第8話 心優しきおばちゃんに幸あれ

文字数 1,956文字

  数週間後。クライストチャーチ郊外。
 ぼくは今度は北を目指して歩いていた。途中、現地の英語学校に通っているという関西人の青年に話しかけられて、なんと三時間も話し込んでしまった。彼の顔は笑福亭鶴瓶によく似ていて、とても親近感が湧いたのだ。

 思わぬところで大量に時間をロスしてしまったおかげで、モーターウェイの入り口に着いたときにはもう午後四時に近かった。時間はまぁいいとして、気になるのは、さっきまで快晴だったクライストチャーチの空が、突然北の空に現れた黒雲から発せられるなんとも強烈なエネルギーの影響で、急激に嵐の前兆のように薄暗くなりつつあったことだった。

 モーターウェイというのはいわゆる無料の高速道路で、そこに入ると車はたいてい時速百二十キロ程度のスピードで走り出す。いったん町を離れれば、普通の国道でも制限速度は時速百キロなのだが、特にモーターウェイと指定されている区域では、歩行者や自転車は一切進入禁止であり、その名の通り車とオートバイのためだけの道となるのだ。

 この場合の歩行者というのは当然、そのほとんどがヒッチハイカー達ということになる。こういう大きな街の出入り口というのは必ずモーターウェイで固められているものなので、ヒッチで出る場合、そのモーターウェイを通り越した地域までバスを使って出てしまわないと、今回のぼくのようにそれ以上進むこともできず、車にも全然相手にして貰えないという、なかなか寂し悲しい状態に陥ってしまうのだ。

 自転車野郎達にとってもこのモーターウェイというやつは、けっこう厄介な代物のようだった。何しろそこを通れば最短距離で目的地へたどり着けるというのに、自転車進入禁止のおかげでわざわざ何十キロも迂回して、さらに山越えまでしなければならなかったりもするからだ。中にはすっとぼけてモーターウェイを走って行ってしまうヤツも多いのだが、そういう連中は時々警察のお世話になっているようだった。警察のお世話になるといっても、モーターウェイの出入り口までわざわざパトカーで案内していただいた、という程度のことなので、モーターウェイを行く自転車野郎は今日も後を絶たない。

 さて、モーターウェイの入り口でヒッチを続けるぼくは、今回ばっかりはかなり分が悪いな、と思っていた。風はどんどんと凄まじくなっていく一方だったし、車はちょうどスピードを上げ始めるところなので、ドライバーがよっぽど前方にいるときから乗せてくれる気になっていてくれなければ、ちょっとやそっとでは止まってくれそうになかったのである。強風に吹き飛ばされそうになりながら必死で立っていると、ついに一台の車が目の前で止まってくれた。感謝感激、アメアラレ! ぼくは喜び勇んで飛び乗った。

「どこまで行くつもりなの?」
 乗せてくれたのは四十代くらいのおばさんと、その人の母親であるおばあさんであった。
「カイコウラまで行きたいんです」
「そう。でも何か嵐が来そうだし、今晩はうちにいらっしゃい。私はこの先のオホカというところに住んでいるの」

 好意に甘えて、その晩は彼女の家のお世話になることになった。
 おばさんの家は大きな農場だった。彼女の旦那さんが忙しく働いていたので、ぼくも手伝う。手伝うといってもほとんど言葉が分からなくて、かえって足手まといであったようだ。
 その夜、本当に嵐になった。テレビにはクライストチャーチの映像が映し出され、それは家々の屋根が吹き飛ばされているほどの激しさだった。

 おばさんは何から何まで気を遣ってくれて、とても親切だった。ぼくのために用意された寝室のベッドは、以前彼女の娘さんが使っていたもので、フカフカな上に電気毛布でポカポカに暖めてあった。親切が身に染みた。

 ぼくが寝室に入ってしばらくすると、ノックがあって、おばさんが服をビショビショに濡らした姿で入ってきた。手には大きなラジオを持っている。
「ほら、このコードをラジオに繋いでごらんなさい。日本の放送を聞くことが出来るかも知れないわよ。がんばってね」
 彼女はぼくに日本の放送を聞かせるために、嵐の中、家の周りにアンテナ代わりのコードを延ばしてくれていたのだった。感謝のあまり涙が出そうになった。

 その夜、おばさんの努力のおかげで、ぼくは久しぶりに懐かしい日本語のラジオ放送を聞くことが出来たのである。ひとつはソ連の日本語放送。それからNHKの海外向け放送。最後のひとつは何だか分からないけど、とにかく聞こえてくる言葉は大阪弁だった。

 翌朝、朝食を食べているぼくに宛てて、おばさんが手紙を書いてくれた。そしてモーターウェイのはずれの町まで、車で送ってくれたのだった。
 快晴の空は清々しく澄み渡っていた。今日の目的地は海産物と鯨の町、カイコウラである。
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