第1話 腐敗地区

文字数 1,374文字

 所々に亀裂が走った道路を薄汚れた衣服を着た人々が歩いている。
 私は道路脇に捨てられた鉄クズを背に座って、水気(みずけ)のない(ちぢ)れた前髪の隙間から道路を行き交う人々を眺めた。
 年寄りが多いが、若い人の姿(といっても三十代とおぼしき男女)もチラホラ見られる。みんな着ている服が上下とも不釣り合いで、ファッションセンスは皆無と言っていい。少数だが、服も靴も無い素寒貧(すかんぴん)が交じっている。
 連中と同じように、私も汚れていた。潤いが消えた肌は白く(にごり)り、猛禽類(もうきんるい)の如く伸びた手の爪の隙間には(あか)が詰まって黒ずんでいる。(かゆ)いところを()くと死んだ皮膚が塊になってボロボロ落ちた。腐った死体と間違えた(ハエ)が髪に潜り込んでくるたびに、手で頭を掻いた。
 

がする。この辺りは清掃局の管轄外で、ゴミの回収がこないのは勿論のこと、下水道の整備もされていない。そのため、あちこちから発生した腐敗ガスによって空気が汚染され、悪臭に満ちていた。
 ここは、S県N市N区。日本最大、最悪の無法地区(スラム)と呼ばれている場所だ。
 政府に見放されたこの地区では、公共のサービスが受けられない他、住人の安全と健康、道徳さえも保障されない。ほとんどが貧困層で、適当な場所にシェルターを作って路上生活か、無法地区(スラム)になる前に建てられたビルや民家などに我が物顔で入り込み、鼠のように生活している。
 治安は最低で、何が起こっても警察は助けにこない。そのため、ここを隠れ(みの)として使う犯罪者も多く、中には徒党を組んで縄張りを持つ者も存在する。
 私は(ひと)りだった。ここでは強者に逆らわないし、関わらない。序列(ルール)を守っている限り、私は自由でいられた。
 床虱(トコジラミ)などの害虫や衛生面を気にしなければ住む場所には困らないし、必要な物の大半が探せば見つかる。服や下着、靴などは死体から奪えばいいし、腹が減ったら強者が捨てた食べカス溜めを漁れば何かしら見つかる。風呂なんて、入らなくても死にはしない。歯は、指で擦れば汚れが落ちる。たまに、私が女という理由で近づいてくる男がいるが、敵対したくないコミュニティの人間でないとわかれば、殺して所持品をすべて奪い取った。
 慣れれば、生きていけるのだ。

から、私はもう、ここ以外の暮らしは望めないだろう。
 今の私は、夢も希望もなく、ただその日その日を生きているだけの弱者だった。
 赤茶色に染まった素足が首の(ひしゃ)げた蒲公英(タンポポ)を踏みつけた。今の足の主は初めて見る顔だった。ここも新規が増えてきたみたいだ。
 新規が増えると揉め事も増えるのが無法地区(ここ)のルール。私も、ここらで新しい寝床を探しに行くのがいいかもしれない。
 私が立ち上がりかけた、そのときだった。前方、数メートル先にいた男と目が合ってしまった。仕事帰りのサラリーマンみたいにスーツの上着のボタンを全部外し、ネクタイをビロビロに緩めた線の細い男だ。新しい浮浪者がまた一人、ここへ流れてきたのだろう。「どうぞ襲ってください」と言わんばかりの堂々とした姿を見れば、私でなくても、ここの住人なら一目で新規と気づく。
 男は長く伸びた黒い前髪を右手で鬱陶(うっとう)しげにわけながら、真っ直ぐ私を目指して歩いてくる。
 カツ、と靴音が止まった。太陽光が男の背中を照らし、私の顔に影が落ちた。
「三年ぶりですね。神居(かむい)さん」
 男は地面に片膝をつき、目線の高さを合わせて微笑んだ。
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