嵐の前はそれほど静かじゃない
文字数 3,719文字
隣で聞く萌黄 さんのトランペットは、それはもうすごかった。
記憶の”おねえさん”の演奏もステキだと思っていたけれど、自分も吹く側に回ったからだろうか。
ブランクを感じさせない技術もさすがだし、なにより、吹くことが好きなんだという気持ちが、あふれるように伝わってくる。
そのせいなのか、萌黄 さんと一緒に演奏するときの俺のトランペットは、いつもより滑らかに歌うような気がするんだ。
そして、吹いているうちに気づいたんだけれど。
自分のなかに理想としていた音と、曲に対する思いはちゃんとあったんだ。
萌黄 さんに再会するという目的が果たされた今、純粋にトランペットを楽しむ気持ちだけが残ったらしい。
それがとても心地よくて、演奏すればするほど、解放されていく気分になった。
曲が最高潮を迎えたとき、タクトを振る部長が入口へと顔を向けて、目礼をする。
誰かが来たのだと気づいて、俺と萌黄 さんは横目を交わし合った。
その瞳に動揺が浮かんでいるのを見れば、なんだか腹が立って仕方がない。
萌黄 さんにこんな顔をさせるなんて……。
そうして曲が終盤を迎え、部長が満足そうにタクトを下すのと同時に、ヤケに派手な拍手が響き渡った。
「すごいな、今年の現役」
それは記憶にあるのとおんなじ声で、なまじイケボなのが妙に腹立たしい。
「なんだか風格さえ感じるよ。上級生もレベルアップしてるけど、1年生のレベルがハンパない」
肩越しに振り返ってみれば、そこにいるのはスーツ姿のアイツだ。
……け、オトナの男アピールかよ。
「遅かったね、市島くん」
「え、田之上先生がご降臨中?!」
音楽室の隅に座る田之上先生には、さすがのアイツも驚いたらしい。
……うん、やっぱりそうなのか。
どうりで部員はもとより、OBからも文句を言われるはずだと、ここは素直に反省する。
田之上先生の二重人格っぷりは、午後も引き続いて健在だった。
「大人には容赦しない」と言っていたとおり、どっちかというと、OBのほうにより厳しかったけれど。
とはいえ、炸裂する鮮烈な嫌味にもOBたちは少しも動じずに、シレっと聞き流していた。
アイ子さんなんかは「そんなに張り切っちゃって。血圧上がって倒れたら”天国と地獄”で蘇生するんでOK?」なんて言ってたし。
そんでもって二重人格顧問は「その選曲、現世に戻す気がないな?」って返してたし。
「うん、1年生に誘ってもらってね」
「それは命知らずな新人がいたもんですね。ご無沙汰してます。お元気そうで何よりです。そういえば」
「雑談ならあとにして」
このぴりっとした物言いは、もちろん現役部員ではなくアイ子さんだ。
「今イイ感じで仕上がってきてんの。雰囲気壊したくないの」
「ああ、悪い」
素直に謝ったアイツに、内心驚いた。
年月は人を成長させるのだろうかと思ったけれど。
「存在に気づかなかったよ、鬼龍院 。相変わらずちっせぇから、現役にうまく擬態してるじゃねぇか」
「あら、高校生のように若くて可愛いだなんて、お世辞が上手になったじゃない」
「は?年食って耳が遠くなったのか?オレがおまえをほめるわけねぇだろ。ボケるにゃちょっと早ぇんじゃねぇの。今年の演奏がいいのは、OBがしごいてるからか。トランペットにもOBが入って、」
「市島は手ぶらで何しに来たのさ」
アイ子さんが再びアイツの言葉を遮 る。
「演奏する気もないなら来なきゃいいのに。冷やかしはお断りってね」
「就活の帰りなんだよ。今日は様子を見に来ただけ。次は持ってくる」
「試験準備で忙しかったんでしょ。鈍 った腕を披露されてもね」
「ダチとバンド組んでるから、水準は維持してるよ。お前こそ、次もばっくれんなよ」
「その原因を作った人間がよく言うわ。盗人猛々しい」
「次、僕が振ろうか?」
立ち上がった田之上先生に、アイ子さんが慌てて右の手の平を向けた。
「あ、いやいやいや。大変失礼いたしました。サエちゃん、邪魔してごめん」
「なんのなんの。緊張感を高めてくださってお礼を申し上げます。でも、次は軽めのアニメ映画でもやりましょうかね」
OBの熾烈なラリーを黙って耐えていた部長が「たはは」と笑う。
そうして部長が選曲したのは、木の実を月夜に育てるモフモフが散歩する、各パート腕の見せ所があるコンサート・セレクション。
トトロの歌は子供のころから耳になじんでいるからか、演奏しているみんなの顔もほっこりと緩んでいる。
でも、譜面をめくろうとする萌黄 さんの指先が震えているのを、俺は見逃さなかった。
誰がそうさせているのかと思うとムカついて、俺がやるよとジェスチャーで示せば、萌黄 さんの口元がわずかにほころんだ。
それでもそのトランペットからは硬さが取れないから、サビのメロディーをわざと弾けさせみたんだけど。
当然、部長がお許しになるわけはなく、タクトがビュン!と俺に向けられた。
その仕草があまりに二重人格顧問に似てたもんだから、笑いを堪えようとした俺のトランペットが「パプっ」と妙な音を立ててしまう。
……ヤバい。「笑点」のオープニングみたいになっちゃった。
カッコ悪かったかなって恐る恐る隣をうかがうと、萌黄 さんの肩が揺れている。
良かった、萌黄 さんが笑ってる。
よし、もう一度ふざけてみよう!と思ったところで。
ふと部長に目をやると、不自然なほど俺から目を離さずにタクトを振り続けているじゃないか。
……はい、ごめんなさい。
もうふざけません。
首をすくめて謝意を表せば、サエちゃん部長が重々しくうなずく。
でも、それから萌黄 さんのトランペットが伸びやかさを取り戻したから、怒られた甲斐があったというものだ。
滑らかな萌黄 さんの音を追いかければ、俺のトランペットは「嬉しい」と歌う。
そうか、音楽にはこんな力があるのか。
俺が戸惑っていることを、萌黄 さんはいつだって、こんなにも簡単に教えてくれるんだ。
昔は分数を。
そして、今はトランペットを。
部長の左手がイイね!の形を作って曲を握り止めて、間を置かずに田之上先生とアイツの拍手が重なった。
「うん、いい。すごくいい。思わずスキップしたくなるほどでした」
すっかりひょろひょろに戻った田之上先生が、手を叩きながら部長に並ぶ。
「今日はずいぶん頑張りましたね、お疲れさま。じゃあ、僕はこれで。また呼んでね」
「え、えぇぇぇぇっと、そうですね。……また半年後くらい……」
ごにょごにょと口の中で言葉を濁した部長に見送られて、田之上先生が音楽室を出ていった、そのとたん。
「ふぃ~っ。よし、今日はおしまい!ほんっとーに、お疲れぇぇ~」
魂が抜けたような部長が、部活の終了を宣言した。
「うわぁ、つっかれた」
「マジむりぃ~」
ガタガタとイスを引く音やため息で、音楽室の空気が揺れる。
そんななか、わざわざ俺たちのパートリーダーのところまでやってきたアイツが、ぐるっと俺たちを見回した。
「トランペット、感心するほどの出来だったよ」
なんでそんなにエラそうなんだよ。
その先輩ヅラがムカつくなぁ。
……あ、先輩だったか。
「とくに1年生は、とても新人とは思えない演奏で驚いた」
「本当ですか!」
前列の森本が、キラッキラした目でアイツを見上げている。
スーツ姿のアイツは、うん、まあ確かにちょっとイケてるかな。
もともと整い系だし、背も高い。
……今じゃ俺のほうが高いけどな!
「途中退場ばっかでいい加減なOBも、今年は最後までいるみたいだし」
チラリと萌黄 さんに向けられた目で、もちろん冗談半分だとわかったけれど。
あと半分の嫌味が、ぶちのめしたいくらい不快だ。
「顔見んの、去年の同窓会以来か。教職課程は順調?」
「なんで知ってるの?」
あくまで冷淡な萌黄 さんに、アイツがあのイヤな顔で笑い返す。
人によっては「ニヒル」とでも言うのかもしれないけど、俺は大嫌いだ。
だって、ジュニアコースで頑張っていた”おねえさん”を、「ダッセー」と貶 したときと同じ顔だから。
「秘密なのかよ」
「同じ大学でもないし、共通の知人もいないでしょ」
「オレのバンドに、お前んとこのヤツがいるんだよ」
「何学部?」
「法学」
「学部が違うわよ?」
「でも、伝手 はあったんだよ」
「探ったの間違いでしょう」
「法は犯してないぞ」
「いっそ犯してくれない?通報するから」
「相変わらずキレのある返しだなぁ」
萌黄 さんの激辛対応にも案外楽しそうだから、アイツは好きで絡 んでるに違いない。
……こっちは不愉快でしかないけどな!
「久しぶりに聞けてよかったよ、お前のトランペット。……ん?」
アイツの目が、トランペットを掃除している俺の手に止まる。
「それって……」
アイツから指摘を受ける前に、俺はさっさとトランペットをケースにしまい込んで、パートリーダーを振り返った。
「先輩、これからすぐに反省会に入りますか?」
「お、そうだな」
不穏な目つきになったアイツをチラチラうかがいながら、パートリーダーの3年が立ち上がる。
「各自持ち物まとめて、帰り支度してから席について」
「ふぁ~い」
緩み切った返事をするリョータとともに、俺はカバンを取りに荷物置き場へと向かった。
記憶の”おねえさん”の演奏もステキだと思っていたけれど、自分も吹く側に回ったからだろうか。
ブランクを感じさせない技術もさすがだし、なにより、吹くことが好きなんだという気持ちが、あふれるように伝わってくる。
そのせいなのか、
そして、吹いているうちに気づいたんだけれど。
自分のなかに理想としていた音と、曲に対する思いはちゃんとあったんだ。
それがとても心地よくて、演奏すればするほど、解放されていく気分になった。
曲が最高潮を迎えたとき、タクトを振る部長が入口へと顔を向けて、目礼をする。
誰かが来たのだと気づいて、俺と
その瞳に動揺が浮かんでいるのを見れば、なんだか腹が立って仕方がない。
そうして曲が終盤を迎え、部長が満足そうにタクトを下すのと同時に、ヤケに派手な拍手が響き渡った。
「すごいな、今年の現役」
それは記憶にあるのとおんなじ声で、なまじイケボなのが妙に腹立たしい。
「なんだか風格さえ感じるよ。上級生もレベルアップしてるけど、1年生のレベルがハンパない」
肩越しに振り返ってみれば、そこにいるのはスーツ姿のアイツだ。
……け、オトナの男アピールかよ。
「遅かったね、市島くん」
「え、田之上先生がご降臨中?!」
音楽室の隅に座る田之上先生には、さすがのアイツも驚いたらしい。
……うん、やっぱりそうなのか。
どうりで部員はもとより、OBからも文句を言われるはずだと、ここは素直に反省する。
田之上先生の二重人格っぷりは、午後も引き続いて健在だった。
「大人には容赦しない」と言っていたとおり、どっちかというと、OBのほうにより厳しかったけれど。
とはいえ、炸裂する鮮烈な嫌味にもOBたちは少しも動じずに、シレっと聞き流していた。
アイ子さんなんかは「そんなに張り切っちゃって。血圧上がって倒れたら”天国と地獄”で蘇生するんでOK?」なんて言ってたし。
そんでもって二重人格顧問は「その選曲、現世に戻す気がないな?」って返してたし。
「うん、1年生に誘ってもらってね」
「それは命知らずな新人がいたもんですね。ご無沙汰してます。お元気そうで何よりです。そういえば」
「雑談ならあとにして」
このぴりっとした物言いは、もちろん現役部員ではなくアイ子さんだ。
「今イイ感じで仕上がってきてんの。雰囲気壊したくないの」
「ああ、悪い」
素直に謝ったアイツに、内心驚いた。
年月は人を成長させるのだろうかと思ったけれど。
「存在に気づかなかったよ、
「あら、高校生のように若くて可愛いだなんて、お世辞が上手になったじゃない」
「は?年食って耳が遠くなったのか?オレがおまえをほめるわけねぇだろ。ボケるにゃちょっと早ぇんじゃねぇの。今年の演奏がいいのは、OBがしごいてるからか。トランペットにもOBが入って、」
「市島は手ぶらで何しに来たのさ」
アイ子さんが再びアイツの言葉を
「演奏する気もないなら来なきゃいいのに。冷やかしはお断りってね」
「就活の帰りなんだよ。今日は様子を見に来ただけ。次は持ってくる」
「試験準備で忙しかったんでしょ。
「ダチとバンド組んでるから、水準は維持してるよ。お前こそ、次もばっくれんなよ」
「その原因を作った人間がよく言うわ。盗人猛々しい」
「次、僕が振ろうか?」
立ち上がった田之上先生に、アイ子さんが慌てて右の手の平を向けた。
「あ、いやいやいや。大変失礼いたしました。サエちゃん、邪魔してごめん」
「なんのなんの。緊張感を高めてくださってお礼を申し上げます。でも、次は軽めのアニメ映画でもやりましょうかね」
OBの熾烈なラリーを黙って耐えていた部長が「たはは」と笑う。
そうして部長が選曲したのは、木の実を月夜に育てるモフモフが散歩する、各パート腕の見せ所があるコンサート・セレクション。
トトロの歌は子供のころから耳になじんでいるからか、演奏しているみんなの顔もほっこりと緩んでいる。
でも、譜面をめくろうとする
誰がそうさせているのかと思うとムカついて、俺がやるよとジェスチャーで示せば、
それでもそのトランペットからは硬さが取れないから、サビのメロディーをわざと弾けさせみたんだけど。
当然、部長がお許しになるわけはなく、タクトがビュン!と俺に向けられた。
その仕草があまりに二重人格顧問に似てたもんだから、笑いを堪えようとした俺のトランペットが「パプっ」と妙な音を立ててしまう。
……ヤバい。「笑点」のオープニングみたいになっちゃった。
カッコ悪かったかなって恐る恐る隣をうかがうと、
良かった、
よし、もう一度ふざけてみよう!と思ったところで。
ふと部長に目をやると、不自然なほど俺から目を離さずにタクトを振り続けているじゃないか。
……はい、ごめんなさい。
もうふざけません。
首をすくめて謝意を表せば、サエちゃん部長が重々しくうなずく。
でも、それから
滑らかな
そうか、音楽にはこんな力があるのか。
俺が戸惑っていることを、
昔は分数を。
そして、今はトランペットを。
部長の左手がイイね!の形を作って曲を握り止めて、間を置かずに田之上先生とアイツの拍手が重なった。
「うん、いい。すごくいい。思わずスキップしたくなるほどでした」
すっかりひょろひょろに戻った田之上先生が、手を叩きながら部長に並ぶ。
「今日はずいぶん頑張りましたね、お疲れさま。じゃあ、僕はこれで。また呼んでね」
「え、えぇぇぇぇっと、そうですね。……また半年後くらい……」
ごにょごにょと口の中で言葉を濁した部長に見送られて、田之上先生が音楽室を出ていった、そのとたん。
「ふぃ~っ。よし、今日はおしまい!ほんっとーに、お疲れぇぇ~」
魂が抜けたような部長が、部活の終了を宣言した。
「うわぁ、つっかれた」
「マジむりぃ~」
ガタガタとイスを引く音やため息で、音楽室の空気が揺れる。
そんななか、わざわざ俺たちのパートリーダーのところまでやってきたアイツが、ぐるっと俺たちを見回した。
「トランペット、感心するほどの出来だったよ」
なんでそんなにエラそうなんだよ。
その先輩ヅラがムカつくなぁ。
……あ、先輩だったか。
「とくに1年生は、とても新人とは思えない演奏で驚いた」
「本当ですか!」
前列の森本が、キラッキラした目でアイツを見上げている。
スーツ姿のアイツは、うん、まあ確かにちょっとイケてるかな。
もともと整い系だし、背も高い。
……今じゃ俺のほうが高いけどな!
「途中退場ばっかでいい加減なOBも、今年は最後までいるみたいだし」
チラリと
あと半分の嫌味が、ぶちのめしたいくらい不快だ。
「顔見んの、去年の同窓会以来か。教職課程は順調?」
「なんで知ってるの?」
あくまで冷淡な
人によっては「ニヒル」とでも言うのかもしれないけど、俺は大嫌いだ。
だって、ジュニアコースで頑張っていた”おねえさん”を、「ダッセー」と
「秘密なのかよ」
「同じ大学でもないし、共通の知人もいないでしょ」
「オレのバンドに、お前んとこのヤツがいるんだよ」
「何学部?」
「法学」
「学部が違うわよ?」
「でも、
「探ったの間違いでしょう」
「法は犯してないぞ」
「いっそ犯してくれない?通報するから」
「相変わらずキレのある返しだなぁ」
……こっちは不愉快でしかないけどな!
「久しぶりに聞けてよかったよ、お前のトランペット。……ん?」
アイツの目が、トランペットを掃除している俺の手に止まる。
「それって……」
アイツから指摘を受ける前に、俺はさっさとトランペットをケースにしまい込んで、パートリーダーを振り返った。
「先輩、これからすぐに反省会に入りますか?」
「お、そうだな」
不穏な目つきになったアイツをチラチラうかがいながら、パートリーダーの3年が立ち上がる。
「各自持ち物まとめて、帰り支度してから席について」
「ふぁ~い」
緩み切った返事をするリョータとともに、俺はカバンを取りに荷物置き場へと向かった。