縁あれば千里の道も遠としとせず
文字数 4,482文字
俺の甘っちょろい妄想を粉々にしてみせたその鞭 は、音楽室全体を凍らせて、しばらく誰も何も言えない状態が続いた。
「い、いや、ゆっきー先輩」
しばらくして、静寂を破ったのはトランペットのパートリーダー。
「木場野 は上手 いですよ。彼がいると曲の迫力が違います。うちの部には、なくてはならない人材です」
「そうね、とても上手ね。でも、音に心がないの。正確過ぎて、人工音みたい」
「そこは、まだ1年だから」
「木場野 君」
俺を擁護してくれたパートリーダーの言葉にかぶせるようにして、穏やかなバリトンボイスが俺の名前を呼ぶ。
「顔を洗っておいで」
その指示に無言で立ち上がると、俺はうつむいて音楽室を飛び出した。
「雪下 。キミが泣かせたんだから、責任を取らないといけないよ。致命傷を与えるようじゃあ、鞭 役として優秀とは言えないなあ」
背中を追いかけてきた、たしなめるような田之上先生の声で俺は気がついた。
おねえさんを見ているのがつらくて席を立ったけど、そうか。
俺は今、泣いてるんだな。
そう自覚したとたんに、涙がどっとあふれ出てくる。
「顔を洗ってこい」と言われたけれど、洗ったところで、こんな精神状態では戻れない。
どうしたらよいのかわからない俺の背後から、小走りで近づいてくる足音が聞こえてきた。
「待って!」
おねえさんが追いかけてきてくれたとわかっても、足を止めることができない。
そのまま昇降口にたどり着いてしまえば、靴に履き替えて帰ってしまおうかなんて、子供っぽい考えも浮かんでくる。
「待って、羊介 くん!」
おねえさんの声で名前を呼ばれたとたんに、俺の足はぴたりと動かなくなった。
……パブロフの犬かよ。
「羊介 くん」
走り寄ってきた人が俺の腕を捕まえて、くるりと前に回ってくる。
懐かしい声と、懐かしい手の感触。
けれど、その顔を、表情を見るのが怖くて、俺は顔を上げられなかった。
「羊介 くんは何組なの?」
「……え、A組」
いきなりクラスを聞かれて、思わず正直に答えてしまう。
「1-Aの教室は、今もまだ南棟の一番上?」
黙ってうなずいた俺の手を握ったおねえさんは、そのまま階段をのぼり始めた。
「変わってないなあ」
教室に入っても俺の手を離さずに、おねえさんは窓際へと歩いていく。
「ここから見える海、懐かしい。私も1-Aだったんだよ」
「……ぐすっ……」
「そうなんだ」と言おうとしたけれど、鼻をすするのが精一杯だった。
「座って」
肩を押されて、窓際の一番前の席に座らされた俺は、それでもまだおねえさんの顔を見ることができない。
「羊介 くん」
「ぐすっ」
「よ・う・す・けくん」
おさねえんの両手が俺の頬を包み込んで、親指で涙を拭き取ってくれた。
されるまま目だけを上げると、おねえさんは困ったような顔で笑っている。
「大きくなったねぇ。見違えちゃったよ」
おねえさんの指が、何度も何度も俺の涙を拭 ってくれた。
「俺、とか言うんだね」
「……悪い?」
「悪くないよ。羊介 くんが悪いことなんか、ひとつもないよ」
「……トランペット、好きじゃないって」
「悪いとは言っていないでしょう。すごく上手でびっくりしたよ?ただ、心から好きではないんだろうなって思って。……そうさせてしまったのは、私?」
「え?」
「私のせいで、羊介 くんは泳ぐことをやめてしまったの?」
「ちが、違うよ!俺はスイブに入るって決めてた。だって」
顔を上げて、悲しそうな顔をしているおねえさんの目をまっすぐに見つめる。
「約束した。ずっと待ってた。嫌われちゃったのかなとか、忘れられちゃったのかなって思ったけど、モエギおねえさんはそんな人じゃないって信じてた。だから……、だからっ」
「うん。ごめんね」
眉を下げたおねえさんが、俺の頭をゆっくりとなでてくれた。
優しいその手の感触が、凍え閉ざされていた俺の心に熱を通わせていく。
「う……、ふぅ……」
思えば俺は、あの手紙をもらって以来、泣いたことはない。
だから、今ガキみたいに泣いてもしょうがないと思うんだよ。
「長く待たせてごめんなさい」
うつむいて涙を流し続ける俺の肩に、おねえさんの両腕が回される。
そして、そのまま優しく抱きしめてくれた。
相変わらずふわふわで、あったかくて、いい匂いで。
ああ、夢に見たハグだ!抱き返してもいいのかな、ダメかなとモダモダ考えている途中で、俺の背中をリズミカルに叩くおねえさんの手に気がついた。
……これは、子供だった俺をなだめるときに、母さんがやっていた仕草と同じじゃないか。
おねえさんにとっては、いまだに俺は「小さい男の子」なのだろうか。
こうしてはいられない。
俺はおねえさんの肩をぐっと押して体を離すと、両手でごしごしと目元を拭いて立ち上がった。
「ホントに大きくなっちゃって。何センチあるの?」
ずっと見上げていたおねえさんを見下ろしていると思うと、胸に迫るものがある。
「182」
「まぁ~。声も低くなっちゃって」
「当たり前だろ。いくつになったと思ってんだよ」
「口も悪くなっちゃって」
やきもきしていたのは俺だけだったみたいで、その余裕な態度が面白くない。
「んだよ。久しぶりなのに」
「そうだね、久しぶり。会いたかったよ、羊介 くん。ずっと会いたかった」
「っ!」
それは聞きたかった言葉だけど、ド直球のド真ん中だ。
ストライクゾーン直撃で倒れそう。
「会って謝りたかった。約束を破ったことで、どれほど傷つけているだろうかって心配だった」
「事情はわかったから、もういいよ。手紙、田之上先生からもらった。……トランペットと一緒に」
「それが原因?」
「え?」
「それで、スイブに入れって言われたと思った?冴木 君に聞いてびっくりしたの。てっきり水泳部に入ったと思っていたから。まさか、エイを抜いたスイブに入るとはね?」
にっと歯を見せて笑うおねえさんは
ダジャレ好きは変わらないんだなってほっこりして、歯まできれいだって気がついてドキッとする。
「強制したつもりはないのよ」
「されてない」
俺は強めに首を横に振って、おねえさんの右手をぎゅっと握った。
「ただ、モエギおねえさんとの約束を守りたかっただけだよ。この高校とスイブに絶対入るっていう、あの夏の日の約束を」
「初志貫徹っていうこと?カッコイイねぇ」
からかうように笑うおねえさんが、ちょっと小憎らしい。
本気なのに。
本気で、その約束のことしか考えてなかったんだよ、俺は。
「カッコイイとかじゃなくってさ」
ムッとしながら、俺は両手の中にその左手も一緒に閉じ込めた。
「それだけが、頼りだったんだから」
その手を引き寄せながら一歩前に出ると、おねえさんが上目遣いで俺を見上げる。
こ、これは反則技だろう。
カワイイが過ぎるんじゃない?
止まる、心臓が止まる!
なんて内心は悟られないように、俺は表情筋を引き締めた。
「さっき、鞭 を振るわれて気がついたよ。モエギおねえさんの言うとおり。俺は、好きでトランペットを吹いてるわけじゃなかった。義務感で続けてたんだと思う。泳ぐことと同じように」
「泳ぐことも?」
肩が触れ合うほどの距離での囁 きが、俺の体の芯を熱くさせる。
「そうだよ。泳いでいれば、いつかきっと会えるって信じていられたから。おねえさんがウソつくはずないんだって」
おねえさんの眉毛が切なそうに寄せられて、その目が潤んでいく。
「そんな顔しないで。わかってほしいのは、水泳をやめたのもスイブに入ったのも、全部俺の意思だってこと」
泳ぐこともトランペットを吹くことも、たったひとつの願いごとを叶えるためのものだった。
「でも、どうせならちゃんと好きになりたい。だから、俺に教えて、モエギおねえさん。トランペットを好きになる方法を。……ダメ?」
おねえさんの表情がふわっと緩んで、淡いけれど眩 しい、早春のような笑顔が浮かぶ。
「ダメじゃないよ。またあの原っぱでやる?まだあったね、懐かしの秘密基地」
「秘密じゃなくなってたよ」
「ね」
くすくすと笑い合って、俺はおねえさんの手を離した。
「俺は約束を守ったんだから、今度はモエギおねえさんの番だよ」
制服のポケットからスマートフォンを取り出して、俺はおねえさんの目の前にぐいっと突き出す。
「連絡先、交換しよう。だいたいさぁ、手紙にケー番、書いといてくれたらよかったじゃねぇか」
「あぁ、そうだねぇ」
今思いつきましたという顔をしながら、おねえさんはネックホルダーに下げていたスマートフォンを外した。
「ったく。ホントにちょっと抜けてて」
「もちろん羊介 くんのことだから、それは悪口ではないよね?」
「当たり前だろ。抜けててカワイイって言おうとした」
「カワイイって言っておけば済むとか思ってない?」
「思ってない。ホントにカワイイし」
おねえさんの頬がぱっと染まったのを見て、俺はほくそ笑む。
それは、小学生の俺がいくら「カワイイ」と伝えても、見せてはくれなかった顔だから。
「あと、もうひとつの約束もね」
「……もうひとつ?」
怒ったような目で見上げてくるのも、ありえないくらいカワイイし、唇もちょっと尖らせていて、こ、これは「アヒル口」というやつでは!
うわぁ、こんなにカワイイもの、初めて見たよ。
「今度会えたら、名前で呼んでもいいって返事をくれたよね。……萌黄 さん」
「そ、そこは先輩、にしない?」
「萌黄 先輩?……うーん、どうしようかな」
「せめて、みんながいる前では!」
両手を合わせて拝む姿もウソみたいにカワイイし、どうやらおねえさんの成分の半分は、カワイイでできているらしい。
「ふーん。ってことは、萌黄 さんって呼んでいいんだ。……ね、萌黄 さん」
「もー。……まあ、いいけど」
こんな拗 ねた顔もするなんて、あのころは想像したこともなかった。
あの原っぱでの「モエギおねえさん」は初めての友だちで、唯一の先生だったから。
「これからよろしく、萌黄 さん」
改めて右手を差し出すと、祈って、願い続けた人の手が重ねられた。
あったかくて、柔らかい。
夢じゃない萌黄 さんの手の全部は、幸せでできていた。
「任せなさい。絶対トランペットを好きにさせてあげる。誰が聞いても、羊介 くんの想いが届くように」
俺の想いは、たったひとりに届けばいいけれど。
そう思いながらうなずくと、萌黄 さんが俺の背中をポンと叩いた。
「じゃあ、顔洗ってから音楽室戻ろうか。午後は羊介 くんの隣で吹くよ」
「え?」
「あれ、聞いてない?お昼をはさんだ午後の練習は、OBが現役に混じって演奏するんだよ」
「萌黄 さん、トランペット続けてたの?」
「んふふふふ」
懐かしい悪い笑顔に、心臓がキュンと音を立てる。
「努力していたのはキミだけではないのだよ。思い知ってもらうよ?」
それは楽しみのような、ちょっと緊張するような。
どちらにしても幸せで、そして、俺は心のなかでつぶやいた。
思い知るのは萌黄 さんのほうだよ。
俺の本当の初志貫徹が何なのかは、これからじっくり教えてあげるんだから。
「い、いや、ゆっきー先輩」
しばらくして、静寂を破ったのはトランペットのパートリーダー。
「
「そうね、とても上手ね。でも、音に心がないの。正確過ぎて、人工音みたい」
「そこは、まだ1年だから」
「
俺を擁護してくれたパートリーダーの言葉にかぶせるようにして、穏やかなバリトンボイスが俺の名前を呼ぶ。
「顔を洗っておいで」
その指示に無言で立ち上がると、俺はうつむいて音楽室を飛び出した。
「
背中を追いかけてきた、たしなめるような田之上先生の声で俺は気がついた。
おねえさんを見ているのがつらくて席を立ったけど、そうか。
俺は今、泣いてるんだな。
そう自覚したとたんに、涙がどっとあふれ出てくる。
「顔を洗ってこい」と言われたけれど、洗ったところで、こんな精神状態では戻れない。
どうしたらよいのかわからない俺の背後から、小走りで近づいてくる足音が聞こえてきた。
「待って!」
おねえさんが追いかけてきてくれたとわかっても、足を止めることができない。
そのまま昇降口にたどり着いてしまえば、靴に履き替えて帰ってしまおうかなんて、子供っぽい考えも浮かんでくる。
「待って、
おねえさんの声で名前を呼ばれたとたんに、俺の足はぴたりと動かなくなった。
……パブロフの犬かよ。
「
走り寄ってきた人が俺の腕を捕まえて、くるりと前に回ってくる。
懐かしい声と、懐かしい手の感触。
けれど、その顔を、表情を見るのが怖くて、俺は顔を上げられなかった。
「
「……え、A組」
いきなりクラスを聞かれて、思わず正直に答えてしまう。
「1-Aの教室は、今もまだ南棟の一番上?」
黙ってうなずいた俺の手を握ったおねえさんは、そのまま階段をのぼり始めた。
「変わってないなあ」
教室に入っても俺の手を離さずに、おねえさんは窓際へと歩いていく。
「ここから見える海、懐かしい。私も1-Aだったんだよ」
「……ぐすっ……」
「そうなんだ」と言おうとしたけれど、鼻をすするのが精一杯だった。
「座って」
肩を押されて、窓際の一番前の席に座らされた俺は、それでもまだおねえさんの顔を見ることができない。
「
「ぐすっ」
「よ・う・す・けくん」
おさねえんの両手が俺の頬を包み込んで、親指で涙を拭き取ってくれた。
されるまま目だけを上げると、おねえさんは困ったような顔で笑っている。
「大きくなったねぇ。見違えちゃったよ」
おねえさんの指が、何度も何度も俺の涙を
「俺、とか言うんだね」
「……悪い?」
「悪くないよ。
「……トランペット、好きじゃないって」
「悪いとは言っていないでしょう。すごく上手でびっくりしたよ?ただ、心から好きではないんだろうなって思って。……そうさせてしまったのは、私?」
「え?」
「私のせいで、
「ちが、違うよ!俺はスイブに入るって決めてた。だって」
顔を上げて、悲しそうな顔をしているおねえさんの目をまっすぐに見つめる。
「約束した。ずっと待ってた。嫌われちゃったのかなとか、忘れられちゃったのかなって思ったけど、モエギおねえさんはそんな人じゃないって信じてた。だから……、だからっ」
「うん。ごめんね」
眉を下げたおねえさんが、俺の頭をゆっくりとなでてくれた。
優しいその手の感触が、凍え閉ざされていた俺の心に熱を通わせていく。
「う……、ふぅ……」
思えば俺は、あの手紙をもらって以来、泣いたことはない。
だから、今ガキみたいに泣いてもしょうがないと思うんだよ。
「長く待たせてごめんなさい」
うつむいて涙を流し続ける俺の肩に、おねえさんの両腕が回される。
そして、そのまま優しく抱きしめてくれた。
相変わらずふわふわで、あったかくて、いい匂いで。
ああ、夢に見たハグだ!抱き返してもいいのかな、ダメかなとモダモダ考えている途中で、俺の背中をリズミカルに叩くおねえさんの手に気がついた。
……これは、子供だった俺をなだめるときに、母さんがやっていた仕草と同じじゃないか。
おねえさんにとっては、いまだに俺は「小さい男の子」なのだろうか。
こうしてはいられない。
俺はおねえさんの肩をぐっと押して体を離すと、両手でごしごしと目元を拭いて立ち上がった。
「ホントに大きくなっちゃって。何センチあるの?」
ずっと見上げていたおねえさんを見下ろしていると思うと、胸に迫るものがある。
「182」
「まぁ~。声も低くなっちゃって」
「当たり前だろ。いくつになったと思ってんだよ」
「口も悪くなっちゃって」
やきもきしていたのは俺だけだったみたいで、その余裕な態度が面白くない。
「んだよ。久しぶりなのに」
「そうだね、久しぶり。会いたかったよ、
「っ!」
それは聞きたかった言葉だけど、ド直球のド真ん中だ。
ストライクゾーン直撃で倒れそう。
「会って謝りたかった。約束を破ったことで、どれほど傷つけているだろうかって心配だった」
「事情はわかったから、もういいよ。手紙、田之上先生からもらった。……トランペットと一緒に」
「それが原因?」
「え?」
「それで、スイブに入れって言われたと思った?
にっと歯を見せて笑うおねえさんは
あの頃
のままで、懐かしさで胸が苦しい。ダジャレ好きは変わらないんだなってほっこりして、歯まできれいだって気がついてドキッとする。
「強制したつもりはないのよ」
「されてない」
俺は強めに首を横に振って、おねえさんの右手をぎゅっと握った。
「ただ、モエギおねえさんとの約束を守りたかっただけだよ。この高校とスイブに絶対入るっていう、あの夏の日の約束を」
「初志貫徹っていうこと?カッコイイねぇ」
からかうように笑うおねえさんが、ちょっと小憎らしい。
本気なのに。
本気で、その約束のことしか考えてなかったんだよ、俺は。
「カッコイイとかじゃなくってさ」
ムッとしながら、俺は両手の中にその左手も一緒に閉じ込めた。
「それだけが、頼りだったんだから」
その手を引き寄せながら一歩前に出ると、おねえさんが上目遣いで俺を見上げる。
こ、これは反則技だろう。
カワイイが過ぎるんじゃない?
止まる、心臓が止まる!
なんて内心は悟られないように、俺は表情筋を引き締めた。
「さっき、
「泳ぐことも?」
肩が触れ合うほどの距離での
「そうだよ。泳いでいれば、いつかきっと会えるって信じていられたから。おねえさんがウソつくはずないんだって」
おねえさんの眉毛が切なそうに寄せられて、その目が潤んでいく。
「そんな顔しないで。わかってほしいのは、水泳をやめたのもスイブに入ったのも、全部俺の意思だってこと」
泳ぐこともトランペットを吹くことも、たったひとつの願いごとを叶えるためのものだった。
「でも、どうせならちゃんと好きになりたい。だから、俺に教えて、モエギおねえさん。トランペットを好きになる方法を。……ダメ?」
おねえさんの表情がふわっと緩んで、淡いけれど
「ダメじゃないよ。またあの原っぱでやる?まだあったね、懐かしの秘密基地」
「秘密じゃなくなってたよ」
「ね」
くすくすと笑い合って、俺はおねえさんの手を離した。
「俺は約束を守ったんだから、今度はモエギおねえさんの番だよ」
制服のポケットからスマートフォンを取り出して、俺はおねえさんの目の前にぐいっと突き出す。
「連絡先、交換しよう。だいたいさぁ、手紙にケー番、書いといてくれたらよかったじゃねぇか」
「あぁ、そうだねぇ」
今思いつきましたという顔をしながら、おねえさんはネックホルダーに下げていたスマートフォンを外した。
「ったく。ホントにちょっと抜けてて」
「もちろん
「当たり前だろ。抜けててカワイイって言おうとした」
「カワイイって言っておけば済むとか思ってない?」
「思ってない。ホントにカワイイし」
おねえさんの頬がぱっと染まったのを見て、俺はほくそ笑む。
それは、小学生の俺がいくら「カワイイ」と伝えても、見せてはくれなかった顔だから。
「あと、もうひとつの約束もね」
「……もうひとつ?」
怒ったような目で見上げてくるのも、ありえないくらいカワイイし、唇もちょっと尖らせていて、こ、これは「アヒル口」というやつでは!
うわぁ、こんなにカワイイもの、初めて見たよ。
「今度会えたら、名前で呼んでもいいって返事をくれたよね。……
「そ、そこは先輩、にしない?」
「
「せめて、みんながいる前では!」
両手を合わせて拝む姿もウソみたいにカワイイし、どうやらおねえさんの成分の半分は、カワイイでできているらしい。
「ふーん。ってことは、
ふたりっきり
のときは、「もー。……まあ、いいけど」
こんな
あの原っぱでの「モエギおねえさん」は初めての友だちで、唯一の先生だったから。
「これからよろしく、
改めて右手を差し出すと、祈って、願い続けた人の手が重ねられた。
あったかくて、柔らかい。
夢じゃない
「任せなさい。絶対トランペットを好きにさせてあげる。誰が聞いても、
俺の想いは、たったひとりに届けばいいけれど。
そう思いながらうなずくと、
「じゃあ、顔洗ってから音楽室戻ろうか。午後は
「え?」
「あれ、聞いてない?お昼をはさんだ午後の練習は、OBが現役に混じって演奏するんだよ」
「
「んふふふふ」
懐かしい悪い笑顔に、心臓がキュンと音を立てる。
「努力していたのはキミだけではないのだよ。思い知ってもらうよ?」
それは楽しみのような、ちょっと緊張するような。
どちらにしても幸せで、そして、俺は心のなかでつぶやいた。
思い知るのは
俺の本当の初志貫徹が何なのかは、これからじっくり教えてあげるんだから。