能ある鷹の爪は鋭い

文字数 4,377文字

 職員室のドアを二回ノックする。
「うぉーい」
「失礼します。1年A組、木場野(きばの)です」
「おぅ、破壊王か」
 手前に座る先生が、入学式以来のお約束となった挨拶で出迎えてくれた。
「壊したことなんかないのに、その呼び方は納得しかねます。いとにくし」
「気に入らないってか?その返しは満点だから、入室を許可しよう」
 さすが古文の先生、シャレが通じる。
「ああ、木場野(きばの)君、こっちこっち」
 声のするほうに顔を向ければ、バリトンボイスの芸術家が手招きしている。
 その隣に立つぶ厚い横田先生と比べると、風で飛んでいってしまいそうなくらい、ひょろひょろだ。
「よく来た木場野(きばの)。よし、兼部をしよう!」
 近づいて、最初の挨拶はいつものセリフ。
「そんな、”そうだ、京都に行こう”みたいなノリで言われても」
「しよう、兼部!」
「倒置法にしてもダメです」
「兼部!」
「体言止めもムダです」
「しよう!」
「もはや何をですか」
 水泳の授業が始まってから、こんなやり取りを1週間に二、三回は繰り返している。
「だって、おまえ全然(なま)ってないじゃないか。うちの部の上位に食い込むタイムも出してるし」
「はい、落ち着いて」
 熱くなって迫りくる横田先生を、田之上先生が引き離してくれた。
「それは本人が決めることですよ。木場野(きばの)君、横田先生とじっくり話したことはないでしょう?」
「ええ、まあ。周りの目もありましたし……」
 漫才のような会話は結構楽しかったし。
 だから、肝心な「兼部はしない」という意思が、今ひとつ伝わってないことは、わかっていたんだけど。
 ちょっと面白いから、放置していたのも事実。
「ああ、そりゃそうか。配慮が足りなかったな、悪かった」
「ほら、木場野(きばの)君もどうぞ」
 田之上先生が優雅な所作でイスに座って、隣の席を目で示した。
 同時に横田先生もどっこらしょという感じで腰掛けると、きぃきぃとイスが悲鳴を上げる。
 イスを大きくするか横田先生が小さくなるかしないと、そのうち壊れるんじゃないかと心配だ。
 なんて現実逃避なことを考えてしまったのは、今日の横田先生は、いつもと違って真面目そうだから。
 いや、横田先生は、決してフザケタ人ではないんだけど。 
「というかな、木場野(きばの)
 手を膝に当てて身を乗り出してきた横田先生の表情は、やっぱりいつもより真剣で。
「お前が兼部する意思がないって、本当は理解しているんだ。でも、少し納得がいかなくてな。泳ぐことが嫌になったわけじゃないんだろ?故障も聞かないし」
「まあ、そうですね」
「なら」
「でも、もともと好きでもないんです」
「え」
 身を乗り出した姿勢のまま、横田先生が固まった。
 こんなに熱心に誘ってくれる先生には、話しておかないといけないかもしれない。
 これは誰にも、おねえさんにも明かしたことはないんだけれど。
「小学生のときの俺はぽっちゃり体形で、それでスイミングに放り込まれたんです。嫌々だったから上達もしなくて、それを周りから、からかわれるばっかりで」
 横田先生が教師の目になって、イスに座り直した。
「今日やめよう、明日こそやめようって思ってるときに、他人の言葉なんか気にしなくていいって、教えてくれた人がいたんです」
 思い出すのは、アザラシ呼ばわりを笑って許していたおねえさん。
 俺を優しくて、我慢強いと言ってくれた人。
「その人がすごくほめてくれるから、がむしゃらに頑張れるようになった。だから、俺のなかにあったのは、泳ぐことへの情熱なんかじゃない。その人とつながっていたいという望みだけだったんです」
 目を上げると、横田先生が無言でうなずいてくれた。
「その人との縁は、もうあやふやな約束が残ってるだけで……。だから、俺は泳ぐことと、この高校に入学することに(すが)ったんです。スイブに入ることはもうひとつの約束で、トランペットは……。願掛けみたいな感じかな」
「……縁は、復活できたのか?」
 横田先生の声は、入部闘争をしていたときとはまったくの別人みたいで、胸の奥底がじんわりと温かくなる。
「いえ、まだ。でも、またつながれそうなんです。わからないけど……。わかんない、けど」
 明日のことを考えると、期待と不安で、呼吸さえ上手くできなくなる。
 だって、俺には今のおねえさんの姿が想像できないから。
 そして、おねえさんは今の俺を知らないから。
 二年前には「会いたい」と言ってくれたけど、今も同じように思ってくれているだろうか。
 今の俺を見て、がっかりされないだろうか。
 うつむいた俺の肩を、横田先生がぽんと叩いて立ち上がった。
「そうか。大切な縁のために、木場野(きばの)はトランペットを吹くんだな」
「……はい」
「了解した。ずっと困らせて悪かったな」
「いえ、聞いていただいて、ありがとうございました」
「ただ、本心から嫌いだったら、あんなふうには泳げないと思うんだ。だろ?」
 顔を上げると、イタズラそうな横田先生の笑顔が目に飛び込んでくる。
「部員じゃなくても、泳ぎたくなったらいつでも来いよ。木場野(きばの)の泳ぎを見たら、部員たちのいい刺激になるだろうし」
「うぁ、先生ってばその笑顔、破壊力ハンパないですね」
「はぁ?」
「いつもは閻魔(えんま)顔だから、みんなギャップ萌えしますよ。合コンもイケるイケる」
「合コン……?そんなもんするかっ」
「えー、べつにいいじゃん、プライベートに何してたって。いい大人がさ、聖人君子のほうがヤバくない?お年頃の健康な男子でしょ?」
 しまってあった気持ちを口にしたことが、今さら恥ずかしくなって。先生に向かってだけど、ついたたみかけてしまった。
「大人をからかうんじゃないっ」
 横田先生の顔がたちまち真っ赤に染まって、まさに閻魔(えんま)
「からかってないしー」
「このっ」
 とうとう岩石みたいな(こぶし)が頭上に落とされたけど、調子に乗り過ぎた俺が悪いな、うん。
「いてっ」
初心(うぶ)な話に(ほだ)されてみたら、とんでもないな、木場野(きばの)は」
「ウブは横田先生でしょー。三十路(みそじ)手前でそれ?」
「くぅ~。……た、田之上先生、コイツのシツケをお願いしますっ」
「はいはい、お任せお任せ」
 俺と横田先生を見比べながら、田之上先生は飄々(ひょうひょう)と笑っている。
「話は終わりだっ。……止まっちまった時間が動き出すといいな」
 さっきゲンコツを落とした場所をポンポンとなでてから、横田先生は職員室を出ていった。
 もうちょっと粘られるかと思ってたから、あまりにあっさりとした引き際に目が丸くなる。
「横田先生はね、木場野(きばの)君を心配していただけなんですよ」
 コロコロとイスを転がして、田之上先生が近づいてきた。
「心配?」
「キミは、どこか投げやりなところがあるでしょう?手にしているものは多いのに、どれも大切に思っていない。そんな感じがしてね」
「え……?」
 田之上先生は吹奏楽部の顧問だけれど、滅多に部活には顔を出さない。
 だから、音楽の授業で顔を合わせる程度なのに。
 横田先生だって同じで、なのにどうして、ふたりともこれほど俺のことを……。
「泳ぐことで、何か大切にできるものを持ってもらいたかったんですよ、横田先生は」
「そんな、担任でもないのに」
 口ごもった俺に、田之上先生は含み笑いをする。
「ふふっ。学校は、勉強するだけの場所ではないですからね。生徒が成長していく場を提供することが、私たちの一番大事な役目なんですよ」
 穏やかに笑っているけれど、揺るぎない熱意を感じる田之上先生に、俺は思わず居住まいを正した。
「ヨチヨチ歩きをしていた雛鳥が、大きな翼で羽ばたいていく姿を見送ること。それが教師の仕事なんです。だから、傷ついた羽を持つ生徒を見ると、どうしても構いたくなっちゃうんですよねえ。ああ、それだと教師と言うより、飼育員って感じかな。キミたちはときどき、獣のようですからね」
「ケモノ……」
「悪い意味で言ってるんじゃないですよ。本能に忠実で、心配になるくらい勇敢。だけど、同時にとっても臆病だから、牙も爪も出てしまう。たまには手を抜いたっていいのに、いつだって全力で立ち向かって、そして、傷ついてしまう」
 田之上先生は笑顔のまま、

トランペットケースを指さす。
木場野(きばの)君はなかなかに手負いの獣だけれど、そのトランペット、大切にしてる?」
 俺は大きくうなずいて、膝の上に乗せたトラペットケースをぎゅっと抱きしめた。
 今の俺には、手放せないものは三つしかない。
 手紙その一と手紙その二。
 それから、あの人が吹いていたトランペット。
 この三つだけ。
「僕はね、ふたりとも心配なんですよ」
 イスの背にもたれた田之上先生が、腕を組んで遠い目をする。
雪下(ゆきした)はとってもいい子なんだけど、誰にも気を許さないところがあってね。この子はいつ(よろい)を脱ぐんだろうって、気にかかっていたんです。浪人したのは、緊張の糸が切れてしまったからじゃないのかな。糸が切れるというか、何か、その糸を切ってもいいって、(よろい)を脱いでもいいって思えることがあったのかなって。でも、それは雪下(ゆきした)にとっても覚悟が必要で、受け入れるのに時間がかかったんでしょう」
 慰めるような田之上先生の笑顔に、俺の胸が痛みを訴える。
「あのね、木場野(きばの)君。そのトランペットは、部活の後輩に贈るプレゼントではないんですよ。だって、雪下(ゆきした)はキミがトランペットを習っていたなんて、担当するなんて、思っていなかったはずでしょう?」
 そういえば、預けられていた手紙にも「水泳部に入るのかな」なんて書いてあったな。
 俺は今さらながらに、その不思議を思う。
「これ以上は僕の役目ではないから、もう口を閉じますけれど」
 いや、そこまで匂わせといて?
「だって、雪下(ゆきした)から直接聞きたいでしょう?」
 顔に出しすぎた?!
「ふふっ」
 ひょろひょろの田之上先生が、ふわっと立ち上がる。
「ちょっとしゃべりすぎちゃいました。二年間見守ってきたロマンだから、ついお節介を焼いてしまいましたね。明日、僕も音楽室に顔を出そうかなぁ。僕が行くと、みんな嫌がるけど」
「そういえば、先生は顧問なのに、どうして部活にいらっしゃらないんですか?」
「え、行っていいの?!」
「え、ダメなんですか?」
「嬉しいなぁ!1年生が是非って言ってくれたんだから、行かないわけにはいかないよね、うんうん」
 妙にハイテンションな田之上先生が気になりはしたけれど、顧問なんだから問題ないだろう。
 ……ないよな?
 
 そうして入部して以来初めて、田之上先生が

、音楽室にご降臨なされたわけなのだが。
 のちに、全部員からのブーイングを浴びることになるなんて、あのときの俺は想像もしていなかったんだ。
 それは至極もっともなことで反省もしてるけれど、先輩は後輩に伝えておく義務があったと思うなあ。
 だから。
 来年の1年生には、俺はきっちり伝えるつもりだ。
 「部員自ら、田之上先生を召喚してはならない」って。
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