知らぬ神より頼りになるのは馴染みの鬼

文字数 3,588文字

 楽譜をぺらりとめくるアイ子の隣で、部長冴木(さえき)が声を落とした。
鬼龍院(きりゅういん)先輩」 
「なんだね、少年」
「もー、後輩全員を”少年”で一括(ひとくく)りにするの、やめてくださいよ」
「どうしたサエコちゃん」
「……もういいです」
 泣きべその顔真似をして、冴木(さえき)はアイ子に肩を寄せる。
「あれ、なんですかね」
「あれとは」
 素知らぬふりで、アイ子はクラリネットのリードを調節した。
「あれですよ、あれ。……雪下(ゆきした)先輩が木場野(きばの)のことを気にしていたから、ふたりは旧知かとは思ってましたけど。旧知どころではないですね?」
「あれがただの旧知に見えるなら、今すぐ眼科へ行っておいで」
「さっき泣いて出ていきましたもんね、

木場野(きばの)が。ワケアリですか?」
「決まってんでしょ」
 隣に座る萌黄(もえぎ)の横顔から目を離さない羊介(ようすけ)を見て、冴木(さえき)の首が傾く。
「なんか、ボールを投げてもらうのを待ってる子犬みたいですね。あんな顔する木場野(きばの)、初めて見ましたよ。いつもはもっとこう……、クールっていうか、ドライっていうか」
 アイ子と冴木(さえき)が見守る先で、萌黄(もえぎ)が楽譜から目を離して、羊介(ようすけ)へと顔を向けた。
「聞いてる?」
「うん。萌黄(もえぎ)さ、先輩の鼻歌って初めて聞いた」
「それは聞かないで」
「聞けばいいの?聞いたらダメなの?」
「もう黙って」
 萌黄(もえぎ)からムギュっと鼻をつままれた羊介(ようすけ)が、その口元をふわんと緩める。
「うあっ」
「うるさいぞ、サエちゃん」
「だって、木場野(きばの)がホホエミましたよっ」
「そりゃ人間だもの」
「なに詩人みたいなこと言ってんですか。確かに笑うことはありますけど、あんなホホエミなんか見たことないですよ」
「一面だけを見て、すべてを理解したように思うなんて青いぞ、少年。ま、青いから青少年なのか」

(かんが)みれば、鬼龍院(きりゅういん)先輩も青少年の枠に入りますよね」
「難しいことを言っていい気になっているようだがな、青少年」
 アイ子の口の端がニィと上がった。
「死に急ぐなよ」
「大変、失礼いたしました。……ところで鬼龍院(きりゅういん)大先輩」
 深々と頭を下げた冴木(さえき)が、膝に置いたスマートフォンの画面を、アイ子に見えるように傾ける。
「残念なお知らせです。多分3時くらいに市島先輩が来ます」
「それ、冴木(さえき)兄から?」
 すっと目を細めるアイ子に、冴木(さえき)がうなずいた。
「そのメッセ、いつ来た?」
「ついさっきです」
「ふーん。官庁訪問行くって言ってたから、ダメ元で頼んでおいたんだけど。いい仕事するな、冴木(さえき)兄。大学の後期始まったらお礼するって、伝えといて」
「ご自分でお願いします。今のアニキってすげぇピリピリしてて、近寄りたくないんです」
「連絡先、知らないもん。同窓で同学部だけど、ゼミは違うし。今回だって、たまたま総合職受けるって聞いて、無理のない範囲で頼んだだけだからね。知ってたら直接もらうよ、その情報」
「そりゃそうですね。……まあ、部屋のドアに付箋(ふせん)でも貼りつけておきますよ」
「そんなにアンタッチャブル?」
「一触即発ですね」
「家庭内に紛争地帯が?」
「俺の周りは危険人物だらけです」
「ほかに誰のことを言っているのか、さっぱりわかんないけど。とりあえず、サエちゃんが命知らずなことは理解した」
「いやいや、俺のモットーは”いのちだいじに”ですよ」
 アイ子がちらりと音楽室の時計に目をやると、時計の針は1時を回ったところを示している。
「2時くらいに切り上げるって、可能?」
「無理言わないでください。こっちにも予定ってものがあります」
「おっしゃるとおり」
 深々とため息をつきながら、アイ子は天井を見上げた。
「OBの個人的な人間関係に、現役を巻き込むほうが間違ってる。ありがと、教えてくれて」
「いえ。……雪下(ゆきした)先輩と帰られますか?」
「それもねえ。アスパラだけ残すのも心配なんだよなぁ」
 口の中でつぶやいて、アイ子は何かと注目を集めているふたりに目を戻す。
 ふたりして音楽室を出ていったときも、戻ってきたときも。
 現役もOBたちも。
 誰も直接言葉にはしないが、「どういう関係なんだ!」と突っ込みたがっているオーラをビシバシと放っている。
 アイ子から教える気などさらさらないし、その権利もない。
 だから、時おり自分にも向けられる、もの問いたげな視線など無視しているのだが。
 まあ、アイ子としてもちょっとは気になっているので、あとでギリギリと萌黄(もえぎ)を締め上げようと企てている。
 ずっと思い悩んで、忘れることのなかった

との再会はどうだったのかを。
(じゃれたいけど、「マテ」をされているから我慢している子犬みたいだなあ)
 冴木(さえき)の「羊介(ようすけ)子犬説」に内心で大いに賛同しながら、アイ子は立ち上がる。
「ちょっと席外すよ」
「はいはい、ごゆっくり~」
 クラリネットを席に置いたアイ子に、冴木(さえき)がひらひらと手を振った。

「それでね、羊介(ようすけ)くん。……こら、ちゃんと見て」
「見てる」
「楽譜を見るのっ。もー、教えてるのに」
「教えてる萌黄(もえぎ)先輩見てるほうが、頭によく入る」
「そんなことある?」
「ある」
(ほぅほぅ、ホントに

できたんだな)
 萌黄(もえぎ)羊介(ようすけ)の様子に半分呆れ、半分微笑ましく思いながら、アイ子はふたりの(かたわ)らにしゃがみ込んだ。
「お楽しみ中、申し訳ない。おふたりとも」
「変な言い方しないでよ、アイ子」
「楽しんでないの?」
「お楽しみ中なんでジャマしないでください」
羊介(ようすけ)くんは本当に黙って。もー、あの可愛くて素直だった子はどこ行っちゃったの」
 憤慨する萌黄(もえぎ)の腕に手を掛け、アイ子が耳打ちをする。
「イッチーが来るって」
 萌黄(もえぎ)と、アイ子の声を聞き逃さなかった羊介(ようすけ)の顔色が同時に変わった。
「どうする?帰る?」
「でも……」
 白くなるほど握り込まれた羊介(ようすけ)の手に、心配そうな萌黄(もえぎ)の目が落とされる。
(こぶし)は収めとけよ、アスパラ君。たださ、市島の考えが読めなくて、今まで顔を合わせないようにしてきたけど、決着をつけるいい機会かもしれないよ。ゆっきーのことは必ず守るね?アスパラ君」
「誰がアスパラですか。当たり前じゃないですか、アイ子さん」
「誰が名前で呼ぶことを許可した?」
「自己紹介してないから、アスパラと呼ばれたんでしょ?だったら、先輩は”アイ子”さんです。萌黄(もえぎ)先輩の手紙のなかで、いつもあなたは”アイ子”さんだったから。どんなときだってきっぷが良くて、とてもカッコイイ友人の。

萌黄(もえぎ)先輩を支えていたのは、アイ子さんでしょう」
 羊介(ようすけ)を見上げるアイ子の眉がキュっと上がった。
「へーえぇ。自己紹介、しようか。鬼龍院(きりゅういん) アイ子。萌黄(もえぎ)の幼なじみにして友人。幼稚園のころからコンビを組んでるベテラン勢」
「なんとなく派手な漢字をイメージしてましたけど、シンプルなんですね」
「アイって読む漢字はたくさんあるから、ひとつの意味にとらわれないようにってことらしいよ。キミの名前は珍しいよね」
「父親が役所に提出するとき、サンズイを忘れたそうです」
「え?!そうだったの?本当は太平洋の洋介くんだったの?」
「うっかりの産物なんだ」
「嘘ですけど。っていうか、父親の鉄板ネタです」
「ほぉ。いい度胸だな、アスパラ羊介(ようすけ)
「父親がクリスチャンなので、”良い人”のイメージでつけたらしいです。聖書で羊は善、山羊は悪の象徴とされるので」
「無視したな」
「説明はしましたよ」
「OK、それだけ肝が太いなら心配ない」
「でも」
「ねえ、萌黄(もえぎ)
 萌黄(もえぎ)の口を封じたアイ子がゆっくりと立ち上がる。
「理不尽に奪われたんだよ、ふたりは。三年という年月を。萌黄(もえぎ)のヘタレのせいだってこともあるけど、そうさせたのは誰かってことだよ。萌黄(もえぎ)はさ、自分さえ我慢すればいいって思いがちなところがあるけど」
 淡々と告げながら、アイ子は萌黄(もえぎ)からじっと目を離さない。
「それは萌黄(もえぎ)を大切に思ってる人間にとっては、失礼になることもあるんだよ。ひとりで泣かれるなんてまっぴらだって思ってる人間が、泣いてるのを知って何もできずにいることが、どれほど悔しいか」
 その言葉で、態度で。
 萌黄(もえぎ)がアイ子を信頼している理由を、羊介(ようすけ)は深く理解した。 
「アタシに負担掛けたくないって思ってたんでしょ?イッチーは粘着質で、頭も口もよく回るからね。卒業してからも、いろいろあったし。アタシに言ってないこともあるんじゃない?でも、もうメ―ちゃんもいるんだから、そのムカつくほどの遠慮っぽさをさ、捨ててもいいころだよ」
 本当に漢気(おとこぎ)あふれる人だな、アイ子さんってと羊介(ようすけ)は思うが、ふと。
「……メーちゃんって、誰ですか?」
「羊の羊介(ようすけ)君に決まってるじゃない。メーちゃんなら山羊も網羅してるし、ぴったりデショ?」
「山羊は悪魔の象徴です」
「ただの

でもなさそうだけどねぇ?イイ感じに(ゆが)んで成長したじゃないの、メーちゃん」
 向けられた、悪魔的に美しいアイ子の微笑みに羊介(ようすけ)の背が震える。
――バフォメットはアンタじゃんかよ――
 言いたくて言えないセリフを、羊介(ようすけ)はごくりと飲み込んだ。
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