第22話 クイーン・オブ・ザ・ネコシガワ

文字数 3,796文字

 再び年末のクライストチャーチ。
 ここ数日間は、朝から晩までこき使われて、暇が出来ればどこかの家のパーティーに連れて行かれた。

 香港料理のジョンの家では、古い白黒テレビを貰った。
 インターナショナル・フード・フェア全体のパーティでは、「上を向いて歩こう」と「昴」を歌って、ビッグサプライズ賞として、賞金五ドルを貰った。
 だけどもう嫌んなっちゃったよ。ミチコさんが旅行に行ってしまったこともあって、仕込みや洗い物は全部やらされるし、店だってぼくが半分はやることになるのに、お金は一セントも貰えないしね。

 それにしてもなんであの人たちは、他人に荒い物などを全部押し付けておいて、自分たちはシャワーを浴びたり、酒を飲んだりということができるのか。この人達がこんなだから、取り巻きのサオリなんかまで人を舐めた態度をとるし……。これは、はっきり言って不条理である。
 それでも健気に働いていたぼくは、周りの人達の同情を集めた。
「三十女はしたたかじゃろう?」
 と皆言っていた。ホント、三十女はしたたかである。

 このニューブライトンの豪邸には、サキさんとミチコさんの他に、アヤコさんという二十三歳のツアーガイドと、片目猫のハミーが同居していた。ぼくは片目の猫なんて気味が悪かったのだが、アヤコさんはいつもニコニコしてハミーを膝に抱いていた。アヤコさんは日本でニュージーランドの労働ビザを取って、一年半ほど前からクライストチャーチでツアーガイドをしていた。

 色白で可愛くてスタイルも良くて優しくて、白いブラウスにふわふわのスカートをはいて、いつもふわりふわりと歩いている。つらい思いをしていたぼくには、まるで天使か妖精のような人だった。そしてぼくの知る限り、彼女は当時のニュージーランド随一の美人ツアーガイドであり、実生活の中で常に周りに一人は欲しい、キラキラ輝く憧れのお姉さんなのである。こんな女性が側にいる限り、どんな辛い目に遭っても、世の中の男の子達の心はバラ色に輝くのだ。

 ぼくがこの家でどんなに不条理にこき使われても、
「やーめた!」
 なんて言わずに黙々と耐えていたのは、第一には、このアヤコさんと一緒にいたかったからという理由に他ならなかった。彼女はぼくに対して、何かと優しかったのだ。

 年末年始にかけて、ぼくはその家の留守番をさせられることになったのだが、そのときもアヤコさんは、仕事で滅多にクライストチャーチに留まる日はないのに、せっせとレストランの折り詰めや、少しでも現金収入があるようにと、簡単な翻訳の仕事を持ってきてくれたりした。
 うーむ、惚れた。惚れました。


 アヤコさんは九州の天草の生まれだそうである。彼女の家の側にはネコシガワという小川があるらしい。
「何? ネコシガワッて」
「だからね、近所で生まれた子猫なんかをみんなそこに流しちゃうのよ」
 あ、漢字で書くと猫死川か。
「それはひどいね」
「でもね、うちのお兄さんなんて凄く優しいから、あんまり水のないところに子猫を捨てたのね」
「……………………」
「だけどお母さんが、それじゃあ十分に死なないからって、深いところに放り投げちゃったの」
「ア……、アヤコさんの家族って凄いね」
「でもお父さん、あたしが蛇年生まれだから蛇だけは殺さないよ」
「普通、娘が蛇年生まれじゃなくったって、蛇を殺したりはしないんじゃ……」
「あら、そうかしら」
 そうだよねぇ。


 留守番をさせられている間に年が明けた。実のところ、ぼくはまだ店をやることを迷っていた。今ならまだ断れる。
 アヤコさんが餅を持ってきてくれた。
「オータくん、あの人達のお店のあと継ぐなんて、もう一度よーく考えなさいよ」
 初めはこんな異国の地で、露天の屋台なんかを始めてしまったサキさんとミチコさんのバイタリティーに憧れて、誘われるままに彼女たちとの同居生活を始めたアヤコさんだが(もちろん家賃は払っている。実はぼくもこれだけただ働きさせられた上に家賃まで請求されていたのだが、なんとアヤコさんがぼくの分まで払ってくれていたのだ)、さすがに今ではすっかり彼女たちのセコさと図々しさに呆れ果てて、全面的にぼくに同情的なアヤコさんであった。

「オータくん、イミグレーションを舐めちゃあいけないわよ。観光ビザでお店なんて開いたら、あっという間に捕まって、強制送還になっちゃうわよ。あの人たち、オータくんのことなんかこれっぽっちも考えてないんだから。あの人たちはね、自分たちの持ち物を誰かに売りつけて、とにかくお金が欲しいだけなのよ。知ってる? あの人たちのお店なんて全然儲かってやしないのよ。ひどいときなんて一日の総売上が七ドルよ、七ドル。それじゃ映画も見れないわよ。オータくんはあの人たちに利用されてるだけなのよ。今度の天ぷら用のウォックなんて、あなたがどうせ引き取るからって買ったんですって? もう怒った! あなたはあの人たちのゴミ箱じゃないのよ。あなたお人好しすぎるわよ。いい? 今からお店するのやめるって言ったって、誰もオータくんのこと悪く言う人なんていないわよ、あたしが言わせないわ。よく考えるのよ、オータくん!」

 ありがとう、ありがとうアヤコさん。ぼくのことを真剣に心配してくれるのは、アヤコさんだけだよ。ホントにありがとう。でもね……、分かってるんだ。サキさんとミチコさんがぼくのことなんてちっとも考えてないことなんか分かってる。いいように利用されてるだけなんてのは、十分承知の上なんだよ。

「だけどさ、血が騒ぐじゃないか。男はリスクを負わなくっちゃあ。利用されてる? けっこうけだらけ、オレはそれ以上のパワーを出して見返してやる。オレが成功すれば、利用されたもへったくれもないだろう?」

 これも確かにぼくの本心であった。ぼくは今回のことは、自分の力次第ではとんでもなく大きなものになる、一生のうちそう何度も巡り会えないかも知れない、人生の大きなチャンスの波のひとつだと思っている。ビッグ・ウェンズデイだ。こんな大波が次にいつ来るかは分からない。もう一生来ないかも知れない。ただし、自分の能力が到底波におよばなければ、飲まれて粉々に砕かれる。確かに今のぼくには大きすぎるだろう。だが、本当にぼくに力があるのなら、きっと乗り切ることが出きるはずだ。もし波に飲まれて砕け散ってしまったのなら、ぼくは所詮その程度の男だったということになる。それだけだ。

 本当は恐い。凄く恐い。金があるのなら話は別だが、資金はほぼ無い。料理の専門知識があるのなら話は違うが、ど素人である。労働許可も持っていなければ、英語もろくに話せない。だが恐いからこそ克服のしがいがあるのだ。これは自分の底力を試す絶好の機会である。舐められて利用されることの悔しさと怒りは、精神力の糧になる。
「断じて行えば鬼神もこれを避く!」

 アヤコさんはもう何も言わなかった。そのかわり、仕事柄出入りする数件の大手日本食レストランから、機会あるごとに寿司やその他の日本食の折り詰めを持ってきてくれた。
「ほかの日本食レストランではどんなものを売っているか、知っておくのは必要でしょう?」


 翌日、ミチコさんが帰ってきたので留守番の義務は終わった。サキさんも帰ってきて、四人揃ったので食事の用意をする。
「オータくん、ご飯炊いてくれる?」
「うん」
「オータくん、これ洗っといてくれる?」
「うん」

 ぼくはアヤコさんに言われるままにテキパキと働いた。見ていた二人が驚きながら言う。
「アヤコちゃん、完全にオータを手なずけたのう。まるで奴隷のようじゃない」
「そうだよ。アヤコさんはオレの女王様だもん」
「オホホホホ」
「猫死川女王アヤコ様」
「ワッハハハハハ」


 アヤコさんの引っ越しの日が決まった。彼女は一刻も早くこの家から出ていきたくて、前々から条件の良いフラット(アパートのこと)を探していたのだ。
「アヤコちゃん、どうせならビルと同棲すればいいのに」
 ミチコさんが言った。
 ナニ?
「じゃろう? ビルだって同棲したいって言ってるんじゃろう?」
 ナニナニィ!?

 アヤコさんは、ただはにかんだように黙って下を向いている。
「ちょっと何それ? ビルって誰さ」
「アレ? オータ知らなかったの? アヤコちゃんは婚約しとるんよ。ビルっていうニュージーランド人と。まだ十九歳だったっけ? 優しくって、典型的なキウイハズバンドって感じよねぇ」

 ニュージーランドでは、食事の後かたづけや洗い物など、亭主が非常によく家事を手伝う。このことから、よく家事を手伝うマメな旦那のことを「キウイハズバンド」と呼んでいるのだ。これはキウイバードの、メスが体の半分くらいはあるのではないかというくらいの大きな卵を産み、代わってオスがそれを暖める、という習性と、ニュージーランド人の愛称の「キウイ」とをかけているのだ(その愛称自体もキウイバードからきているんだけどね)。

「ビルはアヤコちゃんにぞっこんじゃけんのう。早く結婚すればいいのに」
 あ、そう……。ぼくは目の前が真っ暗になった。あーあ、失恋かぁ、寅さんの気持ちがよく分かるよ(オレも旅に出ちまいたい)。
「ワタクシ、生まれも育ちも東京は杉並、下井草……」
 ぼくは膝を抱えて、小さく小さく呟いた。
「何それ、オータ? ギャハハハハ」
 下品に笑う女は大嫌いだ。
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