07 窮地からの逆転

文字数 2,586文字

 乳白色の霧がリヒトの視界を覆っている。
 ああ、これは夢だな、とリヒトは思った。
 霧は冷たい風に流されて、左右に分かれる。澄みきった風が頬を通りすぎた。
 気が付くとリヒトは、どこかの山腹に立つ古い城のバルコニーで、光を受けて虹を作る滝を見下ろしていた。足元は白い床で、古びた柱やバルコニーの手すりも同じ材質だった。
 渓谷の向こうには青い空が見える。
 見事な景観に、思わずバルコニーの手すりから身を乗り出すように眺めていると、背中に声が掛かった。

「私の城にようこそ。現実では絶賛ピンチのリヒト君」

 振り向くと、洒落た青いマントを羽織り、白い軍服を身にまとった黒髪の青年が、優しそうな笑みを浮かべてリヒトを見ていた。

「ええと、魔王様……?」

 自分の天魔の正体である、絶縁の魔王に対面して、リヒトは少し緊張した。

「役職名で呼ばないでくれ。背中が痒くなる」
「じゃあ何と呼べば良いですか? 王様?」
「同じじゃないか。だけど私はとっくの昔に死んだ者だから、個人名で呼ばれるのも困る……そうだな、剣の名前からとって、適当にレピドとでも呼んでくれ」

 レピドと名乗った絶縁の魔王は、気さくな様子で肩をすくめて見せる。
 彼の砕けた様子と爽やかな空気を、リヒトは不思議に思った。

「魔王っぽくない……」
「ははは、良く言われる。でも魔王というのは、人間の勝手な想像だからね。現実の私は、天魔の国を治めていた最後の王に過ぎない……それはそうと、リヒト君、大ピンチだね」

 言葉の途中で、レピドは意味深な笑みを浮かべる。
 リヒトは意識を失う直前で起きた出来事を思い出し、青ざめた。

「すっごい詰みの状況だった。この夢、覚めないと良いな……」

 魔物だらけのコンアーラ帝国に乗り込み、敵の魔王信者の前で、仲間だと思っていたアニスに噛み付かれて、殺されそうになっている。
 現実逃避したくなったリヒトに、レピドは人差し指を突き付けた。

「駄目だよリヒト君。覚めない夢は無い。私は宿主の可哀想な有り様を見て、少しだけ考える時間とアドバイスをあげたいと思っただけだ」
「それはどうも」

 夢はレピドの温情らしい。
 確かに考えを整理する時間が必要だった。
 リヒトは幻の風を吸い込んで、大きく深呼吸する。

「僕はどこを間違ってしまったのかな……」
「君は何も間違っちゃいない。だけど世の中、正しいものが弱くて、間違っているものの方が強いんだ。ただそれだけだよ」

 打てば響くように回答が返ってくる。
 予想外の返事に、リヒトは意表を突かれてレピドを見返した。

「正しいものが弱い……」
「ついでに言うと、君が優しいからかな。彼女達は君の優しさにつけこんで、甘い蜜を吸いたいと思っている。その気持ちは純粋な好意で一点の曇りも無い。善意ほど恐ろしいものは無いんだよ」

 レピドの言う通りかもしれない。
 握りしめた拳を胸の上に持ってきて俯く。愚かにも彼女達を救いたいと考えた。独りにしないでと泣き叫ぶ幼馴染みの少女を、憐れんだ。考えて見れば、自分自身の面倒だけで精一杯なのに。救われたいのは、リヒトも同じだ。
 床に目を落としたリヒトの耳に、鳥のさえずりの声が聞こえてくる。
 チュンチュンと鳴く小鳥の声に混ざって、かすかに歌声が聞こえた。高く柔らかなソプラノの歌声。

「この歌……!」
「聞こえるかい? これは彼女の、シエルウィータの歌だ」

 驚いて顔を上げると、レピドは何故か悲しいような嬉しいような、複雑な表情で、空の彼方を見つめていた。

「あの世界の終わりの日、私は彼女との絆さえも切り離し、異形の魚を世界の境界の向こう側へ追放した。だが記憶を失った彼女はそれでも、私への想いを歌い続けた。歌は世界に響き渡り……今は私の魂の一部となっている」

 風に溶け込むような歌声は、意識してしまえば確かなメロディーとして耳に入ってくる。リヒトは黙って歌声に耳を傾けた。

「……ソラリア」

 一緒に旅している間、彼女はたびたび、気持ち良さそうに鼻歌を歌っていた。幻の歌声に彼女の鼻歌が重なって聴こえる。
 家族を盾に勇者の仕事を強要されていると嘆いても、けっして助けを求めなかった誇り高い彼女。強くなりたいと呟いた横顔を思い出す。
 自分で立とうとしていたソラリアに、リヒトは手を差し伸べなかった。それが彼女のプライドを傷付けると知っていたから。けれど、本当はもどかしかった。
 リヒトは彼女にこそ、自分を頼って欲しかったのだ。
 彼女の名前を聞いたレピドは微笑んで頷く。

「一番大事なものを、間違えなければ良い。それだけで私達は生きていける。そうだろう、リヒト?」



 そうだ、こんなところで立ち止まっている場合じゃない。
 一番大事なものを見失うな。

「……」

 激痛にさいなまれながら、目を開ける。
 背中に固い地面の感触がした。紅茶色の髪の少女が、倒れた自分の上に馬乗りになって、首筋から血をすすっている。

「どいて、アニス!」
「キャッ」

 リヒトは全身の力を振り絞って、自分を押さえつけている少女の身体を引き離し、彼女のみぞおちに容赦なく膝蹴りを入れた。
 急所を突かれて、アニスは咳き込みながら後退する。

「くっ」

 上半身を起こしたリヒトの首筋から、血がポタポタと服に垂れ落ちた。
 もはや瞳の色を抑えている余裕は無い。リヒトの瞳は妖しく輝く蒼に染まっていた。
 顔を上げると、すぐ近くにサザンカがいた。彼女は苦しむリヒトを見下ろして、愉悦の表情を浮かべている。

「悪あがきを、我が君……」

 飛び起きたリヒトは、無我夢中で地面に落ちた剣を拾い上げると、何か言い掛けたサザンカに斬り掛かった。
 本気の一閃。
 殺気がこもった剣を、サザンカは咄嗟に身体を横にずらして避ける。
 しかし魔王の剣の余波が彼女の腕をかする。白い腕がぱっくりと割れ、血がほとばしった。
 肩を押さえてサザンカは絶叫した。

「ああああああっ!!」
「……これ以上はもう、手加減しない」

 荒い息を吐きながらリヒトは宣言する。
 少年の炯々と光る蒼い瞳に見据えられて、サザンカは驚愕しながら血が流れる肩を庇い、後退りした。

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登場人物紹介

リヒト


主人公。灰茶色の髪に紺色の瞳で、大人しい雰囲気の細身の少年。

一般人を自称するが、そのマイペースぶりは一般人の枠を超えている。

空気を読んでいるようで読まずに周囲の思惑とずれた発言をするが、

薄情なようで人情に厚く、人当たりが良い癖に飄々とした性質は不思議と人に好かれる。

羊を愛し、自分の天職は羊飼いであると思っている。

ソラリア


腰まで伸びた淡い金髪と水色の瞳に冴えた美貌の、涼しげな印象の少女。

ランクの高い天魔の能力を持ち、鳥達を操ることから聖女と崇められている。

実は鳥の魔物(ハーピー)達に育てられた過去を持つ。

友達はカラスだけ、人間は信じられず、生きるために教会を利用していたが、

リヒトとの出会いによって少し考えが変わってきたようである。

メリーさん


リヒトの飼っている羊。

人の言葉を理解しており、リヒト達の会話に突っ込みを入れているが、

読者以外は誰も彼女の言葉の意味に気付いていない。

普通の羊より小柄な体格で真っ白で綺麗好き。いつでもふわふわ。

巨大化したり分裂したりする。羊だが手紙も食べる。

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