第9話 「狙った獲物は逃がさぬ」と彼は言った

文字数 3,539文字

 カイコウラへ向かう車の中で、ぼくはおばさんが書いてくれた手紙を読んでいた。
「親愛なるユキへ。昨夜あなたが私たちの家に泊まってくれたことは、私たちにとってとても楽しい出来事でした。私たちはもうすぐこの土地を手放さなければなりません。その前にあなたと出会うことが出来て、とても良かったと思います。日本のラジオ放送が聞くことが出来て良かったですね。あなたにとって、祖国のニュースを聞くということは、とても大切なことでしょう。カイコウラに無事に着くことが出来るよう祈っています。   オホカのミセス・アームストロングより   」

 だいたいこのような内容だった。手紙と一緒に渡された包みには、数枚の写真と手作りのパイが入っていた。ぼくは再び胸を熱くしながらパイをかじった。


 二台の車を乗り継いで、カイコウラには昼頃着いた。町からユースホステルがある方角へ歩いて行くと、途中に「ホワイトハウス」というバックパッカーズホステルがあった。朝食付きで十一ドル。奥さんが日本人なので日本語も通じます、という張り紙がしてあった。ぼくは迷わずこちらに入った。

 ちなみにバックパッカーズホステルというのは、まぁ基本的にはユースホステルと似たような、ただユースホステル協会とは無関係の、協会のルールには縛られていない、個人経営の簡易宿である。だから協会所属のホステルと違って、宿泊のために会員になる必要はないし、酒は飲めるしタバコは吸えるし(当時ユースホステルではどちらも禁止)、個室もあるしデューティーもない(一九八八年頃では、ユースホステルの宿泊者は必ずデューティーと呼ばれる、掃除をしたり机を拭いたりなどの仕事をしなければならなかった。しかし非常に不評で客足の遠のく原因ともなり、また、どうせ与えられた仕事をまともにやる宿泊客もほとんどいなかったので、一九九三年にはデューティーは自主性になり、やがて廃止されることとなった)、おまけに料金もたいていは協会所属のホステルより安い! という、YH協会にとっては大敵だが、ぼくたち旅行者にとってはとっても便利な宿なのだ。

「ハロー、こんにちはぁ。今晩泊まりたいんですけど」
「いいとも。ベッドはそこだぜ」
「オーケー。チェックインは?」
「今日は無料だ。オレの誕生日だからな」
 やった、ついてるな。しかしどうやら日本人の奥さんというのは存在しないし、日本語も通じそうにはなかった。

 ベッドルームに入って行くと、そこにいたドイツ人が話しかけてきた。
「やぁ、君はクライストチャーチで見かけたな」
「うん、さっきヒッチで着いたところなんだ」
「日本人のヒッチってのは、どうやるんだい?」
「え? 日本人のって……、べつにただこうやるだけだよ」
 ぼくは左手の親指を立てて見せた。
「ふーん、本当にそれだけか?」
 と彼が疑うので、いったいどういうことなのか聞いてみた。彼の話はこうだった。

 南東の北の外れ、ネルソン地方のハブロックという町はヒッチの難所で、いつも朝から何人ものヒッチハイカー達が国道に並ぶのだが、なかなか拾って貰える者はない。その日も朝早くから多くのヒッチハイカーが乗せてくれる車を待っていた。そこへ昼頃、荷物をやたらと背負った日本人がやってきて、最初の車が来るなり荷物を降ろして、突然道の真ん中で手を振り回しながら飛び回り始めた。いったい何事かと車がスピードを緩めるやいなや、彼は運転手を拝み倒して、唖然として見つめる他のヒッチハイカー達を尻目に、あっという間に去って行ってしまったのだそうである。それから、日本人のヒッチは道の真ん中で手を振り回して相手を無理矢理拝み倒すのだ、という噂が拡がったらしい。

 両手を合わせて拝むポーズをとるなんてのは、それは日本人だと言われれば、たぶんそうなのだろうと思う。
「でもそれは特殊なケースだよ」
 そう言い残して外に出た。
「ディナーも出すから、夕方には帰って来いよ」
 誕生日のマイケルが、料理をしながら後ろで叫んだ。


 協会所属の方のユースホステルに顔を出してみると、日本人の女の子がいたので、
「こんにちはぁ」
 と挨拶をした。するとその娘は、
「どうして日本語が話せるんですかぁ?」
 なんて言うのだ。バカモン! そりゃあ確かにぼくはとんでもなく日にも焼けてるし、マオリの人(ニュージーランドの先住民族)にもマオリ語で話しかけられたことはあるけれど、日本人の女にそこまで言われるとは思わなかったぜ。

 と怒りつつも、
「だって日本人ですよぉ」
 などとにこやかに笑いながら、話は弾んでいくのであった。すると横から、
「やぁ君、あれからどうしてた?」
 などとやたらにフレンドリーな声がかかってきたので、振り向いて驚いた。それは数週間前、アレクサンドラという町で花のフェスティバルを見たあとに立ち寄ったレイク・ワナカのユースホステルで、ずいぶんつっけんどんな態度をとってくれた三十歳くらいの日本人カメラマンだったのだ。

 その日、ワナカのユースホステルに泊まっていた日本人は、ぼくと彼との二人だけだった。ぼくは無性に日本語が喋りたかったので話しかけたのだけれども、彼が答えたのはほとんど自分の名前だけで、あとはまるっきり相手にしてくれなかった。決してぼくと話そうとはしなかったのである。その態度にはかなりカチンときた。でもまぁ、その頃はまだ観光シーズンには時期が浅く、一人でぶらぶらしていてしかも、「日本人に友好的な日本人」というのは、まずお目にかかれないと思っていていいほど、非常に希な存在だった。

 そういう時期に人知れず孤独に旅行なんてしちゃっているやつは、
「私は日本人なんて大嫌いだもんネ、日本語なんて絶対に喋らないもんネ、私に話しかけないでよネ、あんた達なんかと一緒にしないでよネェェェエ!」
 というタイプの超屈折型青年子女が多かったのである。

 ぼくはヒッチハイクの都合で、観光客など誰も行かないようなマイナーな町にもよく立ち寄ったのだが、そういう場合に出会ってしまった日本人の第一声は、たいてい、
「ちっ、どこいっても日本人がいやがる」
 というようなものだった。無性にこみ上げてくる腹立たしさを押さえながら、
「お前もその一人なんだよぉ!」
 と心の中で絶叫したものである。

 なんでああいう連中は、外人にはニコニコして、
「ハロー」
 と言えるくせに、日本人には、
「こんにちは」
 の一言さえも言うことができないのだろう? 中には日本語は決して喋らず、話しかけてくる日本人に対して、
「私に話しかけるなジャップ」
 と紙に書いて突き付けた女まで存在したそうだ。それはそれでスゲー!

 とにかく(ウヌ、こいつも例の、“自分は日本人とは喋らないよ“タイプのぶん殴り野郎だね)と、ぼくは怒りのエネルギーを彼に向かって放射した。そしてお互いにムッとした「何だてめぇ」型の視線を鋭く交わしながら、我々は無言のまま別れたのであった。
 思えばそれがフリーのカメラマン、縄野頼朝氏との初めての出会いだったのである。

 縄野さんについては、その後あちこちのユースのビジターズブック(旅行者が思い思いの事柄を書いていくノート。これを読むのが旅行中の楽しみのひとつだった)に登場してきたので、その行動パターンは何となく分かってはいた。が、それにしても見事な変わり身であった。ビジターズブックの中に登場してくる縄野さんは、
「縄野さん、ありがとう。料理美味しかったでーす。また会いたいでーす♡」
 などといつもすごくいい人のように書かれていて、それはとても初対面のときの印象からは計り知れないものだった。

 書いているのはいつも若い女性だったので、そのことから察するに、この男は相手が男の場合と女の場合とで、その人格を極端に入れ替えるね、と思っていたら、案の定本当にそうなのであった。要するにこのカイコウラでの彼のフレンドリーな態度は、ぼくと一緒にいた女の子に話しかけるための手段であって、もとよりぼくのことなど眼中にはなかったのである。その証拠にその第一声のあと、彼はほとんど一方的に女の子に話しかけ、ぼくは呆れるくらい無視された。
 うわ、スゲー分かりやすいや。

 別れ際、ふと思いついて聞いてみた。
「あの、縄野さん、ハブロックでヒッチしました?」
「おう、したよ」
「もしかして手ぇ振り回して運転手拝み倒すのって、縄野さんのことですか?」
「おう、よく知ってるな」
「いや、外人がね、そうやってブッちぎりでヒッチしてった日本人がいたって言ってたからね。縄野さん、ちょっと有名ですよ」
「オレは狙った獲物は逃がさねぇからな」
 自慢げな彼の言葉は、すでにぼくに向かって発せられたものではなかった。
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