第13話「軍勢、西へ(前)」

文字数 4,943文字



軍勢、西へ(前)


                  一


 元亀元年(1570)は駿河平定と引替えに、武田信玄の心労を蝕む年だった。七月二八日、信玄正室・華子が病没した。義信事件以降、すっかり心が病んでしまった。そのことに一切の怨み言を口にすることなく、戦国大名の妻という格式と威厳を保ち、逍遥と死した。これには、信玄も涙を隠せなかった。
 小山田信茂がこのことを知ったのは、伊豆韮山城を攻めている最中だった。この城を落すことは出来なかったが、武田の強さを伊豆の北条勢に知らしめることは出来た。帰国後、信茂は同陣していた山縣昌景とともに焼香に赴いた。
「両名とも、すまぬな」
「このたびは御悔み申し上げます」
 山縣昌景が代表して口上を述べ、韮山城・興国寺城の戦況を報告した。この陣には諏訪勝頼も参陣していた。猪突で荒削りながらも見事な奮戦ぶりを、信茂が報告した。
「四郎は一武将として槍を奮うのが丁度いい。しかし、太郎もなく、いつまでも陣代という訳にもいかぬ。理屈よりも、現実を優先しなければいかぬなあ」
「陣代から引き上げると?」
 山縣昌景は首を傾げた。
 それは拒否反応ではなく、事実確認の所作だった。いかに御親類衆の思惑があろうと、幼君に国の采配は出来るものではない。幼君に代わる者の采配が、戦国の世にあって国を保てる筈もない。
 選択肢はなかった。
 今は、勝頼を時期当主とする必要が、急がれた。
「源四郎と弥五郎が頼りだ」
 信玄の貌に滲む翳は、心労を隠せなかった。
 勝頼は翌年、正式に高遠城より躑躅ヶ崎館へと迎えられる。このとき孫である信勝も迎えられた。体裁的には信勝成人までの陣代と囁かれたが、実質上、武田家の次期当主は勝頼という周知が国内外に為された。
 諏訪姓より改めたことが全てを物語る。
 併せて将軍・足利義昭へ向けた懇願を行った。

   愚息四郎官途並御一字之事

 これこそ勝頼を後継者とする証といえた。
 この頃から、信玄の対外方針は、駿河から更に西へと移り始めた。
 京へ。それは、生きて華子に里を拝ませることも出来なかった信玄なりの、後悔の情だったのかも知れない。
 既に畿内では、織田信長の勢力が勢いを増していた。その同盟者である徳川家康も然り。この両名は、姉川合戦で浅井朝倉を破り、いまや破竹の勢いであった。
 畿内勢力は、反信長を叫ぶ者と、迎合する者、綺麗な程に選別された。
 迎合するのは松永久秀であり、抗うのは本願寺や朝倉義景・浅井長政だった。信玄は形式的には信長との同盟を結んでいる。が、それは表向きのこと。亡き妻の妹を正室とする本願寺顕如とは、あらゆる面で通じていた。
 信玄の動向ひとつで、双方勢力の浮沈が左右される。誰もが敵にしたくない存在として、武田信玄の動きに注目が集まっていた。


                  二


 一〇月一三日、谷村に西念寺の寺衆がきた。伽藍焼失による再建嘆願のためである。このことは既に、吉田宿移転に絡めた構想が固まっていた。
「本堂をしかるべき地に移転するものなり。それまでは仮堂を建て、仏事執行を怠らざるものとされたし」
 信茂はそう断じた。
 当時、西念寺には定まりし住持がおらず、信茂は供僧を三班に分け一か月交替で務めるよう伝え、寺衆番帳を作らせた。伽藍再興のための年貢調査も実施した。実にきめ細かいことだが、再建への意欲は檀家衆へは十分に伝わった。それほどまでに信茂が吉田の有力者たちと綿密なる関係を築こうとしていたかが垣間見える。
 同月一五日、弥五右衛門という人物が楫白川一〇〇抱・御代美一〇升を献上した褒美として、北面中央岳社の免除(課税免除の意)を定めた武田家朱印状が発給された。このときの奏者は信茂だが、同行を桃陽が行った。その際、うっかりと〈小山田信有 奏之〉と記してしまった。訝しがられつつも、誰も疑問に思うことなく片づけられた。ただ、その夜のうちに
「すまぬ。以後は気を付ける」
と、桃陽は深く信茂に謝した。表向き生きていてはいけない人間は、二度と世に出てはいけない。弥三郎信有という存在は、〈義信事件〉とともに消えたことにしなければ、信茂の腐心も水の泡だ。
「二度も死なせたくないゆえ、是非にもお願い申す」
 信茂も頭を下げた。
 このことは大事になることなく、忘れ去られた。
 この年、大外川の仁科六郎右衛門を通じて、いよいよ吉田新宿の普請がはじまったことを信茂は知った。暇をみつけては普請現場に足を運び、施工に係わる多くの者に、言葉を掛けた。
構想に時間を掛けた分、具体的な計画が出来上がっていた。
 あとは、現場の進捗を期待するだけである。
 記録の類に盛国とだけ記された人物が、吉田移転の担当者だった。姓も官位も差だけでない。いかなる立場や組織の者かも定かでない。或いは意図的に隠したものか、その名すら仮なる隠名か。詮索の術がない以上、ここでも強いて仮説を唱えず、ただの盛国として物語を続けたい。盛国は机上の計画から携わったこともあり、現場においては土質や起伏、更には傾斜の加減まで計算に入れた施工を采配した。最初に根神社を移転勧請させ、その西側へ参道を挟んだ長大なる御師宿街を割り振っていった。
 雪しろが新宿を直撃しないための迂回濠は既に完成していた。
 更に新しい吉田宿の水利を三本の水路で確保することを始めた。この宿場の起点となる要の場へ移転をしたのが、西念寺だった。
 この施工は、これより二年を要する。このことに対する信茂の意欲は、並々ならぬものあった。
 大きく何かが変わる。
 なんとなく、信茂は期待を抱かずにはいられなかった。
 たしかに、世は、大きく変わろうとしていた。

 年が改まり元亀二年、信玄は遠江・三河へ出兵を開始した。駿河はもはや武田領である。治世に滞りがなければ、民衆は新しい良き為政者に従うものだ。駿東深沢城を攻略した信玄は、在城衆として小山田弾正有誠を任じた。郡内山中に近い深沢城を任せる適任者といえた。有誠は騎馬二〇・足軽五〇を率いて深沢城に入った。
 駿河の地固めが為されるほど、信玄は西へと兵を押し出していった。
 この威圧を恐れた織田信長は、とにかく戦闘行為に至らぬよう、外交の限りを尽くして下手に出た。反面、徳川家康は直接の外圧に怯えつつも、若さゆえの威勢ひとつで、信玄と張り合う態度を貫いた。
 信玄が遠江・三河を併呑するのは時間の問題だと、誰もが思わずにいられなかった。それほどまでに、当時の武田信玄は、合戦・内政・外交とも、日本最強といってもよい。
 六月一四日、中国の雄・毛利元就が没した。
 織田信長にとって東の頂が武田信玄なら、この毛利一族は西の壁だった。元就は北条早雲・斎藤道三に並び立つ梟雄で知られるが、息子たちは結束し揺るぎない組織力を維持していた。
 毛利と武田が結べば、ただでは済まない。
 そのことを、信長は強く意識していた。家康のことはさておき、信長は徹頭徹尾、武田信玄に謙る姿勢を崩さなかった。
 九月一二日、事件が起きた。世に云う〈比叡山焼討ち〉である。
 信玄は延暦寺再建のため、身延山を明け渡すという考えを示した。このことは、穴山信君を困らせた。日蓮以後、南部河内の総本山である身延山久遠寺は、法華経の聖地だ。麓の民は等しく信徒だ。これを動かすことだけでも問題なのに、別の宗派にこれを渡すことなど大きな問題だ。このことに穴山信君は強く反論した。
「宗門のこと、人の心の光であり闇にもなり候」
 駿河の安定により興津城代を解かれ下山城に戻った信君は、内政に腐心していた。決して豊かではない土質でありながら、細やかな収穫に喜ぶ民の支えは、まさに日蓮そのものだった。
「これを取り上げたら、宗門一揆すら起こるものかと」
「そうか、それは困ったな」
「断固反対します」
 信玄は信君の意見を聞き入れた。
 弟を処断してまで忠義に徹する婿を、これ以上苦しめたくないという親心だけではない。宗門一揆が厄介なことを熟知していたからである。
 それにしても、比叡山を焼くほどの英断が出来るほどの器となった織田信長の存在が、気懸りだった。若輩と侮ることは出来なかった。もはや手段のためなら、これを討つことも視野に入れねばならぬ。
「左衛門大夫よ」
「はい」
「織田弾正は無視出来ぬな。そのためにも、三河は平定しておく必要がある」
「は」
「徳川という輩、よう調べておくべし。今川旧臣と懇意であるそなたなら、色々と知ることもあろうが?」
「心得て候」
 三河吉田城を落すなど、積極的に動いていた信玄は、このときより、明確に徳川家康を平らげる意思を明言した。このことは重臣たちにも伝わり、その言葉は、信玄上洛の風聞を生んだ。
 この風聞の真偽に怯えた織田信長は、卑屈とも取れる挨拶を幾重も行い、贈答品の出費さえ惜しまなかった。
 家康も驚愕した。まともに戦えば根こそぎ滅ぼされる。同盟者である北条氏政へ足止めを働きかけた。もっとも氏政とて、信玄の恐ろしさを身近に刻んだばかりである。日和見の男は、これで動く筈もない。
 一〇月三日に北条氏康が病没した。死に臨み、氏康は甲相同盟復活を遺言した。見栄と建前ばかりで一切頼りにならぬ上杉輝虎よりも、信玄の実利を選ぶべし。この言葉は、氏政の本音とも一致した。
 氏政の使者として甲斐を訪れた重臣・松田憲郷は、氏康の病死と同盟復活の懇願を向上した。駆け引きなしの交渉に、信玄は共感を覚えた。駿河は実質上武田が支配しており、今川のことを顧みる者はない。このことで無駄な損耗をすることは、武田北条とも互いに利するものはなかった。
 一二月二五日、小山田信茂は小田原城へ赴き、氏政と対峙した。
「父はいつもそなたを意識しておったが、このときに頼りとなるは皮肉なものじゃ」
 氏政は北条家取次である小山田家を過小評価していた。しかし、信茂には智謀も軍才もあることを、周囲が認めていた。下手な扱いは出来ない。
「相模守殿にとって、同盟ののちは安堵して上野国侵出へ精を出されませ」
 涼しい顔で信茂は呟いた。
 油断のならない男だ。きっと物別れとなれば、いつどこで伏兵が暴れだすか、知れたものではない。北条家臣団はそういう警戒心を解こうとしなかった。
「武田殿は西へ向かうのか?」
 氏政が質した。明け透けすぎだ。このような問いに答える者などいる筈がない。しかし、信茂はにっこりと笑った。
「三河の者と誼を通じるのは、これまでと為される様」
 その笑みが戯れ言か真実か、氏政は貌を強張らせた。
 盟約の条件のひとつである国分けは、思いの外、円滑に定められた。信茂の不気味さに圧倒された北条側の遠慮が理由だろう。駿河・西上野を武田領とし、武蔵・伊豆・東上野は北条領とした。そのうえで相越同盟の破棄も課題とされた。北条方はほぼ即決でこれに応じたと云ってもよい。一二月二七日、甲相同盟が結ばれ、武田信玄は後顧の憂いをこれにて断ち切った。
 この状況に怯えぬ信長ではない。
 機が熟せば、今にでも信玄は濃尾平野へ攻め込むだろう。その回避のためだけに、あらん限りの外交を信長は駆使した。
 信玄はしたたかだった。表向きは温和な関係を誇示し、決してこちらから手を出さぬ風を装った。そのうえで、不義理が生じれば、制裁もやむなしと声に出した。大義名分さえ整えば、いつでも軍勢が動くという、宣戦布告にも等しい言葉だ。信長はその実現を回避する徒労に徹した。
 武田勢は奥三河を席巻した。
 尾張を目指すことなく、それでもいつ事が生じるか分からぬ生殺しの焦燥に、信長は緊張した。熟睡することすら出来ず、苛立ちから家臣を怒鳴ることも増えた。
 武田の威圧は、じわじわと三河を南下しつつ、兵を用いずとも恐怖に駆られて寝返る者も増えた。時として飛騨方面にも武田勢は現れた。この威圧感は、言語を絶する恐怖となって、武力なき侵攻に結びついた。
 戦わずして屈した者に信玄は寛容だった。
 それに倣い、三河から武田に属す者は続出した。織田・徳川との武力衝突は時間の問題だ。現実認識に疎い者たちでさえ、武田信玄の動きをそうみていた。
                                つづく
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登場人物紹介

小山田信茂    

甲斐国郡内領主。武田二十四将。武田家を裏切ったと定説される文武の才に秀でた武将。

父・信有に嫌われて育つが、それは出自にまつわる秘密があった。

小山田弥三郎信有

小山田信茂と腹違いの兄弟。嫡流として小山田家を相続するが、のちに病没。ということになり、信茂を支える影の参謀となる。

武田信玄

甲斐国主。智謀に長けた戦国最強の武将。小山田信茂を高く評価し、その出自も含めて期待している。

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