手紙を守ってウサギを待ってる
文字数 3,687文字
冬休みの短期集中コースの最終日。
「羊介 、キミに預かりものがあるよ」
イルカコースのときのコーチが、プールサイドに上がろうとするタイミングで声をかけてきた。
「僕にですか?」
「うん」
「忘れ物は、してないと思いますけど」
首を傾けると、コーチの明るい笑い声が返ってくる。
「うん、してないよ。羊介 はしっかりしちゃったなあ。俺のクラスにいたときから1年もたってないのに。今度、記録会に出るんだろ?」
「はい。出てみたらと言われたので、出てみようかと」
片手で顔の水気を拭いながら、ザバッっと水面から体を引き上げる。
こんな動作も、もう慣れたものだ。
つい1年前は、プールから上がるのにもモタモタしていて、下級生によくからかわれていたけれど。
あのころは「どうせ、どうせ」と言い訳ばっかりしていて、そりゃあ上達もしないよなって、今ならわかる。
言われたことを嫌々やるだけで、真面目に取り組んだことなんかなかったんだから。
でも。
「苦手だなんて、自分で決めつけたらダメ」
「諦めたら、そこで終了だからね」
宝物の言葉が、宝物の声で応援してくれるようになったから。
実績になりそうなものは、なんでも挑戦しようと決めたんだ。
もう会えないかもしれないけれど、あの時間が消えることはないんだから。
「今じゃ育成コースのホープだもんな。中学でも水泳、続けるのか?」
春よりも、だいぶ目線が近くなったコーチが緩く首を傾けた。
「……そこは、諸々考え中です」
「モロモロ?難しい言葉を知ってるなぁ」
ニコニコ笑っているコーチの感想は
「こっちとしては続けてほしいところだけど。じゃあ、受付で渡すから。帰りに声かけて」
「はい」
更衣室に向かう途中で、また水着が窮屈になっていることに気づく。
昨日お母さんに測ってもらったら、11月よりも2センチくらい伸びていたから当たり前かな。
「あ、ごめん」
更衣室のドアを開けると、帰ろうとしていた
「……け」
ジロリとにらまれたけど、それだけ。
仕返しにどつかれることもないし、暴言を吐かれることもない。
それは、べつに今日だけが特別じゃなくて。
あの横断歩道の決戦から、笑っちゃうくらい絡まれなくなった。
もちろん仲良くしてくれるわけじゃないし、無視に近いものがあるけど。
静かでいいやって思う。
「大人しい子をターゲットにしてるだけ。誰でもいいの。気にすることないよ、ただの雑音だから」
今も耳に聞こえてくるのは、何度も思い出して、そのたびに勇気をもらったあの人の言葉。
似たようなことは、先生からも家族からも言われてきたけれど。
でも、僕のことを「我慢強くて優しい」と寄り添ってくれた人の言葉だけが、弱気なのに強情だった心の扉をぶち破ってくれたんだ。
不機嫌丸出しの同級生の背中に、その人の笑顔が重なる。
雫が、日差しがキラキラと彩っていた、誰よりもきれいに笑うあの人の。
その人と会えなくなって、もう1ヶ月以上になる。
春に出会ってから8月の再会までは、プールに来てくれることをずっと願っていた。
再会はめちゃくちゃ嬉しくて、会えない日は、会えた日のことを繰り返し思い出していた。
会えなくなってからも、その姿は毎日胸に浮かんでくる。
けれど、あの日々は、あの人の好意に甘えていただけだったんだ。
だって、あの人にはなんのメリットもないんだから。
だから、あの人がおしまいと言ったら、それでおしまい。
わかってる。
わかってるけど……。
帰り際に受付に声をかけると、奥の事務所から、スクールのポロシャツに着替えたイルカのコーチがニコニコしながら出てきた。
「はい、これが預かりもの。春の短期に来てた高校生の、あ、言っちゃった。内緒ね?ジュニアコースの特例だったからさ。あのお姉さん、覚えてる?」
コーチが手にしている緑色の封筒を見たとたんに、ひゅっとノドが鳴る。
「今日の昼間、突然彼女が訪ねてきてね。羊介 に渡してほしいって」
とっさに動けなかった僕の手を取って、コーチが手紙を握らせてくれた。
「じゃあ、確かに渡したからね」
ノドが詰まって声も出せない僕にヒラヒラと手を振って、コーチは事務所の奥へと戻っていく。
「ありがとうございます」と言えない代わりに、僕は無言で深く頭を下げた。
胸に封筒を抱きしめて、一目散に電車の駅に走る。
そしてホームのベンチに座ると、あまりに震えて、うまく動かない指先に焦れながら封筒を開いた。
中に入っていた便せんを広げると、封筒と同じ色の地に白抜きで、水面を泳ぐカエルのイラストが印刷されている。
『羊介 くんへ』
手紙の一行目に、僕の名前があった。
まだ名前を呼んでもらえるんだと、それだけでもう胸が熱くなる。
『いきなり勉強会を終わらせてごめんなさい。もっと前から言おうと思っていたのだけれど、とても楽しい時間だったので、なかなか言い出せませんでした。勉強会を終わらせたのは、入試が不安だからです。羊介 くんのせいではありません。ちょっと勉強に身が入らなくて、こんなんじゃ、先生役なんて無理だと思ったから。
連絡先をありがとう。でも、少し時間をください。大学に合格したら、無事大学生になれたら、必ず連絡をします。そのときにまだ勉強会が必要ならば、再開しましょう。今の羊介 くんを見ていると、なにも心配ないような気がするけど。もう苦手だなんて思わないでしょう?
羊介 くんはすごいよ。努力家で、スイミングも算数も、あっという間に上達しちゃったもの。
入試が大変っていうのは、ちょっと言い訳かな。羊介 くんを見ていて、自分が恥ずかしくなったの。6才も年上なのに何をやってるんだろうって。
こんな私にありがとうって言ってくれて、本当に嬉しい。
羊介 くんがくれた9本のオレンジのバラのように、私も羊介 くんのことを想います。
演奏会に来てくれてありがとう。私のトランペットソロは、羊介 くんに届くようにと願って演奏しました。”ありがとうでは足りないけれど、あの秘密基地での日々は、確かに私の幸せでした”。
次に会ったときには”おねえさん”はいらないです。名前で呼んでください。
雪下 萌黄 』
手紙を読んでいる間、ずっと僕の胸に流れていたBGMはおねえさんが贈ってくれた曲、「キセキ」。
ぽたり。
便せんの上に雫が落ちて、慌てて拳 で目元を拭 う。
これ以上おねえさんの文字が涙でにじんでしまわないように、僕は萌黄 色の便せんを胸の中に閉じ込めた。
僕の手紙の質問に、全部答えてくれた手紙を。
『萌黄 おねえさんへ
演奏会にご招待してくださって、ありがとうございます。
今までたくさんいろんなことを教えてくれて、ありがとうございます。
おねえさんに聞きたいことがあります。
どうして、急に勉強会はおしまいだったのですか?僕が、何か嫌なことをしてしまったのでしょうか。なら、謝ります。ごめんなさい。もし、萌黄 おねえさんのご迷惑じゃないなら、また勉強会をしてもらえますか?また会ってもらえるのなら、僕の携帯に電話をしてください。番号は……。もし次に会えたら、萌黄 さんって呼びたいです。
木場野 羊介 』
花束に託した気持ちにも気づいてもらえたってわかって、胸がぎゅぅっと苦しくなった。
お父さんがお母さんにプロポーズをしたときの話をマネしてみたんだけど、ちゃんと伝わったみたいで嬉しい。
ちょっと勘違いしているみたいだけど、でも、連絡をくれるって、必ずって書いてある。
だから、次に会ったら呼ぶんだ。
「萌黄 さん」って。
それで、おねえさんの目を見て、自分の声で伝えよう。
本当に選びたかったバラの色は、オレンジじゃなかったんだよって。
大丈夫。
この手紙の約束があれば、連絡をもらえるまで待つことができる。
春までの我慢だ。
……そう思っていたのに。
おねえさんは僕が中学を卒業するまでの間、一度も連絡をくれることはなかったんだ。
お守り代わりに、肌身離さず持ち歩いていた萌黄 色の手紙。
もうずいぶん、その色は褪 せてしまったけれど。
思い出のおねえさんの姿はいつだって色鮮やかで、僕の心から消えることはなかったんだ。
約束が果たされない理由さえわからず、ただ無駄に待つ日々が降り積もって。
そうしていつの間にか「僕」は「俺」になったけれど、相変わらず他人との付き合い方はよくわからないし、適切な距離ってものにいつも戸惑っていた。
小学生のころとは違って、傷つくことも、うつむくこともなかったけれど……、いや、そんなことはないか。
毎日、携帯電話を確認するたびに、心はじりッと削られたんだから。
今日も連絡がなかった。
明日こそあるかな。
事故にでもあったのかな。
どうして……。
どうして、モエギおねえさん……。
心をあの原っぱに置き忘れてしまったような俺は、それでも”待つ”ことをやめることはできなかった。
あの約束だけが、俺の生きる道標 だったから。
「
イルカコースのときのコーチが、プールサイドに上がろうとするタイミングで声をかけてきた。
「僕にですか?」
「うん」
「忘れ物は、してないと思いますけど」
首を傾けると、コーチの明るい笑い声が返ってくる。
「うん、してないよ。
「はい。出てみたらと言われたので、出てみようかと」
片手で顔の水気を拭いながら、ザバッっと水面から体を引き上げる。
こんな動作も、もう慣れたものだ。
つい1年前は、プールから上がるのにもモタモタしていて、下級生によくからかわれていたけれど。
あのころは「どうせ、どうせ」と言い訳ばっかりしていて、そりゃあ上達もしないよなって、今ならわかる。
言われたことを嫌々やるだけで、真面目に取り組んだことなんかなかったんだから。
でも。
「苦手だなんて、自分で決めつけたらダメ」
「諦めたら、そこで終了だからね」
宝物の言葉が、宝物の声で応援してくれるようになったから。
実績になりそうなものは、なんでも挑戦しようと決めたんだ。
もう会えないかもしれないけれど、あの時間が消えることはないんだから。
「今じゃ育成コースのホープだもんな。中学でも水泳、続けるのか?」
春よりも、だいぶ目線が近くなったコーチが緩く首を傾けた。
「……そこは、諸々考え中です」
「モロモロ?難しい言葉を知ってるなぁ」
ニコニコ笑っているコーチの感想は
あのときの
僕と同じで、胸がツキンと痛む。「こっちとしては続けてほしいところだけど。じゃあ、受付で渡すから。帰りに声かけて」
「はい」
更衣室に向かう途中で、また水着が窮屈になっていることに気づく。
昨日お母さんに測ってもらったら、11月よりも2センチくらい伸びていたから当たり前かな。
「あ、ごめん」
更衣室のドアを開けると、帰ろうとしていた
あの
同級生とタイミングが合ってしまったようで、軽くぶつかってしまった。「……け」
ジロリとにらまれたけど、それだけ。
仕返しにどつかれることもないし、暴言を吐かれることもない。
それは、べつに今日だけが特別じゃなくて。
あの横断歩道の決戦から、笑っちゃうくらい絡まれなくなった。
もちろん仲良くしてくれるわけじゃないし、無視に近いものがあるけど。
静かでいいやって思う。
「大人しい子をターゲットにしてるだけ。誰でもいいの。気にすることないよ、ただの雑音だから」
今も耳に聞こえてくるのは、何度も思い出して、そのたびに勇気をもらったあの人の言葉。
似たようなことは、先生からも家族からも言われてきたけれど。
でも、僕のことを「我慢強くて優しい」と寄り添ってくれた人の言葉だけが、弱気なのに強情だった心の扉をぶち破ってくれたんだ。
不機嫌丸出しの同級生の背中に、その人の笑顔が重なる。
雫が、日差しがキラキラと彩っていた、誰よりもきれいに笑うあの人の。
その人と会えなくなって、もう1ヶ月以上になる。
春に出会ってから8月の再会までは、プールに来てくれることをずっと願っていた。
再会はめちゃくちゃ嬉しくて、会えない日は、会えた日のことを繰り返し思い出していた。
会えなくなってからも、その姿は毎日胸に浮かんでくる。
けれど、あの日々は、あの人の好意に甘えていただけだったんだ。
だって、あの人にはなんのメリットもないんだから。
だから、あの人がおしまいと言ったら、それでおしまい。
わかってる。
わかってるけど……。
帰り際に受付に声をかけると、奥の事務所から、スクールのポロシャツに着替えたイルカのコーチがニコニコしながら出てきた。
「はい、これが預かりもの。春の短期に来てた高校生の、あ、言っちゃった。内緒ね?ジュニアコースの特例だったからさ。あのお姉さん、覚えてる?」
コーチが手にしている緑色の封筒を見たとたんに、ひゅっとノドが鳴る。
「今日の昼間、突然彼女が訪ねてきてね。
とっさに動けなかった僕の手を取って、コーチが手紙を握らせてくれた。
「じゃあ、確かに渡したからね」
ノドが詰まって声も出せない僕にヒラヒラと手を振って、コーチは事務所の奥へと戻っていく。
「ありがとうございます」と言えない代わりに、僕は無言で深く頭を下げた。
胸に封筒を抱きしめて、一目散に電車の駅に走る。
そしてホームのベンチに座ると、あまりに震えて、うまく動かない指先に焦れながら封筒を開いた。
中に入っていた便せんを広げると、封筒と同じ色の地に白抜きで、水面を泳ぐカエルのイラストが印刷されている。
『
手紙の一行目に、僕の名前があった。
まだ名前を呼んでもらえるんだと、それだけでもう胸が熱くなる。
『いきなり勉強会を終わらせてごめんなさい。もっと前から言おうと思っていたのだけれど、とても楽しい時間だったので、なかなか言い出せませんでした。勉強会を終わらせたのは、入試が不安だからです。
連絡先をありがとう。でも、少し時間をください。大学に合格したら、無事大学生になれたら、必ず連絡をします。そのときにまだ勉強会が必要ならば、再開しましょう。今の
入試が大変っていうのは、ちょっと言い訳かな。
こんな私にありがとうって言ってくれて、本当に嬉しい。
演奏会に来てくれてありがとう。私のトランペットソロは、
次に会ったときには”おねえさん”はいらないです。名前で呼んでください。
手紙を読んでいる間、ずっと僕の胸に流れていたBGMはおねえさんが贈ってくれた曲、「キセキ」。
ぽたり。
便せんの上に雫が落ちて、慌てて
これ以上おねえさんの文字が涙でにじんでしまわないように、僕は
僕の手紙の質問に、全部答えてくれた手紙を。
『
演奏会にご招待してくださって、ありがとうございます。
今までたくさんいろんなことを教えてくれて、ありがとうございます。
おねえさんに聞きたいことがあります。
どうして、急に勉強会はおしまいだったのですか?僕が、何か嫌なことをしてしまったのでしょうか。なら、謝ります。ごめんなさい。もし、
花束に託した気持ちにも気づいてもらえたってわかって、胸がぎゅぅっと苦しくなった。
お父さんがお母さんにプロポーズをしたときの話をマネしてみたんだけど、ちゃんと伝わったみたいで嬉しい。
ちょっと勘違いしているみたいだけど、でも、連絡をくれるって、必ずって書いてある。
だから、次に会ったら呼ぶんだ。
「
それで、おねえさんの目を見て、自分の声で伝えよう。
本当に選びたかったバラの色は、オレンジじゃなかったんだよって。
大丈夫。
この手紙の約束があれば、連絡をもらえるまで待つことができる。
春までの我慢だ。
……そう思っていたのに。
おねえさんは僕が中学を卒業するまでの間、一度も連絡をくれることはなかったんだ。
お守り代わりに、肌身離さず持ち歩いていた
もうずいぶん、その色は
思い出のおねえさんの姿はいつだって色鮮やかで、僕の心から消えることはなかったんだ。
約束が果たされない理由さえわからず、ただ無駄に待つ日々が降り積もって。
そうしていつの間にか「僕」は「俺」になったけれど、相変わらず他人との付き合い方はよくわからないし、適切な距離ってものにいつも戸惑っていた。
小学生のころとは違って、傷つくことも、うつむくこともなかったけれど……、いや、そんなことはないか。
毎日、携帯電話を確認するたびに、心はじりッと削られたんだから。
今日も連絡がなかった。
明日こそあるかな。
事故にでもあったのかな。
どうして……。
どうして、モエギおねえさん……。
心をあの原っぱに置き忘れてしまったような俺は、それでも”待つ”ことをやめることはできなかった。
あの約束だけが、俺の生きる