水魚は交わる

文字数 4,330文字

 ごめんなさい。
 心から謝ります。
 モエギおねえさんはバカではありませんでした。

「分数の割り算が苦手なんだね。っていうか、ほとんど解いてないね」
 キリっとした目つきで、おねえさんは僕の答案用紙をじっくり眺めている。
「……う~ん、苦手というか」
「掛け算はできてるのに」
「納得がいかなくて……」
「納得?」
「だってさ、分数の割り算は、割る数をひっくり返して掛けるっていうけど、なんでそれでいいの?割ってるのに、答えは大きくなっちゃうし」
 僕は計算問題の一番上にある、1/4÷1/3の式を指さした。
 答えは3/4で、割られる数、1/4より大きい。
「あ~、なるほど」
 おねえさんは自分のリュックからノートとペンケースを取り出しながら、「うんうん」とうなずいている。
羊介(ようすけ)くん、割り算ってね、割る数が1のときに、割られる数がいくつになりますかってことなの」
「割る数が1のとき……?」
「そ。1/4÷1/3、これを文章問題にしてみようか。えーと、そうだな。……”1/4個のキャンディーを、1/3人で分けると

いくつですか”、ってこと」
「1/3人なんて変じゃない?」
 テーブルに肘をついて身を乗り出していた僕が斜めに見上げると、おねえさんがパチリ!と指を鳴らした。
「そうなのよ!じゃあさ、変な1/3人を

にしてあげなきゃね。どうしようか」
「1/3を1にするってこと?えっと……」
「1/3に、何を掛けると1になる?」
「……わかった!3/1だ!」
「OK!」
 がしがしと、おねえさんが僕の頭を乱暴になでてくれる。
「1/3×3/1=1。これで(ひと)問題は解決。でもさ、割る数だけ3/1を掛けたら、式の答えが変わってきちゃうよね。こういうときって、どうするんだっけ」
「ん?……ん~」
 習った気がするんだけど……。
 記憶はぼんやりしていて、思い出そうとしても引っかかりがない。
 困り果てている僕の前に、おねえさんが制服のポケットから、スーッとするタブレットキャンディーの缶を取り出した。
「高校って、お菓子持ってっていいの?」
「お菓子じゃないもん。眠気覚ましだもん」
 おねえさんは「ふふん」と笑うと、ノートの上にキャンディーを6個並べた。
「これをさ、羊介(ようすけ)くんと私で半分こしたら、何個ずつになる?」
「え?3個」
「式は?」
「えと」
 キャンディーの下に、僕は”6÷2=3”って書いた。
「正解!」
「……バカにしてる?」
「してないよ。あのね、羊介(ようすけ)くん」
 おねえさんの指がキャンディーのひとつをつまんで、僕の口元に差し出してくる。
「基本は大事よ。それが”当たり前”じゃなければ、応用は利かないから。はい、口を開けて」
 こ、これは、「あーん」というやつじゃない?!
 ドキドキしながら開けた僕の口に、おねえさんがキャンディーを押し込んだ。
 ……スーッとしすぎっ!
「んふふ、ミント過ぎた?」
 おねえさんは含み笑いをしながら、僕の書いた式の下に”□÷3=3”って書いていく。
羊介(ようすけ)くんのお友達を、ここにひとり呼んだとして、」
「僕、友達いない。モエギおねえさんのお友達に来てもらったら?」
「私もあんまり友達いないの。しかたない、”棒人間~”」
 ポケットに便利な小物をたくさん詰め込んでいるロボットのような言い方で、おねえさんがノートに棒人間を描いた。
「この子、羊介(ようすけ)くんと私のお友達ね。この棒くんが」
「横暴な王様みたいだね」
「もう黙って」
 むぎゅっと鼻を摘ままれて、ちょっと嬉しい。
 おねえさんの指はさっきのミントキャンディーと、あとはなんだか花のようないい匂いがする。
羊介(ようすけ)くんと棒くんと私。三人でキャンディーを3個ずつわけるなら、最初にキャンディーはいくつあればいい?」
「えっと、9個」
「式は?」
 ”9÷3=3”って書いて、気がついた。
「そっか。答えを一緒にするためには、人数が増えたら、キャンディーも増やさなきゃなんだね」
「そう、それも基本。わかってる~。では戻ります」
 おねえさんが、”1/4÷1/3”の問題を、指でトントンと叩く。
「さっき、1/3人に3/1を掛けて1にしました。では、割られる数の1/4はどうしよう」
「同じ3/1を掛ける」
「いいぞ、やってみようか」
 僕はおねえさんに助けられながら、(1/4×3/1)÷(1/3×3/1)=って式をノートに書いた。
「そのまま解いてみて」
「えと、3/4÷1になるから、答えは3/4だ!」
「ね?1/3をひっくり返して掛けてるのと同じ結果になるでしょう?割る数を1にする過程を省いてるだけなの。わかりきってることをいちいち書くのって、メンドクサイじゃない?」
「メンドクサイ……」
「中学になると、記号や数字すら、省略される場合もあるよ」
「でも、学校だと”式はきちんと書きましょう”って言われるよ?」
「基本はそうだね」
 おねえさんの指が(1/4×3/1)÷(1/3×3/1)=の式を、すいっとなぞっていく。
 その爪がピンク色をしていて、桜の花びらみたい。
「でも、それを当たり前のことだって、頭の中で処理できるようになったら……、聞いてる?」
「う、うん!聞いてるよ」
 思わずおねえさんの指を目で追っていたら、ぽんぽんと頭をなでられた。
「当たり前になったら、省略していいの。全世界の当たり前だから」
「全世界」
「そう。言葉はいろいろだけど、数式はどの言葉を使う人だって、同じもので解くんだもの」
「……そっかぁ」
 おねえさんと話しているうちに、分数の割り算を解こうとするとき、いつも脳みそをおおっていたモヤモヤが晴れていく。
「ね、仕組みがわかったら納得しない?」
「する!すごくする!」
「よかった。じゃあ、テスト直しをやっちゃおうか」
「うん!」
 そこからの僕は、無敵ステータスになった気分でスイスイと(ホントはスイ……、スイ……くらい)問題を解いていった。
 そして、テスト直しの最速記録を叩き出したんだ。
「終わった!」
「やったじゃん!」
「あ、あの、モエギ、おねえさん……?」
 おねえさんにぎゅっと抱きつかれた僕は、地面から浮いちゃうくらいにホワホワした気持ちになる。
 おねえさんはどこもかしこもフワフワであったかいし、なんだかいい匂いもするし。
 おねえさんの水着姿をふと思い浮かべた僕は、ほっぺたが一気に熱くなった。
「やればできる!理解力あるよ、羊介(ようすけ)くん」
 あっさり腕を離してしまうおねえさんに、ちょっとがっかりする。
 そんな僕には全然気がつかない様子のおねえさんは、さっさとペンケースをしまいだした。
「これでもう、分数の割り算は心配ないね。でも、復習もするんだよ?知識が定着するかどうかは、結局、繰り返しが大切だから」
「あのっ」
 このボーナスステージが終わっちゃいそうで、僕は焦っておねえさんの袖を引っ張る。
「あの、あのね、僕ね、授業でわかった!って思っても、宿題とかテストになると、わかんなくなっちゃうんだ」
 こんなこと言ったら、おねえさん呆れちゃうかな。
 がっかりされたらどうしようなんて不安でドキドキしていた僕に、おねえさんはピカピカの笑顔を返してくれた。
「ああ、あるねえ」
「え?モエギおねえさんにも、ある?」
「当たり前だよ。一度聞いただけでわかるなんて、どんな天才?」
 ニコニコしてるおねえさんを見ていたら、なんだか勇気が湧いてくる。
「そっか……。天才じゃないけど、僕、がんばってみようって思うんだ。だから、また僕に勉強教えてください!……ダメ?」
「ん~、でも、私は通りすがりの高校生ですからねぇ」
「ナニそれ。誰かやっつけたの?」
「分数の割り算?」
 うん、確かにそのとおり。
「ほかのヤツのやっつけ方も、教えてくれない?」
 顔の前で両手を合わせて拝んてみたら、おねえさんは顔をずぃっと近づけてきた。
「ねえ、羊介(ようすけ)くん」
「なあに、モエギおねえさん」
「学校ってさ、勉強できてりゃエライ、みたいなトコあるじゃない?」
「うん、あるね」
羊介(ようすけ)くんは賢いよ。”勉強が苦手”だなんて、自分で決めつけたらダメ。それを約束できる?」
「できる」
 おねえさんとの約束なら、いつだって「YES」か「はい」に決まってる。
「諦めたら、そこで終了だからね」
「何が?」
「終了と言ったら試合だけど、羊介(ようすけ)くんはマンガ読まないかぁ」
「よ、読むよ!なんていうマンガ?」
「あのね……」
 教えてもらったスポーツマンガは、確か兄ちゃんが持っていたな。
 兄ちゃんが読むものなんか興味もなかったけど、今度こっそり借りて読んでみよう。
「さすがに、家庭教師みたいなことはできないと思うの。能力もないし、予備校も忙しくなっちゃうから。そうだなぁ……。宿題とか、テスト直しのわからないところ、だけでもいい?部活のない、水曜日限定になっちゃうけど」
「うん!もちろん!」
 今までみたいに、偶然を待つだけより、ずっといい。
 だって、会えたって、どうせアイツがジャマしてくるし。
 僕はコクコクコクと、何度も首を縦に振った。
「水曜日、小学校は何時に終わるの?」
「二時半」
「私は終わりが三時半だから……。四十分に、ここの校門で待ち合わせようか。雨だったら中止ね。あと、お互い突発的な予定変更もあるだろうから、十分待って来なかったら、それも中止。どう?」
「うん!あ、でも、冬になったら?外は寒いよ?」
「んふふふふ」
 例の顔で笑ったおねえさんは、「アウトドア用品の墓場」から持ち出してきた、銀色のシートみたいなものを広げる。
「サバイバルシート~」
 ポケットが違う次元につながってるロボットの声マネをして、おねえさんは僕の肩にシートを羽織らせると、一緒になって(くる)まった。
「これさ、アリタって子が持ってきただけにアタリでさ。結構あったかいでしょ?」
「え、……うん」
 たしかにすっごくあったかいけど、それはシートのおかげというよりも……。
 おねえさんの肩と僕の肩が触れ合っていて、心臓は痛いくらいにドコドコいうし、体全部がホカホカしてくる。
「あったかいっていうか、ちょっと暑くない?」
「え、そう?」
 変な汗をかいている僕の横で、おねえさんは首を(ひね)った。
羊介(ようすけ)くん、子供だから体温高いのかな」
「……」
 そりゃあ、僕は子供だけど……。
 黙り込んだ僕に気づかないおねえさんは、さっさと銀色シートをたたみだした。
「多分、これを使わなきゃいけないころには、羊介(ようすけ)くんは自分で勉強できるようになってるよ」
「え?」
「通りすがりの高校生は厳しいですよ?ついて来られなかったら、置いてっちゃうからね」
「イエス・サー!」
 まねっこの僕の敬礼に、おねえさんから弾けるような笑顔が返ってくる。
 それは、分数の割り算がわかったよりもずっとずっと、ずぅっと嬉しかったんだ。
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