自由主義(他者危害防止の原理)☆NEW!!☆

文字数 4,512文字

前回は、功利主義の思想がイギリスの議会改革運動を下支えしたという話でした。
功利主義は民主主義と結びついていたんですよね!
ただ、功利主義だけでは「平等」や「自由」を説明できないのではないか、という疑問が残りました。
ここからは、ミルの『自由論』を読んでいきましょう!
ジョン・スチュアート・ミル

(1806年 - 1873年)

19世紀において最も影響力のある自由主義思想家の一人。ベンサムの功利主義の支持者であり、初期の女性解放運動の支持者でもあった。

トマス・モアの「ユートピア」に代わるものとして彼が作った「ディストピア」という言葉は、後世の文学作品などに多大な影響を与えた。

主著『自由論』(1859年)、『功利主義論』(1861年)

ミルの考える自由主義は、次の二つの基本原則があります。
【自由主義の基本原則】

①他者危害防止の原理

②愚行権

人類が不完全なあいだは、異なった意見が存在することが有益である。それと同じように、生き方についても異なった試みが存在し、他人に危害がおよばない限りで性格の多様性に自由な余地が与えられ、自分で試みることがふさわしいと思うときには、異なった生き方の価値を実際に確かめてみることも有益である。要するに、当初から他人に影響がおよぶような物事でなければ、個性が自己主張するのが望ましい。

(ミル『自由論』より)

他人に危害がおよばない限り」というのが、ポイントなんですね!

他者危害防止の原則は、略して「危害原理」(Harm principle)と呼ばれています。

他人に対して危害をおよぼさないかぎり、何をしても個人の自由だという考えは、すごくシンプルでわかりやすいですね!
なんだか、当たり前のことを言っているような気がしますけど……
「個人の自由が尊重されるべき」という考えは、決して当たり前のことじゃないのよ!
前回の話で、個人の幸福と社会全体の幸福が一致しない場合、功利主義では社会全体の幸福を優先するって言っていましたよね。
そっか、功利主義をつきつめると、「社会全体の幸福のためなら、個人の自由を制限してもよい」という考え方になってしまうんですね。
現代の哲学者ジョン・ハリスが考えた「サバイバル・ロッタリー」という思考実験があります。
サバイバル・ロッタリー

「抽選によってひとりの犠牲者(臓器提供者)を選び、ひとり分の健康な臓器を複数人で分配する」という思考実験。


この思考実験は、次のような前提に立っている。

①臓器移植技術は完ぺきである。

②すべての命の価値は等しい。

③臓器提供者に選ばれたことで犠牲となるひとつの命よりも、その臓器提供によって確実に助かる命の数の方が多い。

うわぁ、功利主義の原理だと、社会全体の利益のために「サバイバル・ロッタリー」が正当化されるわけですね……
結果的に複数の命が救われるなら、ひとつの命を犠牲にしてもゆるされるという考え方ですね。
複数人を助けるために、ひとりを犠牲にしてもよいかという問題は、現代の哲学者フィリッパ・フットが考えた「トロッコ問題」という思考実験とも共通しているわね。
功利主義の原理で言えば、「トロッコ問題」においても、複数人を助けるためにひとりを犠牲にすべき、という結論になるんですね。

「サバイバル・ロッタリー」は極端な思考実験だけど、国家が法や社会的圧力によって個人の自由を著しく制限する事例は、過去に何度も行われてきました。

「国家の安全のため」とか「治安維持のため」と言って、個人の自由が制限されたり、処罰されたりする事件は、現代でもたくさん起こってますよね。

国や地域によっては、政権に批判的なことを言っただけで逮捕されちゃうんだってよ!?

こわいよね……

「個人の自由を守る」というミルの考え方は、じつは功利主義の「最大多数の最大幸福」の原理からはかけ離れたものだったんですね。
ミルが『自由論』を書いた背景には、当時のヨーロッパにおける反動主義の高まりがありました。
1848年2月(仏) 二月革命によって七月王政が倒され、第二共和制の臨時政府が成立。

同年12月(仏) ナポレオンの甥ルイ=ナポレオンが大統領選挙で勝利する。

↓ 

議会が次々と反動的な立法(集会の禁止、ストライキの禁止、言論統制の復活、選挙法改悪、ファルー法など)を行う。

大統領は議会と対立。

1851年(仏) ルイ=ナポレオンが軍事クーデターを起こし、議会を解散させ、有力政治家を逮捕し、戒厳令を布いた。

1852年(仏) ルイ=ナポレオンがナポレオン三世として皇帝に即位し、第二共和制が終わり、第二帝政が始まる。

フランス二月革命によって、社会改革が進むだろうと期待していたら、むしろ逆で、自由が侵害される方向に社会が進んでいったんですね!?

そう、ミルはこうした社会の動きを「自由の圧殺」(libertycideと呼んで、とても危惧していました。

だからミルは、個人の自由を守るために、国家が個人の自由を制限できる最低限度のラインをはっきり示したんですね!
文明社会のどの成員に対してであれ、本人の意向に反して権力を行使しても正当でありうるのは、他の人々への危害を防止するという目的の場合だけである。

(ミル『自由論』より)

個人の自由が制限されたり、処罰されたりすることがゆるされるのは、他人に対して危害をおよぼす場合のみ、ということですね!
ここで「他者危害防止の原理」の話に戻ってきましたね!
ミルの考えでは、わたしたちは自分自身の身体と精神に対して「主権者」なのです。
「個人の自由」それ自体が大切なもので、尊重されるべきということですね!
ミルの考える「自由」って、どういう意味の言葉だったんですか?
ミルの考える「自由」には、三つの領域があると言えます。
【人間の自由に固有な領域】

①意識という内面の領域(良心、思想、感情の自由)

②嗜好、目的追求の自由

③個々人の間の団結の自由

そうした方が本人のためになるとか、本人にとってよいことだからと言って、周りの人たちが本人の生き方を強制してはいけない、とミルは言っているわ。

娘や息子が結婚相手として連れてきた人物の職業や出身地、家庭環境などが気にくわず、「この相手と結婚しても幸せになれない、もっと幸せになれるひとがいるから」とか言って、お相手と別れるよう親が説得してはいけないということですね。
そう、「本人のため」と言って、周りの人たちが本人の意思とは無関係に、個人の自由や自律性を制限しようとすることは「パターナリズム」と呼ばれています。
お笑い芸人や声優や劇団員を志望する若者に、「どうせ成功するわけないから養成所に行ってもムダ、ふつうに一般企業に就職したほうがいい」とすすめるのは、本人のことを心配して言ってると思うんですけど?

ミルは、自由主義の基本原則が適用されるのは「成人としての能力をそなえた人々」のみだと言っているのよ。

じゃあ、親や教師が「本人のため」にいさめたり、道理を説いたりして、生き方を強制する行為がどこまで正当化されるのかは、判断が難しいんですね。

ミルが『自由論』を書いた当時のイギリスは、たくさんの植民地を支配していました。

その時代の制約があって、「民族そのものが未成年と考えられる社会状態」にある人々は、保護を必要とする段階にあるため、自由主義の原理から除外されるとミルは言っています。

植民地の先住民たちを「子供」とみなして、「支配」ではなく「保護」だと言い換えることで、植民地における専制政治を正当化しているんですね。

要するに、「大人」に対するパターナリズムは、本人をまるで「子供」のように扱うことだと言えますね。

何を好むか、どう生きるかという内面の自由の問題は、自分で思っている以上に、周りの人たちからの干渉を受けているのかも……

法律という物理的な強制力だけでなく、一般論とか世間とか空気感といった精神的な強制力があるんだな。

そういう目に見えない強制力があるのは事実だけどね、ミルの考えでは、他の誰かに危害を加えることを意図しているものでなければ、何を好むか、何を目的にして生きるのかは、本人の自由なのよ!

「他者危害防止の原理」さえ守れば、「自分のしたいことをする自由」があるということですね!

本人のすることを他の人々が愚行であるとか、常軌を逸しているとか、不適切だとか考えたとしても、彼らに危害がおよんでいるのでない限り彼らから妨害されない、ということである。

(ミル『自由論』より)

このミルの考えを言い換えたものが、最初に示した自由主義の基本原則の二つ目、「愚行権」です。

他者に危害がおよばないかぎり、他人から見てバカげたことをする自由があるってことですか?

そう、飲酒や喫煙、麻薬、自傷行為、病気の治療を自ら拒否することなど、さまざまな例があげられるわね。
全財産を寄付して出家して山籠もり修行をしたり、命がけでデスゾーンでの登山に挑んだりするのも、本人の自由と言えるんだ……
判断力のある大人であれば、自分の生命、身体、財産に関して他人に危害をおよぼさない限り、たとえその決定が本人にとって不利益なことでも、自己決定の権利をもつということですね。
ミルは『自由論』のなかで、「団結の自由」についても言っています。

第三に、各人のこうした自由から、それと同じ範囲内で個人どうしが結びつく自由が生じてくる。他人に危害を与えるのでなければ、どんな目的のためであれ結合する自由である。ただし、結合する当事者たちは成年に達していて、強制されたりだまされたりしていないことが前提である。

(ミル『自由論』より)

個人の自由と団結の自由が尊重されない社会は、君主制にしろ共和制にしろ、どんな統治形態であっても、自由ではないと言えます。

前回までの功利主義と、今回の自由主義の話はどう関係するんでしょうか?

功利主義の原理と自由主義の原理は相補的なものです。

功利主義を補うために、「他者危害防止の原理」があると言えますね。
ミルのこのような危害原理と反パターナリズムは、各人が自己の利益の最良の判定者だとみるベンサムの功利主義的立場を継承するとともに、「各人が自分で善いと思う生き方を彼に強いることによってよりも、ずっと大きな利益を人類は獲得する」という確信に基づいていた。

(田中成明『法理学講義』有斐閣より)

自由の確保は、社会全体においてずっと大きな利益を生むと考えれば、自由を奪うよりも尊重したほうがいい、という功利主義的な結論になるんですね!
ミルは『自由論』によって功利主義を補足しましたが、功利主義に「平等」の原理が欠けている問題は、まだ解決できていないような気がします。
功利主義を批判して、現代の哲学者ジョン・ロールズ『正義論』を書いています。

社会においてどう均等に分配するか、どう不平等を是正するかは、現在でも議論されているテーマです。

功利主義の原理は、唯一の行動指針ではないということですね。
そう、社会的価値を吟味するための尺度のひとつと考えればいいわよ!
2024/6/9


引用:ジョン・スチュアート・ミル『自由論』関口正司訳、岩波文庫

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登場人物紹介

南津海(なつみ)ちゃん


社会科研究部の部員。好奇心旺盛。

寿太郎(じゅたろう)くん


社会科研究部の部員。南津海ちゃんとは幼なじみ。

せとか先生


社会科研究部の顧問。専門は世界史。

みはや先生


専門は音楽。せとか先生と仲良し。

考えるカエル


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