第19話「皐月の長篠(二)」

文字数 9,707文字

皐月の長篠(二)


                  一


 徳川家康は、独立して一〇年ほどで膨れあがった、俄拵えの戦国大名である。家臣とする者の家格も、元は松平家と同格だった。そのためだろう。かつて家康の父は、三河者によって命を奪われた。いまも、家康を軽視する年配者は少なくない。
 三河松平家は、どこの馬の骨とも分からぬ漂白民(わたり)の末である。野武士風情の出自ならまだいい。漂白民は得体の知れぬ気味悪さを余人に感じさせた。ゆえに、このこと、いまの徳川家では秘事なのである。
 若き家康は、ともすれば激情しかねない己の地金を、必死に堪える日々だった。そのことは、奇しくも武田信玄に惨敗したことで学んだ。もはや死ぬ気であれば、堪え忍ぶことなど易い。その志があればこそ、比類なき武田軍団に臆することなく立ち向かえるのである。
 事件は、突然起きた。
 四月、武田勢は奥三河へ向け、続々と出陣した。その報せが岡崎に届く少し前、奥郡二〇余郷代官・大岡弥四郎が武田に内通する事件が発覚した。この事件の背景にあるものは、領内に漂う武田への恐怖だろう。ひとつやふたつの局地戦で、たしかに武田に勝利した実績はある。家康がそれを誇示することも、あの武田に勝てたのだという、恐怖の裏返しに過ぎない。
 徳川は、局地戦で武田に勝てた。しかし、高天神城が奪われたことも記憶に新しい。織田信長も武田との直接の戦闘を避けている。領内の不安は、正直なのだ。大岡弥四郎とて、武田の恐怖に正直な反応を示したに過ぎない。
 が、看過はできなかった。
 この者を鋸引き刑にした家康は、いまの時期、家臣すら信用できない境遇を自覚せざるを得なかった。武田勢がある限り、家康には安泰が訪れないだろう。そう思うだけで、激情が喉の奥まで込み上げて、今にも吼えたくなるのである。

 その頃、武田の先衆は足助城へ向かった。長篠城周辺を攻略し、孤立させるという作戦だ。その先衆に属した小山田信茂は、この合戦を、いつもの遠征くらいに認識していた。無駄な出費よりも、早く伊勢神宮への寄進段取りを整えたい。損耗を抑えて帰国したいくらいの認識だった。
四月一九日、先衆は足助城を攻略した。同時に展開する軍勢も作手城を拠点とし、野田城を奪回した。勝頼の本隊は作手城に入り、先衆と合流した。
「よう、してのけた」
 勝頼は労をねぎらった。
 二一日、勝頼率いる武田勢主力は、突如、長篠城下に姿を現した。この包囲は、例えるならば、電撃という形容が似合う。
 長篠城は最前線として、常に籠城戦を想定していた。しかし、心構えも定まらぬまま武田勢の襲来を受けたのだから、動揺しない方がおかしい。城主・奥平九八郎貞昌は信玄死後に徳川へ降った者だから、二度の降伏の許されぬ身である。援軍なき籠城は死に等しい。
 このまま静観するだけで長篠城は落とせる。
 包囲する諸将はそう考えた。
 しかし、二八日になって、勝頼は思いも寄らぬ言葉を発した。
「徳川の主力が吉田城にいるとの報せあり。軍勢を割いて進軍すべし」
 この言葉の意味は、勝頼が本来意図する目的が、長篠奪回ではなく家康との決戦だったということだった。甲斐ではそういう素振りもなかったのだから、従った将兵は謀られたことになる。
「卑劣である」
 穴山信君が詰った。
「そうでも云わねば、軍勢が仕立てられぬ。違うか?」
「味方を騙すとは」
「それが策である」
 とにもかくにも、ここは陣中である。滅多な動きは敵に気取られ、こちらの不利益となる。幸い軍の勢いは、まだ武田が有利だ。
 長篠城包囲に兵一千を留め、武田勢は三河方面へ南下した。
 途中、二連木城を山縣昌景の軍勢が攻めた。城主・戸田康長は山縣勢の猛攻を恐れた。山縣勢の背後には、武田の本隊が控えている。
「このような小城ひとつに、武田の総攻めとは堪らねえだがや」
 攻防数日、支えきれぬと悟った戸田康長は、城を放棄すべしと全軍に触れた。夜陰に乗じて逃走した戸田康長の行く先は、間違いなく吉田城だろう。
「吉田を囲むなら都合よし。払暁、これを追って討取るべし」
 勝頼は追撃を命じた。
「戻って長篠を落す方が早いのでは?」
 馬場美濃守信春が諌言したが、勝頼は追撃の主張を曲げようとしなかった。困ったように、馬場信春は穴山信君をみた。仕方がないと、信君は首を横に振った。
「献策これあり」
 土屋昌続が進み出た。足助城を守っている下条信氏に、長篠への出陣を促したのだ。城下の兵一千に軍勢が加われば、味方の士気は高まり籠城側は恐怖する。短期間で城を落とすためには、こういう心理戦が物をいうのだ。
 勝頼はその意見を受け入れ、足助城へ伝令を発した。


                  二


 五月一日。
 これは旧暦であるから、皐月は梅雨の只中にあった。長篠城下と背後の付城に武田勢は展開し、交通網の遮断を行った。これで外部との連絡は絶たれ、城主・奥平貞昌は先の見えぬ籠城戦に突入したことに絶望した。
 武田勢が戸田康長を補足した頃、これを救援するため吉田城から徳川勢が駆けつけた。これは幸いと、勝頼は撃滅を命じた。この軍勢は徳川本隊と記されるが、家康はいなかった。それでもこれを叩けば、三方原の再現となる。
 この戦いで、武田勢は勝利した。徳川勢は吉田城へと逃げ帰った。
 五月六日、武田勢は吉田城を囲んだ。吉田城は門を閉ざし、家康は、挑発の一切に応じなかった。どんな阿呆でも、痛い目に遭えば学ぶものだ。家康は三方原の教訓を生かし、すべての挑発を無視した。
「もう、いい加減にするべし」
 諸将の声なき声が勝頼を詰ったが、それに従う素振はない。この寄り道さえなければ、とっくに長篠城は落とせたかも知れないのだ。
 穴山信君は諸将をみた。
 厭戦の表情は簡単に読み取れた。気付いていないのは、勝頼だけだった。
(早く長篠を落とさねば)
 御親類衆筆頭として、穴山信君は遠征の損耗を如何に抑えるべきか考えた。ただ勝つことだけに傾注し、すぐに奪われるようでは、一切の得がない。
 利のない遠征は無駄だ。そのことを多くの宿老は知り、勝頼の傍にいる多くの者が知らない。これは不幸な組閣だった。
 吉田城包囲は八日まで続いた。
 満を持して、穴山信君が一刻も早い長篠攻略を説得した。さすがに勝頼も包囲の無益を悟り、ようやく武田勢は囲みを解いて長篠城方面へ移動を開始した。
 徳川勢は兵の数において、武田のそれに満たない。
 このことから、早いうちから信長へ援軍を要請していた。三方原以来、武田襲来のときは常にそうだった。信長は律儀に応じつつも、その全ての期待を満たした訳ではない。現に高天神城は見殺しにした。そういう事例も多々ある。単独で生きていけない徳川家康は、このことに辛抱するしかなかった。今度のこともそうだと諦めていたが、一〇日、織田信長は家康の要請に応じる決定を下した。

 一三日、自ら精鋭を率いて、織田信長は岐阜城を発した。
 信長出陣の報せを、このとき勝頼は知らなかった。諸国御使衆が澱みなく活動していたなら、きっとこの情報を察知したことだろう。武田勢は一一日に長篠城を包囲し、背後の付城へ兵を配った。付城は一日に長篠に着いたときから突貫で設けられた五つの砦のことである。君ヶ伏床砦には和田右兵衛大輔業繁、姥ヶ懐砦には三枝勘解由昌貞・源左衛門守義・甚太郎守光の三兄弟、中山砦には飯尾助友・飯尾祐国・五味与惣兵衛・名和田清継・名和無理之助、久間山砦には浪合備前守胤成、鳶ヶ巣山砦には主将として河窪兵庫助信実が任じられた。
「包囲の要は叔父上ずら」
「初めてじゃな。叔父上などと、そんな馴合いを口にするのは」
 河窪信実の言葉には、一歩引いた冷ややかささえ含まれていたが、勝頼は聞き流した。このときの勝頼の心には、充分な余裕があったようだ。
 勝頼の本陣は医薬寺山に敷かれた。この辺りの地形を調査した陣馬奉行・原隼人佑昌胤の慧眼によるものだ。宿老たちは長篠城の短期陥落を主張した。勝頼も渋々従った。付城を設置する采配も、勝頼ではなく地形を知る山縣昌景の指図だ。結果的にこれが生かされただけに過ぎない。
この日のうちに野牛門への攻撃が開始された。
 と同時に、金堀衆による城塁掘崩しが実行された。この戦術は過去に成功例が多い。長篠城側は武田勢が本気になったことを知り、恐怖で一部の兵が混乱した。
 一三日には土塁が突破され、馬場信春・小山田昌辰の兵が瓢郭へと侵入を開始した。
 一四日、武田勢は三の丸・瓢郭・弾正郭を占拠し、勢いで糧倉を接収するに至った。この時点で奥平貞昌の支配するのは、よもや本丸のみとなった。兵糧も奪われた以上、壊滅は免れない状況だった。
 援軍なき籠城は死を意味する。
 この包囲を突破し、徳川へ援軍を求める強者を集ったところ、鳥居強右衛門なる者が進み出た。
「必ず徳川殿の援軍要請を得ること」
 奥平貞昌は縋るような目で、鳥居強右衛門に命運を託した。
 梅雨の河川は増水しており、水練達者が潜って川を下れば気取られる心配はない。鳥居強右衛門は水練達者だった。寒狭川の激流へ身を躍らせた鳥居強右衛門は、辛くも武田の包囲を抜けて岡崎へ走った。岡崎城へ鳥居強右衛門が転がり込んだのは、翌日のことである。
 すぐに家康に面会し、鳥居強右衛門は長篠の窮乏を訴えた。このとき武田の布陣を知りたがる痩せ面の大将は、織田信長その人だった。鳥居強右衛門は信長の顔を知らなかった。
「武田が高台に陣している限り、勝ち目はねえだがや。ゆえに引摺り下ろせば合戦も易い」
 布陣の情報に信長は大きく頷き、明日にも進発すると、鳥居強右衛門に語った。
 援軍がくるとなれば、長篠城の士気は高まる。急いで走りだした鳥居強右衛門だったが、翌日、城内侵入の困難さに一計案じた。なんと、武田兵になりすましたのだ。隙をみて城に入ろうとしたが、しかし、逸る気が不審さを隠しきれなかった。穴山信君同心・河原弥太郎がとっさに合い言葉を掛けた。答えられない鳥居強右衛門は捕縛され、信長が迫っていることが露呈した。
武田勢が信長のことを知ったのは、このときだった。
 穴山信君はこれを勝頼に伝えず、先に武田逍遙軒信綱に報せた。
「剛胆な男だ。奴が虚報をもたらせば城はすぐに落ちる。そうさせよう、その者は儂の郎党にしたい」
「さっさと殺すべきでは?」
 浮世離れした逍遙軒の考えを、信君は詰った。しかし全ての責任を取るといい、鳥居強右衛門の身柄を奪われてしまった。
「厭な予感がする」
 穴山信君は小山田信茂の陣にきて、そっと呟いた。信茂も同感だった。沈黙こそが長篠自落の最良の一手なのだ。もし自暴自棄になった奥平勢が死兵となって押し寄せたら、囲む側とてただでは済まぬだろう。
「すぐにやめさせよう」
 信茂の言葉に、信君は頷いた。
 しかし、このとき鳥居強右衛門は既に城内に向け
「織田様三河様の援軍近し、三日の辛抱ぞ」
と叫んでしまったのである。
 裏切らせようとした逍遙軒の浅知恵が、敵の息を吹き返す手伝いをしたことになる。鳥居強右衛門はその場で磔刑にされた。
「取り返しのつかぬことをしたものよ、叔父上」
 勝頼は逍遙軒を詰るように見上げた。
「こんなつもりじゃなかったのだ」
と、逍遙軒は弁明したが、すべては見苦しい云い訳に過ぎない。遠州森に次いで二度目の失態だった。
「とにもかくにも、軍議は必要かと」
 穴山信君が呟いた。
「いや、今は一刻も早く長篠を落とすべきにて、軍議は無用かと」
 そう差し挟んだのは、小山田信茂だった。
 意外な物云いだと、勝頼は目を丸くした。
「長篠が落ちれば、弾正忠の出兵理由はない。城を奪い返そうにも、武田勢が守備するものを力押しする真似もせぬ。高天神のときのように、ただ落とすことだけを考えなされ」
 勝頼は愉快そうに笑った。
「反対する者はいつも理由が不明確じゃ。兵衛尉のように納得のいく理由があれば、儂とて聞く耳はござるぞ。のう、叔父上」
 嫌味だ。
 逍遙軒は俯いたままであった。信君は目を剥いて睨むばかりだが、理屈で云えば、信茂の物云いにも利はある。
 早く城を落とせばいいだけなのは、事実だ。
「攻める手を弛めぬ。二日のうちに長篠を落とすべし、一同、気を抜くな」
 呻くような信君の言葉は、全軍に伝播した。

 翌一七日、武田勢は本丸まで肉迫したが、援軍を期待する城兵の士気は強かった。抑え込まれたことで、寡兵でも守備が足りることは皮肉なことだった。手薄にならぬ以上、これを攻め落とすのは総力戦のみである。少なくともこのときの武田勢は、全軍で城を落とす意図で間違いはなかった。
 が。
 とある報せが、勝頼の気を削いだ。
 信長と家康が野田城に入ったというのだ。もしこれを掃討することが出来れば、三河・遠江の基盤が盤石となる。その色気を覚えた勝頼は、城攻めの手を抜き、野戦への備えを始めたのである。
 無論、これは独断だ。
 そのため、攻撃は手薄になった。
「こんなことばかりでは、家中の統制は儘なるまい」
 呆れたように穴山信君は吐き捨てた。戦場ゆえ我慢をしているが、それも限界である。この気持は穴山信君だけのものではない。多くの宿老の本音といえた。

 五月一八日。
 織田信長が長篠へ姿を現した。極楽寺山に布陣したという報せが届いた。同時に徳川家康は高松山に布陣した。
 雨は止まない。仄暗い視界の彼方に、両軍の陣はよく見えなかったが、このことが長篠城の士気を更に高めた。
「こうなる前に落とすべきだったのだ」
 小山田信茂は溜息を吐いた。
 勝頼はこれまでの戦さぶりから見て、局地的な力押しに強い武将だ。信玄と異なる点は、合戦後のことを考慮して深慮遠謀に徹する繊細さがない、ということに尽きる。この傾向は上杉輝虎に等しい。場当たりで無敵の上杉も、領土仕置に関しては信玄の足下にも及ばない。その欠点を克服するため、神懸かった真似をして人心を掴んでいるのだ。しかし勝頼には、人を惹きつけるそれすらない。
 しかし、一番の問題は、諫言も厭わぬ軍配者がいないことだ。
 若い頃の信玄には、山本勘助や武田信繁という、忌憚なき物云いする者がいた。信玄もこの声に耳を傾けた。両名亡きあとも、原虎胤といった古参の将に学ぶ謙虚さがあった。信玄にはそれがあり、勝頼にはそれがない。そして、その役を担うべき馬場信春・山縣昌景の意見に耳を貸さず、穴山信君の諫言すら遮断する。信玄の作法に慣れた彼らが拒否反応を示すのは道理というものだ。
「未だ間に合う。城を落とすべきだ」
 小山田信茂は厭戦の諸将を説いた。
 しかし、肝心の勝頼にはその気がない。こうなると戦さにもならない。とるべき策は、ひとつだけだ。
 撤退、である。
 一旦退いて、出直すしかない。
 もしも追撃されたときは、然るべき場所で迎撃あるのみ。このような山中で合戦に能う平地はたかが知れている。退いて、地の利を確保したうえで、三方原を再演すればいい。信玄とともに戦場を駆け抜けた、経験豊富な数多の武将たちは、むしろその考えだった。いや、考えではない。理であり常套手段であり、自然な流れであった。
 勝頼の思惟は別として、まず原隼人佑昌胤が動いた。敵陣周辺の地形と、備える当方の対比である。原昌胤は父子二代に渡る武田の優秀な陣場奉行だ。布陣の慧眼は秀逸と云ってよい。その彼が認めた敵地は、丘陵の裏山にあたり守備にこそ適するもので、間違いなく援軍要請だけに応えたものだった。また、そこに至る地形は田畑であるが、長雨で沼地にも等しく、野戦に適するものではない。
「攻めて利する場所ではないな」
 である以上は、こちらから手を出さぬ限り、敵味方ともに損耗はないという判断だった。
 この考えは、先ず馬場・山縣・内藤等宿老上席に伝えられた。彼らの考えと、調査結果が一致したことを確認した上で、穴山信君・武田信豊の両名に報告を上げた。御親類衆筆頭の両名も同じ考えだった。そのうえで
「小山田兵衛尉を呼ぶべし」
 信君は異例にも信茂の判断を仰いだ。
「陣中においては、左衛門大夫殿の決定が勝りますが?」
 怪訝そうに信茂は首を傾げた。
 その上で、状況と方針は一致するという同心を示した。
「ならば当代に上申の際は一緒に頼むし。あいつは人の話を聞かないゆえ、兵衛尉殿の方が上手に説得してくれる気がする」
「誰でも同じずら」
「いや、儂が安心する、お頼み申す」
 そう云われれば仕方なし。信茂は御親類衆筆頭両名と、馬場・山縣両名とともに、勝頼の本陣に足を運んだ。
 勝頼の反応は、予想通りだった。
「わざわざ敵が出てきてくれた。千載一遇の機と思わぬか?」
 勝頼は決戦を主張した。
「あれは形だけのこと。体裁が取れればいいだけにて、長篠が落ちれば退くもの。このような悪い地形で、場当たりなことをしては困る」
「左衛門大夫は場当たりというが、皆も同じ考えか?」
 五人が頷くと、愉快そうに勝頼は含み笑いした。
「これは予定のことじゃ。織田方の佐久間右衛門尉(信盛)なる者が背信し武田に内応すること、事前に知らせておる。合戦に及べば陣中に引入れ、本陣まで手引きすることだろう。長篠城を攻めればこうなることは予定のことじゃ」
 そういって、勝頼は懐から熊野牛王符で描かれた誓詞と書状を出した。日付は三月末、長篠出兵を発する以前だ。
 あきれたものだと、穴山信君は罵倒した。
 何から何まで、勝頼は味方を欺き通したのである。大岡弥四郎の内応騒ぎなど、ついででしかない。本命はこちらだったのだ。
「その佐久間右衛門尉を信用出来るものか?」
 山縣昌景が疑義を訴えた。
 佐久間信盛といえば織田の筆頭家老である。信長を裏切る利などあろうか。しかも連署の者が松永久秀とあるのも気になった。当時、佐久間信盛は大和衆として松永久秀を擁していたが、そもそもこの男は、信用に値する者ではない。
「罠と疑いなされ」
 ふと、小山田信茂が低い声で呻いた。
「松永弾正なら、平気で主を裏切るでしょう。しかも状況を察し、平然と保身を企てる。この佐久間という者とて利用されているのかも知れぬ」
「臆したか」
「動けば、当代様もあれに弄ばれましょうな。狡猾さでは足元にも及びますまい」
 いつになく厳しい口調なのは、かつて命を狙われたことがあってのことだった。それ以来、信茂は松永久秀を信用していない。また、久秀の今日に至る経歴が、人となりを語る全てだった。
「熊野牛王符を疑えと?」
「疑って宜しい」
「天罰を恐れぬとは、あり得ぬ」
「織田弾正とて、叡山を焼いてなおも壮健である」
「だまれ、儂は信じぬぞ」
 勝頼は烈火の如く怒りを露わにした。
「小山田兵衛尉の言にも一理ござる。軍議を以て再考を願いたい」
 穴山信君と山縣昌景が取りなしたが、勝頼は聞く耳を持たなかった。とうとう、穴山信君が激昂した。
「味方の諫言より、敵方の調略を信じるのか!」
 さすがに勝頼も黙ってはいられず、太刀に手を伸ばしたところを羽交い締めにされる有様だった。
「当主の言葉を聞けぬなら、左衛門大夫は右翼後陣、兵衛尉は左翼後陣に留まるべし。手柄は望めぬと心得よ」
 そのうえで、勝頼は織田勢への攻撃布陣を指し示した。
 物見の報せで右翼に佐久間勢がいると知った勝頼は、そこへ馬場・一条・真田といった強者を充てると断じた。ここから信長本陣へ一気に押し寄せることが適う。左翼は徳川への牽制として、山縣・小幡といった駆引き巧者を配した。
「それこそ敵の思う壺、当方は動くこと能わず。ここにいる限り、敵は手出しが出来ませぬぞ。恐れながら当代様には『孫子』一読をお薦めしたこと、よもやお忘れか?」
「そんな古くさい物など、用はない」
「されば兵を無駄に死なすこと、大いなる罪なり!」
 小山田信茂が布陣を否定した。
 このような強い口調で制したことは初めてだ。しかし、この考えは、経験豊富な宿老には、直感で同意するものだった。勝頼は口汚く信茂を罵った。臆病者とも発した。
「云い過ぎである。小山田兵衛尉は先代様が薫陶されし識者なるぞ。当代とて、このこと許され難いものなり」
 穴山信君が激昂した。
 こうなると、もはや話にもならなかった。陣所を出ると、信茂は項垂れたまま
「余計なことを述べて、場を壊した、すまぬ」
と謝罪した。しかし、信茂の言葉は、他の者の代弁だ。
「決定の評議で、今一度諫めよう」
 山縣昌景と馬場信春が呻いた。雨脚は一段と強くなり、滅入る気分を募らせた。信茂は凡徒に説く言葉を誤ったと、ただただ悔いた。


                  三


 後世、鉄砲対騎馬と対比された長篠合戦である。
 資料や物的な検証も進み、令和の世となる昨今、このことは講談めいた事と囁かれる。それまでも〈鉄砲対馬〉という逸話を否定する声は数多あったが、通説という安易な結論に縛られたのである。無論、この通説なるものは、なおも健在といってよい。この作品は通説ではなく、状況を切り取った解釈で綴りたい。無論、戦場を俯瞰する訳ではないので、特定の誰が活躍しないのは可笑しいとの批判は御容赦頂きたいことを、先に申し述べるところである。

 五月一九日、武田勝頼は極楽寺山の織田信長本陣を攻めることを軍議の場で決した。軍議とはあるが、これは一方的な命令で議論を尽くすものではない。このことに不服を唱える声を、勝頼は聞こうとはしなかった。
「陣場奉行として、野戦は勧めませぬ」
 原昌胤が叫ぶように発した。
 多くの書は宿老の意見を跡部勝資・長坂長閑斎が遮ったとあるが、それだけで決戦となるものだろうか。すべては宿老を含めて納得させる決定打があったと考えるべきだ。勝頼個人の命令ではなく、家中が納得した決戦の考え。それを促したのが、件の佐久間信盛背信状だ。熊野牛王符には、それほどの説得力があった。ゆえに不利を主張した原昌胤をも含めた諸将たちが、決戦に応じたのである。
 この時点でなお反対する者は、穴山信君と小山田信茂。
 二人は終始、口を噤んだまま声を発さない。その無念を思うからこそ、力押しではなく臨機応変な兵配りをと、馬場・山縣の両名が献策した。しかし、勝機を見出した決戦の場で、臨機応変などと消極論は、誰の心にも響かない。
 勝頼は堅固で充分に過ぎる布陣場だった医王寺山より本陣を動かした。寒狭川を渡り、清井田と呼ばれる場所へ布陣を完了したのは二〇日のことである。梅雨で増水している寒狭川の大軍渡河は容易なものではない。しかも好立地を棄ててまで行動するのは、尋常な決断ではない。
「武田は、信玄ではや終わりでや」
 織田信長は佐久間信盛に背信状を奨励していた。やはり、罠だった。
 信玄ならば、このような誘いを疑うだろう。しかし、勝頼はこれに乗った。忍ばせた間者の情報では、真っ向から反対したのは穴山信君と小山田信茂だけとのことだった。
「あの小山田弥五郎か。この策を見破ったとしたら、いやはや、さも恐ろしい男になったものだがや」
 信長は熱田で見た信茂を忘れたことはない。その才気は侮るものではないと見抜いた通りだと、愉快そうに笑った。
 ああいう敵がいなければ、戦国は面白くない。
 勝頼などは敵ではないと、この日、信長は確信した。

 戦場の高低差は勝敗を左右する要である。
 孫子曰く。
 険なる形には、我れ先ずこれに居れば、必ず高陽に居りて以て敵を待つ。若し敵先ずこれに居れば、引きてこれを去りて従うこと勿かれ。
 高低差において優位にあった武田勢は、その利を自ら捨てた。そのことで立場が逆転した。これは、局地戦のみに才を磨き過ぎた、勝頼の盲目だった。そして、それを諫めることが適わなかった武田家諸将の限界だった。
 信玄という一己の軍神に見出された比類なき者たちは、その采配のみで光彩を放つことが叶った。
 信じたくはないが、そうだとしたら、なんとも儚いことだろうか。

 長篠合戦は、二一日払暁、梅雨の終わりとともに開戦した。
                               つづく
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登場人物紹介

小山田信茂    

甲斐国郡内領主。武田二十四将。武田家を裏切ったと定説される文武の才に秀でた武将。

父・信有に嫌われて育つが、それは出自にまつわる秘密があった。

小山田弥三郎信有

小山田信茂と腹違いの兄弟。嫡流として小山田家を相続するが、のちに病没。ということになり、信茂を支える影の参謀となる。

武田信玄

甲斐国主。智謀に長けた戦国最強の武将。小山田信茂を高く評価し、その出自も含めて期待している。

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