覆水盆に返るは運命

文字数 3,037文字

「ご無沙汰しています、先生」
 浪人して、努力の末、進学先が決まった雪下(ゆきした)が、なにやら悲壮な決意を込めた顔をしながら挨拶に来てくれた。
「聞いていますよ。合格おめでとう、雪下(ゆきした)
「ありがとうございます。それで田之上先生、お願いがあるのですが……」
 そうして託されたのは、あれほど大事にしていたトランペットが入っているケースと、鮮やかな緑の封筒。
 「木場野(きばの)羊介(ようすけ)くんが入学したら渡してください」と言われたけれど、その子が入学すると伝えられた年を数えれば、彼女とはずいぶんと年齢が離れている。
 ふたりの関係はわからないけれど、とにかく雪下(ゆきした)には事情があって、とても大切なものを預けられたのだと思った。
 こんなことをしなければ会えない相手とは、どんな人物なのだろう。
 ふたりの間に、どんな「物語」が(つむ)がれたのか。
 気にはなったが、切なくて消えてしまいそうな雪下(ゆきした)を見れば、黙って受け取るしかなかった。
 木場野(きばの)羊介(ようすけ)という子が入学して、この手紙を受け取ってくれますようにと、心から願いながら。

 それから、OB訪問で雪下(ゆきした)の姿を見かければ、思い出すこともあったけれど。
 慌ただしい日々に「木場野(きばの)羊介(ようすけ)」という名前も忘れかけていた、二年後の入学式の日。
 そろそろ帰宅しようかと、デスク周りを片付け始めていたときのことだ。
「1年A組、木場野(きばの) 羊介(ようすけ)です」
 はっきりとした声で告げる、その少年がやってきたのは。
 正直、本当に会えるとは思っていなかったのだが、それは致し方ないだろう。
 若い人の二年間は大きい。
 その間に、やりたいことも会いたい人も、変わっていくのは必然なのだから。
 けれど、整った顔を緊張でこわばらせたその背の高い少年は、まっすぐな目をそらすことなく、約束を果たされにやってきた。
雪下(ゆきした)から預かっていますよ」
 託されたものを渡せばその手が震えていて、彼がどれほど待ちわびていたのかが伝わってくる。
 こんなに惹かれ合う魂が、どうして分かたれていたのか。
 ただの仲介者には知る由もないが、ここからまた、ふたりの物語が始まるのだろう。
 感慨深く彼の背中を見送り、あとは傍観者に徹するつもりだったのに。
 どういうわけだか、運命の神は僕を仲介役から下す意思はないようだった。

「え、木場野(きばの)くんは、吹奏楽部に入るんですか?水泳部ではなくて?」
 入部届を持ってきた木場野(きばの)羊介(ようすけ)に戸惑っていると、すぐに水泳部顧問の横田先生から横やりが入った。
「そうだぞ、木場野(きばの)、なにもったいないことしてんだ。記録が泣くぞ?」
「泣くわけないでしょ。あんなのただの数字ですよ。どんどん塗り替えられなきゃダメなもんだし」
「いや、それをやるのがオマエの使命だろう!」
「使命なわけないじゃん。だって、記録を超えていくのは、べつに俺じゃなくてもよくないですか?」
「いや、そうだけどっ」
 ふたりのやり取りを聞いているうちに、どうにも腑に落ちない気持ちになってくる。
 大会レコードを出すということが、それがたとえ中学生だとしても、いや、中学生だからこそか。
 どれほど大変なことかは想像に難くない。
 時間を費やして、体を極限まで鍛えぬいて、そうしてやっとつかんだものだろうと思うのだが。
 木場野(きばの)羊介(ようすけ)は、そこになんの価値も見出してはいないらしい。
「まあ、いいじゃないですか。本人のやりたいという気持ちを応援しましょう」
 と横田先生をなだめつつ、それからしばらく、木場野(きばの)羊介(ようすけ)の行動をそれとなく観察してみると。
 部活での演奏に耳を傾ければ、トランペットの技術力は高い。
 空いた時間に体育の授業をのぞいてみれば、水泳だけでなく、スポーツ全般においてキレのある動きをするようだ。
 高身長に、整った容姿。
 成績も悪くはない。
 けれど、そのどれをほめられても嬉しそうではなく、まるで興味のない話を振られて退屈だ、とでもいうような顔をするばかりだ。
 そんな彼のことがあまりに気にかかって、部活中の姿を音楽室の外からじっくりと観察してみると。
 確かにトランペットはうまい。
 けれど、出てくる感想はそれ以上のものがなかった。
 彼が何を望んで曲を演奏しているのかが、さっぱり見えてこない。
 あれだけ実績のある水泳をやめてまで入った吹奏楽部なのに、なんの熱も感じられないのだ。
 そして、それ以上に気になったのが、ほんのりと冷たい彼のまなざし。
 覇気がないわけではない。
 だが、いつだって、どこか遠くを見ているような目をしている。
 中学校の内申書を見ても、ヒントになるような事柄は記載されていなかった。
 ならば本来の気質なのかと思えば、たまには仲間たちと冗談を言い合って、弾けるように笑っていることもある。
 どうにも掴みどころのない少年ではあるが、ただひとつわかったことは、手にしているどれもが、彼にとってはどうでもいいものらしいということ。
 それは、どれほど虚しくて孤独だろうかと胸が痛くなる。
 まだ十代の若者が、心を震わせることなく生きているなんて。

 ……と、思っていたこともあったなぁ。
萌黄(もえぎ)さん、この先にさ、山百合が咲いてたから見に行こう!」
 合宿の日程も、もう午後に帰途につくだけという朝。
 今日だけは練習はなく、心ゆくまで思い出を作る日だ。
 今年は民宿のオーナーが運転するライトバンで、近くの河原に遊びに来ている。
 現役もOBも団子になって水かけ遊びをしている様子は、いつ見ても微笑ましい。
 が、もっと微笑ましいのは……。
「上流のほうなんて危なくない?」
「ないって。今、俺が確認してきたから。転ばないルートを案内するよ」
 雪下(ゆきした)の言葉にかぶせてたたみかける木場野(きばの)は、「どうにかしてふたりっきりになりたい」という下心を隠す様子もない。
 微笑ましいを通り越して、バカバカしくなってくるくらいだ。
 遊びながらも笑いを堪えているほかの部員の様子を見れば、その思惑は周知の事実なのだろう。
「もー、仕方ないなぁ。アイ子!」
「はいはーい。いってらー。3時間経っても帰ってこなかったら、捜索願い出しとくねー」
「3時間後は出発してるじゃないの。そこは30分後にしておいて?」
「えっ、30分しか一緒にいてくれないの?!」
羊介(ようすけ)くんは黙って。ほら、行くよ!」
 すこぶる幸せそうな木場野(きばの)の腕を、雪下(ゆきした)がぐいぐいと引っ張っていく。
「……大型犬の散歩かな?」
 鬼龍院(きりゅういん)のつぶやきに、内心で大いにうなずいて賛成をした。

 雪下(ゆきした)に再会したとたん、それまで僧侶のように凪いでいた木場野(きばの)の目が、まるで狼が獲物に狙いを定めたような炎を宿した。
 命が通う音で演奏する曲は心の熱情を伝え、聞く者をとらえ離さない。
 同時に、雪下(ゆきした)の変化にも目を見張るものがあった。
 いつも一歩引いて、俯瞰で視ているその景色に、まるで自分はないものとして扱っているような子だったけれど。
 木場野(きばの)のことだけは、その手で守ると決めているらしい。

 このふたりがいつ、どこで出会い、どんな絆を深めてきたのかはわからない。
 そして、どうして一時は距離が離れ、また再会できたのかも。
 けれど、人が出会い、寄り添い別れ、それでも思い合う魂が人生を織りなしていく様を、この目で見ることができた。
 それは、ひとつの奇跡と言っていいに違いない。
 
 孤独を味わい、それでも希望を捨てなかった雛鳥たちよ。
 これからも、幾たびもまた涙する日はあるだろう。
 それでもどうか、幸せになることを諦めないでいてほしい。
 その願いを込めた演奏(こえ)は、大切な人にきっと届くから。
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