第26話 智子

文字数 13,281文字

 突然、フード・フェアに平和が戻った。デミトリが一連の問題を棚上げにして、ギリシャに帰国してしまったのである。ただし帰国したのは結婚のためであり、三ヶ月後には戻ってくることになっていた。デミトリは臆面もなく、自分の送別パーティーを盛大に行って、フード・フェアのメンバー全員を招待した。もちろんジョン・カービィは来なかった。

 デミトリがいない三ヶ月の間は、ギリシャの屋台は、彼の片腕である弟のニコルが守ることになっている。ニコルはデミトリと顔は瓜二つだが、兄貴のような過激さはない。ジョン・カービィをはじめとするフード・フェアの代表者達も、ホッと一息、というところだろう。

 後で聞いた話だが、ジョン・カービィはこの数週間で、三度も駐車中の車のタイヤをナイフで切り裂かれる、という事件に遭っていた。車ぐらいならまだしも、ぼくでさえ、智子の身に何か起こりはしないかと、ピリピリと緊張を解けなかった毎日である。年頃の娘を持つジョン・カービィとしては、毎日が凄まじい精神の消耗の日々であったことだろう。


 台風の目が地中海に去って行ってくれたお陰で、ぼくの店も当面は安泰と思われる。売り上げも順調で、週の総売り上げは二千ドルを超えるようになっていた。
 ぼくは儲けの総額のキッチリ半分を智子に渡すことにしていたので、週によっては、四百ドル以上の給金を支払えることもしばしばあった。それどころか、相変わらず毎週どこかブッ壊れる我が愛車デイビー号の修理費等は、ぼくの取り分から出していたので、実質的には智子の方が収入はかなり多かった。

 しかし、あんなに苦しかった最初の一ヶ月を、給料無しで働いてくれたのだ。いつもイライラして、智子に当たり散らすことも決して少なくなかった、そんなぼくを見捨てずに、現在の日本食人気に至るまで盛り上げてくれた彼女に返せるお礼としては、今のぼくにはそれくらいのことが精一杯なのであった。


 智子の天ぷらを揚げるテクニックは、かなり大したものだった。あるとき、うちの店の天ぷらを食べてくれた家族連れのお客さんが、実は東京吉祥寺の本職の天ぷら屋さんだったことがあった。そんなことはもちろん知らずに食べて貰ったのだが、
「うん、なかなか良く揚がってるね」
 と誉めてくださって、巻きずしも合わせて沢山買っていただいた。

 揚げ上がりも良くできていたが、その過程のテクニックの鮮やかさには、ぼくもいつも目を見張っていた。天ぷらは超人気商品で(なにせ巻きずしと味噌汁の値段にはほとんど利益が含まれていないため、かかっている経費は少ないけれど他の屋台との兼ね合いから売値をそうは落とすわけにいかない、この天ぷらの売れ行きのみでぼく達の収入が賄われているようなものなのだ)、注文は現場で揚げ切れる限界数の三倍近くにも上る。

 それでもとことん、作りたての一番おいしいものを売ることにこだわっていたため、ほんの二時間くらいの間に作って売ってで(おまけに味噌汁も売りながら)二百枚近くをさばくのは、まさに気が遠くなるような忙しさであった。

 智子の腕や胸元には、まだ掻き揚げにイカを使っていた頃、油のハネにやられた火傷の跡が、今も痛々しく残っていた。ジョンに、
「サムライの甲冑を着けてやれ」
 と笑えないジョークを言われたこともある。根性の方も一級品だったのだ。

 そんな健気に働いている智子は、キウイの男達にモテモテだった。何も買いもしないのに、智子と話をするためだけにお店にやってくる若い男達は、後を絶たなかった。
「やぁ、こんにちは。調子はどうだい?」
 週末のアートセンターにだけやってくる、その角刈りの中年男も、そんな一人だと思っていた。


 デービッドは毎週土曜日の三時近くになると、決まってアートセンターに現れる。いかにも「オセアニア」という顔、体型をしたキウイで、ぼくからしてみれば中年にしか見えないのだが、外人のことだから、もしかしたら案外若かったのかも知れない。

 なにせデービッドは智子と話すばかりで、ぼくには目もくれないので、どうもぼくとしては面白くない。面白くない奴のことなんか知りたくもないので、智子にも一切何も聞かなかった。そしたらいつの間にか、二人は仕事明けの月曜日に、連れ立ってどこかに出かけたりもしていることが分かったので、一気に頭にきた。

「バカヤロー、ふざけやがって。月曜日なんていったら、オレなんて良子さんのとこ行ったり、いろんな仕入れで、ヒーヒー駆けずり回ってるときじゃんか。許せねぇ」
 べつに智子がどこの誰と何をしていようが、ぼくには関係のない筈なのだが、なんだか知らないけど腹が立つ。

「智子さんも智子さんだ。のこのこ着いて行きやがって……」
 (でも、いいじゃないか、べつにオレの彼女じゃなし)
 うん、冷静に考えるとそうなのだ。
「くっ、でも畜生! 理屈じゃないぞ。頭にくるっていったら頭にくるんだ」

 ぼくは言いようのない焦りと不安に包まれて、身悶えしながら、今にも「ワーッ」と叫び出しそうであった。そんなモンモンとフラストレーションを蓄積していたところに、智子からの電話がかかった。
 あれ? なんだか嬉しいぞ。なんだなんだ?

「あ、太田くん? 今週の水曜日さ、夜にちょっと時間作れないかな?」
「水曜日? 水曜日なんて、仕込みでスッゲー忙しいじゃん。あ、でもいいかな? ちょっとなら……」
 一瞬断りそうになったけど、慌てて少々譲歩する。ちょっと、だらしない。

「デービッドにさ、ラグビー見に行こうって誘われてんのよね」
 ナニ!?
 ぼくはデービッドと聞いて逆上した。
「バカ、行けるわけねぇだろ!? 水曜日にそんな何時間も取られたら、後の仕込みで寝れねぇどころか、店に間に合わなくなっちまう。ダメだよ。断りな」

「そうよねぇ……。じゃ、あたし、火曜日にやれるだけやっちゃうから、水曜日、あたしだけ行っちゃダメかな?」
 ナニ!!?
「どうしても行くのか?」
「どうしても行きたい」
「オレを捨ててもか?」
「何言ってんのよ」
 智子は冗談としか思っていないが、ぼくは本気だ。

「ね? 行こうよ、太田くん。太田くんもラグビーやるのよってデービッドに言ったらさ、それなら彼も誘うといいって言ってくれたの」
 ナニ!? 野郎! センセンフコクか!
「分かったよ。智子さんが、どうしても行くって言うなら、オレも行かぁ」
 こうしてぼくまで、デービッドとデートをすることになってしまった。


 ラグビーのシーズンは冬である。そのラグビーのビッグゲームが行われ始めたということは、そろそろ本格的な冬も目の前ということになる。
 確かに朝晩の冷え込みは、かなり厳しくなってきていた。

 我がデイビー号のバッテリーなどは、日のあるうちしか働こうとしない怠け者だったので、始動のたびに智子と二人で車を押す羽目になった。二人でヒィヒィ言って押していると大抵通りがかりの人達が手伝ってくれるので、スピードが上がったところに飛び乗り、ギアを二速に入れてやっと始動する、ということを繰り返していた。

 バッテリーを替えてしまえばそれで済むことだったのだが、なぜかぼくを含めて街のエンジニア達さえも、誰もそのことに気付かなかったので、ぼくと智子は毎日二~三回は、親切な通行人達のお世話になっていた。

 今日も隣のフラットに住む、ピザ屋のマイケルに手伝って貰ってのエンジン始動だ。
「あー、メンドくせぇ。なんでこの忙しいのに、ラグビーなんて見に行かなけりゃならねぇんだ。それにしても、滅茶苦茶さみぃな」
 YMCAで智子を拾って、郊外のラグビー競技場に向かう。

「太田くん、たぶんデービッドが言うと思うけど、今日は大事な話があるのよ」
 競技場のすぐそばまで来たとき、恐る恐るといった感じで智子が言った。ぼくは頭に血が上って胸がムカムカしたので、一言も口をきかなかった。
 競技場に到着すると、駐車場の入り口で待っていたデービッドが手を振った。智子は手を振り返したが、ぼくはムッとしたままだった。

「着いてこい」と身振りで合図して、デービッドは自分の車に乗り込んだ。ぼくはムカムカしながら、前を行くデービッドの車を睨みつけて走った。手頃な場所で、二台並んで駐車する。
「やぁ、ユキ、よく来たな。調子はどうだい?」
 先に車から降りていたデービッドは、そう言って握手を求めた。
「いいよ、ありがとう」
 ぼくは無愛想に型通りの返事をして、奴の手を握った。ヤロウ、チクショウ!

「ユキ、オレのワイフを紹介しよう」
 ナニ!!? ぼくは智子のことを言っているのかと思ってびっくりした。
 ヤロウ! ヌケヌケとよくも!
「ビッキーだ」
 智子のことをビッキーだと? コンチクショウ、何がビッキーだ……、エ? ビッキー?
「始めまして、ユキ」
 デービッドの後ろに隠れていて今まで見えなかった(あるいはぼくがデービッドしか見ていなかった?)金髪の美人が右手を差し出す。
 なんだ、そりゃ……?

 ぼくはキョトンとしながら握手に応じた。
「あ、ああ、始めましてビッキー……、エ? 奥さん? デービッドの?」
「そうよ、ユキ、よろしくね」
「智子、ビジネスの話はもうユキにしたのかい?」
「いいえ、まだなの」
 チェッ、またか。ここでも、分かってないのはぼくだけらしい。


「太田くん、むくれないでよ。話さなかったのは悪かったわ。ホラ、太田くん普段から眠る時間もないくらい忙しいじゃない。余計な気を遣わせたくなかったのよ」
 帰り道の車の中で、どうも不機嫌なぼくを智子がなだめる。

 デービッドの言った「ビジネスの話」というのは、こういうことだった。近いうちに彼の所属しているラグビーチームのメンバーとその家族とで、ディナーパーティーを開きたい。そこで今回幹事になっているデービッドが、何か変わった趣向はないかと、街まで見物がてらに出てきたのだが、ブラリと立ち寄ってみたアートセンターで、果たして奇妙な食べ物を売っている屋台があるではないか。

 しばらく観察してみたが、けっこう繁盛しているようだし、人に聞いても評判が良い。試しに寿司と天ぷらを買ってみたら、これがすこぶる美味だったので、早速この話を持ち帰って仲間に話した。すると、ジャパニーズフードというのは面白いではないか、と皆大賛成だったというのだ。

 しかし、いかんせん、ジャパニーズフードというのは、とてつもなく高額であるという噂である。レストランなどでは、一人五十ドル出したっておやつ程度にしか食べられない。そこをなんとかならないか、と毎週毎週、智子のところへ相談に来ていたのであった。智子はもうすでに、会場となるパブ・レストランの下見も終えてきたという。

「五十人以上は集まるんだってさ。みんなラグビーの選手だから、いっぱい食べるって。ねぇ、一人につき、どのくらいの予算でできると思う?」
「ふん、五十人も集まるんだったら、一人十ドルもあればいいだろう」
 ぼくは無造作に答えたが、決していい加減な数字を言ったわけではなかった。

「一人十ドル」と聞いて、びっくりしたのはデービッドだった。
「一人十ドルでいいの? たった十ドル? 日本食が一人十ドル?」
「あ、まだメニューとか決めなきゃならないから、はっきりとは言えないけど、せいぜい上限でも二十ドルも出してくれれば、思いっきり豪華にしてみせますよ。ま、今のところは、十ドルくらいと思っていてください」

「グレートだ。そいつは凄いことだ。素晴らしい。日本食のパーティーが一人十ドルでいいなんて。オレも仲間に胸を張って報告できるよ。ありがとう、ユキ。今夜は会えて本当に良かった」
 最初から五十人ものお客が約束されているのなら、こんなおいしい商売はない。一人十ドルずつ取ったって、一晩で五百ドルも稼げるのだ。場代も要らなければ、屋台のレンタル代も要らない。経費が材料費だけで済むのなら、まるっきりのボロ儲けである。

 ぼくは本当はニコニコしたかった。しかし今までムスッとしていた手前、急にそういうわけにもいかないではないか。だから、
「週四日の屋台だけでもボロボロに疲れてるのに、体がもつわけないじゃないか」
 とか、
「普段の材料が手に入るかだって分からないのに、これ以上オレの苦労を増やそうってのか」
 とか、果ては、
「デイビー号がサイン・オブ・タカヘ(その峠を通らなければ、レストランまではとんでもなく遠い道のりになる)の急坂を、重い荷物を積んで上がれるかどうかだって分からないじゃないか」
 とかまで言って、「オレは乗り気じゃないんだぞ」という風にアピールしたかったのだ。

「あたし、たとえ一人でも、絶対やろうと思ってるのよね」
 智子は落ち着き払ってそう言った。
 まったく女ってやつは!
 男が「NO」て言えないの分かっててそういうことを言うんだから……。
「ホーラ、ユキちゃん、笑って笑ってー」
 思わず口元がニヤリとしてしまった時点で、ぼくの負けであった。
 智子の方が役者が一枚上手である。


 ディナーパーティーの期日は、二週間後の月曜日ということに決定した。そうなると、今週は大忙しである。寿司海苔などの仕入れは、毎週月曜日の午後に行わないと元締めの良子さんの機嫌を損ねるので、ということは来週の仕入れ時に、パーティーの前後一週間ずつの分(二週分)と、当のパーティー用の仕入れをすべて済ませておかなければならない。

 数量の調達だけでも至難の業だが、それよりもまず、二週分の仕入れ+αに見合っただけの運用資金を、この一週間で叩き出さねばならなかった。とはいっても、まぁ、いつも通りやるしかないんだけどね。

 木曜日、金曜日とも、スクエアでの営業は順調だった。かなり寒くなってきてはいるが、依然売り上げは衰えない。金曜日は六時までの営業なので、閉店の頃には辺りはもう真っ暗である。この季節になると、四時を過ぎれば随分と薄暗くなってきていた。夏場の十時近くまで表が明るかったことが、まるで嘘のようである。

 僅かな街灯の明かりを頼りに店の後片付けをしているところに、久しぶりに信長のオーナー夫妻がやってきた。
「やぁ、太田くん、しばらくだね。頑張ってるかい? ずいぶん寒くなってきたけど、お店の方は繁盛してる?」
「はぁ、まぁ、今んとこお客さんは減ってませんよ」
「ふーん、おっかしいなぁ? 去年の今頃なんて、外を歩いてる人なんて人っ子一人いなかったんだけどねぇ」
 このセリフは前にも聞いたな。

「そうだ、太田くん、包丁研いであげるよ。そろそろだいぶ切れなくなってきたでしょ。その包丁かしなさい」
「え? あの、今ですか? それは有り難いんですけど、ぼくこれ一本しか包丁持ってないんで、なくなっちゃうと、明日のお店ができなくなっちゃうんです」
「なに、まかせなさい。明日のお店には間に合うように持ってきてあげるから。ホラ、刃がもうボロボロじゃないか。今思い切って研がないと、すぐダメになっちゃうぞ」

 寿司を売るときに、包丁が切れないというのは致命的である。連日、飯が炊き上がるのが間に合わなくて、電気釜がオーバーヒートを起こすくらいの回転率なので、巻き上がった寿司は、すぐに切って出すことになる。そこでよく切れない包丁を使っていては、せっかくお客さんを待たせて巻き上がった寿司も、無惨にひしゃげて売り物にならなくなったりするのだ。

 (パーティーも近いことだし、まかせてみるか)
 不安だけれど、研いで貰えるっていうなら、その方がいい。
「じゃあ、お願いします。明日は九時過ぎから、アートセンターにいますから」


 翌日のアートセンター。
 ぼくはいつになくソワソワしていた。十一時に近くなっても、まだ一向に信長のオーナーが現れる気配を見せないのだ。今のところ天ぷらしか出ていないが、もし寿司の注文が来たらどうしよう。お客が来るたびにビクビクする。

「天ぷらと寿司ちょうだい」
 ついに来た。
「太田くん、注文受けていい?」
 客の応対をした智子が、心配そうにぼくを見る。「ダメだ」と言いかけたところで、道の向こうに信長のオーナーが見えた。ひゃあ、間に合った。

「早く早く!」
「やぁ、太田くん、悪いね、遅くなっちゃって」
 ホントだよ、もう。
「いいです、いいです」
 とにかく今はそれどころではない。注文は一気に五皿を超えているのだ。
 しかしぼくは、注文の一皿目を切ってみようとして蒼くなった。
「なんだ、これ!?」

 包丁が全然切れなくなっていたのだ。海苔さえも切れない。
「たいへんだ智子さん、信長のオーナー、どこ行った?」
「わかんない。もうどこか行っちゃったわよ」
 天ぷらが売れ出していて忙しい智子に、それ以上答える余裕はない。

 畜生! とんでもねぇ。ぼくは注文分だけだましだまし切り終えると、その切れない包丁を握り締めたまま、信長のレストランに突っ走った(よくも警察に捕まらなかったものである)。
 ところが「信長」に着くと、ドアは閉まっていて張り紙がしてあった。
「都合により、午後一時まで閉店します」
 それはないだろう? ウヌヌ、クソ!

 再びアートセンターに駆け戻ると、もうかなりのお客に店が取り囲まれている。店に入るや、智子が安堵の声を上げた。
「あー、良かった、太田くん帰ってきてくれて。どうなることかと思ったわよ。で、包丁はどうなった?」
「信長閉まってて、誰もいないんだよ。一時まで開かないんだってさ。ふざけてやがる」
「あたし、お寿司の注文も受けちゃったわよ。どうしよう。断ろうか?」
「いや、このままやるしかないさ。巻く方うんと先行させて、できるだけ時間がたってから切れば、この包丁でだってなんとかなるかも知れない。オレ達ゃ、売れるときに売らなきゃ、後でどうなるか分からないんだからな」

 そうは言ったものの、包丁は海苔さえもまともに切れないのである。注文が増えるたびに、ぼくの表情は見る見る険しくなっていき、智子がそんなぼくを見て、ハラハラしながら仕事をしているのがはっきりと伝わってくる。

「信長」開店の午後一時といったら、ラッシュのド真ん中、これから客足のピークをむかえようというタイミングである。一秒を惜しんでフル回転しても注文に応じきれないこの時間帯に、店を空けなければならないというのは、収入面からしても莫大な損失だ。しかしどっちにしろ包丁が今のままでは、とうてい売り物になるような寿司はできない。
「畜生、信長。畜生、畜生……」
 ぼくは一秒一秒、気の遠くなるような思いで一時を待った。

「一時だ。智子さん、寿司の注文は今ので終わり。次にできるのは三十分後だってことにしといて」
 ぼくは群がるお客の波に、痛恨の思いで背を向けて店を飛び出した。この大事な時間帯にたとえ十分でも店を空けたら、作業自体の遅れでさえ、二十分や三十分では取り返せない。そのロスの間にいったいどれだけの注文を逃してしまうことになるのか。

 ぼくはただ燃え上がる怒りにまかせて「信長」に突進した。ほとんど体当たり同然にドアを押し開ける。
「何ですか、この包丁!? 全然切れねぇ!! 代わりの包丁貸してください!」
 興奮して飛び込んできて、叫びながら包丁を突き付けるぼくに、オーナーは慌てて使っていた刺身包丁を手渡した。一秒も惜しかったぼくは、切れ味だけ確かめると、そのまま、むき出しの刺身包丁を握ってアートセンターにとって返した(ここでもよく警察に捕まらなかったものだと思う)。

 地獄のような忙しさだった。三十分待っても寿司を食べたい、と言ってくれる人達が大勢いたので、空けた時間を取り戻すために、一秒たりとも顔を上げられない状態で、ネタが無くなるまで巻きまくった。そう、一番大事な時間帯に大幅な穴を空けてしまったにもかかわらず、結局、寿司も天ぷらも売り尽くすまでに至ったのである。かえっていつもの日より、早めに何もかもが無くなってしまったくらいであった。どんなに待っても寿司や天ぷらを買ってくれる数々のお客さん達には、ホント感謝感激雨霰の心境だった。

「あなた『寿司』食べたことある?」
 おばあさんが、買おうか買うまいか店の前で悩んでいる若者に話しかけている。
「え? 食べたことない? もう、デリィィシャス! ビュウウティフル! コングラッチュレイィィィション!!」
 おばあさんは、はたから見ていてもブッ倒れてしまうのではないかと思うばかりの大熱演で、ぼく達の寿司の味を褒め称えてくれた。
「あなた絶対に買うべきよ」

 ありがとう、ありがとう。昔はゲテモノだった海苔巻きも、ここへきてやっと市民権を得たようである。それにしても「コングラッチュレイィィィション!!(おめでとう)」は凄かったな。こういう場面でも使うものなのかな?

「ところでさぁ、信長、あれ、わざとだったと思う?」
「さぁ? どうかしらね。でも、わざとだったら凄いよねぇ」
 本当に「信長」の人達は、いったいどういうつもりなんだろう? よく分からないけど、油断できないことに間違いはない。


 ディナーパーティーのメニューが決まった。メインディッシュはやはり何といってもカレーライスに決定だ。トロリとして、コクがあって、ジャガイモやらニンジンやら野菜も肉もふんだんに入っている、思いっきり豪華なカレーライスを作るのだ。理由は、ぼくが食いたいからである。自分が食いたいもの、すなわち美味しいもの、という信念で全メニューを決定するのだ。

 カレーはもちろん、普段は高額なため手が出せない、れっきとした正真正銘正統派の、ニッポンのカレールウから作る。なんと嬉しいことに、ぼくが日本で普段から愛用していたSBゴールデンシチューカレーの中辛をチャイニーズフードショップで発見したので、こいつを大量に購入することにする。

 智子は焼きうどんとお好み焼きが食べたい、と主張した。いいだろう。
「天ぷらもいろんな種類をいっぱい食べたい」
 いいだろう。お寿司も食べたい、サラダも食べたい、味噌汁も欲しいし、日本酒だって飲んじゃいたい。
「ええい、欲しいものはみんな買ってしまえ!」

 今回のディナーパーティーは、ぼく達にとってもお祭りのようなものである。ぼくは集まる会費のすべてを材料費に注ぎ込んだっていいさ、とまで考えていたので遠慮はなかった。五百ドルといったら、平均的なサラリーマンの月給の半分以上。普段屋台の営業で使う一週間の経費と比べてもその約半分に当たる。それをたった五十人分、一晩の材料費のみのために注ぎ込めるとしたら、それは大変なことであった。

 さらに智子とデービッドの最終的な打ち合わせで、会費は一人十五ドル、五十数人は参加するということが決定したので、報酬としても申し分はない。
 そしていよいよパーティーの当日を向かえたのである。今夜のことは、ジョン・カービィもリチャード・バージェスも、信長も良子さんも誰も知らない。

 キッチンには、午後四時から入れることになっていた。それまでにクライストチャーチの街中で、天ぷらとサラダ用の新鮮な野菜と果物、それにカレー用にリクエストのあった、チキンの冷凍肉を大量に買う。

 荷物の積みすぎで車高の大幅に下がったデイビー号は、果たしてサイン・オブ・タカヘへ向かう急坂を登り切れるだろうか、ホントのホンキで心配になるような、物凄いエンジン音を立てて走った。なんとか二速で長い急坂を登り切ったデイビー号は、さらにクライストチャーチの街を一望できるサイン・オブ・キウイも通過して、山向こうのリトルトン港を眼下に臨む、美しい眺めの長い下り坂を下りて行った。ここまで来れば、会場のパブ・レストランはもう目の前だ。

 レストランのすぐそばのデイリーショップで、とどめの大量のアイスクリームを買い込んだ。どんなときでも、キウイにアイスクリームは必需品である。
 レストランに着くと、デービッドの友人である支配人が、ぼく達をキッチンへ案内した。
「鍋でもフライパンでも、何でも好きなだけ使ってくれ」
 支配人はパブの方が忙しいらしく、それだけ言うとすぐにいなくなった。

 レストランのキッチンで二人きりになったぼくと智子は、少しの間だけお互いに見つめ合った。
「さあて、やるか」
 キウイのラガーメンとその家族、五十人を超える大食漢達を満足させるためには、並大抵の量では足るまい。


 パーティーの開始は当初七時半の予定だったが、八時過ぎに変更された。ぼく達が、とても三時間半では準備しきれなかったのである。それだけ大量の料理を用意したつもりなのだが、出す皿出す皿、あっという間になくなってしまうので、お好み焼きなどは次から次へと焼き上げていかねば間に合わず、テンテコマイの忙しさであった。

 サラダなどは、最初のうちぼくはいちいちリンゴのウサギなどを作ったりもしていたのだが、結局そんなことをやってる暇はなくて、五~六個から後はただ単に八つ切りにして、芯を取っただけでボールに放り込むのが精一杯だった。

 日付ももうすぐ変わろうかという頃、汗みどろになってゼーゼー言っていたぼくと智子を、デービッドがホールに連れ出した。
「みんな、注目してくれ。ユキと智子だ。今夜の素晴らしいパーティーのシェフをしてくれた二人だ。ユキ、智子、今夜は本当にありがとう」
 会場で一斉に拍手が沸き起こった。次々と屈強なラガーマン達が握手を求めてくる。

「あの、足らなかったんじゃないですか?」
 すべて出した瞬間に空になってしまった皿の山を見て、ぼくは心配してデービッドに尋ねた。
「いやいやとんでもない。調度良かった。本当に調度良かったよ。心配要らないって」
 でも、やっぱり少し心配だった。

「ユキ、サケは好きか?いっぱいあるぞ。一緒に飲もう」
 白髪のラガーマンがぼくのグラスに「月桂冠」をなみなみと注ぎ込んだ。
「ユキ、この人は昔はオールブラックスの名プレイヤーだったんだぞ」
「わぁー、凄いや」
「いやいや、昔のことさ」
 老人は照れて笑ったが、ぼくは凄く嬉しかった。往年の名プレイヤーと月桂冠の冷や酒を酌み交わすというのは、至上の贅沢に違いないのだ。


「ねぇ、今日、大成功だったよね」
 帰り道の車を運転しながら智子が呟く。独り言のように呟くのは、助手席にいるぼくがしこたま酔っ払って、全然話を聞いていないからだ。疲れ切った体に月桂冠はよく効いた。まさに五臓六腑に染み渡る、という感じで、あっという間にぼくはいい気持ちになった。
「これで思い残すことはもう無いわ」
 智子がそう呟いたような気がする。ぼくは半分眠りそうになりながら「なんだそりゃ?」と思ったが、すぐに忘れた。


 智子の帰国の日が近づいていた。そうだった。智子はワーキングホリデービザで、ぼくより五ヶ月早く入国している。五ヶ月早く帰国しなければならないのは、考えるまでもないことだった。

 もし智子が一九八八年の三月までに入国していたのなら、申請さえすれば、ワーキングホリデービザからあっさりと永住権に切り替わったのに(当時一九八八年三月までに取ったワークパーミット、つまりワーキングホリデービザでの入国時に押して貰えるスタンプがあれば、申請さえすれば、誰でも簡単に永住権が取得できた)、彼女の入国は一九八八年の四月なのである。

 ぼくは焦った。どうしようもなく焦った。智子がいなくなるなんていうことは、考えてもみなかった。いつも一緒にいられると、そう信じていて疑わなかった。しかし、ぼくがここで店を続ける限り、どうしようもない別れの時が、日、一日と近付いてきているのだ。


 ぼくは徐々に情けない表情をするようになっていたのだろう。ジョンやリチャードは、すれ違うたびにぼくの背中をバンバンと叩いた。アブ・ユセフは毎日のように、
「好きなんだったら、やっちまえ」
 とぼくをそそのかした。しかしぼくは、智子に指一本触れられずにいたのである。

 もうほんの数週間しか残されていない。ぼくは迷いに迷った末、思い切って告白してみることに心を決めた。こんなもの、はたから見ているジョンやリチャードやアブ・ユセフにだってみえみえなのだ。わざわざ告白しなくったって、当の智子自身、十分承知している筈だった。しかしこういうことは、あえて口に出して告白する、その行為自体が重要なのだ。

 金曜日の営業が終わって、フラットの駐車場まで戻ってきたとき、ぼくは意を決してうち明けた。それまで散々気の利いたセリフを考えておいたのに、結局は、
「ト、トモ、トモコさん、ス、ススススス、ス、ハー、スキ……デス」
 というなんとも情けないものになってしまった。すると智子は、
「あらぁ、ユキちゃん嬉しいわ。なんでもっと早く言ってくれなかったの? あたしずっとその言葉を待ってたのよ」

 と言って涙を滲ませながら抱きついてきたので、二人ははれて結ばれて大団円を向かえたのであったというのはぼくの妄想で、実際は、
「なんで?」
 と冷静に答えたのであった。そんな、人がせっかく「好きだ」と言ってるのに、「なんで?」なんて言うことないじゃないか。そんな、この状況で「なんで?」に対抗できる具体的な理由なんて、冷静に分析及び返答できるわけはないではないか!

「それは本当の恋ではないわ」
 智子の言っていることは、何がなんだかさっぱり分からなかったが、要するに「オレはフラれたらしい」ということだけは、痛いほどよく分かった。

 そこですべてが終わってしまえばよかったのだが、なにせほとんど一日中、狭い屋台の中か、ぼくのフラットで一緒にいるのだ。フラれた女とここまで常に一緒にいるのは、拷問に近い。ぼくは女々しく、暇さえあれば、
「本当の恋じゃないってどういうことだ」
 と智子に迫ったので、その度に智子は職場を放棄していなくなってしまった。

 惨めにうつむいて寿司を巻いていると、
「日本人ッスか?」
 と(日本語で)声をかけられた。
「そうですよ」
 と顔を上げると、そこには金髪のキウイの少年がいた。ぼくは驚いて、
「君、日本語うまいねぇ」
 と言うと、その金髪の少年は、
「そーっスか?」
 と言って去って行った。「そうですか?」ではなくて「そーっスか?」であった。ぼくはなんだか、ひどくガックリしちゃったよ、もう。


 クライストチャーチはもうすっかり冬の景観をなし、連日冷たい大雨が降り続いたある日、ついに智子が帰国した。空港まで彼女を送って行って別れるとき、ぼくは頭の中が真っ白だった。そしてついに再び、独りぼっちになってしまった。

 茫然としたまま、街へ帰るバスに乗り込む。バスは街の中心へ向かって走る。大聖堂が見えてきた。バスを降り、広場に足を踏み入れた瞬間、ぼくはその場に立ち尽くした。

 涙が嘘のように溢れてくる。拭っても拭っても溢れてくる。ぼくは自分がこんなに涙が出るなんて知らなかった。押さえ込んでいた感情がこの思い出の場所に立った瞬間、堰を切ったように流れ出たのだ。どうしてもどうしても涙が止まらなかった。大聖堂を見ても、寒さに凍えながら広場を行き交う人々の姿を見ても、街の喧噪も、鳥達のさえずりも、すべてが、すべてが智子との思い出に直結していた。ぼくは自分がどんなに深く深く智子を愛していたのか初めて気付いた。涙が後から後から止めどなく溢れてくる。
 ぼくは一歩も動けなかった。

 屋台を出していたジョン・カービィが、ぼくに気付いて近付いてきたが、遠目にもありありと分かるほどボロボロと涙を流しているぼくを見て、何も言わずに引き返して行った。
 くそ、しっかりしなくちゃ!

 ホントに厳しいのはこれからなのだ。再びすべてを一からやり直さなければならない。しかも今度は季節は真冬で、店の切り盛りもすべて一人でやるしかないのだ。オマケに最近では、屋台を貸してくれている製造元のオヤジが、
「もうレンタルはめんどくせぇから、買え」
 などと恐ろしいことを時々口にして、いまだレンタルの屋台で通しているぼくやアブ・ユセフ、フィリピンのヘレンなどをびびらせている。

 もしどうしても屋台を買わなければならない事態になったら、たとえ現在持っているすべての現金を投入しても、この冬の数ヶ月をまともに凌げるかどうかも分からない。そんな緊迫した様相を呈している。

 屋台のレンタルのこと、今後のビザの問題、そしてデミトリが帰ってくれば、再び情勢は荒れるだろう。その他にも克服しなければならない問題は山積みなのだ。本当の勝負はこれからなのだ。
 いつまでも泣いている暇なんか無いんだ! でも……、今だけはどうしても涙が止まらない。

「やぁ、太田くん。久しぶりだな」
 背中から聞き覚えのある声が聞こえる。振り返ると、縄野さんが立っていた。
 ぼくは自分自身に呆れながら心の中で呟いた。
 おいおい、縄野さんを見てさえ、涙が溢れてくるなんて……。
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