八 婚約の挨拶

文字数 3,372文字

 十月下旬、土曜日。
 森田家へ荷物を運んだ翌週の土曜午後、正俊は父正信と母昌代とともに、智子の家を訪れた。
 正俊が父母とともに智子の父母と祖父母に挨拶をすませると、親たちは気を利かせ、二人を座敷から解放した。

「助かったね。親たちの話を聞いてたら、のんびりできないよ・・・」
 智子は正俊の手をとって二階の自室へ案内した。
 智子の部屋は二階の東側の二間だ。階下は祖父母の部屋と父母の部屋だ。現在、父母も祖父母も正俊の父母とともに、祖父母の部屋と広いダイニングキッチンを廊下で隔てた、居間の隣の座敷にいる。

 智子の部屋は広いフローリングの部屋だ。等身大の大きなパネルがある。リンゴのコマーシャルのポスターをパネルに仕上げた物だ。正俊はそのパネルのかわいいモデルに見入った。智子だ・・・。
「ふるさと納税、知ってるでしょう。うちのリンゴ園がふるさと納税のポスターに載ったのよ。私もかりだされてリンゴ乙女にされちゃったの・・・」
 智子はパネルを示した。リンゴの木を背景に智子がリンゴの入った駕籠をさしだしている。智子が説明しなくても、誰もがこのかわいい髪をアップにしたリンゴ乙女のモデルが智子だと気づく。
 正俊は一瞬、智子がこのポスターのモデルになって欲しくなかったと思った。智子を人目にさらしたくなかった。俺だけの智子であって欲しいと思った。
 そう思った気持を、正俊は素直に智子に告げた。

「うれしいな!ホントだよ!正俊だけの私になるね!」
 そう言って智子が正俊に抱きついた。
 正俊は智子を抱きしめた。智子の身体は柔らかで、ちょっと力を入れれば、小さな肩も小ぶりな胸も正俊の胸と腕の中で潰れそうだった。正俊は智子のくびれた腰に手をまわし強く抱きしめた。智子の腹部と下腹部が正俊に密着した。
「正俊、激しいね。でも、正俊のそういうの好き。もっと強く抱きしめて」
 智子が正俊を見あげて、まぶたを閉じた・・・。
 正俊は智子の唇に唇を触れた。智子の唇から焼きたてのクッキーのような香りがしたように思った。なにかかんちがいしているのかと思ったが、唇から離れて智子のうなじに顔を埋めると、やはりバニラのようなクッキーのような香りが漂った。
「焼きたてのクッキーのようなバニラのような良い匂いがする。智子の匂いだ。大好きだ」
 思わず正俊はそう言っていた。
「クッキーもバニラ味の物も食べてないし、作ってもいないよ・・・」
 そう言いながら智子が正俊の手を、自分の腰から尻へ移動させた。
「お尻、しっかり抱きしめてね。正俊にこうして欲しかった・・・。安心するの・・・。
 おかしいよね・・・」
 智子が正俊を見あげてクスッと笑った。ずっと思い描いて一番安心するのがこうしてもらうことだったと智子は説明した。

 たしかに人はそれぞれ癖のようなものがある。幼児期から使っていたバスタオルをいつまでも抱きしめて寝るとか、ぬいぐるみを手放せないとか、お尻を軽くポンポン叩くように撫でられると安心して眠るとか・・・。
 智子の癖はお尻なのか・・・。
「私のは幼児期の癖じゃないよ。純粋に正俊にそうして欲しいだけだよ」
 うれしそうに智子は笑い、正俊をソファーに座らせた。

 このフローリングの部屋は智子の応接間だ。奥の和室が寝室になっている。
「私、あなただけを考えてる。あなたを信じてるから、何されてもいいよ。
 あなたも私だけを考えてね。そう言う気持ちで私の親に挨拶したんだよね?」
 智子が、襖を開け放った寝室のベッドを示して、正俊の意志を確認した。
「ああ、そうだよ。いつ結婚してもいい。おたがいその気になったときに、一つになればいい。今、そうしたい?」
 正俊は智子を抱きよせ、唇を重ねた。
「そうしたい気持ちは、ちょっとあるよ。あなたは?」
 唇を触れたまま智子が答えた。
「こうして、少しずつその気になってる。そのうち、おたがいに一つになりたいと思うようになるよ。そしたら、家族を増やすようにがんばろう」
「うん!そのときまで待ってね!すぐそうなると思う!正俊が大好きだから!」
 智子が正俊に抱きついた。
 正俊も智子を抱きしめた。正俊の腕の中で智子がうめいた。正俊はあわてて力を抜いた。
「ウフフッ、お尻は力一杯抱きしめていいけど、オッパイと肩は潰さないでね」
 そう言って智子は笑顔で胸の位置を直し、正俊に唇を触れた。

「ネエ、正俊、あたしのこと好き?」
 智子は正俊の耳元に唇を寄せてささやいた。
 正俊も智子の耳元で言う。
「ああ、大好きだぞ」
「私のどこが好き?」
 智子が顔を離して正俊の左右の目を交互に見つめている。
「全てだ。性格も身体も」
 正俊は智子の鼻を見た。鼻筋が通って、滑らかな曲線が形の良い唇へのびている。
「まだ、私の性格、知らないでしょう?」
 唇が動いてつぶやくような声が聞える。
「知ってる。質問していいよ」
 正俊も、智子の左右の目を交互に見つめた。過去に何度となく智子の性格を人伝えに聞いている。
「好きな食べ物はなんだと思う?」
 正俊にはわからないだろうと智子は思った。
「卵焼きにハンバーグに、カレー、激辛かな」
 正俊は閃きをそのまま言った。正俊の好みに似ている。
「すっごいー、大当たり!私の好み、子どものままだね」
 智子の驚きが正俊に伝わってきた。
「じゃあ、悲しみを体験したときはどうすると思う?」
「おいしい物を食べて、漫才見て、ばか笑いして、気持ちを切り換える。
 だけど、その悲しみを忘れはしない。しっかり受けとめて、その人のために祈ってあげる。そうじゃないな。その悲しみの存在を忘れないようにする。なんか説明が変だ。
 とにかくその悲しみを忘れない。存在を認めてるんだ・・・」
 正俊はうまく状況を説明できなかった。状況が映像となって思い浮かぶのだが、それをうまく言葉に言い表せない。何とかの法則の、逆の応用だ・・・。
 引き寄せの法則の応用だ・・・。たしか、引き寄せの法則は、ウィリアム・ウォーカー・アトキンソンとか言うのが発表したように記憶している・・・。

「そういう悲しみを深く知ってると、私の中に深い悲しみが存在してるから、同じような悲しみに出会わない・・・」
 智子の目が正俊の左右の目を見つめて、左右に動いている。
 正俊は、智子が俺の心の中を見ようとしてるんだろうと思い、
「うん、現実を受けとめないと、何度も同じことがくりかえされる。間接的でも心に深く受けとめればその体験はくりかえされない。そういう現象だね。心に強く受けとめて現実に起こったと認めてるんだ・・・」
 智子の目の動きに合せて智子の目を見つめた。

「そうだよ。実際はその逆が法則化されてるの。
 私は、正俊に会えて正俊といっしょになると思って疑わなかった。正俊といっしょに暮して、家族が増えて、和やかに暮す・・・」
 智子が正俊に抱きついた。正俊に抱きしめられて目を閉じた。眠くなってきたらしい。
「眠ってていいよ。俺は本を読んでる。本棚の本、読んでいいよね?」
「いいよ・・・」
 智子がまどろみはじめた。
「ちょっと待ってね」
 正俊は智子から離れて壁際の本棚の本をとった。
「横になって腿を枕にして少し眠るといいよ」
 ソファーにもどり、智子をソファーに寝かせ頭を太股にのせた。ソファーの背もたれにあるブランケットを智子の身体にかけた。
「ありがとう・・・」
 智子は正俊の腿を枕にまどろんだ・・・。

 正俊はおちついていた。なぜこんなにおちついていられるのか不思議だった。物事に感動しにくい性格かと問われればそんなことは無い。人一倍感動する。
 いつも、智子といずれいっしょになれると妙な確信があり、独りではないと思っていたのは事実だ。その点、智子が言う、引き寄せの法則そのままだと正俊は思った。
 これまで何度となく思い描いた体験は、現実では初めてであり、思いの中では初めてではない。正俊は新鮮でありながら、おちついた感動に満たされていた・・・。

 正俊は開いた本のページの文字を目で追いながら、智子の髪を撫でて額に唇を触れた。また、焼きたてのバニラクッキーのような匂いが漂った。
「私も、おちついてるよ。ずっと思ってたことが、そのままつづいてる。
 これからも、つづくよ・・・」
 智子が寝言のようにつぶやいた。
「そうだね」
 正俊はそっと智子の髪を撫でた。
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