蟻の想いは天に届くか
文字数 4,643文字
おねえさんと勉強するようになってから、僕は学校の先生の話も気合を入れて聞くようになった。
「最初から”どうせわかんない”なんて思わないこと。自分の限界を自分で決めちゃダメ」
「羊介 くんは理解力ある。大丈夫だよ!」
毎回そう言って励ましてくれるおねえさんは、何回おんなじことを聞いたって、嫌な顔なんかしたことがない。
それにね、おねえさんは「どうしてもわからないところ」なんて言っていたけど、応用問題のプリントだって、ちゃんと用意して教えてくれるんだ。
僕のためだけのその授業は、簡単なものばっかりじゃなかったけれど。
答えを求める試行錯誤の面白さも、解けたときの達成感も。
全部全部、初めてだらけのものだった。
そんな「最高の先生」なおねえさんだけど、意外だったのは……。
「あれ、あれ~?……どこやったかな」
わりと頻繁に、おねえさんはカバンに手を突っ込んで探し物をしている。
「ごめん、羊介 くん。約束のプリント、今度でいい?」
顔の前で両手をパチンと合わせて眉毛を下げるおねえさんは、こないだテレビで見た、耳の下がったウサギみたい。
こんなんだから、すごい先生だなって思うけれど、遠い人だとは思わないでいられるんだ。
「いいけど、モエギおねえさんって、案外うっかり屋さんだね」
「そうなのよ~。課題もしょっちゅう忘れてきちゃうの。だから、カエル君を持ち歩いてるんだけどね」
おねえさんはリュックからチラリと、カエル柄のクリアファイルを見せてくれた。
「なんでカエル?」
「持ってカエル、私のところにカエルのカエル君よ。大事なものは、これに入れるようにしてるの」
「へぇ~。で、僕のプリントは?」
「……ファイルに入れ忘れました」
「おやおやだねぇ」
僕たちは顔を見合わせて「ふふ」って笑い合う。
「ごめんね、ホントに」
「ううん、僕のほうが”いつもありがとう”なんだから、モエギおねえさんが謝ることなんかひとつもないよ。ありがとう、おねえさん」
「羊介 くん、なんてイイコなの!」
頬っぺたを両手で挟んでわしゃわしゃなでてくれるおねえさんの手は、激しいけれど優しい。
だけど、おねえさんにこんな一面があるなんて思わなかったな。
すっごくしっかりして見えるのに。
あと、かなりのダジャレ好き。
新しいおねえさんを知るたびに、ドキドキとワクワクがたまっていく。
だから、水曜日が来るたびに楽しくて、終わっちゃうのが寂しくて。
終わったら、もう次の水曜日が待ち遠しくなっちゃうんだ。
◇
生まれて初めて、算数のテストで100点を取ったあと。
保護者面談から帰ったお母さんが、僕の顔を見るなりズンズンと迫ってきた。
「ちょっと羊介 。お母さん、先生にほめちぎられちゃったわよ。”
お母さんはびっくり仰天してるけど、べつに嬉しくもなんともない。
「あっちがおとなしくなっただけだよ。テストの点数は、圧倒的な力を持つからね、学校では」
「羊介 ……。なんか、言うことが大人っぽくなっちゃったわねぇ。でも、
「なにが?」
「
「え……、お礼とかは、言われたくないんじゃないかな」
意外に鋭いお母さんに目を泳がせていると、ソファに寝転んで、こっちをうかがっているラッキーに気がついた。
背中に隠した指先をちょいちょいと動かすと、短いしっぽをぷりっと振って応えてくれる。
よしよし、こっちにおいで!
「そうお?でも、」
「あれ、どうしたの、ラッキー。お母さん、ラッキーおやつ欲しいんじゃない?あ、僕もう行くから、じゃあね」
「たまにはうちに呼べばいいのに」
「行ってきま~す」
「あ、羊介 !傘持った?天気予報で雨降るって、」
お母さんが何か言ってるけど、これ以上は聞いているヒマがない。
10分過ぎたら帰っちゃうんだから、急げ急げ!
11月も半ばなのに、今日はずいぶんあったかい。
待ち合わせの校門についたときには、僕は汗びしょになっていた。
「こういうのを小春日和って言うんでしょ?冬に使うんだよね」
「よく覚えてました」
おねえさんからいつものように頭をなでられて、僕は嬉しいような、残念なような。
「さて、今日の宿題は?お、ボリューミーだねぇ」
「そんなことないよ。算数がメインだから」
宿題なんかはあっという間に終わらせて、僕はおねえさんが用意してくれた問題に取り掛かった。
ちょっと難しいけど、おねえさんが教えてくれる線分図はわかりやすい。
”棒くん”のイラストもヒントをくれているから、すらすら解けちゃう。
「できたよ!」
「どれどれ。……わぁ、満点!すごいなぁ。これ、中学入試レベルなのに」
やった!って言いかけて、そのまま口を閉じる。
だって、そこにはいつもみたいな笑顔がなかったんだ。
「ねえ、羊介 くん。このあいだ、方程式もちょっとやったじゃない?」
「うん」
「なんでだと思う?」
「えと、中学に行っても困らないように?」
「それもあるけど、羊介 くんの学力が上がって、もう私が教えてあげられることがなくなっちゃったんだよ」
「そんなことない……」
怖いくらい真剣なおねえさんの目が、僕から言葉を奪った。
「一昨日 ね、定期演奏会の備品を買いに、丘の下の商店街に行ったのよ」
「そこ、僕の通学路」
「そうみたいだね。横断歩道を渡ったところで、羊介 くんに絡 んできた子たちがいたでしょう」
「見てたの?うん。あれがスイミングで一緒のヤツ」
「グズとかキモいって言う子?」
おねえさんの目がすぅっと細くなって、怒ってくれてるのがわかる。
「うん。でも、最近は言われないよ」
「背が伸びて、体も締まってカッコよくなったもんね」
照れながらうなずく僕の頭を、おねえさんがゆっくりとなでてくれた。
「羊介 くん、ガリベンって言われてたでしょう」
「ほかに言うことがなかったんじゃない」
気にしてないよって笑ってみせたけど、おねえさんの真面目な顔は変わらなかった。
信号を渡りきったところで、同じスイミングスクールの二人組が、いきなり僕のランドセルを引っ張ってきた。
がくんと後ろに倒れそうになったけど、踏ん張りながらソイツらを振り返る。
「危ないだろっ」
「うっせぇ、ガリベン!」
「せんせーにヒーキされてるからってイキってんなよっ、ヒキョーもの!」
「卑怯?なんで?」
「負けんなよ」って、おねえさんの声が聞こえてくるみたいだったから、僕は堂々とソイツらに体を向けた。
「ガリベンの何がいけないの?学校って勉強するところだよね。勉強を一生懸命することがいけないことなの?」
「うぜーよっ」
同じ特訓コースのヤツが、一歩前に出てくる。
「学校は勉強するだけのところじゃないって、せんせーよく言ってんじゃん」
「そうだけど、少なくとも、悪口を言うための場所ではないよね。違うって言うなら先生に聞いてみてよ。でも、言えないでしょう?」
僕はぐっとあごを下げて、ふたりをにらんだ。
「大人には言えないことを、どうして僕には言うのさ。さっき僕のことを卑怯って言ったけど、そっちのほうがよっぽど卑怯じゃん。相手によって態度を変えるなんてサイテーだ」
――言いたいことは、反撃を受ける前にたたみかけるんだよ――
それは、おねえさんから教わった「口封じ作戦」だ。
「それに僕は、先生にヒイキされたくて勉強してるんじゃない。誰に勝ちたいわけでもない。言いがかりはやめてよ」
目の前のふたりがまた何か言おうとしているから、僕はおなかに力を入れて声を張る。
「僕に勉強を教えてくれる人に恩返しがしたいだけ。僕に使ってくれた、その人の時間を無駄にしたくない。それだけだから」
「ムっカツク」
「かっこつけー」
「じゃあね」
言いたいことは全部言葉にできたし、間違ったことはしていない。
おねえさんならほめてくれる。
そう信じられるから、僕は何も怖くなかった。
「羊介 くんに手でも出してきたら、加勢しようと思ってたんだけどね」
どうやら、最初から最後まで見られてたみたい。
「えっと、言い過ぎた?」
「まさか!カッコよかったよ、本当に。正しいと思ったことはちゃんと主張する。当たり前のことなのに、私が教えたことなのに……。羊介 くんを見ててね、やっとわかったの」
おねえさんは眉を寄せて、ちょっとだけ口の端を上げる。
「もう、通りすがりの高校生の役目は終わり。やっつけ方は全部、羊介 くんは身につけたよ」
「え?」
「勉強も、嫌なことを言われたときの対処方法も。あのね、水曜日の予備校も、早い時間から始まるようになるの」
「……いつから?」
「今週の土曜日の定期演奏会で、部活を引退したらすぐに。あのね羊介 くん、これ」
「第三十五回定期演奏会」と印刷されたチケットが、テーブルの上に置かれた。
「よかったら来て」
僕は膝に手を置いたまま、目の前のチケットをにらむ。
これを受け取ったら、受け取ってしまったら。
「い、いら、ない」
おねえさんの顔を見ることができない僕の目の前に、ぽつっと水滴が落ちてきた。
「大変!降ってきちゃった。急いで!」
ふたりでばたばたテーブルやシートを片付けている間に、雨はどんどん強くなっていく。
「うわぁ、いきなり本降りになっちゃったね。傘、持ってる?」
「持ってない」
「私、折りたたみがあるから送っていくよ」
おねえさんはリュックから新緑みたいな色の傘を出して広げると、僕の肩をぎゅっと抱きしめて歩き出した。
崖を下りるときも、帰り道も。
おねえさんの傘は、僕を包むように傾けられていた。
家に着くころには、ちょっとの先も見えないような大雨になっていて、傘に当たる雨音が、不安を訴える僕の鼓動と重なる。
「じゃあね」
「あの、モエギおねえさ」
「羊介 ?帰ったの?」
僕が次の約束をしようとしたとき、玄関のドアが開いた。
「あら」
お母さんがおねえさんを見て目を丸くしている。
「初めまして、雪下 と申します。羊介 くん、とても濡れてしまったので、体を温かくしてください。風邪をひいたらいけないから」
嘘だよ。
僕よりおねえさんのほうが濡れてるくせに。
プールのときみたいに、濡れた髪がほっぺたに張り付いてるくせに。
モエギおねえさんは僕の大事な人でとか、タオル貸してあげてとか。
お母さんに言いたいことが、頭の中で渋滞してしまう。
「あの」とか「その」とかもごもごしているうちに、おねえさんがきれいなお辞儀をする。
「それでは、これで失礼いたします」
「あ、おねえさん!」
僕の呼びかけには何も答えずに、くるりと背中を向けたお姉さんが走り出していった。
「羊介 、今のお姉さんって、……どうしたの?!」
小さくなる背中を見つめる僕の目から、涙が流れ落ちていく。
もうあの秘密基地では会えないんだって、わかってしまったから。
受け取らなかったはずの定期演奏会のチケットは、あのカエルファイルと一緒に僕のサブバッグに入っていた。
いつ入れたんだろう。
僕が受け取らないのをわかっていて、別に準備してくれてたのかな。
だって、「勇気をくれてありがとう」って書いてある、カエルのふせんも貼ってあったから。
「ありがとう」は僕なのに。
モエギおねえさんは、僕にはお礼も言わせてくれなかったんだ。
「最初から”どうせわかんない”なんて思わないこと。自分の限界を自分で決めちゃダメ」
「
毎回そう言って励ましてくれるおねえさんは、何回おんなじことを聞いたって、嫌な顔なんかしたことがない。
それにね、おねえさんは「どうしてもわからないところ」なんて言っていたけど、応用問題のプリントだって、ちゃんと用意して教えてくれるんだ。
僕のためだけのその授業は、簡単なものばっかりじゃなかったけれど。
答えを求める試行錯誤の面白さも、解けたときの達成感も。
全部全部、初めてだらけのものだった。
そんな「最高の先生」なおねえさんだけど、意外だったのは……。
「あれ、あれ~?……どこやったかな」
わりと頻繁に、おねえさんはカバンに手を突っ込んで探し物をしている。
「ごめん、
顔の前で両手をパチンと合わせて眉毛を下げるおねえさんは、こないだテレビで見た、耳の下がったウサギみたい。
こんなんだから、すごい先生だなって思うけれど、遠い人だとは思わないでいられるんだ。
「いいけど、モエギおねえさんって、案外うっかり屋さんだね」
「そうなのよ~。課題もしょっちゅう忘れてきちゃうの。だから、カエル君を持ち歩いてるんだけどね」
おねえさんはリュックからチラリと、カエル柄のクリアファイルを見せてくれた。
「なんでカエル?」
「持ってカエル、私のところにカエルのカエル君よ。大事なものは、これに入れるようにしてるの」
「へぇ~。で、僕のプリントは?」
「……ファイルに入れ忘れました」
「おやおやだねぇ」
僕たちは顔を見合わせて「ふふ」って笑い合う。
「ごめんね、ホントに」
「ううん、僕のほうが”いつもありがとう”なんだから、モエギおねえさんが謝ることなんかひとつもないよ。ありがとう、おねえさん」
「
頬っぺたを両手で挟んでわしゃわしゃなでてくれるおねえさんの手は、激しいけれど優しい。
だけど、おねえさんにこんな一面があるなんて思わなかったな。
すっごくしっかりして見えるのに。
あと、かなりのダジャレ好き。
新しいおねえさんを知るたびに、ドキドキとワクワクがたまっていく。
だから、水曜日が来るたびに楽しくて、終わっちゃうのが寂しくて。
終わったら、もう次の水曜日が待ち遠しくなっちゃうんだ。
◇
生まれて初めて、算数のテストで100点を取ったあと。
保護者面談から帰ったお母さんが、僕の顔を見るなりズンズンと迫ってきた。
「ちょっと
ご
家庭でのご
指導がおよろしいんですねぇ”だって。”お友だちともケンカしなくなりました。成長しましたねえ”だって」お母さんはびっくり仰天してるけど、べつに嬉しくもなんともない。
「あっちがおとなしくなっただけだよ。テストの点数は、圧倒的な力を持つからね、学校では」
「
ご
家庭じゃないよね、ご
友人だよね」「なにが?」
「
ご指導
。水曜日に一緒に勉強してるお友だち、今度うちに連れておいでよ。その子のおかげなんでしょう?成績上がったのって。お礼を言いたいわ」「え……、お礼とかは、言われたくないんじゃないかな」
意外に鋭いお母さんに目を泳がせていると、ソファに寝転んで、こっちをうかがっているラッキーに気がついた。
背中に隠した指先をちょいちょいと動かすと、短いしっぽをぷりっと振って応えてくれる。
よしよし、こっちにおいで!
「そうお?でも、」
「あれ、どうしたの、ラッキー。お母さん、ラッキーおやつ欲しいんじゃない?あ、僕もう行くから、じゃあね」
「たまにはうちに呼べばいいのに」
「行ってきま~す」
「あ、
お母さんが何か言ってるけど、これ以上は聞いているヒマがない。
10分過ぎたら帰っちゃうんだから、急げ急げ!
11月も半ばなのに、今日はずいぶんあったかい。
待ち合わせの校門についたときには、僕は汗びしょになっていた。
「こういうのを小春日和って言うんでしょ?冬に使うんだよね」
「よく覚えてました」
おねえさんからいつものように頭をなでられて、僕は嬉しいような、残念なような。
「さて、今日の宿題は?お、ボリューミーだねぇ」
「そんなことないよ。算数がメインだから」
宿題なんかはあっという間に終わらせて、僕はおねえさんが用意してくれた問題に取り掛かった。
ちょっと難しいけど、おねえさんが教えてくれる線分図はわかりやすい。
”棒くん”のイラストもヒントをくれているから、すらすら解けちゃう。
「できたよ!」
「どれどれ。……わぁ、満点!すごいなぁ。これ、中学入試レベルなのに」
やった!って言いかけて、そのまま口を閉じる。
だって、そこにはいつもみたいな笑顔がなかったんだ。
「ねえ、
「うん」
「なんでだと思う?」
「えと、中学に行っても困らないように?」
「それもあるけど、
「そんなことない……」
怖いくらい真剣なおねえさんの目が、僕から言葉を奪った。
「
「そこ、僕の通学路」
「そうみたいだね。横断歩道を渡ったところで、
「見てたの?うん。あれがスイミングで一緒のヤツ」
「グズとかキモいって言う子?」
おねえさんの目がすぅっと細くなって、怒ってくれてるのがわかる。
「うん。でも、最近は言われないよ」
「背が伸びて、体も締まってカッコよくなったもんね」
照れながらうなずく僕の頭を、おねえさんがゆっくりとなでてくれた。
「
「ほかに言うことがなかったんじゃない」
気にしてないよって笑ってみせたけど、おねえさんの真面目な顔は変わらなかった。
信号を渡りきったところで、同じスイミングスクールの二人組が、いきなり僕のランドセルを引っ張ってきた。
がくんと後ろに倒れそうになったけど、踏ん張りながらソイツらを振り返る。
「危ないだろっ」
「うっせぇ、ガリベン!」
「せんせーにヒーキされてるからってイキってんなよっ、ヒキョーもの!」
「卑怯?なんで?」
「負けんなよ」って、おねえさんの声が聞こえてくるみたいだったから、僕は堂々とソイツらに体を向けた。
「ガリベンの何がいけないの?学校って勉強するところだよね。勉強を一生懸命することがいけないことなの?」
「うぜーよっ」
同じ特訓コースのヤツが、一歩前に出てくる。
「学校は勉強するだけのところじゃないって、せんせーよく言ってんじゃん」
「そうだけど、少なくとも、悪口を言うための場所ではないよね。違うって言うなら先生に聞いてみてよ。でも、言えないでしょう?」
僕はぐっとあごを下げて、ふたりをにらんだ。
「大人には言えないことを、どうして僕には言うのさ。さっき僕のことを卑怯って言ったけど、そっちのほうがよっぽど卑怯じゃん。相手によって態度を変えるなんてサイテーだ」
――言いたいことは、反撃を受ける前にたたみかけるんだよ――
それは、おねえさんから教わった「口封じ作戦」だ。
「それに僕は、先生にヒイキされたくて勉強してるんじゃない。誰に勝ちたいわけでもない。言いがかりはやめてよ」
目の前のふたりがまた何か言おうとしているから、僕はおなかに力を入れて声を張る。
「僕に勉強を教えてくれる人に恩返しがしたいだけ。僕に使ってくれた、その人の時間を無駄にしたくない。それだけだから」
「ムっカツク」
「かっこつけー」
「じゃあね」
言いたいことは全部言葉にできたし、間違ったことはしていない。
おねえさんならほめてくれる。
そう信じられるから、僕は何も怖くなかった。
「
どうやら、最初から最後まで見られてたみたい。
「えっと、言い過ぎた?」
「まさか!カッコよかったよ、本当に。正しいと思ったことはちゃんと主張する。当たり前のことなのに、私が教えたことなのに……。
おねえさんは眉を寄せて、ちょっとだけ口の端を上げる。
「もう、通りすがりの高校生の役目は終わり。やっつけ方は全部、
「え?」
「勉強も、嫌なことを言われたときの対処方法も。あのね、水曜日の予備校も、早い時間から始まるようになるの」
「……いつから?」
「今週の土曜日の定期演奏会で、部活を引退したらすぐに。あのね
「第三十五回定期演奏会」と印刷されたチケットが、テーブルの上に置かれた。
「よかったら来て」
僕は膝に手を置いたまま、目の前のチケットをにらむ。
これを受け取ったら、受け取ってしまったら。
「い、いら、ない」
おねえさんの顔を見ることができない僕の目の前に、ぽつっと水滴が落ちてきた。
「大変!降ってきちゃった。急いで!」
ふたりでばたばたテーブルやシートを片付けている間に、雨はどんどん強くなっていく。
「うわぁ、いきなり本降りになっちゃったね。傘、持ってる?」
「持ってない」
「私、折りたたみがあるから送っていくよ」
おねえさんはリュックから新緑みたいな色の傘を出して広げると、僕の肩をぎゅっと抱きしめて歩き出した。
崖を下りるときも、帰り道も。
おねえさんの傘は、僕を包むように傾けられていた。
家に着くころには、ちょっとの先も見えないような大雨になっていて、傘に当たる雨音が、不安を訴える僕の鼓動と重なる。
「じゃあね」
「あの、モエギおねえさ」
「
僕が次の約束をしようとしたとき、玄関のドアが開いた。
「あら」
お母さんがおねえさんを見て目を丸くしている。
「初めまして、
嘘だよ。
僕よりおねえさんのほうが濡れてるくせに。
プールのときみたいに、濡れた髪がほっぺたに張り付いてるくせに。
モエギおねえさんは僕の大事な人でとか、タオル貸してあげてとか。
お母さんに言いたいことが、頭の中で渋滞してしまう。
「あの」とか「その」とかもごもごしているうちに、おねえさんがきれいなお辞儀をする。
「それでは、これで失礼いたします」
「あ、おねえさん!」
僕の呼びかけには何も答えずに、くるりと背中を向けたお姉さんが走り出していった。
「
小さくなる背中を見つめる僕の目から、涙が流れ落ちていく。
もうあの秘密基地では会えないんだって、わかってしまったから。
受け取らなかったはずの定期演奏会のチケットは、あのカエルファイルと一緒に僕のサブバッグに入っていた。
いつ入れたんだろう。
僕が受け取らないのをわかっていて、別に準備してくれてたのかな。
だって、「勇気をくれてありがとう」って書いてある、カエルのふせんも貼ってあったから。
「ありがとう」は僕なのに。
モエギおねえさんは、僕にはお礼も言わせてくれなかったんだ。