チャンスの女神は前髪しかないから、後ろ髪は引かれない
文字数 4,220文字
「はぁ」
「どしたの、
隣に座るアイ子が顔をのぞき込んできた。
「こっちまで憂鬱になるから、ため息禁止」
「ごめん。……憂鬱って漢字で書ける?」
「……今、チョー憂鬱になったぞ」
ジト目でにらむアイ子をスルーして、もう一度ため息をつく。
中途半端なエセ家庭教師ごっこは、あの子のためにもならない。
そう決めて切り出した「終了宣言」だった。
だけど、もうちょっと優しいやり方があったのではと、ずっと後悔している。
あの日、別れの直前に向けられた「どうして」と問う
雨が降ってきちゃったから、
雨が降っても降らなくても、きっとあんなふうにチケットを押し付けて、背中を向けたんだと思う。
最初は同情もあったかもしれない。
どんな悪口にも黙ってうつむいている背中を、ペアを組んだときの嬉しそうな顔を、丸ごと守ってあげたいと思った。
だけど、純粋に慕ってくれる様子はくすぐったいほど可愛くて。
「勉強を教えてくれる人の時間を無駄にしたくない」と宣言していた姿には、感動して足が動かなかったほどだ。
だというのに、同時に羨望と嫉妬を抱いている自分にも気づいてしまった。
新しい知識を得て、自信をつけて、見違えるほど強くなった
そして、怖くなった。
勉強を教えて、慕われていい気になっているけど、自分はあの子の出会いや成長を邪魔しているだけかもしれない。
「
ゴギっ!
突然のアイ子の衝撃発言に、英訳をしていたシャーペンの芯が折れた。
「な、な?!」
「だって、定期演奏会で
「ばっ」
か言ってんじゃないよと続けようとして、静かな自習室に響いた自分の声に口を閉じる。
「誰がそんなこと言ったのよっ」
声を落として詰め寄ると、アイ子は片頬を
「そりゃあ、未練たっぷりのイッチーじゃん」
「うわぁ」
いまだに、三日に一回はメッセージアプリに連絡を入れてくる元カレの名前を聞いて、心底うんざりする。
ブロックしたいけれど、卒業までは何かと顔を合わせるだろうから、我慢しかない。
「相変わらず復縁したいみたいじゃん。許す気はないんだよね?」
「許すも何もないよ。怒ってるわけじゃないもん」
「決定打は推薦の件でしょ?秘密にしてたの、
「そんな、その他大勢と同列視されるのが、カノジョって言えるの?」
何を言われても反論できる、その頭の回転の速さを。
何があっても揺るがない自信ある態度を。
好ましいと思っていたこともあるけれど。
彼とは、本当の意味でケンカをしたことがないと。
相手から言いくるめられるか、不機嫌な態度が面倒くさくて、こっちが気持ちを飲み込むか。
どちらにしても、相手を刺激しないようにやり過ごす自分は、かつての
彼が予備校を黙ってやめたときも、推薦が決まる前に連絡が途絶えたときも。
合格を人づてに聞かされたときでさえも。
言いたいことは山のようにあったのに、”理解あるカノジョ”を演じて心を殺した。
けれど、
相手をまっすぐ見据えて、理不尽と戦う道を選べるようになった。
「市島くんはね、自分のオモチャを取り上げられそうになって、駄々をこねてる子供と同じだと思う」
「ほぅほぅ」
「思い通りにならないことが許せないだけだよ」
「ほぅほぅ」
右手でシャーペンをクルクル回しながら、アイ子はフクロウと化してうなずいている。
「独占欲というか、執着ってことね。たださ、あの少年にだってあるんじゃない?」
「なにが?」
「独占欲」
「あの子に?」
「まさかって顔だね。……あの花束、お年玉つぎ込んだらしいよ。小学生がさ、相当、背伸びした感じじゃん?
「えっ、ナニそれ、誰から聞いたの?ちょっとアイ子さん、コーヒー
「”
予備校の自動販売機のなかでもお高めの銘柄を指定されたが、うなずいてアイ子の腕を引っ張った。
「ほら、早く!」
「やだあ、
コイツめ。
あとで消しゴムにシャー芯を仕込んでやる。
極太の。
じろりとひとにらみして、アイ子を置いて自習室を出た。
◇
「受付の2年が聞いたんだって。”すごい花束ね、お母さんと選んだの”って」
ニヨニヨ笑いながら「贅沢ミルク」を片手に話すアイ子が小憎らしい。
「今日は誰と来たの?」
白シャツにチノパン。
スマートカジュアルな装いで、大きな花束を抱えて上目遣いをする少年に
「え、えと、ひ、ひとりで、来ました。あの、これ」
「ひとりできたの?えらいねぇ!誰か知り合いが出演するの?」
「はい」
「うっわ、カワイイね。将来イケメンになりそうじゃない?」
「ほっぺが真っ赤」
受付に立つ女子高生ふたりは、
「花束はその人に?」
「すごくステキね。お母さんと選んだの?」
とたんに少年の顔が険しくなった。
「自分で、選びました。ちゃんとお年玉使って。モエギ色のイメージにしてくださいって言って」
「
少年の腕のなかの花束を、受付係のひとりがまじまじと見つめる。
鮮やかな緑のラッピングペーパーに包まれているのは、オレンジ色のバラを囲むカスミソウと、レモングリーンのデンファレ。
アクセントのグリーンにはドラセナに、くるんとカールさせたミスカンサス。
明らかに高価そうな花束の色合いに、受付の女子高生はピンとくる。
「もしかして、
「そ、そうです。モエギおね……。
「やっぱり。呼んでこようか?」
「いっ、いいです!」
少年の大きな声に、今にも受付を出ようとしていた2年の足が止まった。
「高校最後の演奏会なんでしょう?ジャマ、したくないから。手紙入れたから、大丈夫です」
花束を渡してきた少年を見送って、ふたりはすぐに顔を寄せ合う。
「
「……すごい花束だよねぇ」
「お年玉貢ぐカレシとか」
「……
「あ、だからイチ先輩と別れたのかな」
「……温かく見守ろう」
「いや、キャッキャ言って見守りたい」
◇
「てな感じでね?」
アイ子はニヨニヨ笑いを今すぐやめるべし!
「知らなかった……」
花束に差し込まれていたカエルデザインの手紙で、
そんなことになっていたとは。
どうりで受付担当だった後輩たちが、あれから物言いたげな目で見てくると思った。
「手紙、何が書いてあったのぉ?」
三日月目のアイ子をジト目でにらむ。
「個人情報でーす」
「ほぅほぅ、少年個人の連絡先が書いてあったと」
「ぐほっ」
飲んでいた缶コーヒーが口の端から垂れ流れて、慌てて手の平で拭き取った。
「やだぁ、
「ちっ」
「舌打ち?舌打ちされたの?少年憧れのお姉さんが舌打ち?!」
「お黙りなさい」
「そんなに大事なのに、どうしてもう会わないの?」
「会わないって、どうしてわかるの?」
「でなきゃ、あんなため息つかないでしょ。最初イッチー関係かと思ったけど、そっちはとっくに、過去の遺物になってるみたいだからね」
まったく、この親友は鋭くて嫌になる。
「……
「保護者、ねぇ」
「
「無理やり感ありありだけど。……ねえ、写真取ってたじゃん、花束の。もう一度見せてよ」
「なんで?」
「いいから」
こういうときのアイ子には、何を言っても無駄なことは嫌というほどわかっている。
抵抗は早々に諦めて、制服のジャケットからスマートフォンを取り出すと、
「ふーん。オレンジ色のバラが9本か。……はぁ~あ」
アイ子のわざとらしいため息に、若干イラっとする。
「ねぇ、
「なによ」
「バラの花言葉って知ってる?」
「え?愛情、とかだっけ」
「出たよ、このパサパサ系」
「パサパサ?!なによ、人を乾パンみたいに。せめてサバサバと言って?」
「乾パンとはまた古いじゃないの。今は缶詰パンとかが主流だよ、非常時だって。受験勉強ばっかしてるから、脳がパサつくんだよ」
「失礼だね」
「
「いつアイ子に失礼なことした?」
「アタシにじゃないよ。その、
思わず口をつぐむと、アイ子がしたり顔になった。
「自覚があるんだね。相当、思いつめてる感じだったってよ。何やっちゃったのさ」
「……いきなり、もう会えないって言っちゃったんだ。受験だから」
「うん。それで?」
「それっきり、なにも。手紙の返事も出してない」
「返事がいるような内容だったのなら、せめてそれはしないとね」
立ち上がったアイ子の顔を見ることができなくて、手の中の缶コーヒーをぎゅっと握りしめる。
「……そうだね」
「諸々すっきりさせとかないと、受験の神様も逃げてくよ。こないだの模試、判定ランク落としたんでしょ?」
「……うん。ねえ、受験の神様って、どんな髪型かな」
「なんの話?」
「チャンスの女神は前髪しかないって言うからさ」
「ああ、そうだねぇ……。ハゲてんじゃない?」
「つかむとこないじゃん」
「それで苦労しているワケですよ、ワタクシたち受験生は」
「ふふっ。なるほどね」
アイ子から少しだけ勇気と元気をもらった私は、すっかり