十二 穏やかな吐息

文字数 1,266文字

 その頃。
 溝端バッテリーに勤務して十日が過ぎた荻原重秀は、二階の自室で多恵と愛し合った。
 一時間ほど後。
「なあ、多恵」
 荻原は妻の身体を隅々まで蒸しタオルで拭いた。衣類を着せ、寝具を掛けて抱きしめ、額に唇を寄せて髪を撫でた。
 妻から深い溜息が聞え、寝具の中から腕が伸びて荻原の首をぐっと引きよせた。
「やっと、私の重秀がもどってきた。待ってたんだ・・・」
 妻は荻原の首に顔をつけてむせび泣いている。
 俺を奮い立たせるため、ずいぶん無理をしてたんだなと荻原は思った。
「さあ、寝よう。こうして抱きしめてるよ・・・」
 荻原は妻を抱きよせて腕枕した。
 まもなく妻は眠りにおちた。

 二階の荻原の部屋から聞えるかすかな音に、階下の自室にいる母の富美は、荻原が一つ波を越えたのを知った。

 晴天の翌朝。
 多恵が台所でハムエッグを焼いている。
 荻原は多恵に近づき、背後から多恵を抱きしめて、うなじへ唇を触れた。荻原は多恵の匂いに包まれて腹部と胸に触れながら耳たぶを唇にはさみ甘噛みした。
 荻原の下腹部を尻に感じ、多恵は新婚当時を思いだして、いたずらするように尻を荻原に押しつけた。
「箸を並べて、ご飯をよそってね・・・」
 そうささやいて多恵はふりむいて、唇をつきだしている。
「わかった・・・」
 荻原は多恵に唇を触れて抱きしめた。テーブルを拭いて箸を並べ、ご飯と味噌汁をよそってテーブルに並べた。シンクの調理台にある焼き鮭と野菜サラダを手にとり、多恵の頬に唇を触れた。
 多恵が向きを変えた。
「母さんを呼んでね」
 ハムエッグの皿を持ったまま荻原と唇を合せた。
 多恵がそういう間に、
「もう、来てますよ」
 笑顔で二人を見つめる母が、テーブルに着こうとしていた。


「出荷状況は順調だね」
 朝食を食べながら荻原は多恵に言った。工場長の荻原に上がってくる報告に目を通すかぎり、日々の生産と出荷は健全状態にある。
「ええ、問題ないわ。不良品も規定値に収まってる・・・。
 だけど、朝食で話すことじゃないよ、こんなこと。もっと楽しい話があるでしょう。ねっ、母さん!」
 多恵は母に同意を求めた。せっかく以前の優しい重秀がもどってきたのに、朝から仕事の話を家庭にもちこなくていい。休日はもっと家庭的な和やかな雰囲気に包まれていたい・・・。
 母富美は笑顔で多恵にうなずいた。これ以上重秀に何かを言って重秀の心をかき乱すのはやめよう・・・。これから重秀は家庭の中心となって動かねばならない。いつまでも親の立場を押しつけて、重秀の心が成長するのを妨げてはいけない・・・。

「いや、すまない・・・」
 荻原は、朝の食卓に似合わない話を持ち出したことを、すなおにわびた。 母と多恵の茶碗のご飯が少なくなっているのに気づいた。
「二人とも、お代りはいいのか?」
「おねがいね」
 母と妻が同時に茶碗を荻原にわたそうとした。
 荻原は二つの茶碗を受けとり、ご飯をよそった。
 二人に茶碗を渡しながら荻原は思った。家族そろって朝飯をしっかり食えば、今日の活力が生まれる・・・。こんな朝飯は何年ぶりだろう・・・。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み