06 大事な人を救うために
文字数 2,786文字
ナイフを突き立てた胸の傷は浅かった。
にじむ血をそのままに、リヒトは幼馴染みに手を差し伸べる。
その時、空が白く光った。
「なんだ?」
二人の少年は空を見上げて絶句する。
薄く陰った曇り空には、中天を通りすぎた太陽の代わりに、神々しく光る白い魚が泳いでいた。もうすぐ日は沈む。赤く燃える夕日を背に、白い魚は優雅に透明なヒレを泳がせていた。
呆然とするリヒトの前で、魚から白い光の矢が降る。
光の矢は地上で動きを止めている魔物達を射し貫いた。
「やめろ!」
魚が魔物達を攻撃していることに気付いたリヒトは、思わず悲鳴を上げる。見た目は魔物でも、彼らは本来罪の無いコンアーラ帝国の民だ。こんな虐殺が許されて良いはずがない。
「くそっ」
リヒトは急いで地面に転がっている覇者の杖を拾い上げ、念じた。
逃げろ。
皆バラバラの方向に逃げるんだ。
覇者の杖から魔物達に指令が伝わる。
魔物達は眠りから覚めたように、跳ね起きて、動き出す。
光の矢を避けながら方々へ逃げ始めた。
しかし、彼らを追いかけるように白い魚も降下を始める。
素早く滑らかに空中を泳ぐと、魚は口を開いて小さな魔物をガブリと呑み込んだ。遥か上空にいたから小さく見えたが、地上に近付いた魚は、大人の人間を丸呑みにできる大きさがあった。
まるで捕食者に追い立てられる小魚の群れのように、魔物達は逃げ惑う。
「いったい、どうすれば……」
「お困りですか? 我が君」
艶やかな女性の声に振り返ると、そこには銀の髪を高く結い上げ、踊り子のような袖の長い衣装を着た女が立っていた。
魔王信者のサザンカだ。
「私が良い方法を教えてあげましょう……」
サザンカは今まで散々、邪魔をしてきたリヒトの敵だ。
いったい何を言い出すのかと、リヒトは警戒した。
「我が君は、あの世界の終わりの日、虚空魚 を人々から切り離し、世界の裏側へと封印しました」
立ち上がって油断なく睨むリヒトの前まで歩いてきて、サザンカは微笑みながら続ける。
「しかし前回と同じ手は通用しません。ほら、あの魚をご覧なさい。色や形が、古代とは違っている。彼らは我が君に対して耐性を付けて再び侵攻してきたのです」
「色や形……?」
言われてみると、いつか夢で見た魚は黒かったし、もう少しグロテスクな造形をしていたように思う。
リヒトは空中に泳ぐ魚に目を凝らした。
「ならば今回は天魔を対象にすれば良いのですよ。虚空魚 は魔物、すなわち天魔を強く発現した者を狙って攻撃してきている。世界から天魔達を――いえ、天魔という概念そのものを切り離せば、全ては解決します!」
サザンカの提案に、リヒトはぎょっとして息を呑んだ。
「天魔という概念を切り離す、だって?」
「そうです。虚空魚 を追い返すのみならず、全ての人の記憶から天魔という言葉そのものが無くなれば、世界は平和になるでしょう! そんな大業をなしえるのは、絶縁の魔王たる我が君だけ!」
サザンカはばっと両腕を広げる。
彼女の赤い着物の袖が左右に広がった。
女の顔に愉悦が浮かぶ。
「さあ、もう時間はありませんわよ。あの可哀想な魔物達を救いたいと願うなら……」
彼女の言う通り、白い魚は次々と魔物を飲み込んでいっている。
逃げ出せた魔物もいるが、全ての魔物の足が速い訳ではない。
リヒトは唇を噛んだ。
「……僕は魔王じゃない。それに、僕にそんな力は無い」
確かに天魔という概念が無くなれば、魚から魔物達を救うだけではなく、天魔の能力者に対する差別や弾圧は無くなるかもしれない。
天魔という言葉そのものを、世界の縁 から解放する。
それは途方もなく大きな力が必要だ。
人ひとりの絆を切るのでさえ体力を消耗しているリヒトが、そんな大それた事ができるとは到底思えなかった。
「私が力をお貸ししますよ。我が君は、まだ全力で天魔の力を使ったことがないでしょう? 貴方の全力をもってすれば、世界を断ち切る事は可能です」
リヒトの天魔は、目に見えない「繋がり」そのものに干渉する力だ。確かに究極まで力を高めれば、世界を断ち切る事も可能かもしれなかった。
迷うリヒトに、サザンカは囁きかける。
「……彼女を救いたくないのですか? あの女、シエルウィータの生まれ変わりだという……確かソラリアと言いましたっけ」
「……!」
「あの魚が魔物を食いつくしたら、次は私達、天魔を食らうでしょう。その前に……」
サザンカの言葉は都合が良すぎる。嘘かもしれない。
けれど、迷っている暇は無かった。
「……試すだけ試してみようか」
「さすが我が君!」
サザンカが手を叩いて喜ぶ。
絆を断ち切るスキルは、刃物を手に持って使った方が効果が出やすい。作業用ナイフを持ったリヒトに、サザンカが覇者の杖を使うように助言した。覇者の杖は天魔の力を補助してくれるため、ナイフよりは適切らしい。
「これは、あらゆる縁 を断ち切る、絶縁天魔のレピドライト……!」
リヒトは覇者の杖を掲げて、高らかに宣言した。
展開に付いていけず、地面に座り込んで呆けていたレイルは、リヒトを見つめるサザンカの口元に浮かんだ歪んだ笑みに気付いて、戦慄した。
駄目だ、これは罠だ。
「リヒト!」
幼馴染みを止めようと声を上げる。
しかし今までになく集中したリヒトには、レイルの声が聞こえている様子は無かった。少年の足元から蒼い光が立ち上る。呼応するように覇者の杖の頭に付いた石が眩しい光を放った。
このままではサザンカの思う壺になってしまう。
いったいどうすれば……!
――そんなにアイツを止めたいのか?
もう一人のレイルの声が脳裏に響いた。
止める方法を教えてやろう、と彼は言った。
今まで散々、俺の身体を使って悪事を働いてきた癖に、何のつもりだと、レイルは問い返す。フレッドが笑う。
――俺は楽しければそれでいい。
このままあの女狐の思う通りになったら、つまらないからな。
さあ、レイル。
今度はお前の意思で天魔を操ってみろ。
俺の力はお前の力でもある。
震える身体を起こし、片腕を幼馴染みに向かって掲げる。
レイルの動作に気付いたサザンカが止めようとしたが、もう遅い。
「黒は白に、闇は光に、負は正に移り変われっ!反転 !」
あらゆる事象はレイルの天魔によって反転する。
その対象には形の無いものも含まれる。
逆転させる対象は、彼の天魔のスキル。
「リヒト……!」
今、絆を断ち切るスキルが反転する。
にじむ血をそのままに、リヒトは幼馴染みに手を差し伸べる。
その時、空が白く光った。
「なんだ?」
二人の少年は空を見上げて絶句する。
薄く陰った曇り空には、中天を通りすぎた太陽の代わりに、神々しく光る白い魚が泳いでいた。もうすぐ日は沈む。赤く燃える夕日を背に、白い魚は優雅に透明なヒレを泳がせていた。
呆然とするリヒトの前で、魚から白い光の矢が降る。
光の矢は地上で動きを止めている魔物達を射し貫いた。
「やめろ!」
魚が魔物達を攻撃していることに気付いたリヒトは、思わず悲鳴を上げる。見た目は魔物でも、彼らは本来罪の無いコンアーラ帝国の民だ。こんな虐殺が許されて良いはずがない。
「くそっ」
リヒトは急いで地面に転がっている覇者の杖を拾い上げ、念じた。
逃げろ。
皆バラバラの方向に逃げるんだ。
覇者の杖から魔物達に指令が伝わる。
魔物達は眠りから覚めたように、跳ね起きて、動き出す。
光の矢を避けながら方々へ逃げ始めた。
しかし、彼らを追いかけるように白い魚も降下を始める。
素早く滑らかに空中を泳ぐと、魚は口を開いて小さな魔物をガブリと呑み込んだ。遥か上空にいたから小さく見えたが、地上に近付いた魚は、大人の人間を丸呑みにできる大きさがあった。
まるで捕食者に追い立てられる小魚の群れのように、魔物達は逃げ惑う。
「いったい、どうすれば……」
「お困りですか? 我が君」
艶やかな女性の声に振り返ると、そこには銀の髪を高く結い上げ、踊り子のような袖の長い衣装を着た女が立っていた。
魔王信者のサザンカだ。
「私が良い方法を教えてあげましょう……」
サザンカは今まで散々、邪魔をしてきたリヒトの敵だ。
いったい何を言い出すのかと、リヒトは警戒した。
「我が君は、あの世界の終わりの日、
立ち上がって油断なく睨むリヒトの前まで歩いてきて、サザンカは微笑みながら続ける。
「しかし前回と同じ手は通用しません。ほら、あの魚をご覧なさい。色や形が、古代とは違っている。彼らは我が君に対して耐性を付けて再び侵攻してきたのです」
「色や形……?」
言われてみると、いつか夢で見た魚は黒かったし、もう少しグロテスクな造形をしていたように思う。
リヒトは空中に泳ぐ魚に目を凝らした。
「ならば今回は天魔を対象にすれば良いのですよ。
サザンカの提案に、リヒトはぎょっとして息を呑んだ。
「天魔という概念を切り離す、だって?」
「そうです。
サザンカはばっと両腕を広げる。
彼女の赤い着物の袖が左右に広がった。
女の顔に愉悦が浮かぶ。
「さあ、もう時間はありませんわよ。あの可哀想な魔物達を救いたいと願うなら……」
彼女の言う通り、白い魚は次々と魔物を飲み込んでいっている。
逃げ出せた魔物もいるが、全ての魔物の足が速い訳ではない。
リヒトは唇を噛んだ。
「……僕は魔王じゃない。それに、僕にそんな力は無い」
確かに天魔という概念が無くなれば、魚から魔物達を救うだけではなく、天魔の能力者に対する差別や弾圧は無くなるかもしれない。
天魔という言葉そのものを、世界の
それは途方もなく大きな力が必要だ。
人ひとりの絆を切るのでさえ体力を消耗しているリヒトが、そんな大それた事ができるとは到底思えなかった。
「私が力をお貸ししますよ。我が君は、まだ全力で天魔の力を使ったことがないでしょう? 貴方の全力をもってすれば、世界を断ち切る事は可能です」
リヒトの天魔は、目に見えない「繋がり」そのものに干渉する力だ。確かに究極まで力を高めれば、世界を断ち切る事も可能かもしれなかった。
迷うリヒトに、サザンカは囁きかける。
「……彼女を救いたくないのですか? あの女、シエルウィータの生まれ変わりだという……確かソラリアと言いましたっけ」
「……!」
「あの魚が魔物を食いつくしたら、次は私達、天魔を食らうでしょう。その前に……」
サザンカの言葉は都合が良すぎる。嘘かもしれない。
けれど、迷っている暇は無かった。
「……試すだけ試してみようか」
「さすが我が君!」
サザンカが手を叩いて喜ぶ。
絆を断ち切るスキルは、刃物を手に持って使った方が効果が出やすい。作業用ナイフを持ったリヒトに、サザンカが覇者の杖を使うように助言した。覇者の杖は天魔の力を補助してくれるため、ナイフよりは適切らしい。
「これは、あらゆる
リヒトは覇者の杖を掲げて、高らかに宣言した。
展開に付いていけず、地面に座り込んで呆けていたレイルは、リヒトを見つめるサザンカの口元に浮かんだ歪んだ笑みに気付いて、戦慄した。
駄目だ、これは罠だ。
「リヒト!」
幼馴染みを止めようと声を上げる。
しかし今までになく集中したリヒトには、レイルの声が聞こえている様子は無かった。少年の足元から蒼い光が立ち上る。呼応するように覇者の杖の頭に付いた石が眩しい光を放った。
このままではサザンカの思う壺になってしまう。
いったいどうすれば……!
――そんなにアイツを止めたいのか?
もう一人のレイルの声が脳裏に響いた。
止める方法を教えてやろう、と彼は言った。
今まで散々、俺の身体を使って悪事を働いてきた癖に、何のつもりだと、レイルは問い返す。フレッドが笑う。
――俺は楽しければそれでいい。
このままあの女狐の思う通りになったら、つまらないからな。
さあ、レイル。
今度はお前の意思で天魔を操ってみろ。
俺の力はお前の力でもある。
震える身体を起こし、片腕を幼馴染みに向かって掲げる。
レイルの動作に気付いたサザンカが止めようとしたが、もう遅い。
「黒は白に、闇は光に、負は正に移り変われっ!
あらゆる事象はレイルの天魔によって反転する。
その対象には形の無いものも含まれる。
逆転させる対象は、彼の天魔のスキル。
「リヒト……!」
今、絆を断ち切るスキルが反転する。