第24話 陰謀

文字数 13,473文字

「オータくん、こんにちはぁ、最近美味しくなってきたって評判よ」
 久しぶりに、元気に声をかけてきたのは、アヤコさんだ。
「オータくん、頑張ったね」
 ぼくはアヤコさんに誉めて貰うのが、何より嬉しい。しばらく雑談した後、アヤコさんが言った。

「オータくん、智子さん、もう大丈夫ね。二人とも、笑えるようになったもの。この間までなんて、とても気の毒で、あたし声もかけられなかったのよ」
「オレ達、笑ってなかったかな」
 そうかぁ、そうだったかもな。そう思いながら、三人で顔を合わせて「フフフ」と笑った。

 経済的にはまだまだおぼつかないものの、知らないうちに、心の方には余裕が生まれてきていたのかもしれない。そういえば、ぼくはこの頃には、ビンボーなくせに五十セントや一ドルのおまけは連発して出していたような気がする。

 それにしても以前アヤコさんに指摘されていたように、ちゃんと初めからワーク・パーミット(労働許可)が取れていて助かったとつくづく思う。最近、以前クライストチャーチ脱出のときに知り合いになった笑福亭鶴瓶に似た青年が、
「あいつはたしか観光ビザしか持っていなかった筈だ」
 と口走ったことが発端で、日本人学生達の間で、ぼくが観光ビザのまま不法労働している、という噂が広まった。

 わざわざ確かめに来る人間もいたので、本当はすでに奴等も、ぼくがワーク・パーミット(労働許可)を取れていたことを知っていたのだが、わざと悪意的に噂を作る連中もいるのだ。すると中には、してやったりといった表情で、通報されたくなければ、と脅迫じみた行動をとってくる学生達も意外と大勢いたのである。恐ろしい、恐ろしい。

 そんなとき、ぼくたちの前にある夫婦が現れた。大聖堂前広場から目と鼻の先で日本食レストラン「信長」を経営している、日本人の夫婦である。「信長」は客席十人分程度の小さなレストランなのだが、ライセンス上はテイクアウェイの許可しか受けていない。つまりは彼らにとって、ぼくは直接の商売敵ということになるかもしれない。

「君が太田くんか。噂は聞いてるよ。若いのに頑張ってるね」
「はぁ、どうも」
「どうだい、一度うちの店に遊びにいらっしゃい。包丁研いだりも必要だろう? それに君は素人なんだってね。うちは今度、本職の板前も雇ったから、分からないことがあったら何でも教えて貰うといい。そうだ、早速、今夜来ないか?」
 顔を見るなり切り出してきたのは、まだ三十そこそこの若いダンナの方である。彼は、元自衛隊の料理長だったという。

 信長は、日本人旅行者達の間では、まずくて高い、ということで有名だった。日本への懐かしさのあまり信長で食事をしたが(他の日本食レストランは高級すぎて、個人旅行者にはよっぽどの覚悟がないと手がでないのだ)、あまりのまずさに頭に来た! とわざわざぼくの屋台までグチを言いに来る若者は、後を絶たなかった。

 肉も入れず、申し訳程度の野菜だけの水煮(ダシも入っていない)にカレー粉をふっただけで、
「ベジタリアンカレー(客に肉が入っていないと指摘されるとそう言うらしい)」
 なんて言って、五ドルも取っているのだから当たり前である。そんなもの、カレー粉の香りとただなんとなく辛いだけで、味なんか何にもありゃしない。味噌汁なんかも、ダシが入っているのかいないのか、とにかく薄すぎて、とても飲めた代物ではなかったという。

 そんな信長である。あまり関わる気もなかったのだが、新しく入った本職の板前が何でも教えてくれる、という話には興味をそそられた。ぼくは確かに、料理の勉強など何一つしていないくせにお客に食べ物を売っている、ということにある種のコンプレックスを抱いていたのだ。
 包丁だって、彼の言うように研がせて貰いたい。ぼくは今まで散々かかって砥石を探したが、ついに見付けられないままでいたのである。
「はぁ、じゃ今晩、時間を作って伺います」


 洗い物を終え、明日の巻きずしのための仕込みを終えた智子を、彼女の宿であるYMCAに送り届けて、その帰り道に「信長」に顔を出した。
「こんにちはぁ、遊びに来ました」
「おー、来た来た。待ってたぞぉ」

 店の中には、オーナー夫妻の他に、三人のスタッフがぼくを待っていた。オーナーが新しく雇ったという、中年で小太りの高牧という板前、その女房、それに土産物屋で働きながら料理が好きなので? ここで賃金なしで働いているという、まだ二十五、六歳に見える田代であった。

「この高牧くんはね、料理のことだったら何でもこいだから、いろいろ教えて貰うといい。田代くんも、今一生懸命教わってるとこなんだよな?」
「ええ、まぁ、ボチボチでんな」
 どうやら田代は、関西系の人間らしい。
「で? いったい何を教わりたいっていうんですか? とてもオタクにゃかないませんよ。あたしの方が教わりたいくらいなんですけどね」

 皮肉たっぷりに頬をピクピクさせてそう言ったのは、中年太りの高牧だ。
「はい、あの、寿司酢の基本的な作り方とか、ご飯に混ぜ合わせるときのやり方なんかを教えて欲しいんです。ぼくはまるっきり素人なもんで、プロの仕事を、一度見たいと思ってたんです。お願いします」

「ふん、なるほどね。でも、教えてやるからには、今オタクがどんな風に作っているのか、分からないことには教えようがないからな。寿司酢はどういう風に調合してる?」
 ム、それは食べ物屋を営む者にとってはトップシークレットだ。頑固なおやじなんかは、たとえ実の息子にさえも、自分のレシピを教えないというではないか。だからぼくも敢えて「基本的な寿司酢」を教えて欲しいと言ったのに。

 そうは思ったが、相手の理屈もなんだか正しく聞こえたので、ぼくはかなりのところまで、智子の寿司酢のレシピを喋った。どうせ言葉で聞いたからってそのままできるものではない。

「どうだ、明日の仕込みも兼ねて、ここで作ってみないか? 材料はうちにある物、いくらでも使っていいから」
「えっ? いや、それは、今日はいいです、ハイ、あの、十分作ったばっかりですんで」
「そんなこと言わずにさ、どうせ使う物じゃない。うちで作れば経費も浮くよ」
 このオーナーの強引な押しには閉口した。

「ふーん、まぁいいや。ところで今日は売り上げいくらあった?」
「え? ええ……」
「いいじゃない、教えてよ。五百超えた?」
「はぁ、まぁ」
「へぇー、凄いじゃない。場代はいくら払ってんの? どこに? 仕入れはどこからしてんの? 仕込みはどこで? 屋台は普段どこに置いてんの? 何パーセントくらい材料費に充ててんの? 総売り上げと儲けはどのくらい?」
 オーナーはたたみかけるように聞いてくる。

「ちょっ、ちょっと待ってください、あの、あんまりぼく、答えるわけにいかないんですけど」
 事実、フード・フェア内のルールで、部外者には一切のことを喋ってはならない、と禁じられていた。が、たとえそうでなくても、このオーナーには常識がない。
「教えて貰いに来てるんだから、そのくらい答えるってのが礼儀ってもんじゃないのかね」
 ヒクヒク顔の高牧が口を出す。

「ふふん、太田くん、君、経済的に凄く苦しいんでしょ? うちが全部、経費負担してあげてもいいんだけどね。そうだ、それがいい。仕込みも全部うちでやってあげるから、君たちは売るだけでいいよ。ここで作って、出来上がったやつを運んであげるからね。うちから給料出してあげるよ。それなら安心だろ? それにほら、田代くんがいるんだから、交代でやれば体も楽じゃない。そうしなよ、ね? よし、そうしよう」

「あの、待ってください」
「太田くん、君、ちゃんと智子ちゃんにお金あげてんの?」
「いえ、まだ、あの、そんな余裕がないもんですから……」
「そりゃひどい。ねぇ、それはひどいよ。あんないい娘、あんなに働かせといて、それは経営者としてはひどすぎるよねぇ」

「はい、分かってます。智子さんには、あの、どんなことしても……」
「あのなぁ、太田くん。あてもないんやろ? オーナーがこないに親切に言うてくれてるんやから、甘えとくもんやで」
 クソ田代、だまってろ!

「はい、でも、できるとこまでは自分でやってみたいと……」
「あのねぇ、太田くん、言っとくけど、もう二週間もしたらスクエアもアートセンターも、人っ子一人いなくなるよ。ねぇ、かあさん」
「そうね、去年なんか、もうそろそろ外歩く人なんか、いなくなってた頃よねぇ」
 オーナーの奥さんは、この間、赤ちゃんを出産したばかりである。

 人出がなくなると聞いては、さすがにぼくも動揺した。
「そうなってからじゃ遅いんだよ? 今だからうちも、手伝ってもいいと思ってるんだからさ」
「太田くんがあんまり頑張ってるものだからね、うちのお父さんも見てられないって、そう言うのよ」

「太田くん、甘えときやぁ?」
「はい、ありがとうございます。でも……」
「じゃ、こうしよう。智子ちゃんだけうちで働かせなさい。智子ちゃんも、今のままお金貰えないんじゃ困るでしょう?」
「でも、一人じゃやり切れないんで、はい」
「ちょうどいいよ、高牧くんの奥さんがいるじゃない。うちはどうせそんなに人はいらないからさ、高牧くんの奥さん、貸してあげるよ。奥さんも料理何でもこいだから、教えて貰いながらやればいいじゃない」

「……………………」
「あのなぁ、太田くん、それは我がままってもんやで、なぁ。人、働かせたんやったら、その分金、払わなしゃあないやろ」
「あの、もう少ししたら、きっと払えるようになると思うんで」
「そう、じゃあ、言っちゃおうかなぁ。実はね、太田くん、うちも屋台出そうと思ってるわけよ」
 (エ?)

「もうシティーカウンセル(市役所)の方からは、OKサインが出てるんだよね」
 (ナニ?)
「もう時間の問題なんだけどね、最後の一線でちょっと分からないところがあるわけよ。それを太田くんに教えて貰おうと思ってたんだけどね、アハハ」

 なんて奴等だ、とんでもねぇ。今もう一店日本食の屋台なんて出されたら、とてもではないが、ぼくに対応できるだけの経済力はない。つまり、このまま潰されるかそれとも軍門に下るか、どちらか選べと、こう言ってるわけだ。大事なレシピまで喋らされて、ぼくはなんてマヌケなヤツなんだろう!!
 ぼくは自分のあまりの迂闊さに、どうしようもなく怒りが込み上げた。

「ちなみにオタク、天つゆはどういう風に作ってるの? アハハハハ」
 ヒクヒク高牧! 許せねぇ!!
「一応、レシピは企業秘密ということにしてありますんで、すいません」
「あっそう。ちなみにうちの企業秘密のレシピはね、寿司酢は酢が強すぎるんで、寿司の粉を使ってるんだよ。味噌汁は粉末のインスタント。悪いね、アハハハ」
 悔しい。

「あの、明日の仕込みがまだこれからなんで、今日は帰ります」
「そう、じゃ、また遊びに来るといい。智子ちゃんに、仕事の話しといてね」
 悔しいよぉ、智子さん。
「さよなら」

 屈辱に耐えながら信長をあとにしたぼくの背中に、奴等の嘲りの声が聞こえる。
「なにが企業秘密だよ、バッカじゃねぇの? 天つゆの調合なんて、たかが知れてるだろうによ、アハハハハ」


 スクエアで一等地をせしめている、そのあおりであろうか。土、日のアートセンターでぼくが割り当てられていた場所は、ホントに情けなくなるほどに外れも外れ、屋台グループの塊からも一店だけ隔離された、人通りもまばらになる寂しい場所だった。

「そんなにオレは嫌われてるのか」
 と悲しい思いをしたのは、今は昔である。
 現在は立場が逆転していた。

 商売をするにおいて何処が一等地なのかといえば、それはすなわち、人々がより多く集まるところである。最初はポツンと、一店だけ離れた場所で営業していたため、あまり人は来なかった。それが、スクエアでだんだん話題になるにつれ、買いはしなくても、見物に来る人達が増えてきたのだ。

 鉢巻きをして、不思議な海草のシートを使って、クルクルとウナギに似た食べ物を作る男がいる。そのウナギのような食べ物は、男が輪切りにすると、いかにも綺麗で、食べてみればまた不思議にとても美味いのだ。こんな噂が街に流れていたのであった。

 食べてみるのは恐ろしいが、ひとつ見物に行ってみようじゃないかと、ビデオやカメラを持って撮影にくる人達も少なくなかった。そこで鮮やかに菜箸を使って、次々に天ぷらを揚げていく智子の妙技にも、皆、度肝を抜かれる。キウイの人達にとっては、あんな二本の棒っ切れで、器用にヒョイヒョイと細かい物をつまんでいくこと自体が、驚異的な出来事であったらしい。

 ぼくと智子の周りは常に観客に取り囲まれるようになり、ときには一息入れた途端、拍手喝采を浴びることさえもあった。
 この様子を、街のエンターテイナー達が見逃す筈はない。しかも都合のいいことに、ジャパニーズフードの周りには何もないのだ。人気の大道芸人達が、競ってはぼく達の店の周りで芸をするようになり、常に大勢の観客がその周りを取り囲んだ。

 フード・フェアの面々は、よほど面白くなかったのであろう。ある時、半強制的に、エンターテイナー達を自分達の店のエリアに引っ張った。しかし店の密集するその辺りでは、彼らは伸び伸びとした芸が出来なかったし、だいいち、大勢の観客が取り囲めるだけのスペースがなかった。そしてついに一人のエンターテイナーが、フード・フェアに抗議したのだ。
「オレ達はジャパニーズフードの隣でしかやらん!」

 これにはフード・フェアの代表者達も困った。エンターテイナー達は大事な客寄せである。ヘタにヘソを曲げられて、まるっきり場所を変えられることにでもなったら、それこそ大変な損害につながる。
「いいだろう。好きなようにしてくれ」
 そう言ったのは、ジョン・カービィだった。やはりここぞという時の判断は、ジョン・カービィに一任される。しかし、ジョンはそう言うやいなや、突然ぼくの屋台の目の前に引っ越してきた。

「よぉ、ユキ。今日からお向かいさんだ、よろしくな」
 これには皆も唖然とした。
「やられた!」
 と思ったことであろう。すかさずグリークフード(ギリシャ)のデミトリが、ジョンの並びに移動した。こういう時は、有無を言わさず先に動いた者の勝ちなのだ。しかもジョンにはもちろん、デミトリに文句を言える者はいない。ギリシャ人は(ジョンに言わせると)、マフィアのようにニュージーランドの魚市場を取り仕切っているし、デミトリはその中でも「顔」的存在なのである。リーサル・ウェポンのメル・ギブソンを思わせるその容貌は、理屈抜きの危険性を感じさせるには十分の迫力を持っていた。

 こうしてフード・フェア内に大移動が起こり、ぼくの屋台はアートセンターにおいても、にわかにグループの中心に位置することになった。これは同時に、フード・フェア全体にとっても有益な結果をもたらすに至る。

 ジョンとデミトリの移動によって、フード・フェアの位置的中心が、グループ内最強の売り上げを誇る、レバニーズフードのジョゼフの屋台に移った。ジョゼフの屋台はぼくの店の並びで、間にゆうに一店分以上の余裕はあるが、お隣りさんである。

 そして十メートルほどの道を挟んで向かい側に並ぶ屋台の両サイドに、三強のうちの残る二つ、デミトリのグリークフードと、ジェーンのカントニーズフードが配置された形になった。

 三強の屋台を頂点に持つ、形の良い二等辺三角形の勢力図が出来上がったのである。客の流れはスムーズになり、今まではどうも不振だったヘレンのフィリピンフード、センのタイフードなどは、三角形の勢力内に位置したことによって、そうとうに業績を伸ばした筈である。

 この地勢の利も生かしてか、ぼくと智子の屋台は、爆発的な売れ行きを見せ始めることになった。特に街中でろくに誰も見かけない分、アートセンターに人出が集中する土曜日、日曜日には、連日売り尽くし、収入にしても一日六百ドルを余裕で突破するようになったのだ。

 たとえば寿司も天ぷらも、大量に作り置きしていれば、その倍は出ていたのかもしれない。しかし「作っているところを現場で見せる」のは客寄せに重要だったし、体力的、技術的にもまだまだ未熟だったぼくと智子には、六百ドルを超える辺りが限界だったのだろうと思う。
「信長」の予言した二週間を過ぎても客足は衰えず、それどころか、さらに活気を増していく一方だった。


 信長といえば、さすがにジョンがぼくの目の前に引っ越してきたアートセンターでは最近あまり見かけなくなっていたが、あの屈辱の夜以来、スクエアでもアートセンターでも、毎日例のオーナー夫妻が、ジョン・カービィの所に何かを付け届けするのを、横目で見て知っていた。

 ジョンはまったく呆れるほどに堂々としたもので、オーナー夫妻が来た最初の日に、すでに事のすべてをぼくに教えてくれていたくせに、その後も何の臆面もなく信長の「好意」を受け続けている。

「おいユキ、話があるんだ」
「オレもだ、ジョン」
 ぼくは、信長に顔を出した日の翌日に早速アプローチしてきたオーナー夫妻から、あっさりと手土産を受け取った、ジョン・カービィに憤慨していた。

「あのなぁお前、信長って知ってるか?」
「うん、昨日、そこに呼ばれた」
「そうか。あの夫婦がよ、自分達も屋台を出したいって言ってんだけど、どう思う? あれ、いい人達だって思うか?」
「あ、あいつら汚いんだ。料理教えてくれるって言って、オレのレシピ喋らせといて、それでおいて、そんな、畜生!」

「ナニ、お前、レシピ全部喋っちゃったの?」
「全部じゃ……ないけど」
「マヌケだなぁ。ま、いいさ。いくらシティーカウンセルが『OK』て言ったって、奴等は店を出せっこないんだ。このオレが許可しなけりゃな。今日のところは、オレたちゃもうジャパニーズフードは一軒あるから十分だって言っといた。そしたら、じゃあお前がやめたら、自分達を入れてくれると約束してくれ、て言うから、そういうことにしといたぞ。それでいいな」

 信長の言った「最後の一線」とは、まさしくジョン・カービィのことだったのだ。
 それからジョンは、信長の動きについて、何かあるごとにぼくに教えてくれた。が、その一方で、信長からのアプローチも一切「ハイハイ、アリガト・ゴザイマース」と受けてしまうのだ。まったく大した図太さである。「善意の保管」とでも言いたいのか?

 しかし、ぼくが辞めたら信長が店を出せるという約束が交わされたとなると、いったいこの先、信長はどんな手を打ってくるだろう。油断禁物、気が気じゃないよ。


 店が繁盛するということは、非常に気持ちが良い。しかしその反面、日本食特有の食材の大量な調達が必要となる。それは、少しでも時間が余ったら、すべてそのために奔走しなければならないほど、骨の折れる仕事であった。

「お兄ちゃん、このお味噌汁美味しいねぇ。あたしが作るのより、うんと美味しいわぁ」
 味噌汁を飲みながら、日本の団体ツアーのおばちゃん達が絶賛する。
 秘密は味噌にあった。
「このお寿司美味しいわぁ。お醤油がまた凄く良いのよねぇ。天つゆなんてホント最高」
 その通り! さすがお客さん分かってるねぇ。

 醤油も海苔もワサビも、日本食の食材に関しては、すべてが超一級品である。「美味しんぼ」にでも登場してきそうな、「本物」の食材ばかりであった。それもその筈、ぼくの仕入れのルートは特殊で、実を言えば、パークロイヤルなどの一流ホテルの高級日本食レストランで使う食材を、ちょっとずつ横から失敬してきてしまっていたからなのであった。

 失敬するとは言っても、べつに盗んできているわけではない。ホテルに卸す大元の輸入業者にかけあって、毎週僅かずつだが流して貰うのだ。このコネクションはサキさん達から譲り受けたものである。そういうところは、彼女達の得意分野だ。

 しかしその代わり、まるっきり立場は弱かった。向こうの気分ひとつで、ぼくなんかいつ切り捨てても、相手としてはまるっきり痛くも痒くもないのである。
 だいいち、大手ホテルからの注文の余りを頂戴しているわけだから、普段から数量は揃わないし、ホテル側の注文が多いときなどは、一切まわして貰えない。毎日何度も何度も通わされた挙げ句、海苔が一枚も手に入らない、なんていうことも度々あった。

 そうなるとぼくは、街中のありとあらゆる健康食品売り場(海苔や醤油や味噌は、健康食品売り場で手に入った)や、アジアンフードショップなどを駆けずり回って、必要な物資を掻き集めなければならない。うまく大元から仕入れられれば一枚五十セント(それでもたけー!)で済む海苔も、街中の一般の店舗で買えば、八十セントは下らない(だから巻きずし一皿三ドル五十セントなんて、ほとんど儲けになっていないどころか、ときには赤字だったりもするのだが、それでも日本人には度々、このぼったくり野郎、と面と向かって言われた、トホホ)。

巻きずしは今や週四日の開店で、三百枚では不安なほどの売れ行きを見せている。(一枚につき三十セントの減収となると、三百枚では九十ドルにもなる)。そしてぼくの巻き上げるスピードが上がれば、それに比例してもっと数量が増すであろうことは必至である。巻きずしが売れれば売れるほど、ぼくはやり切れない思いを感じながらも、海苔探しに明け暮れた。


「今晩ミーティングをやるから、シドナムの魚市場の事務所に集まれ」
 日曜日のアートセンターでの営業を終えて、やっと一息ついたぼくと智子の所へ、サイアム・タイのリチャード・バージェスがやってきた。リチャードは三十そこそこのキウイなのだが、さすがに元肉屋だったというだけあって、体中が筋肉の塊というか、ちょっとスタン・ハンセン(プロレスラー)に似ているというか、とにかくめったやたらに強そうな男であった。

 彼はどんなときでも、金田一耕助がかぶっているような青い帽子をかぶっていた。何がなんでもかぶっていた。原因は誰もが知っていたのだが、
「あの帽子の下には卵が入っていて、もうすぐヒヨコになるんだぞ」
 とか、
「あいつは風呂に入るときでも、絶対帽子を脱がないんだ。木が生えてきちまうからな」
 とか、まったくいい加減な噂をしている者達もいた。だが実際は、リチャード・バージェスは、ジョン・カービィほどに見た目を割り切るにはまだ若すぎる、ということでしかなかった。

 しかし頭髪の問題というのは、その本人にとっては重大である。頭髪問題に悩んで一時低迷していたが、植毛によって自信を取り戻し、一躍ラグビーの国際プレイヤーに返り咲いた、という人もいるらしい。

 リチャードのワイフのオイ・バージェスはチェンマイ出身のタイ人で、後にぼくの親友となるテッドの実の姉さんである。しかしタイ人といっても、見た目はかなり中華系というか、まぁ日本人にもだいぶ近いタイプのなかなかの美人であった。この二人の間に生まれたソーニャは、まだ小さいが超! がつくほどの美少女で、将来がホントに楽しみである。


 大急ぎで洗い物を終えて、ぼくと智子がやってきたのは魚市場、つまりはギリシャのデミトリの本拠地なのであった。
「ミーティングって何やるんだろね。でもどーせオレ達にゃ分からないから、帰って寝ちゃいたいよねぇ」

 事務所にメンバーの全員が集まった。
 司会者席に座っているのは、インドフードのダイアである。ダイアはまるっきりのインド人顔をしてはいたが、少しぼくのイメージしていたインド人と違うところは、丸まると太っているということだった。狸の信楽焼きにそっくりだ。妙に甲高い声で喋る男で、それはいいのだが、こいつはジョンを上回るほどの皮肉屋で、その根っから意地悪そうな、インド人特有の落ち窪んだ目でギョロリと睨まれるのは、どうもぼくとしては不愉快だった。

 書記係としてタイプを打つのは、フィリピンフードのヘレンである。彼女はチャキチャキッとした感じの美人で、ダンナのレスとはかなり年齢が離れている。アートセンターではぼくの斜め向かいに店を構えているヘレンは、いつも大声で、
「ブライアン! なんてバカな子なの、お前は!」
 と一時も休まず叫び続けている。ヘレンとレスの末っ子であるブライアンは、フード・フェアの面々もほとほと手を焼く、どうしようもない腕白坊主だ。

 どうやら今日は会計報告会らしい。
 ぼく達は毎週、場代の他にフード・フェアの会費という名目で、ある一定の金額を出店した日数に応じて支払っている。そうして集められた資金を、お客用のテーブルを買ったり、掃除夫を雇ったり、ときにはエンターテイナーを呼んだりするために使っていたのだ。

 ぼくと智子はこの報告会があるまで、そんな事情は全然知らなかった。しかし、まぁ、どうせ自分達には口出しできないことなので、のんびり見物させて貰いましょう、と思っていたのだが、初っぱなから会議は険悪なムードに包まれた。

 デミトリが、ジョンの作成した会計報告書に異議を申し立てたのだ。しかも最初から恐ろしく喧嘩腰である。
「オレは銀行に行って、グループの積立金の残高を調べたんだ。この報告書にはない大金が、そっくりどっかに行っちまってる。なぜだ、ジョン!」
「そんな筈はない。よく見てくれ。会計に狂いはない筈だ」
「いいや、オレは調べたんだ。騙されないぞ、ジョン」

「そうだ、ジョン、はっきりさせて貰おうじゃないか」
 デミトリに加勢したのは、集金担当のチェコ・スロバキアフードのラダである。ラダとワイフのズデナは、子供を連れて、このニュージーランドに亡命してきたという。当時のチェコ・スロバキアにおいては、子供を勝手に国外に連れ出すということは、かなりの犯罪になったという話である。
 そのアンドレ・ザ・ジャイアント(プロレスラー)を思わせる巨体を揺すって、ラダがジョン・カービィに迫る。
「みんなもデミトリの話を聞いてくれ」
 すっかりラダはデミトリの親派だ。

「さて、ジョン。じゃあ、まず細かいところからいこうか。ここの集計が二十ドル足らないな。何故だ、なぜだ、ナゼダ? ここの買い物も、オレが調べた値段から考えて十ドルは足らないぞ。何故だ、なぜだ、ナゼダ?」

 デミトリはこの調子で「何故だ、なぜだ、ナゼダ」、つまり英語で「WHY WHY WHY」を繰り返した。その積み重ねで、デミトリが足らないと主張する金額は相当な額になった。しかし、デミトリの主張は日本などでならまだしも、当時のニュージーランドでは、まるっきりナンセンスなものだった。はっきりした流通経路もまだ確立されていなかったこの国では、物の値段なんてものは、その店その店で極端に違ってくる。

 たとえ同じ系列のチェーン店に入ったって、店が違えば、同じ品物でも全然値段が違ったのだ。タイミング次第では、倍額以上差が出るということもザラであった。グループのために色々な物を購入していけば、どんなに誠実に支出を管理しようと思ったって、他の時期、他の店舗で調べた人間と、十ドル、二十ドルの差が出てくるのはどうしようもなかった。

 激しい競争を生き残ってきたのだ。デミトリだって、そんなことは骨身に染みて分かっているに違いない。しかしそれでも「WHY WHY WHY!」と食い下がる。
 こんな子供じみた理屈に心底納得させられてしまったラダとズデナは、ホントに気の毒である。おおかたデミトリが親派を増やすために、まずは閉鎖された社会出身でまるっきり世間知らずの、ラダとズデナを洗脳してしまったのであろう。

「金もできたし女もできた。そしたら次に欲しいのは権力だ、とまぁ、そういうことだよな、こりゃ」
 なぁ? と智子に耳打ちする。

 ジョン・カービィにあらぬ疑いをかけて追い落とせば、次にボスの座におさまるのは、ジョンの不正を暴いたデミトリだ、とこういう簡単な図式である(後で聞いた話だが、以前デミトリが「フード・フェアで一番頭がいいのはこのオレだ。だからオレこそがボスになるべき男なのだ」、とサキさんに漏らしたことがあるらしい)。

 デミトリの猛攻はやまない。
「集計の操作ができるとしたら、あんただよなぁ、ジョン。銀行のフード・フェアの口座から、金を引き出せるのもあんただけだ。他のメンバーがそれを出来ないのは何故だ? え? あんた一人がオレ達の金を握ってるわけだな、ジョン。使い込んだって誰にも分からねぇよな、ジョン!?」

 黙って聞いてはいるが、さすがにジョンの両目が怒りで吊り上がっている。
「ここの集計で、二十ドルも足りないのはどういうことだ!? あんたが使い込んだんじゃないのか、え? ジョン!」

「ちょっと待て、デミトリ! 今、何と言った!?」
 突然興奮して立ち上がったのは、レバニーズのユセフ・ディア(通称ジョゼフ)だ。真っ赤に顔を上気させて、激怒している。
「そこの買い物をしたのはパトリシアだ。オレのワイフだぞ、畜生! お前はオレのワイフが、仲間の金をネコババしたって言うのか、畜生。畜生、畜生! オレ達はたかが二十ドルの金になんて、目もくれねぇぞ。そんなに二十ドルが欲しいんなら、くれてやらぁ!」

 激昂したジョゼフは、サイフを抜き出してデミトリの目の前に叩き付けた。が、もう一度拾って二十ドル札だけ引き抜いて、それを叩き付けた。
 ワイフを侮辱されて怒りに震えるジョゼフはいかにも気の毒で、何か声をかけてあげたかったが、当時のぼくの英語力では、なすすべがなかった(その間にジョンときたら、ジョゼフの二十ドル札をヒョイとつまみ上げると、「サンキュー」と言って金庫にしまってしまった)。

 ジョン・カービィだけを責めるつもりが、思わぬ方向に飛び火してしまったので、デミトリも「しまった」という面持ちだった。
 とにかく収拾がつかなくなってしまったので、その夜のミーティングは、そこで終了した。


 最初のミーティングの夜以来、フード・フェア内には、いつも険悪なムードが漂っていた。スクエアでもアートセンターでも、デミトリは所かまわずジョン・カービィに口論を仕掛けた。
 ミーティングも、週に二~三回は開かれる。毎回がデミトリの「WHY WHY WHY!」の繰り返しで、皆ホトホト嫌気がさしていた。

 グループのメンバー達の間でも、それぞれに色々な情報が交換された。その情報交換の場は、アートセンターでのぼくの店の横、ということが多かった。ちょうどどの屋台からも離れているし、どうせぼくが話を聞いていたところで、何も理解は出来ないだろうと思われていたからだ。

 フード・フェアとは全然関係のない人達も、ぼくの店に、よく世間話をしに来るようになっていた。ぼくになら何を話しても分からないと思っているのか、あるいは人畜無害に見えるのか? 何か情報を持っていて、誰かに喋りたくってたまらない人達が、次々とやってきては、一方的にお喋りをして帰っていった。「王様の耳はロバの耳」の穴ぼこのようなものだ。ぼくは分かったような分かってないような、でもやっぱり、分かっていたりもしたのである。


 週が明けて、例の日本食の仕入れ元に行ってみると、いつもはこれでもかというくらいに意地悪で強気の筈の良子さんに元気がない。良子さんは日本語の教師をしながら、キウイの夫と共に食品の卸業を営んでいる。サキさん達の友達であり、またニュージーランド南島に入ってくる日本食は、ここが一手にさばいている、ぼくにとっては命綱的存在でもあった。

「太田くん、今日は何でも好きなだけ持っていっていいわ」
「えー? ホントですかぁ? いいんですかぁ?」
「いいわよ。今週は余ってんのよね」

 少しだけ考えた風な様子の後、良子さんが切り出した。
「太田くん、実はね、今まで入れていた大手の日本食レストランが、全部いっぺんに仕入れを断ってきたのよ。何の前触れもなしによ。ホラ、うちも自転車操業でやってるでしょ? もう、どうしたらいいのか分からなくって……。太田くん、何が起こってるのか、情報持ってない?」
「あっ、そりゃ信長ですよ。間違いないや」

 ぼくはいつの間にやら、街の情報通になっていた。いろんな人があらゆる情報を、わざわざぼくの屋台まで喋りに来るのだ。英語だからほとんど分からないといったって、頭には入ってる。何かキーになる事柄が分かったり事件が起きれば、あっという間に「ピン」とくるのだ。

「信長が輸入を始めるって噂は聞いてましたよ。それに、あそこの田代って若いのが、最近あちこちのレストランに出入りしてるって話もね。ぼくもここのこととか、仕入れ値のこととかしつこく聞かれたし……」
「やっぱり信長か」
「知ってたんスか?」
「いや、みんな教えてくれないんだけどさ、あそこくらいしか考えられなかったのよね」
「裏で手、まわすの得意ですからね、あそこは」
「太田くんも苦労させられたらしいじゃない? そっか……。ありがとう。また何か分かったら教えてね」
「ハイ、でも、まぁ、どうせ信長は長持ちしませんよ。やり方が汚いっスからね。しばらくはたいへんだと思うけど、頑張ってください」
 ふーん、信長め、しばらくおとなしかったと思ってたら、また悪さを始めたか……。
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