十 再就職

文字数 3,877文字

 翌日、日曜日、午後。
 晴天がつづいていている。荻原は厚木市内の、かつての上司である沢井課長の家の応接間にいた。
「月曜からでも来てくれ。条件は今までと同じでいいね。
 なぜ、連絡してくれなかったんだ。荻原君にはずいぶん無理を通してもらったんだ。
 今度は私がお返しする番だ」
 同席している溝端バッテリーの溝端浩造工場長は愛想よく言った。

 荻原が、厚木電装東京営業本社の係長として顧客と揉めたのは、大手の自動車メーカーの担当者が、契約違反の理不尽な要求をしたため、荻原はその担当者を叱責した。
 そのことで営業課長は荻原に、自動車メーカーの担当に謝罪しろと命じたが、契約を一方的に破棄した先方の担当者に非があったため、荻原は謝罪せず、営業課長と殴り合いの喧嘩になった。
 荻原は業務命令を無視して上司に怪我を負わせたと判断され、厚木電装本社工場へ転勤させられた。会社側は営業課長にも業務上の非があることを認めて、荻原を降格せずに係長のまました。
 その後、自動車メーカーは担当者の契約違反を正式に認めた。厚木電装は、本社工場へ左遷した荻原に対して何も謝罪しなかった。

 厚木の本社工場に生産管理係長として勤務した当時の荻原は、上司の沢井峯春課長から助言され、下請企業に対して高飛車な態度をとったことは一度も無かった。むしろ低姿勢な態度で接し、下請企業の要求をできるだけ通すように本社工場と交渉して、時には営業に条件をつけていた。
 荻原は下請企業から一目置かれて親しまれていたが、本社工場と東京営業本社からは、本社工場の注文の多い生産管理係長として嫌われ者だった。

「ありがとうございます。明日からうかがいます」
 荻原は、沢井課長と溝端浩造工場長に深々と頭をさげた。
 しかし、荻原の心に何かが引っかかった。
 下請企業から反発を受けるようなことはしなかった・・・。溝端バッテリーの無理を呑んで、俺の立場が無くなるのを承知で本社工場と営業に掛けあった。なのに溝端バッテリーの工場長に対するこのわだかまりは何だろう・・・。

 溝端浩造工場長は、溝端バッテリーの溝端浩太郎社長の息子だ。年齢は俺と同世代。妻と二人の子どもがいる。この溝端浩造工場長から、あの大手自動車メーカーの担当者や東京営業本社の営業課長が俺に向けた憎悪と同じようなものを感じるのはなぜだろう・・・。

「さあ、話はまとまった!隣へ行こう!二人とも久々なんだ。一杯やろう!」
 沢井課長は荻原と溝端浩造工場長を応接間から座敷へ導いた。


 座敷で沢井課長が荻原と溝端浩造工場長にビールを注いだ。
「荻原君。これまでの経験を活かし、溝端バッテリーの工場長をしてやってくれ。
 溝端浩造工場長は近々社長に就任するんだよ」
「はい。溝端工場長、よろしくお願いします」
 なんだ、後釜か。もっとバッテリーにくわしいのがいるだろう・・・。それとも、かつて務めていた厚木電装の本社工場にくわしい俺が、なにかと都合がいいのか・・・。

「荻原君が来てくれると助かるよ。会社を経営するにあたり、信頼できる荻原君がいれば安心だよ・・・」
 溝端浩造工場長は笑顔で話して、沢井課長にビールを注いでいる。
 溝端浩造工場長の態度に、荻原は、かつての厚木電装本社工場で上司に監視されているような気分になった。
 俺を手元に置いて何を監視しようというのか?それとも俺の思い違いか・・・。
「もし、よければ、奧さんも溝端バッテリーで働くといいと溝端君は言ってるんだ。
 奧さんも、うちでは働きにくいだろう・・・」
 沢井課長が溝端浩造工場長にビールを注いでもらいながら、荻原を見た。
 溝端浩造工場長は沢井課長のグラスにビールを注ぎ終えて、荻原にグラスを空けるよう目配せしている。
 荻原はビールを飲んでグラスを溝端浩造工場長へ差しだした。
「妻も、本当にいいんですか?」
「ああ、そうしてもらえると助かるんだ。荻原君たちに工場を管理してもらえれば、私も安心して経営に専念できる」
 そう言って溝端浩造工場長は荻原のグラスにビールを注いだ。

 荻原は溝端浩造工場長からビールを受けとり、沢井課長と溝端浩造工場長に、グラスを空けるよう促してビールを注いだ。やはり何かがおかしい・・・。
 沢井課長は妻多恵を本社工場から退社させようとしている。
 溝端浩造工場長は、俺と妻が溝端バッテリーに勤務することを望んでいる。
 俺に対する人道的配慮か?それとも他意があるのか?なんでここまでするのだろう?
 ふと、荻原は思いだした。

 荻原が勤務していた厚木電装本社工場の納入部品は良品だけに支払いが成されたが、かつてこの支払い方法に例外があった。厚木電装本社工場への貢献度が高い下請けには、内密裏に一部の不良品に対しても支払いが成されていた。
 この場合、不良品の返品伝票があれば、不良品に対して一部の支払いが成され、帳簿上で処理された。不良品は回収されて分解され、再生産に使用された。
 厚木電装本社工場が確認するのは良品の納品数と不良品の返品数だけだ。全て伝票の数字をコンピューター端末で処理したため、数字を変えることはいくらでもできた。
 このような内密裏の支払いは現在も残っている、との噂だった。
 最近は全納入部品がコンピューター登録されて、良不良が判断されて支払いが成される。不正はいっさいできないようになっているが、架空の部品が不良品として処理されれば、部品が存在しないまま、支払いだけが成される可能性はありうる。
 こんなことができるのはコンピューターに精通したオペレーターだけだ。そして不当な利益を得るのは下請けと、そうなるように手配できる内部の者だ・・・。
 もしそうなら、やっかいなことに巻きこまれる。もう溝端バッテリーで働くことを言っちまった。今さら撤回できないし、撤回すれば、
「何でそんな良い話を断わるんだ。贅沢言える立場じゃないだろう。長い物には巻かれろ」
 と妻が叱責するだろう・・・。
 そうだ。忘れてた。仕事が決ったら、妻を追いだすんだった・・・。
 妻に退職を勧める沢井課長の意図は何だ?そうか!妻は受入れ部品の管理をしてる!妻が何かに気づいたため、じゃまになったんだ・・・。

 そんなことを考えながら、荻原が沢井課長と溝端浩造工場長の話に耳を傾けている素振りでビールを飲んでいると、沢井課長の奧さんが惣菜を運んで現れた。
「どうぞ、お飲みくださいな」
 にこやかに座卓に惣菜を置いてあいさつし、荻原と溝端浩造工場長にビールを勧めている。
「荻原君、どうした?食べて飲んでくれ。君の再就職のお祝いだぞ」
 沢井課長は朗らかに荻原を見ている。
「はい。ありがとうございます」
 荻原は惣菜をいろいろ口へ運んだが、様々な思いが心に浮かび、味がわからなかった。

「溝端さん、荻原君を頼むよ。真面目な男なんだ・・」
 沢井課長は奥さんにビールを注いでもらいながら、溝端浩造工場長に笑顔で話している。
「ええ、わかってます。荻原君、どうした。元気ないね」
 溝端浩造工場長は何か気にするように荻原を見つめた。
 沢井課長の奧さんは親しそうに溝端浩造工場長と会釈をかわし、ビールを注いでいる。溝端浩造工場長は何度も沢井課長の家に来ていて奧さんとは顔なじみのようだ。
「そんなことはありませんよ。仕事が決まって、ほっとしてるんです。緊張の糸が切れたと言うか・・・」
 荻原はその場の雰囲気を壊さないように気をつかった。
「あははっ、君らしいね。もっと気楽にしたまえ。
 溝端工場長も、荻原君にそう言ってください」
 沢井課長が陽気に言った。

 荻原は沢井課長との溝端浩造工場長の関係が、単なる親会社と下請けの関係ではない気がした。俺は何かの陰謀に荷担させられるのではないか・・・。
 もしそうなら、あの場で俺に難癖つけた堀田のせいだ・・・。
 あいつが俺の気分を損なわなければ、今のようにはならなかったはずだ・・・。
 荻原は、社内暴力事件の原因が堀田正俊にあったと責任回避している自分の心に気づかずにいた。

 夕刻。
 帰宅した荻原は妻を居間に呼んだ。現れた妻に沢井課長の家で話された提案を伝え、荻原は、月曜から溝端バッテリーに勤務すると言った。
「良かったじゃないの。私も溝端バッテリーへ勤務するわ」
 妻は何一つ異論を唱えず、荻原の説明に同意した。
 荻原は妙だと思った。日頃から、何事も根ほり葉ほり聞きだそうとする妻なのに、今日の妻は何一つ問うことなく溝端浩造工場長の提案に同意した。やはり、厚木電装本社工場を退社して他へ移りたいと考えている。理由は何だろう・・・。

「アンタのことがあったから、工場に居づらかったんだよね。
 それに、仕事がなんか妙なんだ。受入れ部品数が、端末表記数と合わないと思って報告したら、夜間の納入分を追加処理したと受入れの係長が言ってた。
 私の知らない間に、実在しない部品が数量に上がってるような気がしてならない・・・。
 だけど、私はそんな事の理由を知ろうとは思わないから、アンタの事もあって、転属願いを出してたんだけど、受け入れられなかった・・・。
 なんだか、他の人を受入れ部品管理に入れたくないみたいだった」
 妻は溝端バッテリーの勤務を、渡りに舟、と言いたそうだった。

「そうか。それなら、沢井課長と溝端浩造工場長に多恵のことを連絡しておく。工場の退社は沢井課長が処理してくれる。月曜に溝端バッテリーへ行けばいい・・・」
 やはり妙なことが起こっていた・・・。とりあえず、溝端バッテリーに勤務して給料を得ようと荻原は思った。
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