第2話「戸石崩れ」

文字数 18,865文字


  戸石崩れ


                  一


 小山田家が物事の方針を定めるとき、必ず四長老の協議が必要とされた。四長老家とは、小山田宗家の縁戚に連なる一族から構成される。弾正家・衛門佐家・掃部家・兄弟家がこれにあたり、更に、四長老家と宗家からは一族の指南役が選出された。これを〈大老名〉と呼ぶ。その大老名が
「これ」
と決定したことには、たとえ宗家といえども逆らえない。
 そういう掟だ。
 藤乙丸を武田家に出仕させることを小山田信有が独断で定めたことは、勧進能を終えてすぐに四長老家で話題となった。このことは直ぐに参集のこととなり、信有は四長老家から激しく叱られた。
 四長老家の認識は、小山田家の特異性に根差す。
「小山田家は武田家の家臣にあらず、盟者である」
という強い意志によるものだ。対等な盟約者である以上、人質に等しい人材供出は迂闊である。その誹りを、信有は一笑に伏した。
「実際は従属さあ。自治の権限を残して貰っただけでも有難いのに、まだ欲深けえ事(こん)を仰せか?」
 信有の言葉は現実的だが、小山田家の本来から云えば暴論である。
「ええから加減にし。宗家がその認識では、郡内の有り様が定まらねえ」
 小山田掃部が低く呻いた。
「しかし、事実ずら」
 そうなのだ。武田晴信の代になると、甲斐の内政は安定した。この安定は相模に接する郡内の安定にも繋がった。領内で内乱めいたことが起きないのは、武田に従っているがゆえなのだ。そのうえで、郡内独自の建前を晴信は許している。甲斐は〈甲州法度之次第〉により、細かいところまで法整備された。度量制度で〈甲州枡〉を定め、支配に及ぶ地域はこれを守っている。そのうえで晴信は、郡内だけに〈郡内枡〉の使用を認めている。
「武田は、郡内の独自性を認めているずら」
 四長老家はそのことを自負していた。
 しかし、そのようなものは統治の手段に過ぎない。そのことを信有は弁えていたし、四長老家は勝ち得た権利と錯覚している。
「とにかく、藤乙丸は次の代の四長老家となるべき者(もん)だ。武田に仕えていては、聞こえが悪い」
「くどいのう。武田で学んで帰りゃあいいずら。世に無駄な事(こん)など無えし」
 信有は遂に四長老家を論破し、己の方針を貫いた。
 それほどまでに、信有は藤乙丸を嫌っていた。その私的感情を知るからこそ、これ以上はと、四長老家も引き下がらざるを得なかったのだ。無理に引き戻したところで、信有は藤乙丸に害を為す。それに、色々と無秩序な藤乙丸の個性を、四長老家は持て余していた。
「厄介払い」
が出来たことは、互いの利でもある。
 建前とは面倒なものだ。
 しかし、その建前が秩序を支える。体面さえ保てば、あとは詭弁で繕えた。この口論は、狡い大人たちの通過儀式であった。

 藤乙丸あらため小山田弥五郎。
 決まり事の縛りは窮屈だったが、存外、武田家近習という仕事は、彼の性分に合っていたかもしれない。弥五郎は生来、器用だ。郷に従う処世術もさながら、理に適うものを学び吸収する力と、それを自分で考える応用力に長けていた。
 躑躅ヶ崎館は甲斐の行政府である。この館を北の要とし、碁盤目に街区整備された町並みは、管理するうえで都合もいい。管理がいき届けば、暮らし向きもよくなる。自然と商工業が発展し、物流が大いに活性化する。
 これは郡内にはない、城下の姿だ。
 地形の違いこそあれ、これを応用すれば、谷村だって更に活性化する筈である。が、今の立場では詮なきこと。ならば、ここで多くを学ぶしかない。無駄なことなど、世にはないのだ。その前向きな陽性は、日を追うごとに近習仲間に伝播し、いつしか弥五郎は人気者になっていた。
 四月三日、小山田信有は向山又七郎を通して晴信へ申請を行った。それは、美濃商人・佐藤五郎左衛門尉に馬三疋口の武田領内通行許可を与えたしというものである。当時の美濃は斎藤道三の支配する国だ。そこの商人に武田領内の通行を許可するということは、内情を視察されることを意味する。
(蝮も、武田を気にするか)
 晴信は斎藤道三が東国の情勢を探っていると判断した。この佐藤五郎左衛門尉なる商人は、甲斐のみに留まらず、やかては関東へ赴くだろう。多くを見て、その報せから、道三は何かしらの行動を取る筈だ。そのとき高く値踏みさせることは、武田にとっても利がある。
 まずは、当方の器を大きく見せつける必要があった。
「高白斎を呼べ。それに、弥五郎もだ」
 程なくして、駒井高白斎と小山田弥五郎がきた。晴信は両名に使い番を命じた。
「委細は書状にある。美濃商人・佐藤五郎左衛門尉の通行する先々を整然とし、せいぜい郡内の豊かさを見せつけてやるべしと出羽守に申しつけるべし」
 弥五郎にとって、出仕後初めての郡内帰省だった。里心がつくかどうか、これは晴信なりの人物鑑定でもある。心が浮ついていれば、もうここへ戻ることはあるまい。
(さて、どうなることか)
 駒井高白斎は、内外取次を行う有能な人物である。この使いは建前で、実は弥五郎の鑑定を任されたことは云わずがものだ。一切の私情を差し挟まぬ鑑定人は、郡内における弥五郎の言動所作をすべて見逃さないだろう。
 しかし、晴信の意地悪な試みは裏切られた。翌早朝、両名は躑躅ヶ崎に平然と戻ってきた。さっそく晴信は、弥五郎の様子を駒井高白斎に質した。
「出羽守殿には、父親の情がござらぬな」
 信有は久方ぶりの我が子に労いの言葉もなく、事務的な薄い応対をするのみだったという。領民には人気がある領主だが、それにしても冷めた父子関係だと、駒井高白斎は事務的に応えた。
「奴は、里心は出たかな」
「些かも」
「まことか」
「あんな居心地の悪いところに、よくも長いこと我慢できたものじゃ」
 晴信は弥五郎を呼ぶと、使い番の役目を労った。
「帰りたくなったであろう」
「ここの方が、ずっと面白いです」
「里心がないと申すか?」
「そのようなものなど」
 ここには学問が溢れていた。郡内にいたら学べないことばかりだと、弥五郎は目を輝かせた。
 晴信は愉快だった。この件を機に、晴信は弥五郎を重用した。

 当時の常識のひとつに〈衆道〉がある。すなわち男色であり、引いては心身ともに主従の契りを体現する、ごく自然の行為であった。晴信はその道も、達者であった。その晴信が、一一歳の弥五郎を自分色に染め上げたいと思うのは、当然の欲である。が、それを我慢しているのは、理由があった。
 近習・春日源五郎の嫉妬に悩まされたのは、つい二年も前のことだった。一度は詫び状で許して貰ったが、つい二度目も犯した。このときは大騒ぎだった。思い出したくもない。そのうえで三度も嫉妬に晒されたら、今度は寝首すら危うくなる。
 晴信は男色も好んだが、女色こそ達者であった。女犯なら源五郎も嫉妬しないし、華奢な肢体を組み敷くときの快感は、男だけの特権だ。それに、子も出来る。子は宝であるし、多くて困ることはない。
 春日源五郎は弥五郎の面倒をよく見ているが、それは年長の指導だけではない。晴信の手出しを妨げているだけの、劣情そのものだ。もっとも野に育った弥五郎には、恋情など一度も覚えたことはない。純粋な子供である弥五郎は、持った才覚で、単純に人を惹きつけてきた人間だ。恋情などまだまだ早かったし、理解も出来なかった。
 この頃に、晴信は春日源五郎を使番として更に重く用いた。源五郎は利発であり、山本勘助からもよく学んでいた。ゆくゆくは足軽大将にも取り立てられようかと、噂される逸材だ。事実、二年後には足軽大将となるのだが、これは異例の出世といってよい。
「百姓の倅が出世を寝取った」
 そんな陰口さえあった。百姓から武士の大将に立身したのは秀吉くらいだと、余人は思う。さにあらず。古今東西、このような実例は少なくない。そして、この春日源五郎もまた、石和の百姓の倅なのである。百姓の倅が、やがては武田家最大の動員家臣を抱える大将になるのだから、戦国の世とは実に面白い。


                  二


 四月の半ば、小山田信有は病付いた。このことで、郡内ではよからぬ風聞が立った。
「駒橋に囲い置く寵妃に、毒を盛られている」
 かつて弥五郎も大善寺でこれを指摘した。しかし、寵姫可愛さに、信有はこれを信じなかった。それから歳月が過ぎ、幾度も信有は逢瀬を重ねた。微量の鳥兜も、少しずつ摂取を続ければいつかは病に伏せる。それを続ければ、やがては死に至るだろう。女ならではの、古典的な暗殺の術だ。
 小山田家中でも、このことを疑う者はいる。
 しかし、男女の欲とは、すべての不都合を認めぬ厄介なものだった。
 この女性の元夫は滋賀城主・笠原新三郎清繁という。佐久一帯の反武田勢力の中核として、笠原清繁は関東管領・上杉憲政と組んだ。しかし、晴信は抵抗勢力の望みである関東管領の軍勢を破った。結果、佐久の抵抗勢力は次々と武田に下った。激しく抵抗する笠原清繁に、晴信は容赦しなかった。
 一罰百戒。
 過酷な仕置として、婦女子は遊女として金山に売られた。ただ一人、清繁後室だけが、恩賞として小山田信有に与えられたのである。
 志賀城攻略は、その家臣に恨みを残した。結果、彼らは村上義清を頼った。志賀城残党は戸石城に籠もり、武田に抵抗した。その村上義清によって、晴信は上田原の敗戦を覚えた。
 晴信にとって、村上義清は忌むべき存在だ。この怨嗟の因果はまだ継続しており、その渦中、小山田信有は病付いたのである。
 四月末より翌月三日にかけて、桂林寺では大般若経の転読を行われた。これは、小山田信有の病平癒に祈願を意味する。この祈願が意味するのは、ふたつ。ひとつは信有の病は世上が思うより重いということ。もうひとつは、弥三郎に次代の責任が課せられたことである。平癒しようとするまいと、政は足を止めることは出来ない。
 正月以降、吉田を中心として疱瘡が流行し多くの人が死んだ。医術の未熟な中世における治療法は祈祷に頼るほかなく、その結果次第で、領民は為政者を信奉もすれば非難もした。幸いなことに、弥三郎は信有に好かれていた。多くの公式な場に同伴し、形式的なことを目にしてきた。真意は別として、どのように振る舞うことが当主であるかを、一応は承知している。
 ひとつ、問題がある。
 小山田家は甲斐国における北条取次役だ。他国と接する窓口ともなれば、郡内自治の許容のみならず、多分に武田の指図も加わる。小山田信有の見舞いとして、駒井高白斎が派遣された。病床の信有の顔色は優れない。しかし、信有の口から出る言葉は、希望的なものだった。
 が、人物鑑定に長ける駒井高白斎の目は誤魔化されない。
「ところで、駒橋の寵姫は、如何?」
 駒井高白斎は涼しい表情で質した。
「三日と開けずに見舞いに通う。岩殿の清水を汲んで、わざわざ持参するのじゃ」
「ほほう」
「あれは、いい女ですぞ」
「さても、さても」
「御館様にもよろしくお伝えあれ」
 信有の笑みに邪気はなかった。
 屋敷を辞すると、駒井高白斎は番兵に
「四長老家の者に会いたい」
と告げた。取次ぎにより小山田掃部がすぐに応じた。
「笠原の未亡人が当主に毒を盛っていると聞いた」
「それは、噂でしょう」
「噂ということは、知っていたのだな」
「噂ですから」
 迂闊なと、駒井高白斎は舌打ちした。
「いいか、差入れの水を出羽守殿に与えてはならぬ。噂なら、まず疑うところから始めよ。大事になってからでは遅すぎる」
「は」
「御館様はそのことを案じておるのだ。頼むぞ」
 駒井高白斎は強い口調で、小山田掃部に囁いた。恐らくこの男は何もするまい。駒井高白斎はそう思ったが、これ以上の口出しは出来なかった。谷村から岩殿城へ赴き、城番役を集めると
「小山田家のこと、こののち如何なることでも報せよ」
と念を押した。岩殿城は郡内にありながら武田の出城であり、ここの番兵は交替で国中から詰める者が大半だ。与力で小山田家中も入るので、他愛のない噂話さえ容易に耳にできる。ここが情報源となるのだ。
 しかし、駒井高白斎は実に狸だ。
(出羽殿がこのまま亡くなった方が、武田にとって都合がいいかもしれぬ)
 と、腹の底ではそう思った。庶兄の弥五郎は掌中にある。新たに当主となる弥三郎を手懐ければ、郡内への介入は容易となろう。当時、武田晴信と北条氏康は正式な和睦を為していない。北条と国境を接する郡内は、緊張の糸で張り詰めた忌み地でもある。未熟な当主では困るというのが、武田家の本音だった。
 後顧の憂いを抱いたまま、武田家は信濃へと軍勢を進める準備に余念がなかった。


                  三


 六月一五日、武田勢は信州深志平を攻めた。林城で抵抗する信濃守護職・小笠原長時は味方の裏切りが続出し、籠城もままならぬと、城を捨て逃亡した。晴信は労せずして林城を接収すると、これを破却させた。
「鮮やかなものですな」
 兵の耳に聞こえよがしに、武田信繁が声を挙げた。
「敵が戦わずして逃げることはめでたきこと。武田の軍勢が強き証じゃあ」
 信繁の言葉に、兵たちが勝ち鬨を挙げた。
 晴信はにやりと笑い、信繁をみた。信繁も小さく頷いた。
 士気高揚を煽る駆引きは予定の内だ。晴信の軍事行動は、内応者工作が熟したときに発する。林城の工作は、馬場民部少輔信房と山本勘助が地道に継続した賜物だろう。これは上田原の教訓であり、迂闊の戒めでもあった。
 軍を用いるとき、既に勝敗は決していなければならない。
「民部、これへ」
 馬場信房は晴信に新たな拠点となる深志城修築を命じた。
「この深志平は、そなたに任せる」
「勿体なき」
「民部は父の代より苦労した者にて、報いるのが我が意なり」
 馬場信房は四年前、断絶していた武田家譜代・馬場家の名跡を継いだ。元は武川衆の与力だから、これは破格の厚遇だ。周囲からの妬みもあっただろう。しかし、晴信は才覚ある者を抜擢する英断を多く実行し、やる気のある若者を発奮させた。
 馬場信房は晴信初陣にも従い、忠実な男だった。それだけでなく、探求心も旺盛である。山本勘助と組ませたことで、この者は調略の術を学んだ。今回の城普請を任せたのも、縄張りの秘訣を勘助から会得させるためだ。
 とにかく人材を育てることに、晴信は妥協をしなかった。
 深志城鍬立ては七月一九日、総普請は二三日より開始された。
 この戦いに、小山田勢は参陣している。が、確たる戦果を得るに至っていない。それは、機の熟した出兵であるとともに、当主である信有が病床にあることが理由だった。ようは、数合わせの参陣といってよい。
 ここで晴信は、運命を狂わせる選択をする。
 林城を落としてすぐに、小県の真田弾正忠幸隆へ一通の書状を発した。思えばこの瞬間から、晴信は失敗の一歩を踏み出したと云って過言ではない。
 この一文を抜粋する。

     其の方年来の忠信、祝着に候
     然らば本意の上に於いて
     諏訪方参百貫并びに横田遺跡上条
     都合千貫の所これを進し候
     恐々謹言
      天文十九庚戌
     七月二日 晴信
        真田弾正忠殿

 真田弾正忠幸隆は元々この地方の豪族だ。武田信虎の頃にこの地を追われて、旧領復帰の夢を賭けて晴信に仕官した人物である。その真田幸隆に戸石城攻略の武功を求め、恩賞も破格と嘯くあたり、晴信はこの城攻めに楽観的観測を抱いていた。
 晴信が兵を進める選択をした理由は、小笠原勢があまりにも不甲斐なかったことによる。勝って兜の緒を締めよ、この慎重さを一瞬でも忘れるあたり、晴信もまだまだ若かった。
 この頃、村上義清は信州中野の領主・高梨刑部政頼と対峙していた。そのため本拠である葛尾城から動けずにいた。晴信はここに目をつけた。村上義清が動けない隙を突いて、戸石城攻撃を計画したのである。
「戸石城へ兵を進めよ」
 戸石城は村上義清の居城だ。小笠原勢の一部は、そこへ落ちたという。士気のない兵を抱え込めば、城は全体的に萎えるもの。それに、村上義清には上田原で敗戦し、その雪辱を晴らしたい。この感情が、晴信の冷静をどこかで忘れさせた。
 兎にも角にも、ここを制圧すれば、東信濃は完全に武田の支配下となる。
 気が逸るのは、無理のないことだった。

 戸石城は要害だった。東太郎山の尾根上に築かれ、本城を中心に北の枡形城・南西の米山城・南の砥石城などを含めた複合城郭である。西側には神川が南西へ流れ、千曲川と合流する。上州街道は真田郷を経て、鳥居峠を越えると上野国吾妻郡に至る。千曲川沿いに下流へ向かうと、埴科郡を経て善光寺方面へ至り、逆に上流へと遡れば佐久郡を経て上野国や甲斐国へと至る。
 東信濃の拠点、まさに〈扇の要〉のような立地と称して憚りない。
 戸石城は小城である。しかしながら、東西は崖に囲まれ手出しが適わず、攻められる箇所は砥石の如き南西の崖しかない。ゆえに戸石城を〈砥石城〉と称することもあるが、あながち間違いとは云い難い。
 戸石城へ向かうにあたり、晴信は伊那方面からの伏兵に備え、下諏訪塩尻口に武田信繁・穴山信友・日向是吉および小山田勢を留め置いた。深志築城のため、軍師である山本勘助も留め置いた。
「弥五郎、合戦を本陣よりしかと学べし」
 武田信繁や山本勘助が、口々に告げる。
 小山田弥五郎は、このとき晴信近習のひとりとして本陣御傍衆に属していた。林城攻めでは得るものが見えなかった若者の目は、戦場の空気を欲していた。その気負いを見透かしたからこそ、信繁と勘助は言葉を掛けたのである。
「何か気付いたら、深志まで知らせよ。おぬしの書状には、必ず目を通すでよ」
 勘助の言葉が嬉しかった。
 八月五日、長坂虎房が先陣で発った。その先陣が和田城へ迫ったのは一〇日。武田勢が迫るのを恐れ、和田城兵は戦わずして逃亡した。この和田城に晴信が入城し、周辺の状況を探らせた。佐久郡にかけて抵抗を示す者はいなかった。以後、『高白斎記』の記述によれば、一九日に長窪へ御着陣し、二四日に今井藤左ヱ門、安田式部少輔両名に戸石城の斥候をさせている。
 八月二八日、武田晴信は戸石城に近い屋降に布陣した。晴信の不運は、このとき、戸石城の士気が異常なほどに高まっていたことだろう。ここには、志賀城攻めで逃れた多数の兵が籠もっていた。彼らは落城の際に蒙った非道の数々を記憶している。
 武田への怨みが強い。
 死をも恐れぬ死兵と化して、晴信の御級を討つことだけを願っていた。臆病風の小笠原勢は、この意気に触れて、生き返ってしまったのである。
 そのことを、晴信は未だ知らない。
 弥五郎は終始本陣にあって、息が詰まりそうだった。兵糧から干飯を掠めて、千曲川の見える土手に腰を下ろした。
「おい」
 声がした。
「おい」
 声の主は、見覚えのある印地だった。
「おお、なんだ。お前(まん)、信州まで来ていたのか?」
 弥五郎は干飯を差出し、勧めた。
「あんたは武家のくせに変わり者だな。みんなワシらを嫌うに」
「いや、嫌う理由が分らないんだ」
 印地は黙って干飯を一握り頬張った。その御礼だからと、志賀城の兵が戸石城に籠もっているという情報を提供した。
「志賀城というと、親父の寵姫がいた城だな」
「あの生き残りは、誰もが武田を憎んでいる。御方様を寝取ったということで、小山田も憎んでいるぞ。ここに郡内の兵がいなくてよかったな。奴らは、真っ先に攻めてくるだよ」
 弥五郎は意味もなく不安を覚えた。
「退くが得か?」
「しらねえ、オレは武家でないじゃんか」
「そうだな」
 残りの干飯をすべて差出し、弥五郎は急いで本陣に戻った。印地から聞いた言葉を、晴信は信じようとはしなかった。
「埒外の漂白民を、儂は信じない」
 それならば、仕方がない。
 が、胸騒ぎがした。ふと、勘助の言葉を思いだした。弥五郎は晴信の伝言と偽り、深志の山本勘助へと結び文を発した。勘助がこれを目にしたのは二日後のことである。
「志賀城……」
 人の恨みは容易に晴れぬ。勝った者は忘れるが、敗れた者は生涯の怨嗟を抱く。これが世の常だ。人の業をよく知る勘助なればこそ、直感のように、黒い闇のような悪寒を覚えた。
 この結び文は晴信の意ではない。それくらいのことは看破している。が、捨て置けぬ重要なものだ。弥五郎の不安は、決して間違いではない。
(小僧め、いい勘をしている)
 勘助は晴信が危険だという結び文を用意し、ただちに援軍あるべしと、塩尻の武田信繁へ発した。信繁は聡明だ。勘助の危険という意を、疑いもなく信じた。と同時に、調略が行き渡るまで無理は禁物という諫言を文とし、別途、晴信へ宛て発した。
 援軍が発ったのは、九月三日。
 このとき既に、武田勢は戸石城を攻めている。それも、戸石城の際まで陣を寄せるといった、一見、優勢とも見てとれる状況だ。しかし、このときになって、晴信も違和感に気付きつつあった。
 戸石城の異様な士気。
 籠城にありがちな悲壮感も、勝ち気に逸る高揚感もない。ただただ、波のない真夜中の泉が如く静かなのだ。それでいながら、射るような殺意は、尋常ではない。
「弥五郎」
 晴信はいま一度、印地の言葉を訊ね、考えた。
「志賀城の残党か……」
 かつてこれを陥落するために晴信が行った術は、一罰百戒に似た仕儀だ。志賀城を血祭りにすることで、近隣は戦わずして降伏した。それほどまでの非道を強いて行った。一族を絶やされた縁者の恨みは凄まじい。落城より逃れ出た兵一人ひとりが、怨念の塊といってもよい。
 五日、信繁よりの密書が届いた。
 晴信はじろりと、弥五郎をみた。
 さしずめ勘助に伝え、それが信繁を動かしたのだろうと、晴信は洞察したが、それ以上を責めようとは思わなかった。事態は、泥沼に踏み込んだ焦りにも似て、進退の迷いさえ覚えていた。
「調略なき山城に、力攻めは徒労ずら」
 晴信は軍議を開くが、退く意見は僅かのみ、たかが小城と侮る声が大半であった。更に不幸なことに、八日、信繁からの援軍が到着した。撤退させるための援軍である。が、戸石攻めの諸将はこれを誤解した。
「いまこそ、攻めるとき」
 諸将は城攻めにこだわった。
 晴信は強引にでも撤退すべきか、迷った挙句、それが出来なかった。


                  四


 九月九日、戸石城への総攻撃が開始された。
 が、結果は散々だった。
 多くの兵の命が奪われた。このときになって、逸る武田勢はようやく悟った。迂闊に背を向ければ、怒涛の勢いで城兵が肉薄する〈手の内〉に引き擦り込まれていたことに。膠着のなか、退却の機を睨みながら、気付けば九月も終わろうとしていた。兵糧も厳しくなっていた。
 山本勘助が参じたのは、そんな頃だった。
「このたびは潔く敗けを」
「認めておる。立て直しが寛容じゃわ」
「孫子曰く、兵とは國の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからざる也。とにかく払暁には兵を退いて下され」
 晴信は力なく頷いた。
 勘助は武田に与力した清野清寿軒を招き、密談と称して二人きりになった。清野清寿軒は善光寺平海津を拠点とする村上氏の有力被官だが、今回、早々に武田へ与した。村上義清と高梨政頼が争っている最中に属したことが、勘助には解せなかった。
「村上と高梨が和したことをいち早く進言したのは、その方と聞く」
「いかにも」
「どこからの情報か」
「里より」
「これにより同心する寺尾城が手薄になるとも進言したな。そして、援軍を進言したのも、そなただ」
 じろりと、勘助は清野清寿軒をみた。隻眼の奥から射る視線は、あらゆる偽りをも見抜く力強いものだった。
「この手薄で、武田勢はいよいよ動けなくなった。一〇日もここに釘付けにした目的は、村上本隊を待つためか?」
「滅相もない!」
 全身から汗を吹き出しながら、清野清寿軒は否定した。が、勘助の情報によれば、村上義清がすぐにでも軍を再編して出陣できる状態であることは明白だ。その動きは、奇しくも寺尾城救援で兵を割いた頃から一致する。
 清野清寿軒は言葉を発することが出来ない。
「このまま村上に付くか?」
 勘助の問いに、清野清寿軒は沈黙した。
「非がないと云い切るか」
「それは」
「ならば、しんがりに加わる覚悟はあるな」
 清野清寿軒は目を丸くした。
 これは踏み絵だ。もし村上義清に内通すれば、功第一の情報だ。しかし、晴信が逃げおおせたら、清野清寿軒は武田全軍に滅ぼされるだろう。武田に臣従するか、叛くか。
「答えぬか」
 勘助はじっと睨んだ。
 拒めば、きっと殺される。しかし、応じてよいものか。
「したがいます」
 清野清寿軒は頭を下げた。この場で命を削ることは無益と悟ったのである。

 戸石撤退は『高白斎記』によれば

    小辛酉、卯刻、御馬入れらる。御跡衆 終日戦う。酉刻 敵敗北。
    其夜 望月の古地御陣所。終夜雨。

とある。払暁撤退の予定通り、卯刻(午前六時)、武田勢は陣を払い後退をはじめた。一〇月一日は新暦に換算すると一一月一二日頃にあたる。現在の気象に置き換えると、長野県の日の出はおよそ午前六時二〇分前後、つまり陽が出る前に相当する。既に薄暮より明るい状態であり、戸石城から見下ろせば、武田勢が退いていく姿は一目瞭然だ。
 しんがりの中核は、信虎の代より功のあった足軽大将・横田備中守高松である。そのしんがりが支えるなか、逃すまじと肉迫する戸石勢から逃れるため、武田勢は後退を急いだ。
「退くな、退けば斬る!これで功を為せば、この戦いの一番手柄よ」
 横田備中守高松は怖じ気づく兵の士気を煽った。
 この足軽大将は、甲斐の人間ではない。近江国甲賀の出で佐々木一族六角氏の家臣であった。『甲陽軍鑑』によると、信虎の代に武田氏へ仕えたという。信虎は戦さ巧者である他国浪人を多く召し抱えた。横田高松もそのひとりだ。弓矢巧者であり、足軽大将として甘利虎泰の相備えとして多くの戦功をあげてきた。歴戦の勇士の言葉は、戦場で兵の士気を大いに左右した。この大将がいれば大丈夫だと、従う兵たちは強く信じていた。
「走れ、諏訪まで走れ」
 晴信の指示に従い、百足衆が撤退する自軍に触れを発する。
 小山田弥五郎は軽輩ゆえに徒歩きである。自らの足で走り続けるしかなかった。それも、晴信に遅れてはならない。
 これは、苦しい。しかし、足を止めれば、命はない。そういう土壇場であった。これは退却戦と見栄を張りつつも、等しく敗走に他ならない。
 このことを『甲陽軍鑑』はかく綴る。

    先手の侍大将・甘利備前守討死する。旗本より検使の横田備中も討死也。
    横田備中の子・十郎兵衛は、その歳二十で、朝の競り合いで村上方の
    おぼえの足軽大将・小島五郎左衛門を組み討ち取ったが、
    深手を負って退いた。
    横田備中の同心ども、この競り合いで、二十人余りが手負い討死した。
    横田備中かへして討死の時、一入早討たれぬ。

 しんがりの戦いが、かくも熾烈か。
 横田備中守高松が討ち取られてもなお、武田勢は辛うじて総崩れの寸前で持ち堪えた。この要因は、追撃する村上勢の追っ手が行く先を幻惑するよう、山本勘助が策を講じたためだ。が、これとて紙一重の逃げ切りに他ならない。
 武田勢が大門峠を越えて諏訪へ逃れたのは、翌日のことである。この敗走劇を、後年〈戸石崩れ〉と呼び、武田の戦歴でも貴重な教訓として語り継がれる。少なくとも晴信はこれ以後、調略なき城攻めは決して力攻めをしなかった。
「弥五郎」
 一心地がついてのち、晴信は小山田弥五郎を傍に招き
「勝手な結び文のおかげで命を繋いだ。しかし、二度は許さぬ」
 強い叱りに、思わず弥五郎は口答えした。
「けしからぬ。その方、帰ったら大善寺にて暫く謹慎せよ」
 晴信の言葉に、弥五郎は不服そうに応じるしかなかった。


                  五


 戸石崩れの報せが谷村へ届いたのは合戦の半月後である。
「色々と噂はあったが、思ったよりも被害が大きいな」
 病床の小山田信有は、小山田弥七郎の報告に目を丸くした。
「横田備中殿のところは、散々かと」
「そうだな」
 横田備中守高松が討死にし、その婿・十郎兵衛康景も深手を負った。もっとも横田康景は鬼美濃で知られる原虎胤の子ゆえ、疵には強い。やがては本復しよう。それでも横田家では多くの者が死んだ。これは大きな痛手だ。
 戸石崩れのこの時期、郡内は大雨や大風による被害、疫病や干ばつに悩まされていた。餓死者も少なくない。この八月、小林宮内少輔は川除普請のため下吉田に堰を造成した。水を支配することは、郡内の死活問題だった。
 弥三郎は父・信有に代わり、広く郡内を巡見した。
 当主となる自覚の目でみれば、様々な問題が感じ取れた。すべては天候と戦乱によるものである。富士北麓の厳しい気候風土は、いかにして水を制するか、その一点にあった。富士の雪溶けによる鉄砲水を〈雪しろ〉というが、これひとつだけで、一村が消えるほどの被害をもたらす。
(重いものだ)
 責任が、重い。弥五郎が羨ましいと、弥三郎はそう思わずにいられなかった。
 その弥五郎は、このとき大善寺で謹慎の身である。
「おい」
 声がした。印地かと思ったが、違った。
「典厩様」
 弥五郎が畏まった。声の主は、武田信繁である。涼しい顔で、弥五郎が座する楽屋堂にふらりと草鞋を脱いだ。弥五郎を見もせず、真っ直ぐに西の格子へと進んだ。盆地と、彼方の高き白い嶺々が一望できた。笛吹川と眼下の満川の水面が輝いている。絶景であった。
「ここから甲斐は掌中じゃ。気持は大きくなろうな、弥五郎よ」
「謹慎の身では、下ばかり向いております」
「別に、兄上は怒ってはおらぬぞ」
「は?」
「勘働きもいいが、相手を説くならもっと学べと云っておるのだ。もし上手に説けば、戸石のことも斯くはなるまい。そなたの言葉に耳を貸さなかったこと、兄上は悔やんでおるのよ。しかし、相手の心に訴えなければ、それは音でしかない。わかるな?」
 よく分からないと、弥五郎は口籠もった。
 信繁は懐から本を出し、弥五郎の前に置いた。孫子である。
「写本じゃ。勘助より預かった」
「これを?」
「刻は充分じゃ。よく読んで、顧みるべし」
 弥五郎は漢文が読める。さっそく捲り、計篇の一節が、さっそく目に留まった。
「強なればこれを避け。どういう意味でしょうか」
 信繁は笑いながら、こう告げた。
「進言したときを思い出すがよい。これは、明らかに敵の方が強ければ真正面からの戦いは避けろという意味じゃ。志賀城の残兵が雪辱に臨むは死兵にて、強にあたる。お前はなんと進言したか?」
「ただ、印地の言葉を」
「聞いた儘では駄目なのじゃ。考えろ、それをしなければ、いつまでも小間使いのままである。兄上はな、格別そなたを育てるおつもりなのだ。だから考える暇を与えてやろうと、大善寺に押し込めているのだぞ」
 終わったことを反省し、過ちを繰り返さぬこと。将たるものの心得である。弥五郎は家督を継げぬ身の上だ。独立するしかない。親の基盤を継げぬ者は、己の才覚だけが財産となる。その道を示すものが、この本には、すべて記されている。信繁はそういった。
「あのとき、戦う前から既に負けておりました。策もないまま……でも、御館様にそのようなこと、僭越ではござりませぬか」
「ゆえに説き方を学べという」
「わかりません」
「そなたは勘処がまことに秀でている。しかし勘だけでは人は信用しない。確たる言葉を添えてこそ、言葉は人を動かす武器となる」
「はあ」
「勘助は誰もが納得のいく言葉を用いて退却を説いた。その方は兄上の近習じゃ。近くで聞いていたはず、覚えているか?」
 弥五郎はじっと考えた。
 あのとき、勘助は“孫子曰く”と口にした。孫子なら、この本にある。その最初に、あのときの言葉があった。
「孫子曰く、兵とは國の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからざる也」
「わかっているじゃないか」
「どういう意味でしょう」
「国主とは領民を生かす責務がある。戦さともなれば勝つ条件が合えば戦い、合わなければ戦わず、他の手立てを探すもの。勘助は、そう云ったのじゃな。この説得に一理あればこそ、兄上は退却を選んだ。言葉とは、大事なものじゃ」
 弥五郎は心が晴れた。
 謹慎することにふて腐れていた己の小ささを恥じた。
「畏れ入りました」
 弥五郎は素直に頭を下げたのである。

 一二月、晴信嫡男・太郎が一三歳で元服した。このとき諱はまだない。あったのかも知れないが、記録に見ることがない。この嫡男が諱〈義信〉を称するのは三年後、室町将軍・足利義輝より「義」の偏諱を受けてのちのことだ。この前に義信を称することは、不自然極まりない。とまれ、嫡男の元服にあたり、晴信はあらたな同盟縁組みを今川義元に求めた。義元にとっても、武田との縁組みは都合がいい。むしろ義元こそ、武田に望むところであった。
 婚約は年明けに結ばれたが、輿入れはまだ先のことであった。

 天文二〇年(1551)。
 郡内は散々な状況だった。吉田一帯は昨年からの餓死が尾を引いた。収穫の乏しかった集落では、飢えを凌ぐ術に限りがあった。蕨の根を掘り、民衆は五月まで必死で命をつないだ。
救済の術は難しい。
 郡内には周期的に銭が落ちる。富士講だ。信徒は講を以て信仰のために参じる。滞在するからには、自ずとそこに銭が落ちた。そのための宿坊として存在したのが、御師の屋敷だ。これまで富士詣での主体だった修験の道者、中世以降は信徒が参詣登山に赴いた。御師坊も修験者相手から信徒まで広く扱うようになっていた。そこに、金が流れたのである。
 しかしこの銭をしてもなお、住民の窮乏を救済するには至らない。
 小山田氏の手腕は外貨のみならず、生産による経済の安定に飢餓救済を求めるしかなかった。農耕は天候相手の不安定なものだ。作るよりは買うか、若しくは合戦で奪うしかない。信有が病床にあるなか、厳しい現実は逃れようもないまま弥三郎にのしかかった。
 郡内も厳しいが、戸石崩れの影響で国中も厳しい。
 甲斐国の食糧生産は主に米・麦の二毛作。これは、甲府盆地が扇状地であることから、全てとは云わないが、水はけがよいためとされる。それでも洪水が多く、治水が完全ではない。このとき施工を進めている竜王の堤も、まだ完成している訳ではなかった。
 
 二月一日、武田信繁は武田氏庶流の吉田氏を襲名した。
 太郎元服より二ヶ月ののちに、吉田の名跡を継いだことには意味がある。諸説あるが、一番の理由は、太郎が元服したことにより武田家次期当主が確定したことだろう。これまでは晴信に不慮あらば、信繁が当主になる可能性があった。しかし、もはや心配がないと、内外に示したものと考えられる。他氏を称するからには、こののちは武田の当主となることはない。
「その覚悟のみ承知しよう」
 吉田氏名跡の相続を認めたうえで、晴信は従来通り信繁に武田姓の名乗りを許した。よってこののちも、信繁は武田姓を公然と使用できた。
 戸石崩れで討死にした横田備中守高松の名跡も、婿の十郎兵衛康景が継いだ。実父・原美濃守虎胤が、日を改めて晴信に御礼を口上した。
「美濃守も先代より生え抜きの将にて、倅以上に武を示してもらわんとな」
「もとより」
 原美濃守虎胤も横田高松同様、甲斐の者ではない。もとは下総の名門・千葉氏の係累である。古河公方に逆らい独立した小弓公方・足利義明に追われた父・友胤ともども甲斐に流れ着き、信虎に仕官した。以来、武辺の聞こえは敵味方に轟き、〈甲州の鬼美濃〉と囁かれ恐れられた。

 桜の季節、小山田弥五郎は許されて躑躅ヶ崎に戻ってきた。
 武田晴信は頭を下げる弥五郎に、語尾を荒げて
「二度と勝手は許さぬ!」
と怒鳴った。その反応をみるため、大仰な素振りで腰を下ろした。
 弥五郎は神妙な口調で
「こののちも、時に応じて進言仕ります」
「なに?」
「我が申すまでもなく、敵を知り己を知れば百戦殆うからず。戸石のことは、己の言葉の薄さを恥入るまで。以後は厚みを以て言上仕ります。また、御館の決定に逆らうことはございません」
 晴信は、じっと弥五郎をみた。
 些か角が取れたものの、丸さは感じぬ口上だ。一三歳なれば、まだそこまで出来が良すぎるのも薄気味悪い。これくらいで丁度いいだろう。
「弥五郎、使いを頼みたい」
「はい」
「小県の真田弾正忠のもとへ行け」
「御用向きは?」
「密書を届けよ」
「はい」
「戸石城が落ちる様を、よう見届けて参れ。儂の代わりにだぞ。それまでは戻ること、罷り成らぬ」
 いつになったら帰れるものかと、弥五郎は思った。
 が、それは言葉に出さずに呑み込んだ。晴信が大きく頷いたのをみて、何事かと試されているのだなと、弥五郎は気付いた。大善寺で読み続けた〈孫子〉は兵学書でもあるが、処世術や折衝への応用でもある。そのことを悟ったのは、つい最近のことだった。
 晴信は、それを確かめたのかもしれない。
 が、云わずがものだ。口に出せば、台無しになることもある。
 ただの伝言をするのが近習の役目ではない。事実を報告しつつも、晴信の決断を汲みつつ巧みに進言し、過ちは速やかに正す誘導をする。この高度な駆引きを、日常から求められているのだ。
 信繁が〈孫子〉を読めと云ったことは、意味のあることだった。しかし、信繁にそうさせたのは、紛れもなく晴信に相違ない。それが、頷きの答えなのだ。
 無防備で迂闊だった所作を改めつつも、これまでの好奇心や探求は忘れてはいけない。弥五郎の個性は、大善寺の謹慎でより豊かになったのである。晴信はそれを洞察したからこそ、満足したのだ。そして、更なる試しを与えたに相違ない。
 戸石城攻略を一任されている真田弾正忠幸隆。
 そこへ弥五郎を差し向けるのは、きっと意味があるのだ。果たして弥五郎がそれをどう受け止め、どう考えてどう教訓と為すか。
(期待に応えずにはいられまい)
 このとき、晴信は戸石城陥落を前提に沙汰していた。
 そう、戸石城は冷静に対応すれば、攻略の出来ない城ではない。それは、土地の者であり、知己に富む、真田幸隆のみ可能なことだった。その手法が、調略だった。戸石崩れは負けて勝つための、貴重な体験である。その最前線へ、弥五郎は赴くのであった。

 時代は武田家以外の個性を育てていた。
 この年三月三日、尾張国守護代・織田信秀が没した。伊勢湾の商工業を掌握し独自の経済観念を持つ先進的な人物の死は、一般的には、一代の英雄の落日と映った。その男の葬儀で、出来事は生じた。信秀の嫡男・織田三郎信長。儀礼に反し茶筅髷に荒縄の帯、長束の太刀と脇差を差して袴も無い出で立ちに、親族家臣はざわついた。そのざわめきが、一瞬で凍りついた。信長は香を鷲掴みにし、それを信秀の位牌に向かって投げつけたのである。
 常識ではありえない無礼。
 この無礼の奥に潜む個性を見抜ける者など、この場には誰一人いなかった。
 が。
 この非常識な男が、こののち、小山田弥五郎の前に立ちはだかることとなる。


                  六


 五月初旬、旧暦では梅雨に相当する。
 小山田弥五郎が真田幸隆の居する佐久岩尾城に着いたときは、梅雨の中休めで、信州の濃密な森林から立ち上る霧が湯気にも似て圧巻だった。弥五郎が来ることは予め報せてあったようで、真田幸隆は手招きして、傍らへ寄せた。
「おぬしにな、調略とは何ぞやを見せてやれと、御館様の仰せじゃ。そなた、運がいい奴よ。戸石城はまだ堅固な様じゃわ。去年のままの様であるぞ」
「はい」
「敗け戦さをした者はな、その相手が実際よりも大きく映るそうじゃ。そなた、戸石城が恐ろしいだろう」
「恐ろしくないと云えば嘘になります。しかし、これを乗り越えれば、武田は強くなるのだと思ってもいます」
「上出来だ」
 真田幸隆は佐久から戸石城への調略を絶え間なく続けている。
 その総仕上げだと、笑った。
「どういう調略を?」
「知りたいか?知りたいのか?ふふふ、教えてはやらぬ。自分で考えてみるのだな。当たれば、褒めてやるぞ」
 意地の悪い物云いだ。が、負けず嫌いな弥五郎の心に、火が点いた。
「考えてみます」
「早くしないと、結果が出てしまうぞ」
 真田幸隆は意地悪い、それでいて、心なしか嬉しそうな笑みを浮かべた。
 岩尾城の櫓に登り、じっと北をみる。浅間の山影が彼方に映える。戸石城はその麓あたりに位置するのだろうが、立ち籠める雲霧が濃いので視認は出来ない。反応を確かめるには、岩尾城は心なしか遠かった。
「武田から来たのは、お前か?」
 声を掛けたのは、弥五郎よりやや年上の若者だ。幸隆の嫡男で、源太と名乗った。
「いかな調略か、当ててご覧じよというわけじゃ。そなたの御父上は、面白い人ですな」
「謀が多いのが、我が父じゃ。儂には、性に合わぬ」
「源太殿は真田を継がれる御身なれば、そのことも学ばねばならぬのでは?」
「父は教えてはくれぬ。知恵も武辺も周囲から盗めという。まあ、学べという意味なのだろうな。しかし、謀は教えてくれぬ。本当に盗めというのだ。面倒臭い。鎗を鍛える方が儂には性に合う」
 源太は調略向けの人間ではないと、自負していた。
 面白い家族だと、弥五郎は笑った。小山田家では除け物だった己には、真田の有り様が新鮮に映った。こういう家族が世の普通なのだとしたら、羨ましい。小山田のように父と子が乖離し、仮に割れて対立したなら、もはやそれは、家を為すことも能うまい。無論、城もだ。家臣と城主が割れれば、城はただのモノにて、一切の機能はしない。
「そうか」
 朧気に、弥五郎は見えてきた。
「源太殿に尋ねる。戸石城には真田の縁者がおいでか?」
「ああ、たしか叔父上が」
 その者が城内の人心を不信感に工作すれば、戸石城は張り子の虎だ。そうか、そうに違いない。そういう調略なのだと、弥五郎は考えを巡らせ、それを幸隆に説いた。
 幸隆は笑った。子供ながら考えたものだと、大声で笑った。
「答えは、目でみよ」
 心なしか、瞑い表情で、幸隆は呟いた。
 こののち真田幸隆は僅かな手勢を率いて、松尾城へと移動した。弥五郎も同行した。松尾城は甲斐から見て戸石城の裏側にあたる。佐久からの道筋には虚空蔵山城などの村上勢力があり、間道を少数で駆け抜けるより術はない。このあたりは土地勘のある真田一党でなければ難しい由縁だ。もし普通に街道を往けば、戸石城の監視によりたちまち捕らえられてしまうだろう。
 弥五郎は松尾城から眺め見る光景に息を飲んだ。
 ニノ郭あたりから、あの忌まわしき戸石城が、はっきりと見えた。城に立つ旗印は〈丸に上文字〉、間違いない、村上義清の紋である。
「こんな近くに」
「驚いたか」
「言葉もございません」
 弥五郎は目を丸くしたまま、動けない。去年の敗戦が、心に甦った。恐怖で、足が竦む。まるで山城そのものが、すぐにでもこちらへ動いて迫るような、息苦しさに眩暈さえ込み上げてきた。その肩を掴んで、ほれ行くぞと、真田幸隆は一ノ郭へと誘った。途端、金縛りから解けたように、弥五郎はぎこちない足取りで追った。
 すでに軍議の支度は整っていた。弥五郎は客分として幸隆の脇に誘われた。
「機は?」
 幸隆の問いに、矢沢右馬助頼綱が大きく頷いた。矢沢頼綱は幸隆の弟である。もうひとりの弟・常田伊予守隆永を戸石城に送り込み、その情報を束ねていた。その常田隆永曰く、志賀の兵は〈戸石崩れ〉以降は気が抜けたようで、士気が低いという。一矢報いたという望みを達成した安堵感だろう。小さな気の弛みは過信と厭戦を招く。事実、戸石城に籠もる兵の大半は百姓だ。
「百姓にとって土を弄れないことは、辛いものだて。早く土弄りさせてやる。そのように囁かせていたら、思いの外、戸石の雑兵は真田に同心している由」
「城将で靡きそうなのは、誰か」
「須田新左衛門尉」
「ほう」
 須田新左衛門尉信頼。戸石崩れのときに、清野清寿軒ともども武田に従った人物だ。しかし、これは偽りの同心だった。すべては敵の策略だったのである。
「今度も足下を掬われたら適わぬ」
「そのことならば」
 大丈夫だと、矢沢頼綱は笑った。もともと須田氏は一枚岩ではない。大岩郷派と、須田郷派で割れている。常田隆永は須田信頼の属す須田郷派に、一族すべての所領安堵を条件とした調略を仕掛けていた。弥五郎が託された晴信の密書とは、その安堵状である。これを以て戸石城を内側から奪う算段なのだ。
「ならば、機は」
「充分に」
「村上周防守は、今いずこか」
「小笠原信濃守の与力に赴き、近在になし」
 真田幸隆は頷いた。
 いかにと、一同は幸隆をみた。幸隆は、ゆっくりと口元を歪めて笑った。
「うむ、詰むべし」
 その言葉に、矢沢頼綱は頷いた。その他家臣団は、松尾城の守りを固めることとなった。
「攻めませぬか?」
 小山田弥五郎は怪訝そうに首を傾げた。
「もうな、城はこの手の内よ」
 幸隆は、笑って答えた。弥五郎には実感がない。調略をしていただろう事は分かるが、どこをどうすれば、どうなるというものなのだ。
 さっぱり理解できない。
「簡単に分かるものではないで。考えて、よく覚えろ」
 幸隆の言葉は、深い。

 五月二六日。
 難攻不落の要害である戸石城は、攻めることもなく、内部から瓦解して、火の手とともに城兵を跳散せしめて開城となった。その一部始終を、まるで他人事のような心地で、小山田弥五郎は目撃した。何の高揚も感慨もなく、不思議な勝利を受け止めることが容易ではなかった。
「調略とは、そのようなものだ」
 真田幸隆はそういう。その、そういうものという意味が、一二歳の頭には理解が出来なかった。戸石城攻略の報せは、すぐに晴信にもたらされた。晴信は大きく頷きながら、取次ぎの駒井高白斎に
「先年申した真田へ約定も、これで果たせるな」
 これは、戸石崩れの前に発した書状の
「都合千貫の所これを進し候」
を意味している。松尾城から戸石にかけての地域は、元々真田家が有していた。武田信虎にこの地を追われた真田幸隆は、皮肉にも晴信のおかげで旧領を回復したのである。
 この日、『高白斎記』にこう記されている。

    廿六日節。砥石ノ城真田乗取

 調略による攻略が、この一文に籠められている。その委細も記さず簡素な一文は、武田の関与もなく、真田家独自の采配と受取ってもよい。あれほどの苦境に晒された山城が、こうも呆気ない終わりなのかという、気の抜けた想いもきっとあるだろう。
 少なくとも、佐久から東信濃の勢力図は、この山城ひとつの所在で大きく左右された。

                                 つづく

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登場人物紹介

小山田信茂    

甲斐国郡内領主。武田二十四将。武田家を裏切ったと定説される文武の才に秀でた武将。

父・信有に嫌われて育つが、それは出自にまつわる秘密があった。

小山田弥三郎信有

小山田信茂と腹違いの兄弟。嫡流として小山田家を相続するが、のちに病没。ということになり、信茂を支える影の参謀となる。

武田信玄

甲斐国主。智謀に長けた戦国最強の武将。小山田信茂を高く評価し、その出自も含めて期待している。

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