第14話「軍勢、西へ(中)」

文字数 8,790文字


軍勢、西へ(中)


                  一


 元亀三年(1572)正月。
 吉田新宿の整地が完了した。根神社を先行して移転し、地鎮祈願を盛大に行ったおかげだろうか。大きな事故も起きなかった。西念寺も新しい境内地を設け、あとは人の暮らしが染み込むのを待つばかりだった。寺社だけは年明け前に移転を済ませ、新年の祈祷がここから始まった。
 まず、御師たちが率先して転居した。
 御師に釣られて商人が移転すると、生活者が続々と移った。この吉田新宿は大きな都市計画構想で設計されたものだ。今日、上吉田・中吉田とよばれる一帯がこれに相当するから、いかに広大なプロジェクトだったかが想像できよう。この新宿をおおよそ三つの街割りで用途を定めたと考えられる。今日で云う用途地区とも考えられる。まさに都市計画と公言して憚らない、自治都市・吉田宿にふさわしいものだった。
「谷村様のおかげにて」
 正月早々、御師衆が挙って信茂のもとを訪れた。
「吉田は郡内のなかの堺になればええずら。ただし南蛮貿易は適わぬがな、多くの商人に来て貰えることを望むし」
 信茂のいう堺の具体的な姿を、多くの御師は知らない。情報として朧気に知る限りである。自治の街という意味では、堺と気質が共通しているだろう。あちらは商人が街を引っ張り、こちらは御師が引っ張るという違いはある。
 信茂は吉田そのものを支配する気はない、
 ただ統治の一助をするのだと公言した。曖昧な物云いだが、御師たちは素直にその言葉を聞き入れた。
 大外川の仁科六郎右衛門は御師を代表して、雪しろの脅威が軽減したことの感謝を陳べた。
「こののちは若い世代に託し、年寄りは隠居するものなり」
「こののちも仁科六郎右衛門には教えて貰いたい。六郎右衛門だけじゃないぞ。年寄りを邪険にすることは、致すまじ」
「その言葉だけで満足にて」
 吉田移転は、御師の若返りと活性化の転機だった。
 資料によれば、江戸時代中期の吉田管理は御師大玉屋である。もしも変わりがないとすれば、当初からそうだった可能性がある。当時の大玉屋は、与覚斎という人物が当主である。移転直後の吉田宿について委細の姿は判別適わないが、どのような物事も最初が肝心である。恐らくは町衆による統率と団結があらたにされ、同時に、小山田家との一致が確立されただろうと想像できる。
 三月。
 信茂は甲相同盟復活により、富士参詣道者が増えると見なした。そこで、刑部新七郎に対し、諸役所を半関(通行料の半額)にするよう指示した。
 吉田宿はこれに応じた。その結果、莫大な利を生んだとされるが、この思い切った移転実施が福を招いたのだと、上も下も吉田衆はその損得勘定の結果を喜んだ。
 
 ひとつの火種が東美濃にあった。
 岩村城主・遠山左衛門尉景任と織田信長叔母・艶の婚儀は、信長の美濃平定以後のことである。東美濃の遠山一族は武田・織田両属であり、この婚礼には武田側からの参列もあった。当時の伊那郡代・勝頼の名代として、秋山伯耆守信友が臨席した。
(綺麗な女性ずら)
 他人の華という言葉があるが、信長の家系は元来美男美女が多く、秋山信友も見惚れた参列者の一人となった。両属である遠山一族は結束を固めながらも、この岩村城主・遠山景任を織田向け筆頭とし、その弟で苗木城主・遠山左近直廉を武田向け筆頭として生き残る道を辿っていた。特に遠山直廉は勝頼亡妻の実父であり、後継者が約された信勝外祖父だから、信玄も何かと言葉をかけた。
 この直廉が没したのは、五月一八日のことである。
 信玄の命で飛騨国益田郡に侵攻し、姉小路飛騨守良頼と戦い、そのときの疵が元だとされる。苗木城の遠山氏は男子がないことから、すかさず信長は飯羽間遠山勘太郎友勝を送り込み、城主とした。このことが東美濃の均衡を狂わせた。東美濃を織田寄り勢力に塗り替えたことに対する、信玄の不服は大きい。このことに鈍感な信長ではなかった。ただちに贈答を重ねて機嫌取りに徹する一方で、岩村城には五男・坊丸を送り込み、遠山景任の養子とするよう勧告した。
 景任は艶との間に子を設けていなかった。不妊か、不能か、男女の沙汰は記録から伺うことは難い。この養子縁組が行われたことで、このとき景任が没したという説もあれば、のちの合戦で没したという説もある。このあたりは曖昧だ。五月に没したのは弟・直廉である。養子縁組が重なったことで、混在した可能性もあったが、定かではない。諸説の内より、本編はこのとき景任はまだ没していないという説を用いて進めていく。
 養子・坊丸は当年五歳。
「我が甥である弾正様に、よう顔立ちが似ておる」
 艶は喜んで我が子に迎え入れた。
 男として不十分な夫に湧かぬ情を、この少年に傾けたことは自然なことだった。叔母とはいえ信長と歳の近かった艶にとっては、近親の情を傾けることは不思議ではない。或いは信長と通じて孕んだ妄想さえ覚え、この背徳感から生じた愛情を掻き立てた。
 艶は元々、性に奔放な女だった。景任に対する欲求不満の裏返しが、坊丸の溺愛だった。
 とにもかくにも、岩村城も苗木城も、両属の均衡が崩れたのである。明確に織田の拠点となり、武田の支配から解放された。この現実だけは揺るぎがない。講和を叫ぶ言葉の裏で、きちんと軍事衝突の準備を整える。これが織田信長だ。その周到さがあればこそ、この時点で畿内を実行支配出来るのである。織田掃部助忠寛を差し向け、進物やら耳障り良い言葉を並べるなど、したたかな所作も、すべては戦国ゆえのことだ。
「織田の小倅め。敵ながら、天晴れだとは思わぬか」
 信玄は満座の席で、こう明言した。

 六月、信玄は小山田信茂を府中へ招いた。
「相談が、な」
「東美濃に?」
「いや、まずは三河ずら」
 信玄の傍らには勝頼が控えていた。三人は、図面を囲んだ。
「徳川のこと、穴山左衛門大夫に調べさせておいた。あれは面白い連中じゃの?」
「面白いとは?」
「時宗の末裔でありながら、武士団になったのが松平家。おまんも伊勢へ行く途中に会うたのだろう?」
「はい」
「あの意固地なまでに織田弾正に尽くす様は、不思議じゃ。損得もなしに従う様がな。ああいう愚直な者を転ばせたら、さぞや織田弾正も驚くだろうな」
 家康の調略をする気かと、信茂は質した。
 否と、信玄は笑った。調略に応じるような者には興味がないと、信玄は呟いた。
「死ぬほどの恐怖を与えるには、どうしたらいいかのう」
 信玄の笑みには狂気が入り交じっていた。こういうときの信玄は、何を考えているのだろう。本気か、冗談か。
「冗談じゃ」
 そういうものの、怪しいものだ。
 信茂は胡散臭そうに信玄をみた。
「この年の暮れに三河を攻める。しかし、東美濃へ向かうための布石ずら。背中を討たれぬためには、徹底的な恐怖がいい。弥五郎ならわかるだろう。おまんは滝山城でそれをやってみせた」
「最初が、肝心ですから」
「ゆえに、三河の徳川を叩く。そのうえで東美濃へ攻める。問題は、どうすれば徳川が震え上がるかじゃ」
 信玄は最小の労苦で東美濃を平定するつもりなのだ。巧みな外交で支配圏を奪った信長に対する切り返しだろう。
 徳川の戦意を完全に奪う。生半可なことでは、上手いことは行くまい。
「軍勢を三方に配するということで?」
「ん?」
「神速こそ肝要。ゆえに隊は分けて、独自に動くのが得策」
 愉快そうに信玄は笑い、これが小山田の軍略なのだと勝頼に諭した。意味が分からぬという勝頼に、信玄は三隊の動きを指し示した。あくまでも仮という前提であった。
 武田の一隊は天竜川に沿って南下、これで徳川家康を岡崎城に封じる。同時に奥三河に進出し在地豪族を掌握する。もう一隊が、東美濃へ圧力を掛ける。
「どうだ?四郎が敵なら、東美濃をどう死守するか?」
「飛騨の姉小路を唆し……」
「年の暮れと云った。雪が路を阻む」
 あっと、勝頼は叫んだ。
 安房峠の雪解けは春遅い。それまでに東美濃を攻略することは易かった。
「いいか。武田の知謀を持つ家臣は数多あれど、郡内小山田をおいてその優れたる者はなし。四郎が我が後継者となる場合は、決して弥五郎を軽んじることなかれ。おまんにとって大切だった、あの山本勘助に薫陶を受けた者である。心しておくべし」
 勝頼はじっと信茂をみた。
 疑うような、試すような、瞑い翳りのある瞳だ。
「兵衛尉に問う」
「なんなりと」
「そなたが尽くすは、父か。武田家か。下之郷起請文に従えば、父一代への忠勤と思うが?」
「確かに下之郷起請文は御館様への精勤を証す誓詞なり。ゆえに武田家への御奉公を誰もが尽くすものなり。然るに小山田兵衛尉は、武田家へ尽くすものに存ずる」
「詭弁じゃ」
 勝頼は吐き捨てた。
 信玄は勝頼を制した。こういう堪え性の足りなさが、後継者の素養に欠けているのだと、低い声で呟いた。諭すように、威圧するように、黙って頷けと云う言葉の意味を、勝頼自身は理解していない。
「弥五郎に問う。戦国にあって一国を統べる四つの素養を述べよ」
「されば」
 信茂は即答した。
「一に出自の素養。二に位階の素養。三に胆力の素養。最後は独自性の素養と心得ますが」
「四郎はどうか、わかるか?」
 勝頼は首を横に振った。考えたこともないと、項垂れた。
「出自とは血統なり。武田家は甲斐源氏、この血をして人は支配に従う。位階とは朝廷権威、すなわち肩書が支配をする。胆力とは業績に従うことを意味し、独自性は強烈な個性で人を支配することずら。四郎は出自以外に何もなし。ゆえに人から軽んじることを自覚せよ」
「そんなこと」
「己がいちばん知ること。ゆえに人の目を常に気にするのだろう?」
「……」
「合戦に強い大将という評判は認めよう。しかし、戦う前より勝敗を決する術を用いることこそ、まことの強い大将と知るべし。おまんは猪武者に過ぎぬ。人の上に立つからには、人の声に耳を傾け、人が納得する結論へと導くべし。兵衛尉のような者が、この武田家に数多おる。そのことを感謝せよ。それらの声を聞き、まことの大将となるべし」
「……」
「よい、下がれ」
 信玄の言葉に、勝頼は項垂れたまま退室した。
「済まぬな、弥五郎」
「些かも」
「まこと、太郎が生きておったなら、こんな苦労はない」
 信玄は暮れの軍事行動を、東美濃奪回の目的と明言した。あわよくば岐阜も攻めることが出来よう。三河へは牽制するだけでいい。蛮勇に駆られて家康が出てくるのならば、討ち取ればいい。ただ、それだけのことだった。
「この西へ行く軍勢な。郡内勢を先陣としてぇずら」
「まことで?」
「留守の都留方面は、荻原豊前守に一任するが」
「北条とは表向き講和中ゆえ、懸念なし。岩殿城にに荻原豊前守殿がいるなら、安心して任せることが出来るものなり」
 滝山攻めの功もあり、荻原豊前守昌明は信茂出陣時は、備えの将として岩殿城に入ることが多かった。都留郡内の諸将も、荻原昌明を信頼している。
 荻原豊前守昌明は秩父口荻原郷に代々居を構え、下釜口狼煙台を管理する立場だ。本来ならば都留郡内に深入りする人間ではない。昌明は六〇に近い歳である。子の弥右衛門昌之が相続していたので、都合よく配することが出来た。それに伝説の軍師として、荻原常陸介昌勝の武名は、世代を超えて知られていた。その血縁であるだけで、郡内都留の者たちに顔が利く利点もある。信玄はそのことから、荻原昌明
「岩殿城は武田家の出城ゆえ、その任官に口は出しますまい。されど豊前殿が参ると、色々と郡内の事情を理解して貰えるので、有難いこんです」
「ならば、決まりじゃ」
「はい」
「郡内勢は儂と行動を共にする。三河を突くこととしたい」
「恐れながら」
「なにか?」
「遠州に攻めるという献案、これあり」
 信茂は天竜川より西側も平らげるべしと意見した。三河を封じても決して背後は安泰ではない。まとめて封じることが得策と口上した。
「それでは時間が掛かる」
「御館様もご存じのはず。浜松城は改修を終えております」
 家康は浜松城で迎え討つ考えだろう。そしてそれは、小田原城のことを知り、唯一、籠城こそ武田に抵抗できる手段だと知った、ということだ。
「面白いな。さすが弥五郎、耳がいい」
「徳川は絶対に浜松城に籠もります」
「で?」
「籠城が無意味と悟らせれば宜しいかと」
「ふふふ、意地の悪い」
「畏れ入ります」
 信茂の考えていることは、言葉にせずとも信玄の脳裏に描けたようだ。この策は、のちに実現することとなる。信玄は三河南下を止め、遠江南下を決した。
「四郎のことな、頼むぞ、弥五郎」
「申すまでもなく。武田の後継者なれば、是非もなし」
「あれは思うより家臣に人気がないようじゃ。御親類衆の覚えも悪い。こういうときは宿老に託すよりないずら。太郎が生きていたならば、こんな苦労など。いや、考えても仕方がねえし」
 勝頼の不人気は、出自だけではなく勝ち気に過ぎる気性ゆえだ。一介の将ならば手柄を競うよき臣となっただろう。信玄を継ぐことは、重圧だ。ゆえに、その気性が災いした。家臣の声を聞かぬようでは、求心力も翳るに相違ない。
「耳の痛いことを口にする、嫌われ者に徹しましょう」
 信茂は低い声で、そう応えた。



                  二


 この年、渡辺・萱沼の一族が中心となって、月江庵が寺の場を移した。二度の雪しろが原因である。新しい境内地から観る富士は格別だという安左衛門の言葉に釣られ、小山田信茂と桃陽は月江庵を訪れた。
 なるほど、景色はいい。
 程なく、小林尾張守家親が駆けつけ、三人は並んで富士を仰いだ。
「御館様は美濃に攻め入るだろうよ」
 信茂はぽつりと呟いた。
 桃陽は黙って頷いた。小林家親も頷いた。
「留守中のことは、岩殿に入る荻原豊前守がまとめるそうな。北条も今なら大人しいし、問題はねえずら。吉田移転が済んだばかりの、民政だけが気懸りじゃ」
「誰か気の利く者を置けばええし」
 桃陽が呟いた。
「おまんがおるずら」
「坊主には何も出来んし」
「大玉屋与覚斎には、我が相談役として重きを為す学僧がいると話しておる。これから忙しくなるが、よろしく頼む」
「勝手なことを」
 これは適任だと、小林家親が挟んだ。前当主が姿を変えて後事を任されるのだ。これ以上の適任者がおろうか。
「徳川という御仁な。以前、長旅をしたときに逢ったことがある。変わりなき者ならば、この出兵で討たれるだろうな。血気盛んな当主に率いられた家来ほど、哀れなものはねえずら」
 信茂は思い出していた。〈円福山豊川閣妙厳寺〉で漂白民に混じり、賽の目で身包み剥され激昂する様。およそ人の上に立つ者の所業ではない。帰国後の情報でも、賽の目で醜態を晒したことが幾度もあったと聞く。
 性分は賭け好きなのか。ゆえに織田信長へ従うのだろうか。
 その信長は、熱田で埒外の者を従えていた。
(常識の外にいる連中が、いまは畿内の中心にいる)
 そのことだけは間違いなかった。
「のう、弥五郎殿」
「ん?」
「おまんは儂を生かして、よかったのか」
 桃陽の呟きに、信茂は即答した。これでいいのだ、これでよかったのだ。そう信じなければ、辛いだけである。
「いいな。おまんは、お気楽で」
「ああ、気楽がいちばんずら」
 信茂の陽性は人に好かれる。その陽性を疎ましいと思った時期もあったが、いま桃陽と名乗る弥三郎信有は、紛れもなくその陽性に惹かれていた。そういう生き方は真似が出来ないし、それでいいとも思っていた。
 風が心地よかった。
 もうすぐ、富士の山開きが来る。一年でもっとも活気に溢れる季節だ。今年はいつもと異なり、吉田新宿開きに半関である。繁盛しない筈がない。それだけに銭も動き情報も交錯するだろう。
 郡内が情報の要となる。
 信茂はそう確信した。
 
 八月七日、信玄は山村良利・良候父子の飛騨侵攻を賞した。
 飛騨へ攻め入ることは、大きな意味がある。上杉輝虎に対し、越中の一向一揆と歩調を合わせて攻撃が適うことを露わとするのだ。この動きは川中島の再燃にも似て、武田信玄が北をめざすことの意味を模索する者たちに注目された。そのことで侵攻の手が緩和されることを徳川家康は期待し、同時に、畿内で反勢力から包囲されている織田信長の安堵に繋がった。
 躑躅ヶ崎で詳細の軍議を重ねる小山田信茂は、ある日、府中屋敷にいる母に呼び止められた。
「埒外の者が活発に動いているね」
 母は傀儡子の娘だから、機微な気配に聡い。
 確かに、このとき府中には多くの漂白民の姿があり、荒川をはじめ諸処の河原に集まっていた。
「おまん、あの者らに恨みを買ってないだろうね?」
「はあ?」
「埒外のもんは同族意識が強いから、だれか傷付くと仕返しにくるよ」
「やってないし」
「なんか不安だよ」
「そう云われたこっちこそ、不安になるずら」
 このことは何を意味するのだろう。
 知己の漂白民の姿が見えない以上、彼らは信茂に何も答えてくれまい。世上のことはどうあれ、埒外の情報は一般的に入手することは難しかった。彼らは帝以外には従わぬ〈上ナシ〉であり、同族意識が強く、決して俗界へ心を開くことはない。
 いまの信茂は、血の半分がそちらにあっても、身分や生活は十分に武家そのものである。同族だと叫んだところで、埒外の者に信じてもらえる要素はない。それはそれで、仕方がなかった。
 結局、漂白民の動きは、こののちもずっと続いた。出入りも頻繁で、同じ顔も長く留まらず、この流れの正体は何か分からなかった。
 ただ、一条右衛門大夫信龍は巧みに彼らに交わった。元々が風流人で、人から
「伊達よ、傾奇よ」
と煙たがられた信龍の雰囲気は、どこか彼らに近かった。一緒に河原で酒を呑んだり、踊りを興じるなど、およそ酔狂にも程があった。
「甲斐には美味ぇもんなどねえし。おまんら、大勢で何しに来たんじゃ」
 他意のない明け透けな信龍の言葉に、漂白民は警戒心などない。ただ、同族の頼みで調べにきたとだけ答えた。その同族とて、どこの誰かも解らない有様だ。
「でもな、俺らは上ナシじゃん。同族だけが繋がりだで、その頼みは、断れぬわい」
「そうか、お互い苦労するな」
 信龍が大声で笑うと、漂白民等も大笑いした。
 このときの情報は、巡り巡って、信玄の耳に達した。信玄は信茂とその母に、ただちに参集するよう命じた。信茂は首を傾げたが、母親はすぐに察しがついた。
「誰かの指図で、御館様の動きを監視させておるんじゃ」
「漂白民が、誰かに従うことはあるのかな?」
 信玄の問いは当然の疑問だ。
「ねえな。だから、わからん。同族って、誰なんじゃろな」
 得体が知れなかった。
 しかし、暮れの軍事行動は予定のもので、変更するつもりはない。どこの誰かが困惑するような動きをしてみせる必要があった。信茂が口にした遠江南下を、盛大にやってみせるしかない。
「弥五郎、厄介な予感しか、しねえな」
「はい」
 冗談も出ないと、信茂は呟いた。

 九月中旬、山縣昌景が軍勢を率いて躑躅ヶ先に参じた。率いられた荒くれ武者どもは、府中の随所にたむろする埒外の者たちを目で威嚇した。猛牛の如き兵たちの鼻息は、恐れ知らずの漂白民さえ尻込みさせる威圧感だった。それに歩調を合わせるように、続々と軍勢が府中へ参集してきた。小山田信茂も郡内勢の到着を待ってから、信玄のもとへと向かった。
「三郎右兵衛の隊は独自の行動を許す。委細は我が意を待つべし」
「心得たり」
 山縣昌景は頷いた。
 このとき南信濃の軍勢だけは参集していない。現地より軍勢に合流せよという内示が、早くも発している。要となるのは、高遠城の秋山信友だ。こちらにも行動の指図が既に為されていた。
「御館様、越中と呼応し上杉と?」
 そんな声が随所で響いた。
 信玄は数日、明言を拒んでいた。その間に、いずこからかの情報が逐一入ってきた。その情報より機を伺っていた信玄が動いたのは、九月二九日のことだった。
「三郎右兵衛の隊は伊那勢と合流し、奥三河へ攻め入るべし。先導はそなたの寄騎となった山家三方衆に命じるものなり」
「承知」
「すぐに発つべし。連絡はこちらより乱波を用いて適宜行うものゆえ、安堵されたし」
 信玄の指図を得た山縣勢の向かった先は、奥三河だった。
 途中、高遠城で秋山信友が合流し、軍勢三〇〇〇は奥三河を目指すこととなる。その先導役を務める奥平・菅沼・菅沼の山家三方衆は、もともと松平家に従う者だったが、信玄の武威に怯え屈した。もともと奥三河は係争の国境である。
「我らは見捨てぬだがや」
と、徳川家康は申し訳程度の援軍を派遣した。武田勢が退けば、すぐに領地を取戻せばいい。関東で北条方のしていることを模倣する、そんな認識を持っていた。
 一〇月三日、武田信玄率いる兵二二〇〇〇が府中を発し諏訪へ向かった。やがてこの軍勢は南信州へ至り、青崩峠と迂回の山道(のちの兵越峠)を経て遠江に侵攻した。
 奥三河に気を取られていた家康は、信玄出馬の報せに仰天した。
 犬居城主・天野宮内右衛門景貫は信玄に下り、城を明け渡して侵攻の先導役を申し出た。信玄は搾取を嫌い、周辺支配を引続き天野景貫に命じた。
 これは一時的な侵攻ではなく、領土拡大という意思表示である。
 家康と信玄を天秤に掛ければ、相手に選択の余地などない。馬場美濃守信春に只来城攻略を命じた信玄は、更に南進して二俣城へと向かった。山縣隊は奥三河を席捲すると、遠江へと転進し信玄の本隊に合流した。
「伯耆守に別の隊を命ずものなり」
 別動隊の動きは、この時点で誰も関心を示さなかった。
 武田勢の目的が遠江攻略と思い込んだ家康は、信玄の動きだけを注視していた。秋山勢はこのとき誰もが忘れる存在となった。
                              つづく
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登場人物紹介

小山田信茂    

甲斐国郡内領主。武田二十四将。武田家を裏切ったと定説される文武の才に秀でた武将。

父・信有に嫌われて育つが、それは出自にまつわる秘密があった。

小山田弥三郎信有

小山田信茂と腹違いの兄弟。嫡流として小山田家を相続するが、のちに病没。ということになり、信茂を支える影の参謀となる。

武田信玄

甲斐国主。智謀に長けた戦国最強の武将。小山田信茂を高く評価し、その出自も含めて期待している。

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