第23話 ゲテモノ屋台

文字数 13,607文字

 年始早々、サキさんとミチコさんが引退した。
 忘れもしない、一九八九年、一月十九日。ついにぼくの屋台の開店だ。
「オレの店。オレの店かぁ……。いいなぁ、ジーン」
 なぁんてのは、今思い起こせばこその感情なのだが……。

 労働許可はすぐに降りた。申請時にはイミグレーションオフィサーに、
「絶対不可能だからやめた方がいい、金を無駄にするだけだ」
 とまで言われたのだが、そこをなんとか! と申請書を提出したら、翌日にはあっさりと許可されたのであった。しかもクライストチャーチ市評議会直轄という、超強力な許可証だった。

 ぼくが引き継ぐ数週間前からだが、店構えが、以前の天幕の下にテーブルを並べただけの炊き出し風だった頃とは見違える、本格トレーラー式屋台になった。出店十二カ国(一応)、全ての店が一様にトレーラー型の屋台に変わった。全店揃っての景観はなかなか豪華で迫力がある。この一大変貌は、本人達の意志ではなく、市当局からの強制命令であった。

 ではあったが、皆、今までの形の無きに等しかった自分たちの店が、風が吹けば吹きっ晒しの中で、雨が降れば天幕を伝ってしたたり落ちてくる雨水と格闘しながら耐えねばならなかった自分たちの境遇が、今、まがりなりにも店舗として認められ形をなしたことに、その満足感に興奮していた。それはぼくにとっても同じである。

「これでちったぁ、故郷の友達にも自慢できるってぇもんだ」
 しかし、しかしである。経済的にはほとんど致命的と言える打撃であった。
 最初っから致命的だよ、まいったなこりゃ。
 何てったって全財産が二千ドルにも満たなかったのだ。たとえテントの頃のままだったって、無謀な賭けであったのに。

 まずは何にしたって住む所の確保と、車を買わなければ話にならない。こんなドイナカの国では、車がなければ仕入れひとつ満足に出来ないし、だいいちトレーラーを引くともなれば、さらに牽引用のトウバーと、ブレーキランプ等のためのコンセントの配線もしなければならない。それだけで二千ドルくらい軽く吹っ飛ぶ。

 その他に仕入れもしなければいけない。場代も払わなければいけない。屋台のトレーラーなんて、六千ドル近くも払わなけりゃならない。車はローンを組むとして、トレーラーを買うなんていうことは、どう考えたって不可能だ。製造元のオヤジに、なんとかレンタルでやらせてくれ、と交渉するのに、開店の日の朝までかかった。

 とても仕入れや機材を購入する余裕はないので、支払いは待って貰うことにして、結局サキさんミチコさんの使っていた機材、食材をそのまま使わせて貰うしかない。
 開店できるかどうかも分からない状態の中での仕込みが、明け方近くまで続いた。

 やっとの思いで、まだ未完成の半分歪んだような屋台を借りることが出来て大聖堂の広場に向かう頃、ぼくはもう、嬉しさよりも疲労と心労で、消耗の方が極限に近いほど激しかった。実際、今日売れなければ明日の分の仕入れも出来ない、というところまで切羽詰まっていたのである。もちろん、もう日本に帰るためのお金もない。ぼくの精神には、余裕のかけらも残っていなかった。

 朝九時過ぎの大聖堂前には、まだほとんど人通りもなく、唯一、ジョン・カービィの香港フードの屋台だけが、開店の準備をしていた。

 十二の屋台が出店する中で、ジョン・カービィは必ず一番乗りでやってくる。長身で明朗快活、耳の上から後頭部にかけては白髪が健在だが、額から脳天にかけてはきれいに禿げ上がっている。ちょうどチョンマゲのない侍のような頭をしている。典型的なイギリス紳士。そして誰もが認める、実質上のスクエア(大聖堂前広場)のボスである。いや、紳士と呼ぶのはどうであろうか。彼はいつも大声で皮肉たっぷりのジョークしか口にしないので、まだまだ経済的にも苦しく、心に余裕のないフード・フェア(屋台のグループ)の面々は、毎朝彼の顔を見るたびに苦い思いをすることになる。

 しかし、ぼくにとって幸いだったのは、ジョンはどういう理由だか「日本」という国の文化に非常に興味を持っていて、物珍しさも手伝ってか、ぼくに対しては言葉とは裏ハラに、非常に親切であったことである。事実、ぼくが難なく労働許可を取れた裏には何かしらイミグレーションに対して、彼の口添えがあったことに間違いはない。

「やあ、ユキ、おはよう。調子はどうだ? ん? なんだお前は。ただでさえ汚く見えるんだから、黒いシャツなんか着てくんな。そうだ、ホラなんてったっけ、鉢巻きしろ鉢巻き。それから明日はハッピでも着てこい。さもないと営業停止にするからな」

 ジョンとしては、ハッパをかけて励ましたつもりなのであろうが、すでに疲れ切っていたぼくにとっては、もう笑顔を見せる余裕さえなく、本人の意志には反して、ただ悲しそうな表情になるだけだった。

「ジョン、ジョンったら、いい加減にしなさい。ごめんねユキ、もう、ホントにうちの亭主ったら……」
 パタパタママを連想させるジョンのワイフ、香港人のデイジーがジョンをたしなめる。ジョンは若い頃、二十年間に渡って世界中を放浪した。そのうち香港には七年間も住み着いていたそうで、そのときに一目惚れして、強引に結婚してしまったのがデイジーである。彼らには十九歳になる娘と、高校生の息子の二児があった。二人ともさすがにヨーロッパとアジアのハーフだけあって、息をのむような美男美女であった。


「おはよう、ジョン、やあジャパニーズ。そうだジャパニーズ、いいとこにいたな、お前の場所とオレの場所と代わってくれや、な? いいだろう? いいよな? よし決まった」
 顔をあわすなり、いきなり店の場所の交換を切り出してきたのは、レバニーズフードのジョゼフである。フード・フェアの中においては最も社交的で気の良いオヤジなのだが、こと商売の話になると、ちとうるさい。美人でやり手でタフなニュージーランドワイフ、パトリシアとの間に三児をもうけ(三児目はまだ腹の中だが)、数ある屋台の中でも、おそらく最高の売り上げと最強の人気を誇る、外見もスーパーマリオなら、商売の腕の方もスーパーな、ベイルート育ちのスーパーお父さんである。

「いいよ」
 ぼくはあっさり了承した。
「そうかー、いいヤツだな、よしよし」
 ジョゼフは意外なほど話がうまくまとまったので大喜びだ。なにせぼくがジョンから与えられた場所は、香港フードの並び、大聖堂の真正面に当たる、フード・フェアの中でも選り抜きの超一等地なのである。

「ちょっと待った、ジョゼフ」
 ジョンが間に割り込んだ。
「なんだよジョン、お前には関係ないぞ。これはオレとジャパニーズの話だからな」
「ユキ、お前、今何が起こってるのか分かってるのか?」
「……………………?」
「そうか、分かってないな。ジョゼフ、今の話は無しだ。無かった話だぞ、いいな」
「ちょっと待てよ、ジョン、ジョン!!」
 ジョンはサッサと行ってしまった。
「ちっ、なんだ畜生!」
 ぼくはこの二人のやりとりの間中、ポケーッと見ているしかなかった。完璧に話の内容を理解していなかったのである。

 ぼくは英語が分からなかった。
 分からないので、何でも「ヤー(イエス)」で通していたのだ。

 日本語ででも何でもそうだが、たいていの場合、会話なんていうものは、くだらないどうでもいいことをペチャクチャとやっていることがほとんどである(本当はそういう一見どうでもいい雑談が、最も重要なコミュニケーションになるんだけどね)。どうせどうでもいいことなんだから、全然分からなくて話の腰を折るよりは、分かったフリして「ヤー」と言って流してしまった方がよい。

 当時のぼくにしてみれば、コミュニケーションを円滑に行うための苦肉の策でもあったのだ。が、やがて何でも「ヤー」と言うくせに、実は何にも分かってない男、として皆の冷たい視線を浴びる日は近い。
 何にしても、皮肉屋のボスの気まぐれで、飛び入りで一等地をものにしてしまった新人(ヨソ者)に対する風当たりは、当然のように厳しいのである。


「太田くん、オハヨー、元気ぃ?」
 すっかり意気消沈してしまったぼくの耳に、明るい女の声が響いた。井口智子である。ぼくと彼女とは、旅先で何度か顔を合わせた程度の仲だ。初めて智子を見かけたのは、ちょうど三ヶ月前のクライストチャーチ。なぜかカレールウの調合について、あれこれと他の日本人達と、議論を闘わせているときだった。

 自分よりも年上であることは間違いないと思うが、童顔なので、見た目で実際の年齢はよく分からない。ただ、いかにも「日本の女」て感じだなぁと、漠然と思った覚えがある。その後二、三度南島の片田舎で出会ってはいたのだが、お互いどうということもなくすれ違っていた。

「かわったこと始めたねぇ」
「そうかい? どう? 一緒にやらない?」
「エー? ホントにぃ? あたしでいいかなぁ」
 ありゃりゃ、冗談で言ったのに、どうやら脈があるぞ。

「いい、いい。お店にゃ花が必要だからさ、大歓迎。でもしばらく給料は払えないぜ。それどころかお金貸してって言うかもね(ホントは今にも言いたいよ)。それでもいいわってんならお願いしたいけど……」
「いいわ」
 ひゃあ、びっくり! やっぱり世の中、物好きがいるねぇ。とにかくなんだか嬉しくなっちゃったな。ぼくは少し希望が湧いてきたような気がした。

 昼が近づいてもお客はなかった。メニューは巻きずし(アボガド、卵焼き、キュウリ、にんじん、特製マヨネーズを一緒に巻いた太巻き)、天ぷら(イカとミックスベジタブルの掻き揚げ)、豆腐とワカメの味噌汁、梅干し入りのおにぎり、の四品である。
 まるっきりサキさんミチコさんの出していたメニューと、味も含めてそのままだった。いったいどうなるんだろう。ぼくの胸に、再び心配が重くのしかかり始めた。

「売れないねぇ」
 智子の呑気な明るい声が、ぼくの神経を逆撫でした。あっという間に顔が厳しくなる。空気がピリピリして、一言も口をきけなかった。そして自分が無言であることがさらに大きな重圧に感じられ、精神が押し潰されそうになるのであった。

 昼時のスクエアは、パニックさながらの人混みになる。その頃は、まだまるっきりと言っていいほど娯楽も何もない街だったので(テレビもたったの二チャンネルしかなく、放送時間も短かった)、人々は「何か」を求めてスクエアにやってくるのだ。前にも書いたとおり、ホントに、
「この人達、仕事はいったい……?」
 と首を傾げてしまうほど、子供を除いた全ての年齢層の人達が集まってくる。

 そこへどこからともなくエンターテイナー達がやってきて、やおら天下のおおらいに賽銭用のケースを拡げて、大道芸をおっぱじめる。人々はそれぞれに目の着いた大道芸人の周りに群がっては、拍手喝采、歓声を上げ、野次を飛ばし、一日一度のささやかな娯楽の一時を楽しむのだ。

 そうなると我がフード・フェアの方も書き入れ時である。各屋台には、人の頭しか見えないほど幾重にも渡って人々が群がり、注文の声さえも聞き取れないほどの活気に包まれる。ただ一箇所、ぽっかりと空いた不自然な空間を残して……。それがぼくの店の前であったことは言うまでもない。

 ぼくの店にも、ポツリポツリと人は来た。しかし、その結果どのようなことが起こったか……、それは冒頭で紹介した通りである。
 ホントに身も心もボロボロだった。

 どう考えても赤字の売り上げを、それでも全額翌日の開店資金につぎ込み続ける、苦しい日々が始まった。
 何といっても、ぼくも智子もズブの素人である。何をやっても能率が悪く、ぼくにいたっては、連日一睡も出来ないほどの時間を、仕込みに費やしていたのだった。そして夜が明けて、必死の思いでトレーラーを運んで出店すれば、すぐさま例によって、ボスのジョン・カービィに呼び出される。

「お前んとこさぁ、汚いんだよな、見た目が。それから暗いんだよ。売れてなくても忙しそうにしてろよ。何もすることがなくったって、何かやってるフリでもしていろ。客なんてな何か忙しそうにしている所に来るもんなんだからよ。分かったな。あっ、それから今日中に、その小汚いテーブルクロスを替えとけよ。今のまんまだったら営業停止にするからな、分かったな」
「……うん、分かったよ。だけどジョン、あ、待ってよジョン、ジョン!」

 ジョンは次々とやってくるフード・フェアのメンバー達との雑談に夢中で、ぼくがどんなに必死に呼びかけても、まるで眼中にない。

「どうしよう。こんな屋台に使える大きなテーブルクロスなんて、いったいどこを探せば見つかるんだろう。だいいち、そんな物買うためのお金がないよ。今日の売り上げからまわすしかないけど、そんなことしたら明日支払う今週分の場代が足りなくなっちゃう。場代払うの一分でも遅れたら、罰金百ドルだぜぇ。どうしよう」

「サキさん達に相談すれば?」
 智子が呑気な声で答える。
「あの人達が頼りにできるくらいなら、毎日こんなに苦労してねぇだろ!」
 ついついぼくの声が高ぶる。そこへちょうど、サキさんがやってきた。

「オータ、ジョンにテーブルクロス取っ替えろって言われたんだって? フーン。言いたかないけど、ホントにこれ小汚いもんね。不潔って感じ。早く取っ替えた方がいいよ」
 サキさんはそれだけ言うと、とっとと行ってしまった。
 何言ってんだ! これあんた達が使ってたそのままだぞ。フーッ、フーッ、みろっ、相談するどころじゃねぇ!
「ちょっと、お隣さんに聞いてみるよ」

 ぼくの店から大聖堂に向かって、右隣はジョン・カービィの香港フード。それに対して左側は、ジェーン率いるカントニーズの屋台であった。カントニーズというのも、要するにまぁ、やっぱり香港のことだと思えばいい。

 それにしても、ジョンのワイフのデイジーといい、このジェーンや彼女の妹のサンドラといい、なぜ中国人がデイジーやジェーンやサンドラなのだろうか? しばらく悩んだ。ま、これは文化の違いであるとしか言いようがないが、東アジアに多く、全世界的に見られるある種の習慣のせいだと思われる。それは、あっちの人は本名で呼ばれると悪霊に取り憑かれると思っている、というものだ(何かの本で読んだ)。

 それでお互いにニックネームで呼び合うということになっているのだろうが、それにしても、やっぱり、どうしてデイジーでありジェーンでありサンドラであるのか、不思議だ。

 まだこの頃にはニュージーランドに渡って来ていなかったが、後にぼくの一番の遊び相手になる、テッドというタイ人がいた。テッドはその外見も中身も、やんちゃ坊主を絵に描いたような男で、タイ人だから必ず僧侶だったこともあるくせに、最も好きな遊びは、殺生であった。ありていに言えば、釣りやハンティングのことなのだが、どう贔屓目に見ても、こいつは殺すことのみを楽しんでいた。テッドは自分のニックネームが大好きだと言っていた。

「なぜだか分かるか?」
 とぼくに聞いて、やつはキヒヒヒ、といやらしく笑った。皆は彼を「テッド」と呼ぶが、本当は「ティット」なのだそうである。そのティットは地面に大きくオッパイの絵を描いて、
「オオキイオッパイダイスキ」
 と日本語で言った(もちろんぼくが教えた)。

 なるほど、ぼくの三省堂デイリーコンサイス英和・和英辞典第4番にも、
 tit(話)乳首;(俗)乳房
 と書いてある。フーム、いったいどんな基準で奴等のニックネームは決まるのだろう? マスマス不思議に思う今日この頃である。

 広場の炊き出し風露天から、外見もしっかりとしたキャラバン式屋台に移行させられたことと同時に、市当局からの仰せで、一国籍につき一店の屋台しか出店してはならない、という規則が出来てしまった。ボスであるジョン・カービィが香港フードの屋号を取るとすると、その他に二組みあった香港チャイニーズの面々は、共に否応が無しに、スクエアから追放されることになる。

 他のフード・フェアのメンバーは、タイを除けば同国籍のライバルがいるということはなかったので、まるっきり他人事で、誰も助けようとはしてくれなかった。それどころか、商売上最も強敵であるチャイニーズフードの出店が、一挙に二店も減るともなれば、そこで今まで取られていたお客が流れてくる他の屋台の店主達としては、これほど願ってもないことはなかったのである。

 皆、自分と自分の家族を守ることにのみ必死で、「仲間」としての感覚は無きに等しかった頃である。和やかに談笑しているその裏では、まさしく命懸けと呼べるほどのしのぎを削っていたのであった。

 そこでジェーンが主張したのは、自分たちの店は、
「カントニーズフード」
 の店である、ということだった。断じて香港フードではない、「カントニーズ」なのである、と彼女は一歩も譲らない。

 ならば、ともう一組の香港チャイニーズのナラン一家も、自分たちの屋台は、
「チャイニーズフード」
 なのだ、決して香港やらカントニーズとはモノが違うのである、と食い下がる。
 我々日本人からしてみれば、どう考えても無理な理屈に思えるのだが、南の果て、心優しきニュージーランドのお役人は、どうやらこの強引すぎる主張を納得したようである。

 同じ要領で、タイの出店も「タイ」と「サイアム・タイ」の二店が許可された。
 その理屈でいけば、日本食も例えば「東京」と「大阪」とか、「本州」と「北海道」と「九州」とか、はたまた「ニホン」と「ニッポン」とか言っちゃったりして、複数の出店が認められることになるのであろうが、それはまず不可能な話であった。これ以上の商売敵の出現を、フード・フェアのメンバー達が許す筈はなかったからである。

 ぼくがこの屋台グループに参加できたのは、サキさん達と出会ったことと共に、テントからキャラバンに移り変わるゴタゴタの時期に便乗してしまった、というタイミングの良さによるところが大きいのだが、それがこの命のやり取りさえもありかねなかった屋台グループ創生期を生き残ってこられたということは、ほとんど奇跡的なことだった。

 もしもぼくや智子が初めから商才に長けていて、他の屋台の客層に食い込みかねないという気配を多少なりとも誰かに感じさせていたならば、あっという間に寄ってたかって押し潰されていたことだろう。明日も開店できるかさえも分からない、誰にも鼻も引っかけられない、そのあまりの弱小ぶりが、逆にこの日本食屋台を守る、微妙なバランスを作っていたのだ。


「おはよう、ジェーン」
「あら、おはよう。あんた名前は何たっだっけね?」
「え? まぁ、ユキとでも呼んでくれよ(ユキマサなんて言ったら、長すぎるって言われるに決まってるんだ)。それよりさ、ジョンにテーブルクロスを取り替えろって言われたんだけどさ、テーブルクロスってどこに行けば買えるのかな?」
「さあて? 悪いけど知らないねぇ」
 やっぱりね。

 知らない、というよりも答える気さえもなさそうだったが、仕方がない。彼女たちのちゃんとした完成品のキャラバンには、元から綺麗なテント地のカバーが着いていたから、わざわざテーブルクロスなんかを用意して、トレーラーの連結部分など、食品店としての景観を損ねる部分に気を配るなどということは、最初から必要のないことだった。

 それだって、テーブルクロスの売っている所くらい、知っていてもよさそうなものなのだが、当時のニュージーランドという所は、本当に国中が片田舎という感じで、店もろくに無ければ、夕方五時には街全体が眠ってしまう。土日には一切が休みで、街中でもほとんど人間を見かけることはない、というくらいにホントに不便で、何がどこで手に入るかなんて、もともと昔から住んでいる人間に聞いたって、あやふやな答えしか返ってこないくらい、白人中心の文明国としては極度に品物の不足している国だったのだ。ビニール袋一枚手に入れるのにさえ、困難を極めた。

 結局グループの誰に聞いても、返ってくる答えは同じであった。
「知らないね」
 である。
「発想の転換が必要だ」
 ぼくは必死に考えた。
「テーブルクロスそのものを探そうと思うからいけないんだ。テーブルクロスとして使える物なら何でもいいんだ」
 ちくしょう! 考えろ、考えろ!!! ピンチの時こそ、逆に大きく盛り返すチャンスの筈だ。

 う~ん、う~ん……、閃いた!!
「智子さん、すぐ帰ってくるからお店頼むよ。それからお金。その場代用って書いてある封筒かして」
 相変わらずのんびり顔の智子に叫ぶ。
「これ、いいの?」
「よくないけど、仕方ないだろ!?」

 ジョンが今日中と言ったからには、つまり客足のまだ少ない「今」しかテーブルクロスを買いに行くチャンスはないんだ。明日払わなきゃならない場代は足りなくなりけど、余力を残して今日で終わるよりも、全てを使い果たしても明日に持ち越した方がいい。どっちみち一歩も後には引けないんだ。
 ぼくは何度も自分にそう言い聞かせながら、なけなしの場代の入った封筒を握りしめて、街に走った。

 ぼくが飛び込んだのは、街のカーテン屋だった。
「カーテン生地なら、中には使えるやつがあるかもしれない」
 発想は良かった筈である。しかし、ここはニュージーランドの田舎町。どうもパッとした物は見当たらなかった。
「だめか……、!!」
 諦めかけた瞬間、カーテンなんかよりもっといい物が、ぼくの目の中に飛び込んだ。

 バタバタと息を切らせて駆け戻ってきたぼくが抱えていた物は、ビニール製の床用カーペットだった。
 すでに開店の準備も整った他の屋台の連中が、物珍しそうに眺めている。ぼくがそのフロアカーペットを拡げて、自分の店の調理用テーブルから地面にかけて丁寧に覆うと、少なからず周りから、
「おお」
 というびっくりしたような声が漏れた。

 カーペットは、明るく綺麗な朱色の地に白い格子の柄が入っている、見るも鮮やかな物だったのだ。その鮮やかなカーペットをテーブルクロスとして纏ったぼくの屋台は、突如としてグループいち明るく清潔な雰囲気の店に、その外見をチェンジした。

「ヘッヘ、みんな驚いてるな。だけどフロアカーペットなんかテーブルクロスに使うんじゃねぇ、なんて言われちゃったら終わりだからな。平気かなぁ」
 などと言っている間に、早速ジョンがやってきた。

「なんだ、ユキ、お前それをどこで買ってきた?」
「コロンボストリートのカーテン屋……。だめかい? ジョン」
「ふん、なぁに上出来だよ。これなら女王様だって食べに来るだろうぜ」

 言葉は乱暴だが、明らかにジョンは少し羨ましそうな顔をしていた。ぼくはちょっと得意な気分になった。が……、
「それよりユキ、明日の場代はちゃんと払えよ」
 ジョンはしっかり逆襲することを忘れない。
 ヒャア、そうだった。一難去ってまた一難だよ。


 ぼくと智子にとって、経済的な圧迫に加えて、毎日が営業停止にされるかされないかの、追いつめられた勝負勝負の日々であったが、それでも味に対する追及は丹念に行われた。

「キウイってさ、異常に甘党なわけじゃない。だからお寿司も甘くした方がいいんじゃないかな?」
 洗い物をしながら、決心したように智子が言った。
「あたし作ってみたい、寿司酢。それから天つゆも作り直そうよ。今のまんまじゃ美味しくないもん」

 最初は、経済的な余裕はないから、今あるサキさん達から譲り受けた寿司酢と天つゆを使い切ろう、そう主張して智子の意見を聞こうともしないぼくだったのだが、
「あたし、お金要らないからやらせてよ、ね? 今までだって、いろんな物買ったり、場代や屋台のレンタル代払っても、なんとかやってこれたじゃない。美味しい物作れば、きっともっともっと、売れるようになるんだからさ、ね?」
 と食い下がる智子の熱心さに、ついには、
「勝手にしろ!」
 人の気も知らないで、とふてくされながらも折れたのであった。

 ニュージーランドにおいて日本食を作ろうとする場合、最もネックになる問題は、やはり、原材料が異常に高価であるということだった。まるで手に入らないことを思えばまだまし、という考え方もできるが、基本的に、日本円換算しても平均日本の七~八倍はする日本食の食材は、現地の他の食品の物価からすれば、常識はずれに高価な代物であった。現地産の物で代用できる様子の物であれば、極力日本からの輸入品は切り捨てていかないと、とてもではないが他の屋台と競争できるだけの、安価で日本食を提供していくことは不可能だった。

 ここで、この国で日本食レストラン経営に乗り出そうとした人達の、すべてがブチ当たったであろう壁があった。寿司酢をどうアレンジするかということである。
 ニュージーランドに現地産の米酢はなく、輸入品はかなり高価になるため、寿司を安価で出すためにはどうしても一般に使われている「ホワイトビネガー」を使うしかない。しかしこのホワイトビネガーというのがクセモノで、日本の米酢から比べたらそうとうに強烈であり、まともに料理の勉強をしてきた人達にとっては、とても寿司酢に使えるとは考えられないほどの代物であった……らしい。

 事実、このホワイトビネガーからミチコさんが作ってサキさんと共に使っていた寿司酢はかなり強烈で、その強烈さを押さえるため、ごく少量しか白飯に混ぜ合わせることが出来なかったため、寿司としては、はなはだ味わいのない、面白くも何ともない味であった(日本人の間では、あれじゃおにぎりとかわらない、と陰口をたたかれていた)。

 確かにぼくも、
「このままではいけない」
 とは思っていた。今は夏場で人出も多い。物珍しさのみでうちの店の商品を買ってくれるお客だけでも、なんとか日々を凌いでいける。しかし、これではやがて季節が進めば、立ち往生することは目に見えていた。なんとしても、かなりの無理をしてでも、「現在《いま》」、この客足があるうちに、我が日本食屋台の味を天下にアピールすべく、大変換させねばならないのだ。

「天ぷらもさ、イカ入れるのやめようよ」
「えっ、でも、それはまずいんじゃねぇか? 実際天ぷらくれって言うお客よりも、イカくれって言ってくるお客の方が多いんだぜ。イカ入れなかったら、インパクト薄れちまうんじゃねぇかなぁ」
「そうだけど、でもそれってやっぱりゲテモノ扱いってことじゃない? あたし、野菜だけのベジタリアンてことにして売った方が、絶対売れると思うのよね」

 ウムムム、くそっ、悔しいけど智子の言うことの方が一理ある。たとえどんなに対立している相手の言葉でも、冷静に判断してみて、正しいものは正しいと認められるのが、ぼくの長所のひとつのつもりだ。

「ええい、分かったよ。イカはやめよう。そしたらオレもイカさばかなくていいし、経費もかなり浮くもんな。それじゃいっそのこと、ミックスベジなんかやめて、ちゃんと新鮮な野菜を切ろう。今までの経費をそのまま野菜にブチ込んだら、凄い豪華なやつができるぞ」
「あらぁ、ユキちゃん、いきなりやる気ね」
「ふん、よせやい。あ、それからおにぎりも、もうやめ。手間ばっかりかかって、どうせそんなに売れないもんね」
「そうね、一個一ドルで売って、一日二十個出るか出ないかだもんね。やめちゃおう」

 ある夜のこんな二人の会話を境に、ぼくの食生活は一変した。経費節減のため今までは決して手を付けなかった商品を、とことん、これでもか! というくらいに食べ始めたのだ。
「オレたちゃ素人なんだからさ、何が一番大事かっていったら、自分で食って、うっまーい、て思えるようなもんを作って売ることだって思うんだ。そのためにゃ、自分で食ってみなくちゃね」
 すし飯を食い、天つゆを飲み、天ぷらをかじりつつ味噌汁をすする。毎日毎日がその繰り返しになった。

 しかし、イカをさばく手間は省けたものの、大量のカボチャ、にんじん、タマネギ、ピーマン、コーン、ショウガの六種類の野菜を掻き揚げ用に切り分ける作業が加わったため、相変わらず不眠のまま、翌朝の開店に挑む日々である。そのハードなスケジュールの上にそのような食生活では、いくら若かったといえ、ぼくの体に変調が起きないわけはなかった。

 体中に、おそらくストレスと栄養失調が原因と思われる湿疹が、大量に吹き出したのである。抵抗力の極度に落ちたぼくの体は、見るも無惨に、その毒牙に蝕まれていったのだった。首の後ろ、手の甲、肘と膝の関節の裏側、股間など、皮膚の比較的弱いと思われる部分は、例外なくビッシリと湿疹に覆われてしまった。特に股間の湿疹にいたっては、気が狂いそうなほどのひどい痒みで、たとえ僅かに絞り出した睡眠時間も、そのために一睡も出来ないというほどの、ひどい苦しみようであった。

 そうした努力の甲斐あって、寿司酢をはじめとする調味料の調合も徐々に上達していき、それを裏付けるように、全体の売り上げの方も目に見えて上がってきていた。ただし売れれば売れるほど、体には負担が増していく一方で、体力と精神力の限界ギリギリのところで働いていたぼくと智子には、そのように着実に自分たちの技能が上がっていることや、固定客が付いてきていることなど、意識できるだけの余裕はなかった。

 それどころか、スクエアにやってくれば、相変わらずジョン・カービィの厳しい言葉が降ってくる。
「ユキ、お前はもっと店の中を片づけろと言ってるだろ! ホラ、たまに買いもしねぇのに店の中をジーッと覗き込んでるヤツっているな? ああいうのは大抵、市役所や衛生局の犬なんだ。この周りのテイクアウェイショップの連中のときもある。オレ達のグループは、あいつらの最大の商売敵なんだからな。弱みを見せたら、あっという間に通報されて、それで終わりだ。お前は新入りで特に狙われてんだ。明日までにそのススの付いた大鍋をピカピカに磨いておかなかったら、このオレが営業停止にしてやるぞ。分かったな」
 トホホ、また今夜も眠れないかも……。

 こんなこともあった。
 スクエアに入ってきた途端に、我が愛車デイビー号(サキさんの恋人の名前から命名した)がオイル漏れを始めてしまった。大聖堂を中心に日時計になっている、レンガ畳の大聖堂前広場に、点々とオイルの真っ黒いシミの跡が続いた。

「ユキッ!!」
 すぐさまジョンの怒声がスクエアに響いた。洗剤とボロ布を叩き付けられたぼくは、どん底の疲労の中で、どうやったら目の裏側に溢れてくる涙をもう一度眼球に染み込ませることができるだろうかと真剣に考えながら、一人、ポツポツと通勤のために広場を通り過ぎる人達の合間にしゃがみ込んでは、レンガ地に染み込んで黒く滲んだオイルの跡をこすった。
 トホホ、車の修理代、いくらかかるかなぁ……。


 稼いでも稼いでも、現金はすべて車の修理費(デイビー号は、毎週壊れるというダダッコぶりを発揮した)や、天ぷらをカラッと揚げるためにどうしても必要な高出力のバーナーと、そのためのLPGボンベなどの備品に転化され、そろそろ開店から一ヶ月が過ぎようとしている現在も、相変わらず財政は火の車であった。

 実際のところ、その頃のぼくの店の総売り上げは、一日平均四百ドルを超えていた。開店当時の、一日百五十ドルほどしか売れなくて、材料費やその他の経費のことを考えれば大赤字だった頃と比べれば、かなり生活は楽になってきていなければならない……筈だったのだが、
「働いても働いても我が暮らし楽にならざり、じっと手を見る……。石川啄木の気持ち、わかるなぁ」
 なんて呟きながら、ホントにじっと手を見つめていることがよくあった。


 そんなある日のことだった。
 いつものように昼時の大聖堂前広場は、束の間の娯楽を求める人々の群によって、さながらパニックのごとき賑わいを見せていた。

 ぼくと智子も、昼の十二時から二時過ぎまでの二時間くらいは、どんなに激しく立ち働いても、お客の注文にとても間に合わせられないほどの忙しさに見舞われるようになっていた。まだまだ未熟だったせいもあるが、なにせ一日の売り上げのほとんどが、このわずか二時間ほどの間に叩き出されるのだ。

 巻きずし一皿三ドル五十セント、掻き揚げ一枚一ドル五十セント、味噌汁一杯一ドル。たったこの三点の商品から、現場で作って売って(味噌汁は大鍋に作ってあるのだが)で、二時間に四百ドルというのは、並大抵の忙しさではない。
 二時半をまわって客足が引き始めると、ピタッと注文が切れたときなどは、ぼくも智子も放心状態に陥った。

「ハロー、アゲイン(また来たよ)」
 おっとっと。
 お客の呼びかけに、ふと二人とも我にかえった。
 (あれ? この人、さっき来たお客さんだなぁ)
 どうしたんだろう? ちょっと心配になる。

 そのお客は、短い頭髪に黒縁眼鏡をかけたなかなかハンサムなキウイで、まだ歳は二十代前半といった感じだが、彼が押している乳母車には、可愛い赤ん坊の顔が見える。
 (そういえば、この人最近よく買いに来てくれるな……)

「やあ、調子はどうだい? ウフフフフ、この巻きずしっての美味しいねぇ。ホント美味しいんでお礼言いに来たんだ。ありがとう。明日も来るよ、じゃあ、またね」
 彼はそう言って、少し離れて待っていたブロンドの奥さんの所に戻り、二人揃ってニッコリと手を振って去って行った。

 ぽかんとした顔で見つめ合ったぼくと智子の目から、涙が溢れた。
「ユキちゃん……、やってて良かったねぇ」
 あのときの喜びは……、一生忘れない。
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