第12話「小田原(後)」

文字数 9,524文字

小田原(後)

                  一


 二六日寅刻、頂に伏せて物見をする兵からの報せで、信茂は仮眠より目覚めた。夜明けは未だである。
「如何したか」
「北条勢が動いてござる」
 夥しい松明が上手から走っていく。淨福寺城のものだろう。廿里砦を通過するということは、小仏峠への備えに相違ない。淨福寺城の兵が動くということは、案下峠へ備える必要がないと判断した証拠だ。そして、椚田城の兵をそちらに割けないという意味である。更に廿里砦から兵が出て行かないということも、察しがついた。ここには思いのほか兵が集まっていないのだ。
 荻原昌明は〈合図の小旗〉の陽動を成功させたのだと、信茂はほくそ笑んだ。
「しかし、弾正殿。廿里の兵どもは、まだ寝入っていると考えていいかな?」
「如何にも。炊煙も見えませぬ」
「されば、好都合」
 信茂は主だった将を集めた。
 小隊単位で、個別に廿里を襲撃する手筈である。砦の図面は古いものだが問題はない。一斉に火矢を放ち家屋を焼くことを第一とし、寝起きで鎧のない兵を勢いで討滅することを優先とする。戦闘はかならず一刻で終わらせること。厩舎を確保し、馬を奪うことなどが指図された。
「地の利を信じれば、容易なことずら」
 信茂はにこりと笑った。
 その笑みを、皆が信じた。手持ちの芋は、この朝餉で全て食切る。腹が満たない者は、砦から奪えばいい。
「みんな、飯が足りねえずら」
 小山田弥七郎のぼやきに、思わず笑い声が出そうになった。
 緊張する者は誰もいない。死を覚悟する悲壮感は微塵もなかった。誰の瞳にも、生への輝きが満ちた。この惹きつけて止まない魅力こそ、信茂が余人に好かれた所以だ。川中島でそれを知った者は思い出し、初めて従う者は、それを強烈に受け止めた。
 小山田勢は一己の意思を抱く龍の如く、稜線を斜めに下った。眼下には白山神社が見える。傍らの小屋には大将首がある。
 投石の隊は信茂の傍らに控え、前面には火矢を番えた兵が並んだ。
「よし、放て」
 距離はあるが高地、しかも夜明け前で監視も緩く微睡みに落ちている兵たちは、突然の火攻めに驚愕した。砦にあって安心し切った者が不意打ちに遭うと、まさに富士川の平家が如く、大混乱に陥る。このときの廿里砦はそれを例えるに等しい。
「隊をまとめよ」
 叫ぶ横地監物等の声は、悲鳴に掻き消された。狩出された農兵は、混乱すると自制が利かぬ。この混乱する廿里勢へ、今度は通常の矢が見舞った。武具もなく慌てて飛び出した兵たちは、払暁の薄暮で飛来する矢を察知できない。この遠巻きからの攻撃で、小山田勢は相当の戦果を得た。
「それ、掛かれ」
 采が振られると、小山田勢は怒涛の勢いで駆け降りた。高いところから砦を見下ろす信茂は、ほれあそこに大将首があるぞと大声で指図した。その声に、小山田勢はどっと殺到し、一方的な展開となった。
「立て直すことは無理じゃ。急いで椚田城まで退くべし」
 布施出羽守康則が叫んだ。横地監物吉信・中山勘解由家範も同様に叫んだ。廿里の兵は争うように坂を駆け降りた。転がる者も少なくない。それを追撃する小山田勢は、これを次々に討ち果たす。案内川と小仏川が合流し、廿里砦の真下に南浅川が掘割のように流れている。駆け下り、よじ登る。
 この混乱で手を滑らせる者、足を滑らせる者が続出した。
 水は少なく、半ば空堀に近い。
 悲鳴と怒号が逆巻いた。椚田城からは援軍となる余裕はなく、滞在兵は事態の急に立ち竦むばかりだった。
 敵兵の撤退にあたり、信茂は追撃を止めた。
 深追いするより、食糧を奪って荷駄隊と合流し、滝山城を奇襲しなければならない。兵に余裕のない淨福寺城は、悠然と進む小山田荷駄隊を見ているしかなかった。それが小山田勢と合流し、猛然と進撃を開始した。滝山奇襲は間違いなかった。
 しかし、伝令の機は大きく逸した。
 北条氏照は小山田勢の肉薄をまだ知らない。

 二六日、辰刻(およそ午前八時)。
 北条氏照は大手門が騒がしいことに、不快の念を表した。信玄との一戦の前に、なんという不謹慎なことだ。
「申し上げます。小山田勢、小仏方面より廿里を破り滝山城へ攻撃中!」
「なに?」
 飛び上るほどに仰天した氏照は、二度、その報告を聞き直し、とっさの対応に躊躇した。幸い、未だ信玄はいない。備えを回すことで凌ぐことを選択した。
 滝山城は平城ながら曲輪が細かく仕切られ、枡形や虎口を多用する造りになっている。しかし、小山田勢はその関門を、礫の応酬にて次々と切り崩していった。利便性の高い構造であっても、守備する兵を撃破されてしまえば、それは無人の野に等しい。敵に奪われた曲輪は、今度はこちらにとって厄介な砦と化す。信茂は何かしらの方法で、滝山城の内部を知っているのだろう。当然、この情報は、信玄も知っていると考えてよい。
 滝山城の構造が知られているなら、丸裸同然。
 武田勢は無駄のない攻撃を用いよう。
「武田勢が来る前に、何としても小山田勢を撃破せよ」
 滝山城最大の欠点は、小山田勢が来襲した家臣屋敷側だった。一応、谷地川が濠の役割を果たしているが、実用性が薄い。そもそも城下の屋敷割を形成するこちらの面が攻められること自体が、想定外なのだ。
「小宮曲輪から援軍の要請」
「三の丸、陥落」
 次々と届く報せに、氏照は矢継ぎ早に采配した。
 埒が明かぬと知るや、自ら甲州道(のちの古甲州道・現在の旧滝山街道)まで下り、最前線に立った。これは異例なことだ。城主自ら城を出て戦うなど、尋常なことではない。それほどまでに、こちらの方面が脆弱という意味なのだろう。とにかく武田信玄襲来までに、小山田勢を駆逐できればいい。短期決戦の意気込みで、氏照は臨んだ。
 突如、砲声が響いた。
 厭な予感に、氏照は宿三口より本丸へ駈け戻ると
「武田勢が、多摩川の向こうへ」
 物見が指すのは、大日の森と呼ばれる一帯だ。滝山城の鬼門除けに建てられた拝島山密厳浄土寺がある。信玄はそこを本陣にしたのだ。
「一体、いつの間に」
「さっきまでは何もなかったのです。突如、旗差が翻り……」
「もういい、籠城策じゃ。これ以上、敵に攻め入らせるな」
 拝島の北に位置する二本木村には、栗原左衛門尉詮冬配下の諸国御使衆が潜伏し、小山田の動向はこれらの者が正確に把握していた。信玄の行動は、これらの情報によるものだ。差物を伏せ、迅速に大日の森に至り布陣を終えると、対岸に見せつけるように旗を掲げたのである。滝山城から見れば、信玄がいきなり現れた錯覚に陥るのも道理と云えよう。
 信玄の登場に混乱した滝山城は、更なる別働隊を見落とした。
 諏訪四郎神勝頼を総大将とする隊が、滝山城東の浅瀬にあたる平の渡しから渡河を終えていたのである。この存在に気付いたとき、勝頼は既に尾崎山へ布陣を終えたあとだった。
 瞬く間に、滝山城は三方を囲まれたのである。
 搦手口には小兵が展開し、城周辺を焼いた。山の神曲輪に避難していた領民は、自分の家が焼かれる様に悲嘆した。しかし、この狼藉を止める北条勢は誰もいなかった。
 小山田勢は三の丸曲輪に布陣し、小宮曲輪への攻略を進めていった。その勢いは留めることが出来なかった。やがて、小宮曲輪から火の手が上がった。その頃、ようやく夕刻を迎えたのである。
 氏照は三の丸奪回の夜襲を試みた。
 既に敵陣はなく、代わりに四方からの礫を見舞われ多数の怪我人を出した。
「退け、三の丸に拘るな」
 氏照は武田勢の恐ろしさを肌身に刻んだ。しかも、信玄自体は未だ動いていない。真の恐怖は、これからだった。
 二七日払暁、尾崎山の諏訪勝頼が動いた。
 この遠征で、総大将の采配を学ぶため、勝頼は必死だった。のちに左入城と呼ばれる一帯は、当時、まだ滝山城の出丸に過ぎない。勝頼はそこを撃破し、本丸へと進撃した。それに呼応し、小山田信茂も攻撃を開始した。信玄も次々と兵を繰り出していった。
 例えるなら、滝山城は〈砂の城〉だった。波と化した武田勢に浸食されて崩れゆく、儚い城にも似ていた。その命運は風前の灯火と云ってもよかった。援軍はなかった。いるにはいたが、誰一人、信玄の背後から襲う勇気はなかった。
 これが、武田勢の強さだ。
 鉢形城でみせた手心とは裏腹に、滝山城に対し、信玄は一切の遠慮をみせなかった。この日、何とか凌いだものの、滝山城の命運はこれまでだった。明日は持ち堪えることが出来ない。氏照は死を賭し、今生の名残に宴を許した。飲まねば武田とは戦えぬ。圧倒的な恐怖と絶望を刻んだ氏照は、信玄の足元に及ばぬ己の慢心を恥じた。
 意外なことが起きたのは、翌早朝だった。
「大日の森にも、尾崎山にも、武田勢がおりませぬ」
 その報せを、氏照はすぐには信用しなかった。
「郡内の兵は?」
「これも、見あたりません」
 馬鹿なと、氏照は頭を振った。
 やがて、武田勢が悠然と杉山峠(現・御殿峠)を越えていった報が届き、氏照は号泣した。命拾いした安堵と、相手にもされなかった屈辱。
 それらがない交ぜになった感情に、氏照は激しく泣いた。


                  二


 九月二八日、武田勢は滝山城より横山を経て、杉山峠から相原、溝、二つ田(当麻)、座間へと移動した。津久井衆は動くことが出来ず、鉢形城の追っ手に合流した滝山勢が遠巻きに追うばかりだった。
 座間布陣のときに、ようやく小山田信茂は滝山の軍功を諸将の前で評された。
「さすがは最強なりし郡内のつわものよ」
 そう云って笑った信玄は、奇襲に至る軍略の見事さを褒め称えた。
「すべては亡き典厩様から授けられし、孫子の兵法のおかげにて」
「それだ。学ぶことと修めることは、似て異なる。小山田の当主は修める精進を怠らなかったがゆえの、勝利である。四郎も力攻めの損耗を慎むべし」
 諏訪勝頼は恨めしそうに信茂をみた。
 勝てば方法など同じだろうという持論の勝頼は、信茂との違いが理解できなかった。大将としての教育も学習も未熟な勝頼なれば、これは仕方があるまい。
「して、小山田兵衛尉はこれより郡内勢を率いて上野原に退くべし」
 信玄の策には、何か裏があるのだろう。信茂はそれを質した。
「追撃する鉢形と滝山の軍勢を足止めするべし。掛かれば討ち、掛からずば、ただ見過ごすだけでよい。滝山の小倅も迂闊に攻め寄せる程、馬鹿ではあるまい」
「小田原に従わずとも、よろしいので?」
「追ってくる小僧どもを追い払ってくれればよい」
「心得て候」
 郡内勢はここで本隊から離脱した。兵糧の荷駄はそのまま信玄へ引き渡され、翌日、郡内勢は来た道を戻り、橋本辺りから津久井へ向かった。
 その間、北条勢は手出しをしない。
 ただ遠巻きに、郡内勢が通り過ぎるのを待った。

 武田本隊は相模川を渡河した。
 厚木・妻田・金田に至り翌日は酒匂に達した。武田勢が小田原城を囲んだのは、一〇月一日のことである。同日、小山田信茂は羽置城(上野原城)へ入った。既に伝令により、加藤景忠は城にて郡内勢を待っていた。
「丹後殿、よき働きであった」
「兵衛尉殿も惜しかったですな。滝山城を落とせば、益々士気が高まったものかと」
「欲張れば、こちらが負けるずら」
「それも、孫子の言葉か?」
「いや、我が寝言じゃわ」
 羽置城は高台にあり、地元の者は城(じょう)っぱけと呼んでいる。この高台からは、津久井と笹尾根の狼煙台を四方に見ることが適う。そして、四方津御前山を介して岩殿城との連絡も出来た。都留の前線にして中核である上野原は、郡内にとっても生命線に等しい。
「御館様から、皆によう働いたと承った。おまんらのおかげで、儂も好きに兵を動かせたでよう。礼をいうずら」
 小山田信茂は大声で叫んだ。
 鬨の声が、天高く響いた。

 武田信玄の小田原包囲は三日間。
 かつて上杉輝虎が囲んだときより拡張された縄張りは、短期で攻め落とすことなど不可能だった。信玄にも、その意図はない。だから、武田の本気を見せるためだけに、小田原まで出陣したのだ。
 撤退にあたり、三日間に及ぶ滞在の糞尿が風上に集められた。これくらいの抵抗をしなければ、手ぶらで帰れない。
 信玄は大声で悪態を叫んだ。
「我が軍は動かざること山の如し。覚えておけ、山には、臭き(草木)があるものなり」
 その戯れ言が大笑いとなった。
 一〇月六日、撤退した武田勢が大神に布陣したと聞いた北条氏康は、その夜のうちに追撃の軍勢を発した。同時に氏照・氏邦兄弟に伝令を発し、雪辱を晴らす好機と檄した。氏康は信玄の撤退路を見極め、待ち伏せと追撃による挟撃を指図したのである。若い氏政には、その進路が読めない。
「いったい、どこを?」
 氏政の問いに、氏康は即答した。
「三増峠だ」
 この三増峠をめぐる戦いが起きたのは、一〇月七日である。これは武田勢を袋の鼠に追い込んだ氏照・氏邦兄弟の錯覚が、戦局を大きく左右した。そう、追い込んだのではなく、誘い込まれたのである。
 武田勢はこの一戦で悠然と逃げ切り、しかも北条方に打撃を与えた。信玄の采配がどんなに恐ろしいものか、北条方へ強い印象を植え付けることに成功したのである。こののち駿河に侵攻した武田勢に、北条が激しく干渉をすることもあるまい。総じてこの遠征は成功に終わったのであった。

 一〇月八日、羽置城の小山田信茂は三増峠合戦を知り、信玄の安否を気遣った。昼過ぎ、桂川対岸に武田の軍勢が認められると、信茂は加藤景忠を促し、ただちに出迎えの兵と人足を差し向けた。
 武田勢は羽置城に収容され、信玄は改めて都留衆の功を褒めた。
「大きな戦さであったか?」
 信茂は山縣昌景にそっと囁いた。
「御館様の機転がなければ、危なかったかも知れぬ。滝山の奴らは、案外と強かったぞ」
「どなたか、討たれましたか?」
「浅利右馬助(信種)が鉄砲で討たれた」
「なんと」
「惜しいことをした」
 岩殿城の近くに埋めたらいいと、信茂が提案した。山縣昌景は有難いと呟いた。
「兎にも角にも、これで相模から駿河への干渉はあるまいて。安心して今川領を攻めることが適う」
 山縣昌景がやたらと饒舌なときは、過酷な合戦で昂ぶっている証だ。みすみす撤退したことが、どこか後ろめたかった。
 郡内小山田衆は一部本隊付で残していた。小山田八左衛門尉だ。これはどうなったのだろう。
「案ずるな。八左衛門尉は御館様の旗本をお務め為された」
 山縣昌景が頷いた。
「あれ、ここにはおらんですな」
「郡内勢は道志路で谷村へ向かった。途中で分かれたのじゃ」
 この道志路は郡内領であるが、津久井衆も入り乱れる緩衝地帯だ。小山田八左衛門尉が急ぐのも、奇襲が恐いからである。道志は丹沢山系の北裾に位置し、峡の立地条件だ。駒入根(青根)を進む小山田八左衛門尉の隊は、周囲に目を配りながら先を急いだ。
「敵襲」
 後方で悲鳴が挙がった。
 山の中から日向薬師・八大坊の山伏たちが襲ってきたのである。日向薬師は大山の名刹で北条の庇護下にある。丹沢の地の利を生かし、襲撃してきたのだ。前大先達権大僧都勝快法印により率いられた山伏たちは、奇襲に賭けた。
 しかし、小山田八左衛門尉は奇襲に備えていた。たちまち襲撃者たちは返り討ちとなった。勝快法印も討たれ、やがて合戦は収束した。
「谷村に辿り着くまでは、誰も死ぬなよ。ちゃんと生き残って、谷村様と大声で笑おうな」
 八左衛門尉の檄に、一同は応じた。
 信玄の本隊は谷村を経由し、御坂路より府中へ向かった。途中、笹子峠へ向かう隊もあった。郡内は安全圏である。道端では多くの領民が武田勢に手を振った。桃陽は合掌し、信玄を見送った。
 小山田勢が凱旋したのは、すぐのことだった。

 永禄一二年は戦さに明け暮れた年だ。
 甲斐国内の生産力は低い。これを支えたのは、信濃の穀倉地帯だった。信濃全体はこの時期、越後との国境も争乱にない。このことが信玄に幸いした。
 信玄の面前には、駿河の図面がある。すぐにでも攻め込みたいが、兵農分離が出来ない武田家の事情が許さなかった。
(順を追うよりねえずら)
 信玄は山縣昌景と小山田信茂を招いた。こののちの策を求めたのである。信茂は大それた役回りだと固辞したが、信玄は切々と説いた。
「おまんは典厩・勘助・鬼美濃に薫陶された生え抜きの者なり。軍議の密事に欠かせぬ者である」
「買い被りにて」
 信茂は恐縮した。
「いや、弥五郎。それは違うぞ」
 山縣昌景が差し挟んだ。
「先日、土屋右衛門尉(昌続)より、家中で利口利発に長ける者は誰かと質された。儂はおまんの名を挙げた。右衛門尉は納得していたぞ」
「はあ」
「もう少し、自覚して貰わねばな。小山田兵衛尉殿?」
 畏れ入ると、信茂は首を竦めた。
「さて、こののちだが」
 駿河計略の策を信玄は求めた。山縣昌景は思案したが、信茂は即答した。
「流言飛語を」
「ん?」
「武田勢、再度小田原に攻めると触れるべし。今なら疑心暗鬼となり、伊豆から兵を退くものかと。小田原の備えを厚くすれば、駿河への手薄は必定。同時に和与間もない佐竹に、下野出陣の要請を。そして安房の里見との盟約を確固とされるべし」
 分かり易い策だと、信玄は微笑んだ。
 里見義堯との盟約は、今後のためにも必要だった。上杉への対策に佐竹も重視しなければならない。そして、流言飛語。武田の恐怖が記憶にある今だからこそ、有効な策だ。
「して」
「はい」
「軍勢をどこへ配ると?」
「蒲原」
 この地の要である薩埵峠には北条勢が詰めている。蒲原城を落とせば滞在が困難になり撤退することは明らかだ。そのうえで、駿府を取る。年内にしてのけることに意味があると、信茂は訴えた。
「これじゃ。これだから、弥五郎は手放せねえずら。のう、源四郎」
「まことに」
 信玄は大きく頷いた。
 武田勢、再度小田原攻め。
 この報が関東を揺るがした。本願寺経由で越中蜂起を促していた信玄の策略で、上杉輝虎は先の小田原長駆に干渉することが出来なかった。相越同盟の不信感を払拭するため、一一月になると上杉輝虎は沼田城に入った。鉢形も、滝山も、信玄の軍配を直接知るため、籠城を急いだ。これに乗じ、関東の反北条勢力が動き出した。佐竹義重の檄文によるものだ。このことが、いよいよ信玄の第二次小田原攻めを強く印象付けた。
 秩父口で小さな小競合いがあった。これが信玄襲来かと囁かれ、北条方は戦々恐々となった。
 その矢先の一一月下旬。武田勢は蒲原城を包囲し、電撃的な攻撃を仕掛けた。誰もがこのことを予想していなかった。籠城の支度もないまま攻められた蒲原城には、短期決戦以外の術はない。しかし、援軍要請の道筋すべてを抑え込んだ信玄に抜かりはなかった。蒲原城主・北条新三郎綱重率いる城兵は一〇〇〇人。徹底抗戦しつつも城下を焼討ちされ、更には諏訪勝頼・武田信豊の猛攻を支えきれず、一二月六日、北条綱重が討たれた。城兵たちも全滅。蒲原城陥落により薩埵峠の北条勢も撤退し、駿府への路が開いた。
 信玄は蒲原城代に山縣昌景を任じ、駿府攻略を一任した。
 駿府城を任されていた岡部次郎右衛門尉正綱は信玄の勧告により開城し、降伏した。信玄は駿府城に入り、そこで越年する。
「穴山左衛門大夫はいるか?」
 信玄は穴山信君を招いた。
「そなたが興津に踏み留まり、よう辛抱したゆえに今日がある。その働きは比類なきものなり」
「勿体ないことで」
「今後とも頼りとするぞ」
「は」
 越年ののち、駿府の西にある宇津谷峠より先に留まる今川勢力切り崩しのため、信玄は進撃した。その拠点、花沢城が陥落したのは一月二七日。この戦いで穴山信君は股肱の臣とされる万沢遠江守君吉を失った。万沢君吉の事蹟は子の修理亮君泰が継いだ。この主従の絆は強く、信君は終生この者を信頼した。君泰が父の遺領相続したのは二月七日、以後、遠江守を継ぐ。
 興津に留まり今川旧臣の武田帰属に対する取次を推進した穴山信君は、こののちもその任を続けた。この任は武田が駿河を完全に掌握したときに解かれたとされるが、穴山信君が負ったのは、偏に長年に渡る今川家との取次役という、実績と信頼があればこそだった。
 信玄は馬場美濃守信春に対し、一ヶ月で舟城を築城するよう命じた。
「舟城ですと?」
 聞き慣れぬ言葉に、信春は戸惑った。
 信玄は今川旧臣で舟に精通する者からなる水軍の構想を持っていた。これこそ、南蛮貿易をも視野に入れた、武田の生命線になるのだと訴えた。
「南蛮などと、なにゆえに?」
「鉄砲の弾も火薬も輸入されておる。今は堺から買うているが、結局は織田上総介の収入になるずら。それは面白くねえと思わぬか?」
「それは、そうずら」
「ゆえに戦さも商いも要となる場所が必定。それには三保半島の内海に湊を設けるのがいいと、岡部次郎右衛門尉(正綱)も云うておる」
 三保半島の松原は平安時代からの景勝地だ。その内湾に湊を持つとは、何と優美なことだろうか。後世、産業の要となる清水湊は、この築城によって飛躍的な前進を遂げる。甲州流築城術の達人とされる馬場信春が縄張りしたこの城を、袋城という。巴川の河口を生かした扇形状に突出す城地と伝えられる。この遺構そのものは現存せず、僅かな文献に記されるのみだ。袋城代は今福和泉守友清が任じられた。
 
 四月二三日、武田信玄は北口本宮富士浅間社に北条氏康・氏政父子の滅亡祈願をした。従う小山田信茂は、信玄の真意を読もうと思案した。
 いま、信玄の関心にあるのは、畿内のことではあるまいか。
美濃を得て足利義昭を後見したのちの織田信長は、破竹の勢いだった。その信長に対する強い意識があるのではと、信茂は考えた。
 伊勢大夫の言葉が脳裏を過ぎった。
「軍制改革が為されれば、京へ上るのも易かろう」
 すなわち兵農分離。
 農繁期に生産を行い農閑期に兵を繰り出す、当時の常識を改める考えは、信玄も抱いていた。それが出来ぬ現実は、すべて甲斐国を中心とする支配地ゆえのものだった。兵農分離は理想であり、為し難い現実だった。それを、信長は可能とした。
 駿河を得、海と水軍と湊を得て、信玄もその理想に一歩だけ近付いた。
 それはしかし、未だ理想なのである。
「北条滅亡など、本気ではございますまい」
 つい、小山田信茂は呟いた。
「神前で罰当たりな奴め」
 信玄は笑った。
 乾いた笑いの奥の瞳が、信茂に頷いていた。北条と和を取り持ち、関東との争乱を終えるべし。瞳は、確かに、熱を持ちながらもそう語った。
 信茂は確信した。
 信玄は海を得たことで、西へ向かう決断をしたのだ。その意思に応える工作を急がねばならない。北条氏政は若すぎて迂闊な者と聞く。氏康こそが頼りだった。
 正式に武田と北条が講和するまで、およそ二年を要する。
 その二年間、歴史の底辺で根気よく交渉を続けたのは、まさに小山田信茂だった。氏康の本音も武田との講和だった。上杉への失望が大きい分、武田への信頼が増したと云ってもよい。
 北条氏政が家中総意とし武田との和睦を再び結んだのは、元亀二年(1571)一二月二七日。このとき、北条氏康は既にこの世にはなかった。遺言として再同盟すべしという大義名分を持ち上げたのだともいう。
 この二年間、織田信長は室町幕府を傀儡にせんと、益々の実力をつけていた。軍事力、経済力、そして文化に対する理解。かつて信玄に逆らうことなく足掻いた頃の信長は、そこにはいなかった。自信に溢れ、天下取りを目指す、一己の戦国大名に化けた織田信長は、強大な敵として武田信玄を意識し始めていた。
                              つづく
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登場人物紹介

小山田信茂    

甲斐国郡内領主。武田二十四将。武田家を裏切ったと定説される文武の才に秀でた武将。

父・信有に嫌われて育つが、それは出自にまつわる秘密があった。

小山田弥三郎信有

小山田信茂と腹違いの兄弟。嫡流として小山田家を相続するが、のちに病没。ということになり、信茂を支える影の参謀となる。

武田信玄

甲斐国主。智謀に長けた戦国最強の武将。小山田信茂を高く評価し、その出自も含めて期待している。

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