第15話「軍勢、西へ(後)」

文字数 11,945文字



軍勢、西へ(後)


                  一


 武田信玄の動きについて、雄弁な史料は『甲陽軍鑑』である。武田の武威を語りつつも、したたかに徳川家康を持ち上げる姿勢が多分に鏤められ、それだけで信憑性の是非を疑いたくなる。ただ、全体的な勢力の流れをこれで見通すことは出来た。そのため、すべてを否定することも出来ない。この厄介な史料は、信玄の侵攻にあたり、とかく家康に将才場面を用意している。『甲陽軍鑑』を強いて批判はしないが、この世界観を参考にした上で、本書を綴ることとする。

 二俣城攻防戦はおよそ一か月。
 武田勢は釘付けにされたように映った。その間に東美濃方面へ移動する秋山信友の部隊は、まだ徳川勢に察知されるところではない。信玄の動向が注目される程、秋山隊は霞んだ。これも戦略だった。
 二俣城攻略の部隊は武田勝頼・武田信豊の二班に分けられ、競い合わせた。勝頼が後継者となれば、副将となる御親類衆上位者はこの信繁の子で従弟にあたる信豊だ。ここで武功をという信玄の余裕は、そのまま家康の恐怖に比例した。
 通説では二俣城攻略は勝頼・信豊と穴山信君の三者ということになっている。しかし穴山信君はこのとき、匂坂に布陣し、二俣城の救援部隊に対峙しつつ浜松城方面を監視していた。更には三浦左京亮元政へ書状による投降工作を行っている。この状況で定説通りの城攻めは難しい。三浦元政は今川氏真側近だが暇を出されていた。こういう者を武田側に引込むと、遠江の豪族たちは急いで立場を決めねばと慌てるものである。この場合、徳川で名を馳せようという者は皆無だった。
 この文書工作は城攻めに等しく、穴山信君の知謀が垣間見える。
 信玄がこのまま南下すれば、浜松に出る。
 ここで決戦に挑むことを家康は望んだ。戦わねば、遠江の衆はすべて家康を見限る。三河だけになれば、もう支えきれない。恐怖に震えながら武田信玄に立ち向かう以外に、家康の〈戦国武将〉として生き残る道はなかった。頼りとなる織田信長の援軍は僅かだった。見捨てられたような心地が渦巻く。
(いっそ武田に降伏した方がいいのでは)
 そんな迷いが、日に二度三度と頭を擡げる。
 二俣城が陥落して程なく、家康は驚愕の報せを耳にした。
 一一月一四日、東美濃の要衝である岩村城が秋山勢により陥落した。その報せに驚嘆したのは、家康よりも信長だった。武田との両属関係から支配を奪った結果、いよいよ信玄を本気で怒らせたのだと確信した。このとき信長は畿内にあって、将軍足利義昭との不和から発した包囲網の只中にある。浅井・朝倉が北を抑え、南からは石山本願寺、摂津や紀伊の抵抗勢力があり、救援を乞うべき上杉輝虎は越中で道を阻まれている。
 この最悪な状況で、武田信玄が動いた。
 徳川家康が三河で抑え切れなければ、武田勢は尾張をたちまち席巻し、信長の生命線である伊勢湾の商工業地帯を奪うだろう。それだけではない。東美濃からは岐阜城が目前である。十年費やして盗った美濃国は、ものの数か月で信玄が奪い去る。
 その恐怖が現実のものとなる一戦が起きた。
 元亀三年一二月二二日のことである。

 浜松城の改修は、来るべき武田との決戦を想定したものだ。
 若き徳川家康は、痩せ我慢のなかで威勢を挙げ、強がりを誇張し、士気を高めようと見境なく振る舞った。それを頼もしいと沸き立つ程に、城内の異様な高揚感は、死を前にした錯乱にも等しかった。
 戦えば、死ぬ。
 徳川勢の総意だった。それでも逃げられない愚かな生真面目さは、武士になりきれない土着の者たちゆえの痩せ我慢だった。儒教の普及に至らぬ戦国時代、家を残すためには強き者へと寝返ることは当然だった。不忠などという観念はない。生きることが先祖からの血を守り、後世に遺す義務であった。
 三河の者たちは、それが解らなかった。
 そして、織田の援軍はその覚悟を誤解した。信長を信じる一徹なる律儀者。家康をそう評し、かつ、そのように伝えた。
 この興奮状態の徳川勢の眼前に現れた武田勢は、天から下りし魔物のように映った。
「やるでや!」
 家康の叫び声は震えていた。
 その威勢を嘲笑うかのように、武田勢は浜松城の一里手前にあたる欠下で、行軍の向きを西へと転じた。それは、籠城など相手にしないという目溢しとも、やるなら出て来いと云う挑発とも受け取れた。
 信玄にとっては、そのどちらでもよかった。
 攻めてくるなら返り討ちにするまで。その御級を取って三河もまとめて奪えばいいだけのことだった。籠城するならするで、武田勢は徹して無視すればいい。それだけで、遠江の者は徳川を見限るだろう。
 労なく遠江は武田のものとなり、民衆から棄てられた家康は、指をくわえて三河へ逃げ帰るしかない。
 三河より遠江。そう断じた小山田信茂の言は、まさにこの瞬間、値千金の状況を生み出した。信玄は二手三手を予測するため、各部隊に徳川勢の動きを監視するよう競わせた。そのうえで軍勢の進む先を調査させた。
 刻は夕刻へと向かっていた。
 重く立ち籠める雲は暗く、風花が時折舞った。報せによれば、発奮した徳川勢が、城を出て追撃を開始したという。武田勢はそれでも停止しない。追撃する徳川勢など、意に介さない風だった。
 信玄は承知していた。
 こちらが乱波を用いるように、相手にも間者がいる。必勝の機を伺うためには、平然としていることが大事だった。動かざること山の如し、盤石とは、まさに不動であることを意味する。徳川が反転して逃げられない距離まで引きつけねば、野戦を仕掛ける意味がない。
 三方原台地を進む武田勢は、やがて祝田坂を下ることとなる。ここは人や馬が一列になる幅員の路が一一〇間(約二〇〇m)続く。ここが仕掛け刻になることは、事前に地形を周知する信玄にも分かることだ。
「徳川の動きはどうか」
 信玄は重臣各々からの報告を得たが、芳しいものはなく憮然となった。そこへ、小山田信茂が報告を上げた。
「敵も三方原に迫り九手の備えで数少なし。旗色は早く、動きは澄み切っているとの報告なり」
「物見は誰か」
「被官・上原能登守」
「その者を面前へ。馬場美濃守も呼ぶべし」
 信玄は上原能登守を召出し、直接報告を聞いた。この者は、犀ヶ谷より徳川勢を視認した。他の物見と異なる視点だ。信玄は馬場信春を招くと、目利きに足る者を尋ねた。
「されば、室賀入道が適任なり」
「その者に、能登守と同じ場所で物見をさせよ」
 ここで、武田勢は一旦停止した。傍目には祝田坂へ下る編制始めに映るから、不自然ではない。やがて、室賀入道一葉斎が戻ると、確かに徳川勢は九手の備えで数少ないとのことだった。
 信玄は決断した。
 本陣が祝田坂を下ると装いつつ、待機部隊は整然と配置された。この時点で信玄の意図に気付けば、徳川勢は無傷で済んだかも知れない。しかし、常軌を逸した家康に戦場の機微は洞察できなかった。
 武田勢は坂を下るために待っていたのではなく、迎え撃つために〈魚鱗の陣〉構えを整えていたのだ。
「旗色は早く動き澄み切っておりとは、おまんの付足しか?」
 信玄は信茂を質した。
「戸石崩れで学びました。これは、典厩様、勘助様の教えにて」
「勝機を急かす報告か。ほんにおまんは、頼れる男になったものだわ」
「御冗談を」
「先陣中央、弥五郎に任すずら。礫を放って敵を怒らせ、巧みに負けるべし」
 負けるとは、押された風を装い退くことを意味する。退いた小山田勢を追って、徳川勢は攻めてくるだろう。そのときが殲滅の機だ。右翼には山縣昌景、左翼には馬場信春、これが壁となって徳川勢を押し包む。
「頼むぞ、小山田兵衛尉」
「御意」
 刻は薄暮が近づいた。風花の粒は大きくなり、ぐっと寒さが増した。
 熱気に駆られた徳川勢が、祝田坂奇襲の幻想から引き戻され背筋を凍らせたのは、まさしくこのときだった。武田勢は吹雪のなかに一己の意思を持つ獣の如く、整然と、家康をじっと待ち構えていたのである。
「返せ、返せ」
 家康は叫んだ。勢いに乗って迫る後続にその声は伝わらず、徳川勢は混乱した。戦場であるまじき事態が勃発した。そう、あるまじき事態と例えるよりない。
「ぎゃっ」
 徳川勢の随所で悲鳴が生じた。
 鍛えられた小山田の投石部隊の礫は、弓よりも鋭く鉄砲よりも正確に、徳川勢に命中した。甲冑より露出した場所を、正確に狙ったのである。これは、当たり所が悪ければ死ぬものだった。
 礫なんぞにと、逆上する兵たちを、家康は抑えることが出来なかった。
 殺到する徳川勢を翻弄しつつ、信茂は徐々に部隊を後退させた。傍目に圧したと錯覚した徳川勢は、調子に乗りすぎた。
 武田信玄恐れるに足りず。
 その慢心に徳川勢は高揚し、深入りした。信玄は、軍配を大きく振った。左右から武田の精鋭が、壁となって押し包んだ。
「閉じられる。退け!」
 その声が随所で響いた。
 徳川家康はその袋の閉じられた中で、我に返った。武田信玄の戦術は数あれど、このとき用いたものほど完璧なものはない。
 決死の家臣団が累々と犠牲を重ねて、ようやく家康はこの包囲を抜けた。散々たる惨敗だ。格の違いと例えるのが相応しい。この惨敗の中で、家康は九死に一生を得て浜松城へ逃げ込んだ。
 後世史書は幕府に気遣う描写を残した。ためにこの戦いにおける徳川勢の勇猛果敢さは、異常なほどに際立つ。戦さの実際に美談などない。実際は、その結果だけが残った。
 信玄に対する恐怖、その手足となって際立つ武田家臣団への恐怖。
 そう、家康は惨敗した。その身に刻みつけられた感情は〈恐怖〉のみだった。
 浜松城は盛大な篝火で城門を開いていた。
「此は空城の計に相違なきや」
 山縣昌景はそう判断し城攻めを断念したなどと、三方原合戦には徳川に関する綺麗事が多い。戦場のただなかで『三国志』を模することなど、考えられない。
 簡単なことだ。野戦で討てぬ以上は、相手にもならぬ者に関心もなし。家康は信玄から小者扱いされただけで、城攻めなど興じるに値せぬと吐き捨てられた。そういうことでしかない。
 こののち武田勢は二三日、刑部に布陣し越年する。
 浜名湖の温暖な気候は心地よく、信玄はそこから文書を多く発給した。このとき多くの史書は信玄が病重しという前提で結論を綴っているが、それも結果論と思えてならない。信玄はこのとき壮健だった。壮健ゆえに、こののちの策に狂いがないか、刑部にて重臣と協議を重ねたのだろう。
 武田勢は岡崎を経て、このまま尾張を攻める。この前提が世を惑わせた。
 が。
 少なくとも、このときの信玄は尾張に向かう意思がない。脳裏にある行軍先は、東美濃だった。
 既に秋山信友が岩村城を抑えていた。それに合流するとともに、東美濃を確固たる武田領とする。両属などという曖昧さではない。そのために徳川を破った信玄自らが乗り込む。
 結果は、考えるまでもない。
 苗木城主送り込みと岩村城への養子送り込み。そもそも遠山一族は信長のこのやりかたが気に入らない。信長は性急すぎた。ゆえに信玄の怒りを被ったのだ。
 この年暮れに、東美濃は遠山氏の内乱状態になっていた。この一族内乱を秋山信友が利用しない筈がない。何よりも南信濃を預かる信友は、あらゆる伝手で遠山一族とは長年の懇意を尽くし、信頼を得ていた。秋山勢を迎える者と岩村城を中心にした者、遠山氏はこの時期、真っ二つに割れたのである。
 このときの内乱を、上村合戦という。
 この戦いで岩村城主・遠山左衛門尉景任は死んだ。養子・坊丸は幼少で家督を継げず、ここで正室・艶が俄かな城主の座に就いた。後世〈女城主〉と囃されるが、甘美な環境ではない。しかも軍監で居座る信長の兄・三郎五郎信広と家臣・河尻与兵衛秀隆の意に沿う決断しか道はない。艶は息苦しい座へと、持ち上げられた。
 岩村城は兵糧不十分。援軍の目途はない。そこへ、秋山信友の開城勧告が、苗木城を経由して持ち込まれた。これ以上の同士討ちは、民のためならず。遠山氏や領民一切を不問にする策として持ち上がったのが、信友を艶の婿に迎えるという話だ。反対するのは信長から派遣された者ばかりで、遠山氏の意志は武田寄りにあった。それは単純に交流のあった秋山信友個人への、深い信頼に他ならない。
 開城条件のうち、坊丸の身柄安泰を除いて全てが聞き入れられた。岩村城は慇懃と、秋山信友を迎え入れた。坊丸はこののち人質として、甲斐へ送られた。
 開城した信友は、艶を満足させるに足る男だった。先夫の淡白な性技と異なり、どうだ、この硬くて大きな充足感は。見た目は涼しげに映る面相と裏腹に、引き締まった体躯、それにも増して今まで見たこともない凛々とした牡のたくましさ。この愉悦は、忘れていた艶のなかに燻る〈牝の心得〉を大きく擽り、ほころばせた。そう、艶は堕ちたのだ。女としてではなく、牝として、信友の腕の中で啼くことで、解き放たれ満たされたのである。
 艶は渋々開城した、ということを忘れた。
 ただただ信友という牡の虜に、淫奔なまでに堕ちた。そしてそれが、東美濃を武田に寄るべしという遠山一族の望みにつながった。
 滑稽な話だ。遠山一族の願いを叶えるため、織田信長の叔母が、性を有効に用いる生贄となったのである。そしてそこには、犠牲者など一人もいなかった。誰もが満足の結果となったことは、珍奇極まりない。
 この岩村城をめざして、まもなく信玄が来る。このことは、まだ誰も知らぬことだった。


                  二


 刑部の武田勢は、一月一〇日に発ち野田城へと進軍した。
 武田の向かう先は岡崎だと警戒していた家康は、拍子抜けしつつも、かといって手も足も出せなかった。
 翌日、宇利峠を越えた武田勢は野田城を包囲した。野田城攻略に信玄は時間をかけた。若手を用いて色々と試みる修練の場にした。この城攻めは、なんということはない、時間稼ぎの場だった。
 東山道の要所で知られる神坂峠は高所ゆえ冬季は雪に閉ざされる。その雪解けまでの時間稼ぎだった。一旦甲斐へ退いてもいいのだが、そうなれば岩村城の秋山信友が孤立する。信玄がここにいるからこそ、家康には為す術もない。
 この攻略を任せている間、信玄は山縣昌景・馬場信春・内藤昌秀・春日虎綱といった〈武田四天王〉に加え、穴山信君・小山田信茂を近くにおいて軍議を進めていた。このときの信玄は東美濃の確保が最優先で、上洛など考えてもいない。しかし、情勢が変わりつつある報せが幾重にも収集され、軍勢の動きを如何にすべきか、意見を求めていた。
 三方原での圧勝は、世の流れを変えた。
 それは織田信長の滅亡を前提とした話題になり、一刻も早い信玄の上洛を望む声が高まったためでもあった。
「行くこと、能わず」
 小山田信茂は長陣の危険性を示唆し、当初目的の貫徹を提案した。諸将もその言葉に同感した。兵農分離の出来ない武田にとって、主体となる兵は百姓である。合戦は農閑期に留めるべき。これが偽らざる現実だ。
「京へ行くべし」
 そう横槍入れたのは、勝頼だ。猪武者らしく全体を見ない上で、局所的な判断を大事とする迂闊な発言といえよう。
 信玄が迷ったのは、この恐れを知らぬ猪武者の言葉だった。
「迂闊な物云いにも、理はある」
 この迷いを、信茂は諫めた。
「上洛の機は、この先いくらでもござる。東美濃さえ確保したなら、岐阜城も、信長も、いつだって討つことが出来ましょう」
「いや、待てぬ」
 勝頼は譲らなかった。
「今でなくとも、討てましょう」
 なおも信茂は強く訴えた。
「雪さえ溶ければ、武田の軍勢は神坂峠を越える。弥生の暮れになるだろうか。東美濃に立てば、きっと路が西へと続くずら。その渇望を堪えることが、皆に出来るものか」
「急いては、事を仕損じます」
 勝頼の云うことは、どこかで信玄の気持ちと重なる。信玄の胸中にも、赤々と誘惑との葛藤がある。いま帰国するよりも、一気に決したいという誘惑。それは奇しくも、状況が整いすぎたゆえのものだ。
 家康は動かず。
 信長は動けず。
 果たしてこののちも、同じような機があるだろうか。
「弥五郎殿の申し様は間違えておらぬこと。もし古典厩様や勘助殿がおられたなら、同じことを仰せと思召しや」
 馬場信春が毅然と口上した。山縣昌景もこれに同意した。
 信玄がこの諫言を無にするとは考え難い。
「まいった」
 信玄が微笑んだ。
「歳を取ると事を急くものずら。老い先短い焦りにて、よくも儂を諫めてくれたものだわ」
 信玄は当初の予定を貫徹する決心をした。
 長陣は精強な軍団の戦力を低下させる。それは厭戦とも呼べるし、疲労とも断じることが出来る。このようなことを、『孫子』の兵法でも避けるよう記している。一〇月からの出陣から、はや四ヶ月が過ぎていた。

 信玄は野田城攻略ののち、長篠城に入る。この動きに、世の中は当惑した。一気に岡崎を攻めて三河の基盤を根こそぎ奪われると恐れていた徳川家康は、このことが理解できなかった。織田信長もそうだ。尾張の商工業地帯が奪われてしまう危機感が失せ、戸惑った。
「よもや武田の陣営に何か起きたのでは」
 世の誰もが、そう口にした。
 しかし、信玄は壮健だった。目的は東美濃の確保であり、雪解けの時期に歩調を合わせているだけに過ぎない。長篠は深い峡谷と起伏に富む荒れ地の場で、馬上に揺られるのも苦な地形だった。
「設楽原とはよくいう。原ではなく、まるで荒れ地だがや。しかし、丘になっている場所は、ちょっとした城外陣地になりそうじゃ」
 長篠城に腰を下ろした信玄は、馬場・山縣両名と武藤喜兵衛に語った。このとき武藤喜兵衛は近習より立身し武田家奉行人の立場にあった。この遠征中、養父・武藤三郎左衛門尉が討ち死にし、武藤家遺領を許されたばかりである。この両名は、信玄の言葉に頷き、設楽原で戦うことなどあるまいと確認し合った。
「喜兵衛は我が眼のようなもの。こののち東美濃を平定したら、何を最初にすればよかろうかな?」
 信玄の言葉に喜兵衛は窮した。
 勝頼は岐阜決戦を主張して憚らず、信玄も迷っていたことを小山田信茂より聞かされていた。迂闊なことは云えない。
「我が父の病が癒えれば、よき知恵も授かりましょうに」
 とっさに逃げた。
 真田一徳斎が病んでいるというのは本当だ。無論、それを知らぬ信玄ではない。
「次の出陣までに本復して貰わぬとな。次の留守居は春日弾正ずら。一徳斎もこのたびは同陣したかったであろう」
 信玄は話題を変えた。
 武藤喜兵衛は安堵した。
「美濃守よ、徳川はどうか?」
「追撃の気配もなし」
「だろうな。徳川は博打好きと聞いたが、勝算もなく猪突猛進するより能がない輩ずら。もはや相手にもならぬ。もはや戦さすら出来ぬ。哀れなもんずら」
「されど、朝倉左衛門督(義景)の行為が、こののちどうなることやら」
 信長を包囲した諸国のうち、越前の朝倉義景が勝手に離脱したことは問題だった。そのため、信長は密かに朝廷工作で将軍家と和睦交渉に入る糸口を見出したという。京への道を閉ざしておけば、それすら適わなかった筈だ。信玄とて顕如を通じて朝倉義景へ痛烈な批判をしたが、それに拘っても仕方がない。
「内部を崩すことで、勝機を見出せばいい」
 信玄は既に美濃群上八幡城主・遠藤六郎左衛門盛枝を転ばせている。その家老・遠藤新左衛門は幾度も甲斐を往還し、今度の東美濃平定にあたり織田家美濃領の内部瓦解を指図している。また、遠藤盛枝の同族である木越城主・遠藤新兵衛胤基も転ばせていた。郡上郡は現在の郡上市の相当し、岐阜城の北を抑えている。
 つまり、信長の拠点である岐阜城の、東と北を抑え込んだに等しい。
 この調略を知る者は僅かである。
「皆が戻れというなら、一旦は甲斐へ退こう。東美濃を盤石にしたら、もはや煩うこともない」
 信玄はそう云って、笑った。
 秋山信友が城を寝取り、遠山一族を懐柔した。そこに南信濃から人を送り、往還を活性化させる。木曾と伊那の有為な人材があれば、岩村城将として送り込み、武田の領内として確立させることも考えられよう。
 すべては、その次の布石だった。

 長篠城から信玄が発したのは三月一六日。
 東山道が美濃へ至る阿智へと、軍勢は進んだ。雪解けは、もうすぐ近くだった。阿智は比叡山開祖・最澄ゆかりの村である。信玄が比叡山座主・法主覚恕法親王を庇護したことを知る村人は、軍勢に対し好意的だった。信玄のための御座所も用意したという報せまで届けられ、取り次いだ曾根内匠助昌世は
「申し分、これなく」
と奏上した。


                  三


 小山田信茂には、気懸かりがあった。東山道へ近付くにつれ、漂白民が目に留まるようになったのだ。それは主に傀儡子であるが、山間からの視線も感じる。あれは、山の者(山窩)だろうか。血の半分がそちら側にある信茂にしか、どうやらこの気配は察知できないようだ。軍勢の多くは漂白民と土地の者の区別すら付かぬ。
 信玄は根羽砦に一旦落ち着いた。
 ここは今作戦で足助城攻略のため、山縣昌景の采配で設けられた拠点である。まだ木の香りが新しい。
「あと一山で阿智ずら」
と、信玄は呟いた。
 四月一二日、おおよそ予定通りの行動である。
 信玄は織田・徳川の諜報から行方を眩ますため、武田刑部大輔信廉を身代わりに仕立て、駒場周りの派手な行軍をさせている。人の目には、信玄が甲斐へ引き上げるように映るだろう。そこが狙いだ。根羽砦は山深く人の往還も稀である。武田勢が入ったことで吉岡城から物資が届き、村は俄に活気付いた。吉岡城は下條兵庫助信氏の居城で、信玄の妹が嫁いだ場所でもある。このたびの軍事行動で、下條信氏は大いに貢献した。
 小山田信茂は郡内勢の采配を小林和泉守房実に任せ、供もなしで周辺を歩いた。東高山万正寺がみえた。尼寺だ。足を踏み入れる訳にいくまい。更に歩くと、十王堂と呼ばれる建物があった。山間の小さな村だから、寺社は少ないようだ。
「弥五郎」
 ふいに声を掛けられた。聞き覚えのある声だ。
「〈イシ〉だな。久しいな」
 しかし、〈イシ〉の姿はない。姿を隠しているのだろう。
「何か、訳ありか?」
「せっこむ(急ぐ)話じゃ」
「顔、見せられんのか?」
「こちらも命懸けじゃあ」
 余程のことだろう。
 信茂は周囲を伺った。人影は見えないが、山の者の気配は掴めない。〈イシ〉が警戒するのはその連中かも知れない。信茂は腰を下ろして、傍目に休息する風を装った。
「以前、熱田で織田上総介が埒外の者を手懐けていた。覚えているじゃろ」
「ああ」
「あれは、上ナシの掟が狂ったためじゃ」
 信茂は顔を曇らせた。上ナシの者が、信長に与したというのか。
「ポンツクのことを、西国では〈山窩〉という。その連中の長・弥右衛門の子が、上総介の家来になったそうだ。山窩はこれに従ったんじゃ。弥右衛門の子は美濃傀儡子の長とも通じたので、それらも上総介に与した。熱田のことは、そのためのものだったんじゃ」
「そんなことが」
「嘘みてえだが、そうなったんじゃ。〈グツ〉も〈マル〉も〈ワカ〉も、傀儡子じゃからこれに従わねばなんね。弥右衛門の子は、上総介のために、武田の殿様を狙うことを命じたんじゃ」
「なんじゃと」
「弥五郎、なぜ山に入った。尾張を攻めればよかったのに、なぜ山に来た。山のなかでは、山の者に勝てねえぞ」
 信茂は戦慄した。
 一刻もはやく山間を出なければ、信玄が危ない。
「弥五郎、急げ」
「〈イシ〉は大丈夫なのか?」
「おまんに明かしたことがバレりゃあ、うっ殺されんべ」
「死ぬなよ。郡内に逃げてこい」
「生きていたら、また会おう」
 信茂は周囲を伺った。やはり、傍目に気配はない。しかし、漂白民に世の常識を当てはめることなど出来はしなかった。傍目は散歩をする風に、しかし、気は急いた。早く信玄の陣所に辿り着かねばならなかった。
 根羽砦から悲鳴が挙がった。
 信茂は走った。不吉な予感が過ぎった。その予感が、不幸にも的中した。
「でっけえ猪が突然、砦んなか、ぶん廻ってよう」
 砦外の陣に控える郡内の兵たちが、口々に信茂へ訴えた。
「猪はどうした?」
「まだ、砦んなかで、ぶん廻ってるずら」
 この騒ぎは、意図的なものだ。信玄の身辺を手薄にするためのものだろう。信茂は勝頼を認め、信玄の身辺がどうなっているかを質した。騒動に駆られて、勝頼はそこまで周知していない。
「ちっ」
 急いで信玄のもとへ駆けつけると、山縣昌景がいた。
「御館様は?」
 信茂の問いに、山縣昌景は無言で首を振った。
「……これは!」
 信玄は鎌のような刃物で、胸を一突きにされていた。なんということだ。
「やられた」
「織田の刺客だろうな」
「そうだろうかと」
 兎にも角にも、信玄ほどの者が、刺客に討たれたなどと、絶対に口外するわけにはいかない。いや、知られることは軍勢の崩壊にもつながる。
「三郎右兵衛殿。まずは限られた重臣のみにこのことを周知させ、急いで刑部大輔(武田信廉)様に飯田城へ入って頂く。いまは御館様が死んだことを敵味方に気取られてはなりませぬ。刑部大輔様には、甲斐まで御館様の身代わりに徹して頂くべし」
「そうだな」
 山縣昌景は武藤喜兵衛に密書を託し、信廉のもとへ急がせた。
 そして信玄急病を陣中に発し、重臣たちを一室に集めて人払いさせた。信玄の死を誰もが信じられなかった。が、物云わぬ骸に、事実を認めざるを得なかった。
「こののちどうしたらよいのだ」
 勝頼は狼狽した。
 後継者としてこの場を取り仕切らねばならぬ者が、もっとも狼狽えたのだ。その勝頼を諭したのは、信茂だった。
「今は御館様が重病なのです。よろしいか、御重病の御館様を、急いで甲斐にお戻しする必要がござる。そのために陣頭に立つべきは四郎殿じゃ。よろしいか」
 勝頼の狼狽えは表面的なものだ。
 集められた重臣たちは口に出さぬだけで、内心は気が狂うほどの感情だった。勝頼の醜態を露わにすることが、却って皆の理性を保ったに過ぎない。
「絶対に口外してはならぬ。いま外に知られれば、武田が攻められる。先ずは帰国し、今後の立て直しを急ぐべし。典厩(武田信豊)殿も左衛門大夫(穴山信君)殿も、よろしいかな」
 山縣昌景の言葉に、御親類衆筆頭の両名は頷いた。
 この日の夕刻より、砦の中が騒がしくなった。信玄が急病を発したということだけが、触れられた。状態は誰も知らされず、ただ発病とだけ、触れられたのだ。
 翌日、甲斐への帰国が決した。
 東美濃へ向かう予定を変更しなければならない程の重病かと、兵たちは囁き合った。
「三郎右兵衛殿、このまま退くのは不自然なり。当方に一軍を任されたし」
 馬場美濃守信春の献策に、山縣昌景は頷いた。一刻も早い撤収、そして飯田城での信廉との合流。信玄の遺骸は密かに荼毘とせねばなるまい。
 馬場勢は雪解け間もない神坂峠を越えた。そのまま岩村城に入ると、秋山信友に他言無用の真実を明かした。
「後日、御館様御隠居の沙汰が出るだろう。それまでは、上手に振舞うがよし」
 信春の真っ赤な目に、信友は小さく頷いた。
 馬場信春が一気に岐阜城近くまで姿を現し、随所に放火したという記述は『甲陽軍鑑』によるものである。真偽は定かでない。寡兵とはいえ武田勢襲来は、織田陣営を恐怖させたことは想像に易い。
「武田勢の奇襲なり」
 その報せに声を失った信長は、為されるが儘、抵抗の沙汰を忘れた。

 飯田城に集結した武田勢は、休息もそこそこに甲斐へ発った。信廉は信玄になりすまし、軍勢の先頭に立った。

 勝頼を後継者とすることは、生前の信玄の意思ゆえ、揺るぎはなかった。
 しかし、そのための組織体制は、当然のことながら混乱を生じた。勝頼を補佐すべき御親類衆筆頭に据えられていた武田信豊・穴山信君は、気分的には、勝頼と同格という意識が強い。勝頼の叔父たちは、まるで煩い小舅のようなものだ。
 とまれ肩書だけで実を認められていない当主として、勝頼は据えられた。
 世代が変われば重用する家臣も変わるものだが、勝頼には信玄からの人材遺産が、そっくり残された。能力的には生粋の遺産である。しかし、感情的には悦ばしくない遺産といえよう。
 彼らは信玄ほどに勝頼を敬っていない。
 それは事実だ。そのうえで立ち振舞うほど、勝頼は人格が練られていなかった。槍を持てば猪突の武者であっても、当主となれば先陣切ることも許されない。となれば、唯一の取り柄もなく、勝頼は一からすべてを修行しなければならなかった。まだまだ学ぶ時間はいくらでもあると、甘えていたことが裏目に出た。
「重臣一同に頼らねばならぬ」
 勝頼は云いたくもない言葉を口にするしかない。
 その言葉は重臣に響いたが、御親類衆には軽視となって伝わった。

 武田家の不幸は、後継者教育の足りなかった信玄の失態だったかも知れない。

 この月一九日。織田信長は足利義昭を追放した。この瞬間、室町幕府は終わりを告げた。幕府を滅ぼし、朝廷の庇護者となった織田信長を中心に、世は廻った。
 そして、織田信長は武田家への感情を転換する。信玄の死は諸国に知られた。秘喪した甲斐もない。その死を確信した信長は、武田に対する卑屈なまでの対応をあっさりと止めた。
 ただし、武田には人材遺産がある。一騎当千の兵と、正面から戦う愚かさはない。武田はいまも変わらぬ強国であることに違いなかった。
「武田四郎なる小僧の器は、浅い」
 信長は、そう判断していた。
                               つづく
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

小山田信茂    

甲斐国郡内領主。武田二十四将。武田家を裏切ったと定説される文武の才に秀でた武将。

父・信有に嫌われて育つが、それは出自にまつわる秘密があった。

小山田弥三郎信有

小山田信茂と腹違いの兄弟。嫡流として小山田家を相続するが、のちに病没。ということになり、信茂を支える影の参謀となる。

武田信玄

甲斐国主。智謀に長けた戦国最強の武将。小山田信茂を高く評価し、その出自も含めて期待している。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み