羊の皮を被った狼には気をつけて
文字数 4,637文字
久しぶりに訪ねたスイミングスクールで、羊介 くんがすでにやめていること知らされた私は、手紙を握り締めて途方に暮れた。
大学に合格したときに、入学式を終えたあとに。
スイミングスクールへ行こうとして、「もしかして、もう忘れられているかも」とためらってしまった。
以前再会した夏にかこつけて、やっと勇気を出してみたものの時はすでに遅く。
家は知っているから、ポストに直接投函したり、郵送するという手段も考えた。
けれど、コーチが言ったとおりに「変わっちゃった」羊介 くんがモテまくりで、中学校生活を満喫しているのなら。
今さら私の手紙などに意味があるだろうかと、さらに尻込みしてしまったのだ。
ここまで支えてくれた思い出への感謝と、約束を違えてしまった謝罪は伝えたい。
伝えなくてはならない。
わかっているのに、手紙を送ってしまったら、それで羊介 くんとの縁が切れてしまう可能性に怯 えてしまった。
「ああ、あのときのお姉さんか。ふーん、一浪したんだ。へー」なんて、そのまま手紙はゴミ箱行き、なんてことになるかもしれない。
それよりなにより、覚えてもいない可能性だってある。
「え、誰?……ストーカー?気持ちワル」なんて思われたら、ちょっとショックで立ち直れない。
浪人していた一年間、羊介 くんとの約束を果たすことだけを考えていた。
もう一度、あの笑顔に会うことを目標にしていたのだ。
だから、ずるい私が縋 ったのは、あの夏の日に「必ず入るよ!」と言って、私を見上げた羊介 くんの瞳。
あの約束がまだ消えていないのなら、彼はきっとこの丘に来るだろう。
それを縁 に、高校の恩師に橋渡しを委 ねたのだ。
そうしてやっと再会できた羊介 くんは、ちょっとひねてしまったけれど、相変わらず可愛かった。
しかも、コーチが言っていた以上に「変わっちゃった」姿に、トス!と胸を射られたような気持になったことはナイショである。
窮地に陥りそうになったときに、身を挺してくれたこと。
傷つけられそうになったときには、牙をむいて守ろうとしてくれたこと。
そのすべてに心が奪われて……。
まっすぐな恋心を打ち明けられれば、年上の余裕なんて保てないほど嬉しかった。
「待っていた」と泣いていたけれど、焦 がれていたのは私も同じ。
だから、彼の思いを受け入れることに抵抗はなかったのだけれど。
おつき合いのタイミングは、ちょっと考えたほうがよかったかもしれないなぁ、なんて反省している。
◇
「ねー、萌黄 さん。ねぇねぇ」
「真面目に練習しなさい」
「したよ?したからゴホービは?」
「ちょっと離れてっ。伸 しかからない!」
昨夜 ポンコツになってしまった羊介 くんは、今日も絶賛ポンコツ中だ。
目が合えばうるうるするし、暇があればじゃれてくる。
練習に支障が出そうでなるべく離れるようにしていたら、たちまちしょんぼりと背中を丸める始末。
「猛獣かと思っていましたけど、とんだ子犬でしたね」なんて、田之上先生にもからかわれてしまったら、後輩たちにも示しがつかない。
「部活で来てるんだからね。これ以上はしゃぐなら、おつき合いはいったん保留」
「えっ?!」
昼食の前にそっと告げれば、羊介 くんの眉毛がたちまち八の字に下がる。
「ほ、保留?」
その様子にマテを延長された子犬がオーパーラップして、つい絆 されてしまった。
「……自主練の時間になったら、別棟 の中庭に行こうか。少しふたりで遊ぼう」
「うん!」
無邪気にうなずく背後には、パタパタ振るシッポが見えるみたい。
とはいえ、コンテスト優勝を目指すグループ練習が、時間内に終わるはずがないと思っていたのだけれど。
「木場野 のペット、絶好調だなぁ……」
通しでの演奏が終わったとたんに、うちのグループリーダーが絶賛のため息をついた。
「小さな恋のうた」が、流麗でいて芯のあるトランペットで奏でられれば、ほかのグループの耳さえ奪ってしまう。
「ゆっきー先輩と二重奏になるとこ、涙が出そう。げぇ、鬼龍院 先輩、なんですかその顔っ」
純粋に微笑むアイ子(とても珍しいことだ)の隣では、冴木 くんが目をむいていた。
「うっさいぞサエちゃん。こっちも負けてらんないよっ」
「はい!」
そんなこんなで、うちのグループの演奏は早めに仕上がり、発破を掛けられたほかのグループは、いつにもまして熱の入る練習を続けることになったのだけれど。
◇
「あと何回吹いたらゴホービくれるの?」
「ご褒美なんて言ってません。遊ぼうって言ったんだよ」
「練習しかしてないじゃん。ズル。ウソツキ。萌黄 さんのウソツキ」
長く待たせてしまった身としては、羊介 くんから「嘘つき」と言われるのは堪 える。
「もー、しょうがないなぁ。……おいで」
夏は使われていない別棟 の縁側にふたりして座ると、すぐに羊介 くんがもたれ掛かってきた。
これは子犬じゃなくて、超大型犬だな。
「重いっ、つぶれる!体格差を考えて?つぶれるったら!」
ぐいぐいと肩で押し返せば、なお体重を掛けてくる。
「こら、重いって……、わぁっ」
押し倒してきた羊介 くんの向こうには、そろそろ夕暮れが混じり始めた夏空が広がっていた。
「今でも、夢を見てるんじゃないかって思うんだ」
縁側に付いた両手の中に私を閉じ込めた羊介 くんは、今にも泣きそうな顔をしている。
だから、そのほっぺたをギュっとつねってあげた。
「いてっ」
「痛いなら夢じゃないね」
「……うん」
羊介 くんが差し伸べてくれた手を取って起き上がると、今度はそっと肩を寄せてくる。
「さっき、みんな萌黄 さんのペットに聞き惚れてたね」
「えぇっ?!羊介 くんのトランペットにだよ」
「そうかなぁ。だって、二重奏になったとたんに、みんなこっち見たよ」
「それは……」
羊介 くんの音が甘くなったからだよ。
一緒に演奏している、こっちが照れるくらいに。
「それは?」
「……トランペットが大好きになった羊介 くんの音が、最高だからだよ」
「だといいけど。でもさ、俺はやっぱり萌黄 さんのトランペットが好きだな。浪人中も吹いてたの?」
「さすがにそれはね。大学に入って、一から始めたの。バイトもして、トランペットを買い直して。2年後に羊介 くんと会えたら、聞いてもらいたいと思って」
「……萌黄 さん……」
「もしかしたら忘れられているかもって思ったけれど、何かしていたかったの。そうすることで、羊介 くんとまだつながってるって、思いたかったから」
風を感じるほどの勢いで羊介 くんがこっちを向いたかと思ったら、ぎゅっと両肩をつかまれた。
そして、瞬きもせずに見つめながら顔を近づけてくるから、察した私はその唇を片手でふさぐ。
「だぁめ。今、昼日中 よ?誰か来たらどうするの」
「むぐぅ」
みるみるうちに羊介 くんの眉間にしわが寄っていくけど、全然怖くはない。
子犬と見せかけて、その身の内に荒々しい狼がいることも知っているけれど、私を傷つけるようなことはしない人だから。
「帰ったらデートしようか。それとも勉強会にする?」
「ん!」
口をふさがれながらもうなずく、そのまっすぐな笑顔を可愛いと思ったのだけれど。
「ちょ、何するの!」
唇を押さえていた手をつかまれて、ぱくり!と噛みつかれてしまった。
「俺、勉強会のほうがいいな。受験勉強は予備校に行くから、萌黄 さんは別のことを教えて」
「別のこと?」
「昨日教えてくれたみたいなコト。俺ハジメテだったから、あのあと上手にできてた?」
「誤解されそうなこと言わないで?!」
「誤解?だって、俺のファーストキス……」
「もお黙って!この不良羊っ」
「んふふ」
もう一度口を塞 がれた羊介 くんは、なんだかとっても悪い顔で笑っていた。
あのプールで偶然出会った小さな男の子が、今こうして隣で笑っている。
守るつもりが、いつの間にか守られていた。
導くつもりが、いつの間にか手を引かれている。
「ねえ、羊介 くん」
田んぼを囲む山々から聞こえるカナカナの輪唱を聞きながら、その広い肩に頬を寄せた。
「なあに、萌黄 さん」
私の頭にあごを乗せる羊介 くんは、よく懐いている大型犬みたい。
「私、羊介 くんのことが好きよ。三年間、あなたとの縁を諦めなくてよかった」
「ぐっ……。萌黄 さんは、俺を殺す気?」
「え?」
目を上げてみれば、苦悶しているような羊介 くんの顔がすぐそこにある。
「萌黄 さんが俺を好きって言ってくれたの、初めてだね」
「!」
そっか、そう言えばそうだね!
「今、気がつきましたってか?もー」
ため息をついた羊介 くんの腕が、肩に回された。
「気持ちを受け入れてもらっただけでも十分だと思ったし、逃がす気はないけど。死んじゃうくらい嬉しい」
かすれる羊介 くんの声に心が痛む。
気持ちをもらっていたのに、きちんと返していなかったなんて。
ここは、年上としての矜持を見せなくては。
「大好きだよ、羊介 くん。本当に可愛くて、愛しいと思ってる」
「……うぐぐ……」
「え、なんかダメだった?」
肩を抱いたまま、大きくうなだれてしまった恋人をのぞき込むと、向けられた瞳は怒らせたのかと思うくらい鋭い。
「萌黄 さんは俺に死ねって言うんだな。よし、わかった。死んだ。理性が死んだ」
「え、なに言って、んんっ?んっ、んーっ!」
そうして、理性を亡くした羊介 くんから再び縁側に押し倒されて、大型犬に顔を舐められるのってこんな感じかしらと、どこか他人事 のように考えていた私を助けてくれたのは、アイ子の水鉄砲だった。
「うわ、冷てっ」
「おーい、発情羊、夕飯だよ。頭冷やして、そろそろ人間に戻って。……よかったねぇ、派遣されたのがアタシで」
「派遣?!」
慌てて起き上がると、羊介 くん曰くのバフォメットが微笑んでいる。
「そりゃあ、みんな遠慮するデショ。馬に蹴られて、逆鱗に触れるのはイヤだよね」
「みんな?!」
「うん、みんな知ってるよ。おふたりさんがここにいること。さっきからずっと、トランペットの音がしなくなっちゃったことも」
……き、気まずい……。
「うへぇ~。アイ子先輩、ちょっとは手加減してよ。戻ろっか萌黄 さん。俺、着替えないと」
頭を抱 える私をよそに、羊介 くんは何食わぬ顔で立ち上がって、手を差し伸べてきた。
「なにそんな情けない顔してんの。大丈夫だよ。誰に何を言われても俺が守るから」
「おお、よく躾 けられた番犬だね。いや、番狼かな。でも、襲う場所は選びなよ?萌黄 ちゃんってば、恥ずかしがり屋さんだからさ。先戻ってるよー」
「アイ子っ」
「大丈夫。アイ子先輩は言いふらしたりしないだろ?」
「そうだけど……」
その手を取ってきゅっと握ると、羊介 くんはよく知っている笑顔になった。
あのプールサイドで、準備運動を一緒にしようと言ったときに返された、はにかんで泣いちゃいそうな笑顔に。
「今日の夜は、最高の演奏をしようね」
「……うん」
そう約束した私たちのグループもほかのグループも。
例年よりも高水準の演奏を披露したのだけれど、最終日の主役をさらっていったのは、意外な人物だった。
織りなすめぐり逢いの幸せを奏でるアルトサックスの音が、開け放たれた大広間の窓から流れていく。
蛍舞う田んぼへと、広がる星空へと。
寄り添う縁の不思議と、出会いの喜び。
甘く切なく「糸」を謳 いあげるその音色は、教え子たちの耳と心をトリコにして離さない。
合宿フィナーレの夜の主役と優勝をかっさらっていったのは現役でもOBでもなく、田之上先生その人であったのだ。
大学に合格したときに、入学式を終えたあとに。
スイミングスクールへ行こうとして、「もしかして、もう忘れられているかも」とためらってしまった。
以前再会した夏にかこつけて、やっと勇気を出してみたものの時はすでに遅く。
家は知っているから、ポストに直接投函したり、郵送するという手段も考えた。
けれど、コーチが言ったとおりに「変わっちゃった」
今さら私の手紙などに意味があるだろうかと、さらに尻込みしてしまったのだ。
ここまで支えてくれた思い出への感謝と、約束を違えてしまった謝罪は伝えたい。
伝えなくてはならない。
わかっているのに、手紙を送ってしまったら、それで
「ああ、あのときのお姉さんか。ふーん、一浪したんだ。へー」なんて、そのまま手紙はゴミ箱行き、なんてことになるかもしれない。
それよりなにより、覚えてもいない可能性だってある。
「え、誰?……ストーカー?気持ちワル」なんて思われたら、ちょっとショックで立ち直れない。
浪人していた一年間、
もう一度、あの笑顔に会うことを目標にしていたのだ。
だから、ずるい私が
あの約束がまだ消えていないのなら、彼はきっとこの丘に来るだろう。
それを
そうしてやっと再会できた
しかも、コーチが言っていた以上に「変わっちゃった」姿に、トス!と胸を射られたような気持になったことはナイショである。
窮地に陥りそうになったときに、身を挺してくれたこと。
傷つけられそうになったときには、牙をむいて守ろうとしてくれたこと。
そのすべてに心が奪われて……。
まっすぐな恋心を打ち明けられれば、年上の余裕なんて保てないほど嬉しかった。
「待っていた」と泣いていたけれど、
だから、彼の思いを受け入れることに抵抗はなかったのだけれど。
おつき合いのタイミングは、ちょっと考えたほうがよかったかもしれないなぁ、なんて反省している。
◇
「ねー、
「真面目に練習しなさい」
「したよ?したからゴホービは?」
「ちょっと離れてっ。
目が合えばうるうるするし、暇があればじゃれてくる。
練習に支障が出そうでなるべく離れるようにしていたら、たちまちしょんぼりと背中を丸める始末。
「猛獣かと思っていましたけど、とんだ子犬でしたね」なんて、田之上先生にもからかわれてしまったら、後輩たちにも示しがつかない。
「部活で来てるんだからね。これ以上はしゃぐなら、おつき合いはいったん保留」
「えっ?!」
昼食の前にそっと告げれば、
「ほ、保留?」
その様子にマテを延長された子犬がオーパーラップして、つい
「……自主練の時間になったら、
「うん!」
無邪気にうなずく背後には、パタパタ振るシッポが見えるみたい。
とはいえ、コンテスト優勝を目指すグループ練習が、時間内に終わるはずがないと思っていたのだけれど。
「
通しでの演奏が終わったとたんに、うちのグループリーダーが絶賛のため息をついた。
「小さな恋のうた」が、流麗でいて芯のあるトランペットで奏でられれば、ほかのグループの耳さえ奪ってしまう。
「ゆっきー先輩と二重奏になるとこ、涙が出そう。げぇ、
純粋に微笑むアイ子(とても珍しいことだ)の隣では、
「うっさいぞサエちゃん。こっちも負けてらんないよっ」
「はい!」
そんなこんなで、うちのグループの演奏は早めに仕上がり、発破を掛けられたほかのグループは、いつにもまして熱の入る練習を続けることになったのだけれど。
◇
「あと何回吹いたらゴホービくれるの?」
「ご褒美なんて言ってません。遊ぼうって言ったんだよ」
「練習しかしてないじゃん。ズル。ウソツキ。
長く待たせてしまった身としては、
「もー、しょうがないなぁ。……おいで」
夏は使われていない
これは子犬じゃなくて、超大型犬だな。
「重いっ、つぶれる!体格差を考えて?つぶれるったら!」
ぐいぐいと肩で押し返せば、なお体重を掛けてくる。
「こら、重いって……、わぁっ」
押し倒してきた
「今でも、夢を見てるんじゃないかって思うんだ」
縁側に付いた両手の中に私を閉じ込めた
だから、そのほっぺたをギュっとつねってあげた。
「いてっ」
「痛いなら夢じゃないね」
「……うん」
「さっき、みんな
「えぇっ?!
「そうかなぁ。だって、二重奏になったとたんに、みんなこっち見たよ」
「それは……」
一緒に演奏している、こっちが照れるくらいに。
「それは?」
「……トランペットが大好きになった
「だといいけど。でもさ、俺はやっぱり
「さすがにそれはね。大学に入って、一から始めたの。バイトもして、トランペットを買い直して。2年後に
「……
「もしかしたら忘れられているかもって思ったけれど、何かしていたかったの。そうすることで、
風を感じるほどの勢いで
そして、瞬きもせずに見つめながら顔を近づけてくるから、察した私はその唇を片手でふさぐ。
「だぁめ。今、
「むぐぅ」
みるみるうちに
子犬と見せかけて、その身の内に荒々しい狼がいることも知っているけれど、私を傷つけるようなことはしない人だから。
「帰ったらデートしようか。それとも勉強会にする?」
「ん!」
口をふさがれながらもうなずく、そのまっすぐな笑顔を可愛いと思ったのだけれど。
「ちょ、何するの!」
唇を押さえていた手をつかまれて、ぱくり!と噛みつかれてしまった。
「俺、勉強会のほうがいいな。受験勉強は予備校に行くから、
「別のこと?」
「昨日教えてくれたみたいなコト。俺ハジメテだったから、あのあと上手にできてた?」
「誤解されそうなこと言わないで?!」
「誤解?だって、俺のファーストキス……」
「もお黙って!この不良羊っ」
「んふふ」
もう一度口を
あのプールで偶然出会った小さな男の子が、今こうして隣で笑っている。
守るつもりが、いつの間にか守られていた。
導くつもりが、いつの間にか手を引かれている。
「ねえ、
田んぼを囲む山々から聞こえるカナカナの輪唱を聞きながら、その広い肩に頬を寄せた。
「なあに、
私の頭にあごを乗せる
「私、
「ぐっ……。
「え?」
目を上げてみれば、苦悶しているような
「
「!」
そっか、そう言えばそうだね!
「今、気がつきましたってか?もー」
ため息をついた
「気持ちを受け入れてもらっただけでも十分だと思ったし、逃がす気はないけど。死んじゃうくらい嬉しい」
かすれる
気持ちをもらっていたのに、きちんと返していなかったなんて。
ここは、年上としての矜持を見せなくては。
「大好きだよ、
「……うぐぐ……」
「え、なんかダメだった?」
肩を抱いたまま、大きくうなだれてしまった恋人をのぞき込むと、向けられた瞳は怒らせたのかと思うくらい鋭い。
「
「え、なに言って、んんっ?んっ、んーっ!」
そうして、理性を亡くした
「うわ、冷てっ」
「おーい、発情羊、夕飯だよ。頭冷やして、そろそろ人間に戻って。……よかったねぇ、派遣されたのがアタシで」
「派遣?!」
慌てて起き上がると、
「そりゃあ、みんな遠慮するデショ。馬に蹴られて、逆鱗に触れるのはイヤだよね」
「みんな?!」
「うん、みんな知ってるよ。おふたりさんがここにいること。さっきからずっと、トランペットの音がしなくなっちゃったことも」
……き、気まずい……。
「うへぇ~。アイ子先輩、ちょっとは手加減してよ。戻ろっか
頭を
「なにそんな情けない顔してんの。大丈夫だよ。誰に何を言われても俺が守るから」
「おお、よく
「アイ子っ」
「大丈夫。アイ子先輩は言いふらしたりしないだろ?」
「そうだけど……」
その手を取ってきゅっと握ると、
あのプールサイドで、準備運動を一緒にしようと言ったときに返された、はにかんで泣いちゃいそうな笑顔に。
「今日の夜は、最高の演奏をしようね」
「……うん」
そう約束した私たちのグループもほかのグループも。
例年よりも高水準の演奏を披露したのだけれど、最終日の主役をさらっていったのは、意外な人物だった。
織りなすめぐり逢いの幸せを奏でるアルトサックスの音が、開け放たれた大広間の窓から流れていく。
蛍舞う田んぼへと、広がる星空へと。
寄り添う縁の不思議と、出会いの喜び。
甘く切なく「糸」を
合宿フィナーレの夜の主役と優勝をかっさらっていったのは現役でもOBでもなく、田之上先生その人であったのだ。