山の僕はウナギになりたい

文字数 4,163文字

 春休み。
 スイミングスクールの更衣室は、クラス入れ替えの時間だからギュウギュウ詰め。
 着替え終わって、きゃあきゃあ言いながらプールへ向かうちびっ子たちを横目に、僕は部屋の端っこに空きロッカーを見つけてカバンを置いた。
 ノロノロと着替えて、グズグズとカバンを閉めて。
 それからプールへ向かう扉をシブシブと開ける。
 プールサイドを歩く足は重くって、始まってないのに、もう帰っちゃいたい。
 ……こないだの進級テスト、受かると思ったんだけどなぁ。
 「ため息をつくと幸せが逃げるよ」ってお母さんは言うけど、でも、出ちゃうものはしかたないよ。
 だって、同じクラスにいるのは下級生ばかりで、一番年が近い子だって、僕より二コも下の小三。
 準備運動のために背の順で並べば、ダントツで僕が一番後ろ。
 しかもポッチャリしてるから、ヨコだって列からはみ出ちゃう。
 そのポッチャリを解消するために放り込まれたスイミングスクールだけど。
 今のところ効果はないし、泳ぎも上達していない。
 「関取」とか「イモ」なんて、イヤなあだ名が増えただけ。
 この春期スクールが終わったら、もう一度お母さんに「やめたい」って言ってみよう。
 そう決意して目を上げた瞬間、僕の足はピタリと止まった。
 もうすぐ始まりの時間なのに、整列もしてないちびっ子たちが、見慣れないおねえさんを取り囲んでいる。
「クラス、まちがえてるんじゃない?」
 不思議そうにおねえさんを見上げているのは、確か小1の女の子だ。
「間違えてないよ!クロール習いにきたんだから」
「え、泳げないの?でっかいクセに?」
「カッコわるぅ」
「ダッサ~」
「おねえさん、中学生でしょぉ~?」
「大人だって泳げない人はいますぅ」
 低学年のヤンチャ男子たちがバカにし始めたけど、おねえさんはニコニコ笑っている。
「みんなは泳げるの?すごいじゃん!」
「あったりまえだろっ」
 ほめられたとたんに、ヤンチャ男子たちによる自慢合戦が始まった。
「ビート板で25m泳げるんだぜ」
「オレなんか、ビート板なしで15m泳げるから」
「息つぎだってできるし」
 それを「へー」「すごーい」なんて聞いているおねえさんに、ちょっとびっくりする。
 だって、僕の知っている”女子”とは全然違うから。
 悪口にも自慢話にもイヤな顔ひとつしてないし、むきになって言い返したりもしない。
 ジュニアクラスは中学生までだけど、あのおねえさんはちょっと背が高いから、中学3年生とかかな。
 ……水着姿もなんだかデコボコしてて、ちょっと違うし。
 
「時間だぞー、並べ~」
 コーチの掛け声に小走りで列に混じると、おねえさんは当然みたいな顔で、僕のすぐ後ろに並んだ。
 後ろに人がいるのは本当に久しぶり。
 慣れない気配に緊張していたら、「ねえ」と声をかけられて、飛び上がるほど驚いた。
「な、なに?」
「準備運動、一緒にやろうよ」
「え?」
 誰に言ったんだろうってキョロキョロしてみたけど、僕以外の子たちはいつも通りのペアを組んでいる。
「えっと」
 おねえさんを見上げればバッチリ目が合って、僕に言ってくれたんだってわかったけど。
「私とはやりたくない?」
「そうじゃなけど、えと、いい。……ひとりでいい」
 だって、ふたりで手を組む体操なんかしたら、きっとイヤな思いをさせちゃうから。
 
 今は上のクラスにいる、学校のクラスメートがまだ同じ級だったときには、準備運動のペアはコーチが決めていた。
 そのとき「手がベトベトしてんだよ」「デブは汗っかきでキモイ」って言われて、突き飛ばされたことがある。
 それからはコーチも「ひとりでもいいよ」って言ってくれたんだけど、そしたら誰もペアを組んでくれなくなった。
 だから、長いことひとりで準備運動をしているけど、べつにいいんだ。
 悪口を言われるくらいならひとりでいい。
 イヤな思いをさせちゃうくらいなら、ひとりでいい。

「二人組じゃなくてもいいんだよ、準備運動」
 そう言って僕は少し距離を取ったんだけど、おねえさんはあきらめの悪い人だった。
「ダメ?」
「ダメとかじゃなくて」
「ひとりのほうが好き?」
「そうじゃないけど」
「ならいいじゃない。このスクール初めてで勝手がわからないから、私にいろいろ教えてよ」
「え、僕が?」
 僕が誰かに教えてあげるなんて!
 ぽかんとしていたら、僕が離れた分だけおねえさんが近づいてくる。
「そう、キミが。ダメじゃないんだよね?ね?」
「う、うん」
 おねえさんの押しの強さに、気がついたらうなずいていた。
「よかった!これからよろしく」
 差し出された手にちょっと触ったら、そのままギュッと握られてびっくりする。
「よし、じゃ、始めよっか」
 「キモイ」って思われてないかすごく心配だったんだけど、あっさりと手を離したおねえさんは、そのまま僕と準備運動をしてくれたんだ。

 次の日。
 僕は一番乗りで更衣室に入って、着替えているときも鼻歌まじり。
 こんなにプールが楽しみだったことなんてない。
 だって、ペアを組んでくれる人がいるんだよ!
 順番を待ってる間に、おしゃべりだってしてくれるんだ。
 そうして、いつもは早く終わんないかなって思う短期スクールも、あっという間に最終日。
 だから、僕はありったけの勇気を出して、更衣室に入る前のおねえさんをつかまえた。
「あの、あのさっ」
「ん?」
「おねえさんってさ、悪口言われて、どうして平気なの?」
「え、悪口?」
「あの、こないださ、みんながわぁわぁ言ってたこと、あったでしょう?」 

 おねえさんは本当にカナヅチだったみたいで、最初は僕より泳げないくらいだった。
 そんなおねえさんを見ていたヤンチャ男子たちの態度は、日に日に悪くなっていって……。
「へったくそだなぁ」
「みっともなー」
 おねえさんがプールサイドに上がるたびにその周りを囲んで、イヤなことを言うようになったんだ。
 コーチも気がつけば注意するけど、まったく効果はない。
 いつもだったらターゲットになるのは僕のはずで、それがどれだけイヤなことかわかっているのに。
 「やめなよ」って言う勇気が出なかった。
「ぜんっぜんウマくなんないじゃん」
「なー」
「アザラシがおぼれてるみてぇ」
 泳げないから習いに来てるんだろ!
 一生懸命やってる人を悪く言うな!
 ……って言えたら、カッコいいのに……。
 おねえさん、つらくないかな。
 モヤモヤしてハラハラする僕の目の前で、列に戻ってきたおねえさんがニヤっと笑う。
「アザラシかあ。……ねえ、知ってる?アザラシは時速20kmで泳げるらしいよ。人間はオリンピック選手だって、時速なら9kmくらいだから、すごくない?二倍以上だよ。私をそんなすごい動物に例えてくれるなんて、キミはホメじょうずだねぇ」
「え」
「なにソレ。ほめてるわけねーじゃん!」
「バッカじゃねーのっ。ばーかばーか」
「バカの特盛、いただきました~。ごちそうさま~。おなかいっぱーい!」
 余裕しゃくしゃくのおねえさんに、ヤンチャたちは何も言い返せない。
 さらに「また騒いでるのか。指示が守れないなら、もう来なくてもいいからな!」ってコーチから特大の雷を落とされて、ヤンチャたちはすっかりおとなしくなっちゃったんだ。

 振り向いて、一歩近づいてきたおねえさんの距離の近さに、ちょっとドキドキする。
「アザラシって言われたこと?」
「うん」
「あれねぇ……。平気、ではなかったかなぁ。そもそもアザラシって(おぼ)れるの?」
 気なるのそこなんだって思いながら、僕は「うんうん」と大きくうなずいた。
「せめてアシカとかさ。あ、でも、アシカはもっと速いらしいから、やっとクロールで泳げるようになった身には、望むべくもないかな」
「ベクモナイ?」
 中学生って、こんな難しいしゃべり方するんだなあって感心する。
「どういう意味?」
「ん?ああ、ごめんね」
 おねえさんがペロッと舌を出しそうな顔で笑った。
「望み薄だなって意味」
「ノゾミウスって?」
「あ~、んーとね。……アシカみたいに泳ぐのはムリかなって意味」
「そうなんだ。おねえさん、ムズカシイ言葉いっぱい知っててすごいね。……おねえさんみたいに言い返してみたいな。ヤなこと言われたとき」
「ヤなコト?」
「うん。……グズとか、キモイとかデブって」
 うつむけば、ぽっちゃりした自分の足が目に入って、ますます落ち込む。
「誰に言われるの?」
「学校とかで……」
「そっか~。でもそれってね、キミに言ってるんじゃないのよ」
「僕にだよっ」
 つい大きな声を出しながら目を上げると、膝を曲げたおねえさんの顔が目と鼻の先にあった。
 濡れた髪から落ちる雫がキラキラ光っていて、おねえさんだけじゃなくて、目の前の景色が百倍まぶしくなる。
「違うよ。おとなしい子なら誰でもいいの」
「誰でも?」
「言える相手に、言えることをぶつけてるだけ。キミはとても優しいコだと思う。人を悪く言わないし、我慢強い。だから、いろいろ飲み込んじゃうから、ターゲットになっちゃうんだね」
 おねえさんの両手が伸びてきて、握りしめていた僕の右手をぎゅっと包み込んくでくれた。
「私だって、悪口言われたりハブられたり、いろいろあったよ」
「え?!」
 おねえさんはそんな人に見えないから、本当にびっくりした。
「少し長く生きてるから、どう行動したらダメージが少ないかを知ってるだけだよ。それでも、上手くいかないことのほうが断然多いし」
「長くって、おねえさん中学生じゃん。僕とそんなに変わんないじゃん」
「んふふふ」
 口を閉じて、なんだか悪い顔でおねえさんが笑う。
「変な顔だ」
「あれ、見込み違い?悪口言われた?」
「ち、違う、途中だよ。変な顔だけどカワイイって、言おうと思ったんだよ」
「ふふっ」
 今度は本当にかわいい顔で笑うおねえさんに、僕の心臓がしぼられたみたいにキューってなった。
「し、四月から、おねえさんは何曜日に来るの?」
「うーん……。諸々考え中」
「もろもろ?」
 やっぱり難しい言葉を使うなあ、おねえさんてって思いながら、僕は首を傾ける。
「続けないの?進級テスト、一緒に受かったじゃん。また同じクラスだよ?一緒に続けようよ」
「そうだねぇ。考えてみようかな」
 そう言ってたのに。
 おねえさんはそれっきり、プールに来ることは二度となかったんだ。
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