の山頂に着くそうよ。

じゃあ、九份の町は標高300メートルあたり……?

おお、基隆山は、台湾の「小百岳」(低山の百名山)に選ばれているんですね!

標高588メートルだから、高尾山とほぼ同じ感じかな。

小さい百岳ってことは、大きい百岳もあるの?
そうそう、台湾の「百岳」(百名山)に選ばれている山々は、すべて標高3000メートルを超える高山なのよ!
日本の百名山には筑波山のような低山も選ばれてますけど、台湾には高山が100山もあるんですね!?
いいえ、100どころじゃないわ!

標高3000メートルを超える峰が、日本には21座あるのに対して、台湾には268座もあるのよ!

台湾の方が圧倒的に高山が多い!!
あれ? 山は1座、2座って数えるものなんですか?
そう、日本語では山を数える際に「座」という単位を使うのよ。

山は神々が座る場所と考えていた、古来からの山岳信仰の名残があるわね。

台湾に3000メートル級の山々が200以上あるなんて、初めて知りました!
おお、台湾の玉山は標高3952メートルで、富士山より高いんですね!
玉山(ユイシャン)はね、日本統治時代に「新高山」(ニイタカヤマと呼ばれていたの。

真珠湾攻撃を命じた暗号電文「ニイタカヤマノボレ」の「新高山」なのよ。

え、あの「ニイタカヤマ」って台湾に実在したんですね!?
富士山が世界遺産登録されて今年で10周年ですけど、玉山も世界遺産なんですか?
実は台湾には、世界遺産が一か所も登録されてないの。

それは後世に残すべき遺産がないという意味じゃなくて、中台関係によって台湾がユネスコに加盟できないからなの。

世界遺産級の山なのに、そんな政治的な理由で登録されないなんて……。
山の話題はこれぐらいにして、九份の街並みを見てみましょう!
わあ、赤い提灯がたくさん飾られた石段の坂道!!

九份は山の斜面に広がる町で、坂道が多いのよ。

ここは豎崎路という商店街で、道の両側に小さなお店がひしめき合っていて、すごくにぎわってたわ!
九份の街並みは、映画『千と千尋の神隠し』の温泉街によく似ていると噂ですけど、本当なんですか?

宮崎駿監督は、台湾のTVBS Newsから取材を受けて、こう答えているの。

(動画3:20あたりから)

「台湾のどこかから、ということではないんですか?」という記者の質問に対して、宮崎駿監督は「違います」とはっきり否定していますね。
この取材が撮影された時点で、宮崎駿監督は過去に台湾を訪れたことがなかったんですね……。

スタジオジブリの公式発表によると、愛媛県松山市にある道後温泉本館と「江戸東京たてもの園」にある子宝湯が、宮崎駿監督にインスピレーションを与えたそうよ。

監督本人がこうして否定しているのに、九份がモデル地という噂がどうして消えないんですかね?
やっぱり、映画で描かれた光景と、九份の昔ながらの街並みが重なるからじゃない?

公開後、「山形の銀山温泉」「宮城の鎌崎温泉」「群馬の四万温泉」「長野の渋温泉」「鳥取の羽合温泉」などの温泉宿から、「うちがモデルではないか」というお話をいただきました。いずれも、古風で立派な建物で、なかには、正面に赤い橋が架かっていたり、大きな湖に面していたりする、映画にそっくりな湯屋もありました。(中略)

ただ、このような声が全国から寄せられたことからわかるのは、「千と千尋の神隠し」の湯屋が、ちょっと昔の日本では珍しくなかった建物を「象徴的に再現」しているという事実です。

(『ジブリ日誌』2003年1月9日より)

観客一人ひとりがそれぞれの心の中にある風景と重ねて、映画を観るからなんですね。
同じ映画を観ていても、山形に縁があれば銀山温泉に似ていると感じるだろうし、台湾に縁があれば九份を思い浮かべるのかもしれないね。
道後温泉と銀山温泉と九份は、それぞれかけ離れた場所にあるのに、どうして似た光景だと思うんだろ?
なにか共通点でもあるのかな……?
道後温泉も銀山温泉も九份も、戦前の日本の面影を残す町なのよね。

『ジブリ日誌』で書かれていた「ちょっと昔の日本」を感じる町ってことですか?

日清戦争があったあたりに、九份と金瓜石で金鉱脈が発見されたのよ。

日本統治時代に近代的採鉱事業が始まり、鉱山で働く人々で町が栄えて、九份は「小上海」「小香港」と呼ばれるほどにぎわっていたそうなの。
九份はゴールドラッシュに沸いていたんですね!!
そうそう、石段の坂道や石畳で舗装された路地は当時に造られたもので、100年前に建てられた建物が今もたくさん残っているのよ。
九份は日本統治時代の様子を今に伝える町だから、「ちょっと昔の日本」の雰囲気を感じるわけですね。
金鉱脈が発見される前は、クスノキから天然防虫剤を作ることを生業としていたの。

クスノキを煮詰めるかまどが合計90個あってね、かまど10個が一人で作業する持ち分と考えて、ここには九人分あるという意味で「九份」という地名になったそうよ。

かつては自然と共に暮らす小さな山村だったんですね……。

にぎやかな豎崎路から、「軽便路」と呼ばれる路地に入って、人通りの少ない住宅街を抜けると、「台陽五番坑」という坑道の入口が見つかるわ。

うわあ、金を採掘した坑道の跡が残っているんだ!?

トンネルの奥をのぞいてみたいです!!

「台陽五番抗」は、1927年(昭和2年)に切り拓かれた坑道なの。

ここから採掘された金は、軽便鉄道(トロッコ)で軽便路を運ばれたそうよ。

レンガ造りの入口が歴史を感じますね!
1897年(明治30年)に藤田組という日本企業が九份の採鉱を始め、搗鉱場(とうこうば)や精錬所、水力発電所などを次々と建設し、近代的な採掘法を導入したそうよ。
藤田組というのは、長州藩(現・山口県萩市)出身の藤田伝三郎が起業した会社で、戦前は藤田財閥と呼ばれていたんですね。
九份の金鉱山は、藤田組と顔雲年という台湾の実業家との共同経営を経て、1920年(大正9年)に顔雲年が起業した台陽鉱業(後に台陽公司と社名変更)へ採掘と経営の権利が譲渡されたのよ。
さっき見た「台陽五番坑」は、台陽鉱業が切り拓いた坑道だから、「台陽」の名前を冠していたんですね。
日本統治時代に多数の金鉱や炭鉱の経営を握った顔雲年の生家は、地名を頭につけて基隆顔家と呼ばれて、台湾五大家族(五大財閥)に数えられるほどの富を築いていたそうよ。

日本統治時代の台湾五大家族(五大財閥)は、基隆の顔家、板橋の林家、霧峰の林家、鹿港の辜家、高雄の陳家なんですね。

基隆顔家の顔雲年は、歌手の一青窈さんの曽祖父にあたるのよ!

じゃあ、もし窈さんが戦前の生まれだったら、たくさんの使用人たちにかしずかれる、大財閥のお嬢さまだったわけですね。

顔雲年の長男である顔欽賢(一青窈さんの祖父)は、小学生のうちから内地留学に送り出され、東京の磔川小学校で学び、群馬県高崎市の高崎中学に進学し、京都の立命館大学を卒業したそうよ。

小学生で日本に留学……!?

今では想像できないけど、戦前の日本と台湾は本当に密接につながっていたんですね。

顔欽賢は、高崎中学で後に首相となる福田赳夫と同級生だったらしく、戦後も二人の友情は長く続いたそうなの。

1976年に福田赳夫が内閣総理大臣に就任した際、顔欽賢は長男である顔惠民(一青窈さんの父)を遣わして、直接祝賀の意を伝えたそうよ。

第二次世界大戦後、九份の鉱山町はどうなったんですか?
植物が生い茂っているから、だいぶ前に坑道が閉鎖されたみたいですけど……
戦後も台陽鉱業(1948年から台陽公司)が日本鉱業の技術支援を受けながら採掘を続けたのだけれど、1971年に閉山となって、九份の町はにぎわいを失ったのよ。
日本鉱業というのは、久原房之助が茨城県の赤沢銅山を買収し、日立鉱山として創業したことから始まり、日立製作所や日産自動車などの日産コンツェルン(鮎川財閥)の源流となった企業なんですね。

初期に九份の金鉱の採掘権を握っていた藤田組の藤田伝三郎は、久原房之助の叔父さんなんですね。

伝三郎の兄である久原庄三郎(房之助の父)は、藤田組の共同創業者だったんだ!

九份からバスで10分ほどの距離に金瓜石があってね、金瓜石鉱山の経営を握っていた日本鉱業は、日立鉱山などから多数の技術者を投入して、最新式の製錬所と浮遊選鉱場を水湳洞に建設したそうよ。
水湳洞というのは、九份や金瓜石から近いんですか?
そうそう、陰陽海の近くにある水湳洞は、九份・金瓜石一帯で最大の選鉱・製錬所だったの。

1933年(昭和8年)に建てられた大きな建物が山の斜面に残っていてね、今では「十三層遺跡」と呼ばれているわ。

「遺跡」ってことは、もう廃墟になっちゃってるんだ……
金瓜石は、第二次世界大戦の記憶を今に伝える場所でもあるの。

1941年(一説には1942年)に、中国側との内通や反乱画策などの疑いで、100名を超す地元住民が特高警察に逮捕、投獄されて、33名が獄中で命を落とした金瓜石事件があったそうよ。

え、冤罪事件だったんですか!?
そうなの、金瓜石黄金博物館の園内に、この「金瓜石事件」を伝える石碑が建てられていて、毎年ここで追悼式が開かれているそうよ。
日本統治時代には、思想統制がもたらした不当逮捕や人権抑圧の歴史もあったんですね。

金瓜石黄金博物園区から、水湳洞の方へ下ったところにある国際終戦和平紀念園区はね、1942年から1945年まで日本軍の金瓜石捕虜収容所があったところなのよ。

捕虜収容所!?

イギリス、カナダ、アメリカなど連合国側の兵士が鉱山労働に従事させられ、ここで命を落とした捕虜も少なくないと言われていて、毎年11月に追悼の式典が行われているの。

2017年11月12日に行われた追悼式典の様子を報道で見ることができるわ。

戦争末期の台湾には、16もの捕虜収容所があって、4350名以上の連合国軍の捕虜が収容されていたんですね……

観光客でにぎわう九份と違って、日本統治時代の悲しい歴史を伝える金瓜石は、現在では静かな祈りの場所となっているんですね。

日本の敗戦後、中華民国政府が金瓜石鉱山を接収して、台金公司が採掘を続けたけど、金瓜石は1987年に閉山となり、同じ年に水湳洞も閉鎖されたのよ。

九份も金瓜石も閉山して、水湳洞も閉鎖となって、鉱山町はすっかり寂れてしまったんですね……
こちらの昇平戲院は、1934年(昭和9年)に建てられた劇場で、日本統治時代は「昇平座」と呼ばれていたの。
わあ、レトロな映写機のイラスト!

昔は映画館だったんですか!?

昇平座では、歌仔戯(台湾オペラ)や映画、布袋戯(台湾伝統の人形劇)などが毎日上演されていて、専属の歌仔戯団もあったそうよ!
専属の歌劇団まで!?

昇平座の前の広場は豎崎路と軽便路が交わるところで、行き来する人の絶えない、九份で一番にぎやかな場所だったそうよ。

九份の黄金時代を偲ばせる建物なんですね!
鉱山の閉鎖によって人口が減少し、軽便鉄道のレールも撤去され、九份の町はしだいに寂しくなっていって、1986年に昇平戲院も閉館となりました。
たしかに古さは感じますけど、廃墟感がないと言うか、30年以上前に閉鎖されたとは思えないですよ。

そう、一時は廃墟になっていたの。

長年の風雨にさらされて建物が老朽化し、1994年の台風で屋根も吹き飛ばされ、正面と四隅の外壁しか残っていなかったそうよ。
じゃあ、廃墟からよみがえったんですか!?
2010年に新北市が昇平戲院を記念的建築物に認定し、昔の外観に近づく姿に修復・復元工事を行ったの!

切符売り場や売店、客席なども忠実に再現されているわ。

あ、昇平戲院の前に驚艶水金九」と書かれた案内看板がある!

これって湳洞、瓜石、份ですよね?

そうそう、新北市は「水金九」をキーワードに、水湳洞、金瓜石、九份の三か所を巡って、鉱山の歴史をたどる旅を推し出しているのよ。
こちらの「九份茶坊」はね、100年ほど前に建てられた建物が使われているの!
おお、歴史ある建物をリノベして、今でも使ってるんだ!
日本で言えば、古民家カフェですね!
もとは地元の名士だった翁山英という人物のお屋敷でね、新北市の歴史的建造物として登録されているの。

かつてはここに、採掘現場の指揮をとる坑長の統率本部があったと言われているわ。

翁山英邸も昇平戲院と同じく、鉱山の閉鎖によって、一時は廃墟になっていたんですか?
そう、坑長の統率本部から「水池仙診療所」となって、その後は長い眠りについていたの。

一度は忘れ去られた旧翁山英邸が、どういう経緯でカフェに生まれ変わったんですか?
1979年に、当時まだ若い画家だった洪志勝さんが写生のために九份を訪れ、この歴史ある古い屋敷にひとめぼれしたそうなの。

それから、洪志勝さんは旧翁山英邸を買い取り、保存と活用のため増改築し、1991年に茶藝館「九份茶坊」としてよみがえらせたのよ。

廃墟からよみがえった、っていうストーリーが素敵ですね!!
九份茶坊の中に入ってみました!?
立派な石造りの家屋で、屋根は黒瓦、窓格子は日本式のものが使われているの。

中に入ると、過去の世界にタイムスリップした気持ちになったわ。

お茶は!? お茶は飲みました!?
「杉林渓烏龍茶」という標高1800メートルの高山で栽培されたお茶を味わったの。

華やかな香りでね、まるで香水を飲んでいるみたいなのよ!

標高1800メートル!?

高山がむっちゃ多いっていうのも、台湾でおいしいお茶が採れる理由なんですかね。

あ、最初の山の話題がお茶の話につながるんですね……!?
九份茶坊の公式動画で、台湾茶をいれる様子を見ることができるわ。
わあ、実際にこの白い茶器でお茶を飲んだんですか?
そうそう、この白い茶器セット、芸術家であるオーナーの洪志勝さんがデザインしたものでね、記念に買って帰ったわ。

一度で飲みきれない分の茶葉は袋詰めしてくれて、お土産として持ち帰ることができたの。

じゃあ、いつでも九份茶坊スタイルで台湾茶を楽しめますね!

一度茶葉をいれると、4煎から6煎くらい楽しめるの。

1煎目が最も香りが立っていて、3煎目あたりから味が濃く出るようになるのよね。

台湾茶、飲んでみたいです!!
日本橋のコレド室町テラスに、1862年創業の茶荘「王德傳」が出店しているから、そこで本物の台湾茶を味わうことができるわよ。
九份茶坊は、屋敷の表側が基山街に、裏側が豎崎路に面しているの。

にぎやかな基山街をまっすぐ進んだ先に、「金山岩」というお寺があったわ。

岩に金文字で「大正六年」と彫刻されていますね!

1917年に建立されたんだ!!

金山岩の前には大きな鼎(かなえ)が置いてあって、多くの線香が供えられていてね、今でも地元の人々に大切にされているのを感じたわ。
この金山岩も龍山寺と同じく、観音菩薩とともにたくさんの神々を祀っているんですね。
金山岩は、九份の景色を一望できる素晴らしい場所にあってね。

九份の山々と街並み、その向こうの海まで見渡せたの。

山の上から海が見えるんですね!?
この子たちは、基山街の土産物店でお昼寝していた犬さん。
むっちゃ寝とる。

フリーダムだなぁ……

九份のバス停まで戻る途中、最後に立ち寄ったカフェで三頭の猫さんに出会ったわ。
猫ちゃん、窓の外を眺めているのかな?

日が沈みはじめて、窓の向こうに夕陽にかがやく海が見えたの。

金鉱山が閉鎖されて町が寂れてしまっても、九份の山と海の美しさは変わらないから、洪志勝さんのような若い芸術家たちの心をひきつけたのかもしれないって思ったわ。
街の魅力が再発見されたことで、廃墟から息を吹き返したんですね!
帰りは行きと同じで、バスと電車を乗り継いで台北市内まで帰ったの。

翌日は午前8時台に出発する飛行機だったから、早朝にホテルをチェックアウトして、桃園国際空港に向かい、エバー航空で成田空港に帰ってきたわ。

おかえりなさい!
台湾の旅のお話はどうだった?
どれも面白かったですけど、やっぱり自由の精神VS.独裁者」の白色テロ時代の歴史が、いちばん衝撃的でした。
日本の民間企業が台湾の鉱山開発にこれほど密接にかかわっていたというのも、初めて知りました。

豊かさだけでなく、負の遺産ももたらしているんですね……。

鉱山の歴史は、日本の産業革命の歴史でもあって奥深いから、今後も学んでいきましょう!

ああ、台湾のお話を聞いて、ますます行ってみたくなりました!!
やっぱり台湾に行きたいわん!!
2023/07/11
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登場人物紹介

南津海(なつみ)ちゃん


社会科研究部の部員。好奇心旺盛。

寿太郎(じゅたろう)くん


社会科研究部の部員。南津海ちゃんとは幼なじみ。

せとか先生


社会科研究部の顧問。専門は世界史。

みはや先生


専門は音楽。せとか先生と仲良し。

考えるカエル


『バイブル・スタディ・コーヒー』から出張

本を読むウサギ


『バイブル・スタディ・コーヒー』から出張

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