第20話 分岐点

文字数 5,101文字

 すべてはこの日、十二月最初の木曜日、切れそうになったビザの期間延長のため、このクライストチャーチを訪れたことから始まった。もし一日早く着いていたなら……?

 その日は土砂降りの雨が降っていた。既に十二月に入っていたので、南半球のニュージーランドでは、もう十分に真夏と呼んでいいだけの季節になっていた。だが実際のところ、真冬のように凍えてしまう一日だった。
 ぼくはティマルゥからヒッチハイクで着いたばかりで、途中何も食べてなかったので、とても腹を空かしていた。

 クライストチャーチ・セントラルシティの中心である、大聖堂のある広場に立ち寄ると、ちょうど大聖堂の真正面に当たるあたりに、何件かの屋台が出ていた。
 レバノン、ギリシャ、ホンコン、ジャパン。
 へぇ、日本の屋台まであるよ。ちょっと話しかけてみようかな。
 店の中にいるのは二人の女の人たちだった。

「こんにちは。雨なのにたいへんですね」
「アラ、こんにちは。君、真っ黒なんで、マオリ人かと思ってたわよ」
「いや、ちょっとヒッチハイクしてたら焼けちゃって。こっちって、紫外線が強いでしょ」
 その頃オゾンホールという言葉があったか無かったか、とにかく紫外線が日本の四から四・五倍といえば、かなりきつい。

「それより話は変わるんだけどね、君、この店のあと、継いでくんない?」
「はあ?」
「あたし達、もうやめようと思ってんだけどね、そしたら日本のお店出す人、誰もいなくなっちゃうのよ。それもちょっと寂しいでしょう?」
 いきなり何を言い出すやら。しかし確かに、好奇心がうずうずっと震えてしまった。
 あー、いかんいかん。

「うん、でもオレね、今、観光ビザの延長も出きるかどうか分かんないとこなのに、それって色々、許可とかもいるんでしょ? ちょっと無理だよ」
「やる気はあるのね?」
 人の話、聞いてなかったのか、この人は。
「やる気はあるのね!?」
 (……………………)
 思わず「うん」と言ってしまった。
 
 それにしたって、あまりに話が唐突すぎる。
 後で聞いた話では、彼女たちも切羽詰まっていたらしい。店を開けば大赤字。何を出してもゲテモノ扱い。なんとか買い込んでしまった調理器具だけでも売りさばいてしまって、早くこの辛い思いから解放されたい、と、クライストチャーチに住んでいる日本人から、ぼくのようにちょっと偶然顔を出しただけの旅行者まで、片っ端から声をかけまくっていたのである。

 もちろん、長期この街に住んでいる日本人達は、彼女たちがどれだけ悲惨な思いをしているか百も承知しているので、誰一人、その後を継いでやろうなんて考える者はいなかった。また、ちょっと立ち寄っただけの旅行者が「やる」なんて言うはずがないのである……、普通なら!
 それをいったい、ぼくってやつは。まったく、若かったのか、バカなのか。ぼくはその頃、まだ二十一歳のガキだった。

 お店を出していたこの人達は、名前をサキさんとミチコさんといって、二人とも既に三十路の女性だ。したたかさでは、二十歳そこそこの男なんかじゃ、とても太刀打ちできやしない。急な話の展開にこちらがとまどっているうちに、どんどんと話が進められていってしまった。
 まだ顔を合わせて五分と経っていないのに、早くも、ぼくがお店を継ぐのだと、そこら中にふれ回っている。

 香港フードのジョン・カービィがやってきた。このカテドラル・スクエア(大聖堂前広場)に屋台を出しているフードフェアグループの代表者で、実質的なボスである。白髪で脳天のハゲ上がった、典型的なイギリス顔だ。
「ジョン、ジョン、あのね、彼があたし達の店を引き継ぐことに決まったの」
 ちょっとちょっと……、待てよ。

「ほう、そうか。そりゃなにより。おい、お前、オレ達の仲間になりたいんなら、それなりのテストがある。用意はいいか?」
 ぼくには彼が何を言っているのか、さっぱり分からなかったのだが、サキさんが横で通訳してくれた。当時のぼくには、英会話の能力はほとんど無かった。

「それでは質問その一。お前、ビールは好きか?」
「イ、イ、イエス」
「なんだ、なんだか頼りないな。まあいい、質問その二だ。お前、女は好きか?」
「イエス、イエス!」
「そうかそうか、ガハハハハ。よっしゃ、合格!」
 なにがなにやら……?


 ぼくは早速、彼女たちのアジトに連れて行かれた。この二人、サキさんとミチコさんは共に三十歳。ワーキングホリデー・ビザを使っての入国としては、最上限に当たる年齢だ。

 ワーキングホリデー制度というのは、当時の日本の場合、ニュージーランド、オーストラリア、カナダの三カ国との間に結んでいる相互条約のひとつで、原則的に、お互いの国の十八歳から二十五歳までの若者ならば、一定期間相手国において、旅行をしながらときには学校に通ったり、なおかつ労働することまで許可されてしまうという、観光修学労働の三種類のビザが総合された、まことになんとも魅力的なビザが取れるというものである(当時はニュージーランドのみ三十歳まで許可された。カナダも後に三十歳までになるが、オーストラリアも、審査次第では三十歳まで許可された)。ただしこのビザで入国する者の目的は、あくまでも旅行する、あるいは勉強するということがメインであって、働くことはそれらに伴う金銭面を補うための、付随的なものでなければならない(ワーキングホリデー制度は、その後二十六もの国と地域と締結している)。

 だが実際は、旅行などは一切しないで、まぁとりあえず二~三ヶ月は語学学校に通った後、ひたすら土産物屋の店員やら日本食レストランの皿洗いやら、日本人相手のツアーガイドなどのアルバイトに精を出している若者達が大部分のようである。

 サキさんとミチコさんも、旅行などは全然しない、したがって自分の住んでいる街以外の事情はまったく知らない(また興味もないのだろう)、というタイプの人たちだったが、簡単に人に雇われているのではなく、自らが経営者の「テキヤ」、というところが、他の日本人達とは大幅に異質なところであった。

 サキさんはいかにも「やり手」というタイプの人で、日本では音楽関係(いわゆるギョーカイ)の仕事をしていたというだけあって、かなりの世渡り上手である。
 ミチコさんは典型的なイナカの教師という感じで(実際彼女はイナカの中学校の教師であった)、本人は昔はキャンディーズのスーちゃんに似ていたなどと豪語しているが、普段から意識の九十五%以上が食べることにあてがわれているのではないかと思われるほど、常に何かをモグモグと食べている彼女の現在の容貌からは、とても「昔の面影」らしきものは偲ばれなかった。
ニュージーランドに長期滞在した日本人の女性の場合、十キロくらいは体重が増して、帰国の頃には別人に変身してしまっていた、というケースはザラのようである。

 彼女たちは、ニューブライトンという海辺のエリアの豪邸に住んでいた。海外に長期旅行に出ている一家のホームキーパーをしているとのことだった。新聞にそのホームキーパーの募集が出たときに、
「私たちは留守番のプロフェッショナルの日本人だ」
 と売り込んだら、あっという間にその豪邸が手に入ったというのである。もちろんペテンだ。しかしその豪邸の持ち主は、今頃は安心して数ヶ月に渡るヨーロッパ旅行を楽しんでいることであろう。この国では、日本人は正直で頭が良くて仕事を完璧にこなす、となかば伝説のように信じられていたからである。ホント、何かにつけてたくましいのだ、この人達は。

 そのたくましき二人の店のあとを継ぐと約束したぼくは、その時点で彼女たちの個人的な「所有物」とみなされたらしい。それからの数週間というもの、ぼくはクライストチャーチにいる限り、あまりにも不条理な、まさしく奴隷のような日々をおくらねばならなくなった。掃除、洗濯、洗い物、炊事、留守番、その他雑用、全て押しつけられたのだ。

「店を譲ってやろうってんだから、このくらいのことはするのは当然じゃろう? なぁ、サキさん」
「じゃろう? じゃろって何じゃろう、アッハハハ。そりゃそうじゃろう」
 二人の会話は岡山弁だ。ミチコさんが常に故郷の岡山弁丸出しで通すので、この人の周りにいる人達は、皆岡山弁がうつってしまっているのだった。

「ちょっとちょっとあのさぁ、オレ確かにあと継ぐって言ったけどさ、考えてみたらオレこのままじゃ不法労働になっちゃうじゃん。やっと今日、観光ビザ延長できたばっかなんだぜ。ちゃんと労働ビザが降りないことにはやれないよ」
 そうなのだ。数々の不利な条件にも関わらず、やってみたら、今日、なんとかビザが降りたのだった。このせっかくやっと観光ビザを延長できたばかりだというのに、ここで不法労働で捕まって強制送還なんていうことになったら、まったく元も子もないではないか。

「ちょっと言っとくけどね、あたし達大聖堂前でもアートセンターでも、何のビザでやってるかなんて聞かれたこと一度もないよ。観光ビザのまんまやっちゃえばいいじゃん」
 ぼくがビザのことを口にすると、必ずサキさんは、
「今更ビビッてんじゃねぇよ、男のくせに!」
 と、呆れたように言うのである。くそ、男のくせに、と言われるといつもぼくは黙ってしまう。が、それと違法行為とは別の話だ。。

 サキさんとミチコさんの属する露天グループは、平日の大聖堂前広場での営業に対して、土、日及び国民の祝日においては、アートセンター内の敷地の一角を借りて出店することになっていた。
 サキさんとミチコさんは、大聖堂前で木曜日と金曜日の二日間、そしてアートセンターでの週末の二日間、計、週に四日間、露店を開店していたのである。もしも本当に彼女たちの後を継ぐことになるのなら、ぼくもそれと同じ営業体制になるだろう。週の前半は仕入れや仕込みにあてねばならない。


 その夜、姉ちゃん達がビールを飲んだりシャワーを浴びたりしているとき、ぼくは一人で鍋や寿司桶など、店の道具の洗い物をさせられていた。そこへサオリという、サキさん達を崇拝しているぼくと同い年の女が入ってきた。

 サオリは泥棒に入られたと騒いでいた。しかもその泥棒は、以前サオリのフラットメイト(アパートを共同で借りている人)だった女に違いないと、憤懣やるかたない様子でまくし立てる。金目の物と、その女の羨ましがっていた物ばかりがなくなっていたのだそうだ。サキさんは、
「だから外人は信用するなと言ったじゃろう?」
 と言い、ミチコさんも、
「じゃろう?」
 と言った。ずいぶん過激な発言だが、彼女たちの体験談を聞くと、それも仕方がないかも知れない。苦労したみたいだからさ。住んでしまえば色々あるのだ。

 洗い物の途中でイスラエルダンスに連れて行かれた。イスラエルダンスとは、あのキャンプファイヤーなんかのときにやる、マイムマイムのステップをベーシックとしたなかなかハードなダンスで、ただでさえ疲れていたのにいっそう疲れた。

 翌日、ミチコさんに連れられて、日本食の仕入先や、カップや紙皿、ナプキン等、店で必要な雑貨と、その他の食料などの仕入先を見て回った。明日から本格的に天ぷらを売ってみるということで、そのための中華鍋も買いに行く。この人達の毎日は、「あれは売れるかも知れない、これはどうだろう」、という試行錯誤の連続だったのだ。総売上七ドル! なんて日もあったりして、経費も考えれば大赤字が続く中、いつの日かいつの日かと思いながら続けてきたのである。

 そんな彼女たちの姿を知っている人々にとって、何も知らずにその後を継ぐと安請け合いしてしまったぼくは、まるで街頭のキャッチセールスにあっさり引っかかった、反吐が出るほど間抜けな兄ちゃん、そのものだったようである。ぼくは、影でみんなの嘲笑の的になっていた。

 あるいは憎悪のこもった鋭い視線を、あからさまに浴びせられることもしばしばだった。憎しみの視線を浴びせてくるのは、いつも決まって日本人だ。皆、今まで自分が声をかけられても尻込みしてきたくせに、他人がやるとなったら一気に嫉妬が爆発する。妨害さえしようとしてくる同国人は、外人よりもよっぽど厄介なものである。

 翌日、ぼくはアートセンターでの開店の準備だけ手伝って、クライストチャーチを後にした。ひとみさんに預けてきた荷物のこともあるし、とにかく一旦この場を脱出して、体勢を立て直す必要があるからだ。このまま一方的にサキさん達のペースに巻き込まれるのは、危険な匂いがプンプンする。
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