星に願いを
文字数 6,220文字
夏合宿、三日目の夜。
俺は懐中電灯を手にして、夜のあぜ道を萌黄 さんと歩いている。
「みんなとトランプしなくてよかった?」
「蛍のほうがいい」
というのは嘘。
萌黄 さんと一緒なら、どっちでもいいんだから。
風呂上り。
昨日の大貧民でボロ負けをしたリョータからの、再戦申し込みをからかっていたとき。
萌黄 さんが「蛍を見に行きたい人がいたら、一緒に行かない?」と声をかけてきた。
「少年は大貧民したいんだよな。よし、アタシが相手をしてあげよう」
小柄な大先輩に首根っこをひっつかまれたリョータが、助けを求める目を向けてきたけれど。
「がんばってなー」
「棒読みが過ぎるっ。オノレ裏切者ー!」
「OB部屋にレッツゴー!」
バフォメットなアイ子さんに引きずられていくイケニエリョータを、俺は静かに合掌をして見送った。
「アイ子先輩、駆け引きウマすぎなんだもん。リョータは連日エジキだな」
「今日の罰ゲームはなんだろうね」
昨日の罰ゲームは青汁のどんぶり飲みで、すっかり健康になった今日のリョータのトランペットは、超絶キレのいい音を響かせていた。
ヤケクソとも言えるけど。
高原の夜風が稲田を揺らす音に紛れて、ふたり分の足音が重なっている。
「あ、ほら。あっちにいっぱいいる」
「転ぶから」
早足になろうとする萌黄 さんの手を、俺はぱっと握った。
「大丈夫なのに」
懐中電灯のほのかな灯りに照らされた萌黄 さんの、ちょっとだけ不満そうな目が上がる。
「昼間、河原で転びそうになってたじゃん」
「あれはアイ子が押すから。……でも、かばってもらっちゃってごめんね。代わりに水に入っちゃって冷たくなかった?」
「全然。萌黄 さんが濡れなければそれでいいし。それに、そっからみんな川に入ってバシャバシャやったじゃんか。どうりで、ライトバンにレジャーシートが敷いてあると思った」
「現役は若いねぇ」
「なに言ってんの。よりはっちゃけてたのはOBのほうだぞ」
「そうかもね。こんなに無心で遊ぶことって、最近なかなかないし」
「大学って、そんな忙しいの?」
「忙しいというか、行動に伴う責任を考えちゃうの」
「そんなの、俺らだって同じだろ?」
「そうねぇ……」
ふたりの間に落ちた沈黙に俺は不安になる。
なんだか萌黄 さんが遠くなってしまったようで、俺の手の届かない大人なようで。
実際、6歳も年上なんだけど。
「高校生にはわかんないって?」
「そうじゃないよ」
クスクス笑う萌黄 さんが、握る手に力を込めてくれる。
「ただ、今になって思うの。高校生のころは、やっぱり守られていたなあって」
「……そうかもしれないけど」
それは、いつだって俺たちの間に立ちはだかる年齢の壁だ。
どうにもできない問題だからこそ悔しくて、悔しくて。
「萌黄 さん、今でも俺のこと子供だって思ってる?昔さ……」
俺の声は、足音に紛れてしまいそうなほど小さくなった。
「”羊介 くんは男の子でしょ”って言ってたじゃん?男子じゃなくて」
「ああ、コーヒーショップに誘えない話ね」
「……うん」
「今はもう立派な男子じゃない?羊介 くんも」
「でも、萌黄 さんはステキな大人になっちゃったし」
どうやっても差が埋まらない。埋められない。
手をつないでいるのに、萌黄 さんが遠い。
「ステキな大人に見える?」
「……見える」
「嬉しいなあ」
歩きながら、萌黄 さんが夜空へと視線を投げた。
「そうなれるようにって、努力したつもりだから」
「え?」
「羊介 くんに会えたときにね、情けないお姉さんではいたくなかったの。できれば」
「うん」
萌黄 さんの言葉を聞き逃したくなくて、俺はちょっとだけ肩を寄せる。
「ステキなお姉さんになったって、思ってほしくて。大学生になってしばらくは、会いに行く勇気がでなくて……」
「アイ子さん言ってたね、ヘタレって。どうしてだったの?」
俺にとって萌黄 さんは、いつだってステキな人なのに。
何をそんなにためらうことがあったんだろう。
「それは……」
小さな懐中電灯の光の輪のなかで、黙り込んでしまった萌黄 さんが、夏の闇に溶けてしまいそうで。
確かめるようにその手を握りしめれば、萌黄 さんも体を寄せてきてくれる。
「だって」
「うん」
「だって、羊介 くんって、中学でモテまくりだったんでしょう?」
「はぁっ?!」
静かな田んぼに俺の声が響き渡って、エコーをかけたみたいになった。
「こら、声が大きいよっ」
「いや、だってさ。それってあれだろ、スイミングのコーチが言ってたやつだろ?」
「うん」
「違うからっ。モテてなんかないから」
「でも、羊介 くんのファンクラブまであったんでしょ?」
なにそれー!
俺が高校に入って初めて知ったことを、なんで萌黄 さんが知ってんの?!
「そ、それもコーチから聞いたの?」
「うん。……やっぱり本当なんだ。ほら、モテてたんじゃない」
……ん?
勘違いでなければ。
今、萌黄 さんの声は不機嫌になったと思う。
それってもしかして……。
「違うって。だって俺、ファンクラブなんて知らなかったもん。高校に入って初めて、友達から教えてもらってさ。中学のころは秘密だったみたいだから」
「秘密?どうして?」
「水泳大会でキャーキャー騒ぐヤツらがいて、二度と来んな、盗撮すんなって言ってやったら、それから内緒にしやがったみたいで」
「盗撮?それは質 が悪いね」
「だろ?男子中学生の水着写真なんて、高値で取引されちゃうだろ?」
「ふふっ」
萌黄 さんの笑い声が、夜風と一緒に俺の耳をくすぐる。
よかった、機嫌が直ったみたいで。
てか、誤解が解けたみたいで。
「なんかさ、すごくヤだったんだ。外見をあれこれ言われんの。萌黄 さんだって知ってるだろ?俺がさんざんキモイって言われてたの」
「羊介 くんは可愛かったよ」
「あのころ、そんなこと言ってくれるの、親以外には萌黄 さんだけだったよ」
さっきから離さず握っている手を、互いになんとなくブラブラと揺らす。
「だから、イケメンって言われたってピンとこなかったし。だって、顔なんかそんなに変わってないだろ?」
「変わったと思うなぁ」
「えっ、萌黄 さんの好みから外れてる?」
「違うってば。……かっこよくなったよ」
「か、……かっこよく?」
「うん、かっこいい。市島くんに怒ってくれたときも、かばってくれたときも。なんてかっこいい人だろうって思った」
ああ、もうこの瞬間、俺の気持ちはさらに揺るぎないものになった。
萌黄 さんの「かっこいい」は、見た目だけなんかじゃない。
あのころとまったく変わらず、俺の中身をまっすぐ見てくれている。
……好きだな、本当に。
こんなに心奪われる人は、どこを探してもいないに決まってる。
知れば知るほど好きになって、この瞬間だって、さっきよりも好きになってるんだ。
「あり、がと」
感極まって、のどが詰まって。
片言 になってしまった感謝に、萌黄 さんが微笑で応えてくれる。
「ふふふっ。……蛍、たくさん見られるかな」
「見られるといいね」
「うん」
そのまま手をつなぎながら、初日に蛍狩りをした場所、水田に囲まれた鎮守の森まで歩いた。
「灯り、落とすよ」
「うん」
懐中電灯のスイッチを切ったとたんに、辺りは漆黒の宵闇に沈んでいく。
「わぁ……」
小さな小さな蛍たちが明滅を繰り返して、近く遠くと舞い飛ぶ光景が目の前に広がった。
幾筋もの光が夜の帳 に浮かび、その上には満天の星空がどこまでも続いている。
「ホタルってさ、こんなにキレイって思わなかった」
「うん、私も最初見たとき、すごく感動した。今はもっと感動してる。……羊介 くんと一緒に見る日が来るなんて、思わなかったな」
光りのシンフォニーのような景色に見惚 れている俺たちの間を、冷気を含んだ風が吹き抜けていった。
肩が触れ合うほど萌黄 さんに寄り添えば、そのシルエットが俺を見上げる。
「どうしたの?寒い?」
「寒くはないよ、でも」
いったん解 いていた萌黄 さんの手を、再びぎゅっと握った。
「ねえ萌黄 さん。どうして、俺にあのトランペットをくれたの?買うとき、家族からの援助は断ったって言ってたじゃん。それほどのものなのに……。俺に吹いてほしかったわけじゃなかったんでしょ?」
夏合宿に入る前夜、譲ってもらったトランペットの型番を調べようと思ったのは、ほんの気まぐれ。
そして、度肝を抜かれたんだ。
だって、ウン十万だよ?
一枚取りのカスタムモデルで、かつ銀メッキ仕上げ。
それは高校生が買うには、覚悟がいるものだったはずだ。
「定期演奏会で贈ってくれた花束は、小学生だった羊介 くんが、ひとりでお花屋さんに行って買うには、勇気が必要だったでしょう?」
「……うん」
それは、超ハズイ思い出。
花屋のお姉さんに根掘り葉掘り聞かれながら、オレンジ色のバラを選んだ。
「お年玉を使ってくれたんだってね」
「え」
なんで知ってるんだ?!
……あ、受付で俺がしゃべったんだった。
バカ!小学生の俺のバカ!
「だから、私も貯めていたお年玉で買ったトランペットを贈りたかったの。羊介 くんの想いに応えたかった。……もし、許してくれているのなら。まだ待っていてくれているのなら」
サワサワサワサワと、稲穂が風に歌っている。
蛍がからかうように俺の鼻先をかすめて飛んで、光の軌跡を描いて去っていった。
「あのさ」
「うん?」
「あのとき選びたかったのは、オレンジ色のバラじゃなかったんだ」
夜が、熱くなった俺の顔を隠してくれている。
「ホントは、紅色 のバラを5本、贈りたかったんだよ」
「ご、ごめん。私ってほら、パサパサ系だから。その意味って、すぐにわかんないの」
「パサパサ系?」
「アイ子がそう言うのよ、脳みそパサパサって。だから、ちゃんと教えて?」
「……いいよ。今、贈りたいのはやっぱり紅色 で、数は12本」
「ちゃんと教えてない。意地悪な先生だなぁ」
声がいじけていて、不満顔をしている萌黄 さんが見えるみたい。
ああもう、どうしてこんなにカワイイんだろう。
好きで好きでしょうがない想いがあふれて、言葉にせずにはいられない。
だから、俺は腹を括 って、大きく深呼吸をした。
「紅色 のバラの花言葉は、”死ぬほど恋焦がれています”。5本は”あなたに出会えたことの心からの喜び”」
惑いながら萌黄 さんの体に両腕を回すと、一瞬で俺の体がホカホカになる。
あの原っぱで、サバイバルシートを巻きつけてもらったときよりもずっと、ずっと。
萌黄 さんが肩をふるりと震わせたから、俺は回した腕に力を込めた。
「逃げないで。もうどこにも行かないで」
「逃げたりしないよ。……12本は?」
暗闇のなかでゆっくりと背中を屈 めて、俺は萌黄 さんの額に自分の頭をコツンとぶつける。
「12本はね、”私とつきあってください”。……好きだよ、萌黄 さん。ずっとずっと好きだった。あなたがショタコンって言われるのは嫌だけど、でも、あのころから、俺は、萌黄 さんを、好きだった」
ああもう、どうしてこういう肝心なときに、俺はブルブル震えているんだろう。
兄ちゃんのスニーカーをズタボロにして怒られてたときの、ラッキーみたいじゃないか。
心臓なんかドクドク鳴っていて、絶対バレてるに違いない。
情けなくて泣いちゃいそうな俺の背中に、萌黄 さんの腕が回された。
「あのね、羊介 くん」
「う、ん」
震えるな、俺の声。
「私、6歳も年上なのよ」
「知ってる、よっ」
「来年の今ごろは、忙しくなると思うの」
「また?また会えなくなるの?!」
「会えなくなるどころじゃないと思う」
「ナニそれっ、どっか行くの?じゃあ俺、高校やめてついてくからっ」
「バカねぇ」
「バカって言った!悪口言われたっ」
震えが抑えられない俺の胸に、萌黄 さんが頬を寄せてくる。
「来年の9月ごろ、教育実習に行く予定なの。母校の高校に」
母校の高校。ふーん。
教育実習。へーえ。
うん、知ってる。
先生になりたい大学生が、中学のときにも学校に来てた。
って、あれ?
「萌黄 さん、来年ウチの高校来んの?実習生として」
「そうなの。だから、バラ12本を受け入れるとね、教え子と
「ぐぁ」
年頃の男子高校生に、意味深に「
鼻血が出ちゃうじゃん。
いやいや、取りあえず煩悩は置いといて、だ。
こんなことで萌黄 さんに二の足を踏まれるわけにはいかないから、俺は脳ミソをフル回転させる。
「奥手の体育の先生に、合コンでイケイケを勧めたんだけど、えっらいキレられたんだよ。教え子と合コンしろって言ったわけじゃないけど、誤解したかなと思ってさ」
「なにをやっているの、あなたは」
胸元に落された、呆れたような萌黄 さんの吐息が、あったかくて爆発しそう。
「ちょっと調べたら、真摯 な交際関係にある場合は大丈夫なんだって。萌黄 さんは遊びで俺とつき合うの?」
まだOKはもらってないけど、ここはたたみかけるしかない。
「年上の余裕で俺を弄 んで、それで、また消えちゃうつもり?泣くよ?」
「泣いてたね」
……はい、泣きました。
気がつけば、萌黄 さんが俺の背中をなでてくれている。
その手は1-Aの教室で抱きしめてくれたときとは違っていて、とても甘い。
「今って、紅色 のバラを持ってる?」
萌黄 さんの囁 きに熱がこもっているのは、気のせいじゃないはずだ。
「持ってない。帰ったらプレゼントする」
「今がいい」
珍しい萌黄 さんのワガママは叶えてあげたいけれど、持ってないものは渡せない。
「えと、ごめん、」
「じゃあ」
萌黄 さんが背伸びをして、顔を近づけてくるのがわかった。
「バラの代わりに、羊介 くんの想いをちょうだい」
俺の唇に、柔らかくて温かいものが一瞬だけ触れて、離れていく。
「も、萌黄 さん……?」
キスしてもらったと気づいたとたん、俺のどこかがプチン!と焼き切れた。
「萌黄 さん、萌黄 さんっ」
大好きな人をぎゅうぎゅう抱きしめて、頬ずりをして、おでこにもまぶたにも鼻にも頬にも、キスを落としていく。
そしてもちろん、その唇にも。
「ん……」
萌黄 さんの鼻にかかる吐息にくらくらしながら、俺はそのふわふわの髪に頬を埋めた。。
「俺とつき合って、萌黄 さん。9本のバラの意味は、”あなたを想ってます”のほうじゃないよ。”いつも一緒にいてください”のほうだったんだよ」
ああ、やっと伝えることができた。
色褪 せた手紙の答えをやっと訂正できた。
「俺は萌黄 さんしかいらない。お願い、萌黄 さん、ずっと一緒にいて。……お願い」
星空の下、蛍が恋の光をかわし合う夜。
三年間、呼びたくても呼べなかった名前に想いを乗せれば、その名前を持つ女性 が抱きしめ返してくれた。
「俺の恋人になってください、萌黄 さん」
「……はい」
嬉しくて、嬉しくて嬉しくて。
腕の中に閉じ込めた萌黄 さんの、そのすべすべのほっぺたをぺろりと舐めてみる。
「くすぐったいったら」
こんなことも許されるのかと思ったら、もう感激しかない。
「萌黄 さんっ」
「ぐぇ」
力いっぱい抱きしめた萌黄 さんから、カエルがつぶれちゃったような声が漏れた。
「く、くるし、苦しいからっ。……このポンコツ!」
「初めて萌黄 さんから怒られた。えへへ」
「なんで嬉しそうなの?!」
想いが届いて、いろんな萌黄 さんを見ることができて。
この腕に大切な人をとらえることができた夏の日の夜は、一生忘れない、俺の宝物だ。
俺は懐中電灯を手にして、夜のあぜ道を
「みんなとトランプしなくてよかった?」
「蛍のほうがいい」
というのは嘘。
風呂上り。
昨日の大貧民でボロ負けをしたリョータからの、再戦申し込みをからかっていたとき。
「少年は大貧民したいんだよな。よし、アタシが相手をしてあげよう」
小柄な大先輩に首根っこをひっつかまれたリョータが、助けを求める目を向けてきたけれど。
「がんばってなー」
「棒読みが過ぎるっ。オノレ裏切者ー!」
「OB部屋にレッツゴー!」
バフォメットなアイ子さんに引きずられていくイケニエリョータを、俺は静かに合掌をして見送った。
「アイ子先輩、駆け引きウマすぎなんだもん。リョータは連日エジキだな」
「今日の罰ゲームはなんだろうね」
昨日の罰ゲームは青汁のどんぶり飲みで、すっかり健康になった今日のリョータのトランペットは、超絶キレのいい音を響かせていた。
ヤケクソとも言えるけど。
高原の夜風が稲田を揺らす音に紛れて、ふたり分の足音が重なっている。
「あ、ほら。あっちにいっぱいいる」
「転ぶから」
早足になろうとする
「大丈夫なのに」
懐中電灯のほのかな灯りに照らされた
「昼間、河原で転びそうになってたじゃん」
「あれはアイ子が押すから。……でも、かばってもらっちゃってごめんね。代わりに水に入っちゃって冷たくなかった?」
「全然。
「現役は若いねぇ」
「なに言ってんの。よりはっちゃけてたのはOBのほうだぞ」
「そうかもね。こんなに無心で遊ぶことって、最近なかなかないし」
「大学って、そんな忙しいの?」
「忙しいというか、行動に伴う責任を考えちゃうの」
「そんなの、俺らだって同じだろ?」
「そうねぇ……」
ふたりの間に落ちた沈黙に俺は不安になる。
なんだか
実際、6歳も年上なんだけど。
「高校生にはわかんないって?」
「そうじゃないよ」
クスクス笑う
「ただ、今になって思うの。高校生のころは、やっぱり守られていたなあって」
「……そうかもしれないけど」
それは、いつだって俺たちの間に立ちはだかる年齢の壁だ。
どうにもできない問題だからこそ悔しくて、悔しくて。
「
俺の声は、足音に紛れてしまいそうなほど小さくなった。
「”
「ああ、コーヒーショップに誘えない話ね」
「……うん」
「今はもう立派な男子じゃない?
「でも、
どうやっても差が埋まらない。埋められない。
手をつないでいるのに、
「ステキな大人に見える?」
「……見える」
「嬉しいなあ」
歩きながら、
「そうなれるようにって、努力したつもりだから」
「え?」
「
「うん」
「ステキなお姉さんになったって、思ってほしくて。大学生になってしばらくは、会いに行く勇気がでなくて……」
「アイ子さん言ってたね、ヘタレって。どうしてだったの?」
俺にとって
何をそんなにためらうことがあったんだろう。
「それは……」
小さな懐中電灯の光の輪のなかで、黙り込んでしまった
確かめるようにその手を握りしめれば、
「だって」
「うん」
「だって、
「はぁっ?!」
静かな田んぼに俺の声が響き渡って、エコーをかけたみたいになった。
「こら、声が大きいよっ」
「いや、だってさ。それってあれだろ、スイミングのコーチが言ってたやつだろ?」
「うん」
「違うからっ。モテてなんかないから」
「でも、
なにそれー!
俺が高校に入って初めて知ったことを、なんで
「そ、それもコーチから聞いたの?」
「うん。……やっぱり本当なんだ。ほら、モテてたんじゃない」
……ん?
勘違いでなければ。
今、
それってもしかして……。
「違うって。だって俺、ファンクラブなんて知らなかったもん。高校に入って初めて、友達から教えてもらってさ。中学のころは秘密だったみたいだから」
「秘密?どうして?」
「水泳大会でキャーキャー騒ぐヤツらがいて、二度と来んな、盗撮すんなって言ってやったら、それから内緒にしやがったみたいで」
「盗撮?それは
「だろ?男子中学生の水着写真なんて、高値で取引されちゃうだろ?」
「ふふっ」
よかった、機嫌が直ったみたいで。
てか、誤解が解けたみたいで。
「なんかさ、すごくヤだったんだ。外見をあれこれ言われんの。
「
「あのころ、そんなこと言ってくれるの、親以外には
さっきから離さず握っている手を、互いになんとなくブラブラと揺らす。
「だから、イケメンって言われたってピンとこなかったし。だって、顔なんかそんなに変わってないだろ?」
「変わったと思うなぁ」
「えっ、
「違うってば。……かっこよくなったよ」
「か、……かっこよく?」
「うん、かっこいい。市島くんに怒ってくれたときも、かばってくれたときも。なんてかっこいい人だろうって思った」
ああ、もうこの瞬間、俺の気持ちはさらに揺るぎないものになった。
あのころとまったく変わらず、俺の中身をまっすぐ見てくれている。
……好きだな、本当に。
こんなに心奪われる人は、どこを探してもいないに決まってる。
知れば知るほど好きになって、この瞬間だって、さっきよりも好きになってるんだ。
「あり、がと」
感極まって、のどが詰まって。
「ふふふっ。……蛍、たくさん見られるかな」
「見られるといいね」
「うん」
そのまま手をつなぎながら、初日に蛍狩りをした場所、水田に囲まれた鎮守の森まで歩いた。
「灯り、落とすよ」
「うん」
懐中電灯のスイッチを切ったとたんに、辺りは漆黒の宵闇に沈んでいく。
「わぁ……」
小さな小さな蛍たちが明滅を繰り返して、近く遠くと舞い飛ぶ光景が目の前に広がった。
幾筋もの光が夜の
「ホタルってさ、こんなにキレイって思わなかった」
「うん、私も最初見たとき、すごく感動した。今はもっと感動してる。……
光りのシンフォニーのような景色に
肩が触れ合うほど
「どうしたの?寒い?」
「寒くはないよ、でも」
いったん
「ねえ
夏合宿に入る前夜、譲ってもらったトランペットの型番を調べようと思ったのは、ほんの気まぐれ。
そして、度肝を抜かれたんだ。
だって、ウン十万だよ?
一枚取りのカスタムモデルで、かつ銀メッキ仕上げ。
それは高校生が買うには、覚悟がいるものだったはずだ。
「定期演奏会で贈ってくれた花束は、小学生だった
「……うん」
それは、超ハズイ思い出。
花屋のお姉さんに根掘り葉掘り聞かれながら、オレンジ色のバラを選んだ。
「お年玉を使ってくれたんだってね」
「え」
なんで知ってるんだ?!
……あ、受付で俺がしゃべったんだった。
バカ!小学生の俺のバカ!
「だから、私も貯めていたお年玉で買ったトランペットを贈りたかったの。
サワサワサワサワと、稲穂が風に歌っている。
蛍がからかうように俺の鼻先をかすめて飛んで、光の軌跡を描いて去っていった。
「あのさ」
「うん?」
「あのとき選びたかったのは、オレンジ色のバラじゃなかったんだ」
夜が、熱くなった俺の顔を隠してくれている。
「ホントは、
「ご、ごめん。私ってほら、パサパサ系だから。その意味って、すぐにわかんないの」
「パサパサ系?」
「アイ子がそう言うのよ、脳みそパサパサって。だから、ちゃんと教えて?」
「……いいよ。今、贈りたいのはやっぱり
「ちゃんと教えてない。意地悪な先生だなぁ」
声がいじけていて、不満顔をしている
ああもう、どうしてこんなにカワイイんだろう。
好きで好きでしょうがない想いがあふれて、言葉にせずにはいられない。
だから、俺は腹を
「
惑いながら
あの原っぱで、サバイバルシートを巻きつけてもらったときよりもずっと、ずっと。
「逃げないで。もうどこにも行かないで」
「逃げたりしないよ。……12本は?」
暗闇のなかでゆっくりと背中を
「12本はね、”私とつきあってください”。……好きだよ、
ああもう、どうしてこういう肝心なときに、俺はブルブル震えているんだろう。
兄ちゃんのスニーカーをズタボロにして怒られてたときの、ラッキーみたいじゃないか。
心臓なんかドクドク鳴っていて、絶対バレてるに違いない。
情けなくて泣いちゃいそうな俺の背中に、
「あのね、
「う、ん」
震えるな、俺の声。
「私、6歳も年上なのよ」
「知ってる、よっ」
「来年の今ごろは、忙しくなると思うの」
「また?また会えなくなるの?!」
「会えなくなるどころじゃないと思う」
「ナニそれっ、どっか行くの?じゃあ俺、高校やめてついてくからっ」
「バカねぇ」
「バカって言った!悪口言われたっ」
震えが抑えられない俺の胸に、
「来年の9月ごろ、教育実習に行く予定なの。母校の高校に」
母校の高校。ふーん。
教育実習。へーえ。
うん、知ってる。
先生になりたい大学生が、中学のときにも学校に来てた。
って、あれ?
「
「そうなの。だから、バラ12本を受け入れるとね、教え子と
そういう
関係になっちゃって、教員免許取得に支障がでないかしら」「ぐぁ」
年頃の男子高校生に、意味深に「
そういう
」なんて言わないでいただきたい。鼻血が出ちゃうじゃん。
いやいや、取りあえず煩悩は置いといて、だ。
こんなことで
「奥手の体育の先生に、合コンでイケイケを勧めたんだけど、えっらいキレられたんだよ。教え子と合コンしろって言ったわけじゃないけど、誤解したかなと思ってさ」
「なにをやっているの、あなたは」
胸元に落された、呆れたような
「ちょっと調べたら、
まだOKはもらってないけど、ここはたたみかけるしかない。
「年上の余裕で俺を
「泣いてたね」
……はい、泣きました。
気がつけば、
その手は1-Aの教室で抱きしめてくれたときとは違っていて、とても甘い。
「今って、
「持ってない。帰ったらプレゼントする」
「今がいい」
珍しい
「えと、ごめん、」
「じゃあ」
「バラの代わりに、
俺の唇に、柔らかくて温かいものが一瞬だけ触れて、離れていく。
「も、
キスしてもらったと気づいたとたん、俺のどこかがプチン!と焼き切れた。
「
大好きな人をぎゅうぎゅう抱きしめて、頬ずりをして、おでこにもまぶたにも鼻にも頬にも、キスを落としていく。
そしてもちろん、その唇にも。
「ん……」
「俺とつき合って、
ああ、やっと伝えることができた。
色
「俺は
星空の下、蛍が恋の光をかわし合う夜。
三年間、呼びたくても呼べなかった名前に想いを乗せれば、その名前を持つ
「俺の恋人になってください、
「……はい」
嬉しくて、嬉しくて嬉しくて。
腕の中に閉じ込めた
「くすぐったいったら」
こんなことも許されるのかと思ったら、もう感激しかない。
「
「ぐぇ」
力いっぱい抱きしめた
「く、くるし、苦しいからっ。……このポンコツ!」
「初めて
「なんで嬉しそうなの?!」
想いが届いて、いろんな
この腕に大切な人をとらえることができた夏の日の夜は、一生忘れない、俺の宝物だ。