第25話「傾(なだ)れる人々(後)」

文字数 11,993文字

傾(なだ)れる人々(後)


                  一


 五月一五日、その日は突然に訪れた。
 西原峠は早朝より山霧の中にあった。梅雨に入ったためか、葉は濡れて随所で水滴が響く。泥濘も多い。槇寄山の陣小屋は、小山田信茂に指摘されていたにも関わらず、壕を設けていない。代わりに柵や縄仕掛けといったものを設置したが、緊張感に欠けていた。
 兵たちは収穫した山菜を並べて、当番の変わり目をゆるりと待っていた。
 からん、からん。
 仕掛けが響いた。が、兵たちは関心を示さない。どうせ狸か鹿くらいにしか感じていなかった。
 そのときだ。火矢が幾本か、陣小屋に刺さった。
「敵襲!」
 声が響いた。番兵たちは慌てて立ち上がり、何人かは矢の的となった。
 視界は霧で遮られ、敵の数も定まらない。
「陣小屋を死守せよ」
 当番の長は若い者五人程を留め、残りの人数で西原峠へと山から駆け下りた。こちらは臑当だけの軽装だが、相手は胴巻に草摺の長柄である。それらが弓衆を守るように囲んでいた。
「数馬の衆だ。相手は山のことを知っているぞ。絶対に、峠越えをさせるな」
 当番の長が叫んだ。その指図に従い、西原の兵は機敏な動きをみせた。すると弓衆は、指揮をする長を狙い、矢を放った。
 陣小屋から半鐘が鳴り響いた。敵襲を報せるものだ。西原と峠の途中には、幾つかの留小屋がある。そこから援軍が駆けつけると、形勢不利と悟った北条勢は、矢で威嚇しながら後退を始めた。
 この戦闘は、決して大袈裟な規模ではない。せいぜい小競り合いに等しいものだ。が、信玄以来、はじめて甲斐国へと、敵が直接侵攻してきた事件である。
 このことはすぐに西原武田丹波守有氏の知るところとなった。
 早馬は小菅と上野原、そして岩殿城へと走り、事実が知らされた。同時に、西原武田丹波守有氏自ら西原峠へ登り、戦況を調べた。
 ただの少数による奇襲だが、かつて信茂が云ったとおり。もしも備えをしていなければ、敵はこの峠を攻め下りて、今頃西原は焼討ちをされていただろう。
「ここには兵を増やす。守りを固めるのだ」
 西原武田丹波守有氏は厳しい口調で指図した。

 西原峠奇襲の報せは、一刻ののちに岩殿城に達した。城番の荻原源八郎は急いで府中へ報せを発した。まず府中へは笹子峠の烽火台へ〈敵襲・撃退〉を示したうえで、自らが馬を駆った。
 勝頼は駿豆国境に出陣しており、躑躅ヶ崎に不在だった。留守を任されていた使番一二人衆・小宮山内膳佑友晴はこのことを重大と受け止め、勝頼に宛てた指図願を発するとともに、荻原源八郎の父・豊前守昌明に対応策を求めた。荻原昌明は病で、川浦の屋敷で横になっていたが、事の重大性を知り、急いで出仕した。
「指図の判断は留守居に出来ぬ。しかし手遅れになってはいかんと思い、独断で招いた」
 駆けつけた荻原豊前守昌明に、小宮山友晴はそういって詫びた。
「いえ、よき判断です」
 荻原昌明は報せの内容を質した。ほどなくして、荻原源八郎が駆けつけ、口頭にて仔細を報じた。
「西原とは、重要な路と聞いていた」
 小宮山友晴は地理に疎かった。
「もしもここを奪われたら、上野原と小菅が分断されます」
 荻原源八郎が語尾を荒げた。
「ならば、増援が必要と思うが、どうかな。豊前殿」
「同感です」
「わかった。勝手を周知しているそなたを岩殿城に送るよう、併せて御館様にお伝えしたい。父子であれば対応も出来るだろう。頼むぞ」
 小宮山友晴は決断力に富み、正論を好む人物だった。悪いことではないが、そのため相手の図星を指摘することを好む。そのため、長坂釣閑斎と犬猿の仲だった。
 勝頼のもとに使い番が現われ、西原峠の戦闘を報告した。どこかという問いに、絵図で示された場所を見て、勝頼は顔を顰めた。
「甲斐に直接侵攻されたということか」
 ただならぬことだ。
 半刻後、二陣の使い番がきた。西原峠の戦況と、許しなく荻原父子を岩殿に固めたことを口上した。小宮山友晴の独断は僭越なりと、長坂釣閑斎は厳罰を主張した。
「いや、釣閑斎殿こそ、物事の是非もなく感情を吐いたら困る」
 斥候から戻ってきた小山田信茂が、西原峠のことを耳にして、すぐに釣閑斎の発言を窘めた。
「たかが小競り合いであろう」
 勝頼の言葉に
「迂闊ですな」
「なに」
 勝頼は三角の目で、信茂を睨んだ。
「先代まで一歩たりとも敵に踏ませなかった国境に攻め込まれた。これをよく考えねば駄目です。駿河遠江ばかりではなく、甲斐も危なくなりましたぞ」
「たまたまだ」
「そうではない。備えを促しておいたからですぞ」
「勝手なことをするな」
「当代が指図しないから、出向いて沙汰をしたまで」
「勝手なことを、するな!」
 信茂は落ち着き払い、勝頼を憐れむように見た。それが癪で、勝頼は床几を蹴り倒した。
「その方、ここにいると目障りじゃ。都留に行って、西原のこと、勝手に指図ぜい」
「勝手でよろしいか」
「さっさと行け!」
「では」
 勝頼は肩で息をしていた。
 苛立つのは、己の短慮のせいだ。それくらいは承知していた。にも関わらず、こういう物云いしか出来ないのだ。勝頼は知っていた。それが自分の器量なのだ。一国の当主ではなく、一侍大将なら、どんなにかいいだろう。何もかも決断することの煩わしさを見透かされたようで、信茂の言葉は全てにおいて腹が立つ。
(小さいのは、儂の器じゃ)
 最近になって、ようやく悟ったのだ。しかし、そのことを誰は云えない。だからこそ、勝頼は虚勢でごまかすとともに、その苛立ちを露わにするのであった。

 およそ二十日間。
 西原峠の防備は固かった。尾根伝いに各峠にも兵が配された。加藤家・小菅家はこれに与力し、岩殿城からは援兵と兵糧が運び込まれた。
 小山田信茂は籠坂峠で山窩たちに接触すると
「すまぬが笹尾根を任せてもいいか。北条の兵は山反対の村の者だから、なるべくなら殺さず、ただ脅かしてくれればいい」
「弥五郎が助かるのなら、助けるべえ」
「ああ、助かる」
 北条領と接するのは西を除く三方。うち一方を山窩に任せれば、備えは二方で済む。西原峠に兵を固めることは、東の備えを疎かにしてしまう。たぶん、敵の狙いはそこだ。西原は陽動に過ぎない。
 谷村で兵を交替させ、信茂は岩殿城へ入った。
「久しいな、豊前殿がおられるとは」
 病がちで城番は息子に譲ったと聞いていた信茂は、様態を訊ねた。荻原昌明は涼しげに
「もう駄目かもな。戦場で死ぬることが望みじゃ」
「贅沢なことよ」
「ああ、有難えし」
 荻原昌明は死に場所を得たことを、満足げに笑った。この男は、生まれついての武士だ。半分埒外の血を引く己とは違う。羨ましいと、信茂は心底そう思った。
 小山田信茂は兵を率いて西原へ向かった。先々には、峠を越えて数馬を焼き払うという噂を流した。西原峠襲撃で武功を挙げたと喜んでいた数馬の人々は、この風聞に震え上がった。
 武田領を侵したことで、本気で怒らせた。そう思い、八王子城の北条氏照へ助けを求めた。しかし、氏照には助ける余裕がなかった。北関東の采配で手一杯なうえ、津久井方面から郡内へ侵攻する準備を急いでいた。正直、数馬のことなど、どうでもいいというのが、氏照の見解だ。
 檜原城主・平山伊賀守は領民の一時避難をすべきか悩んだ。もし小山田勢が攻め入れば、檜原城まで押し寄せるのは間違いない。郡内の兵が強いことはよく知っている。西原峠攻めは北条氏照の命令である。だから従った。
 結果として、虎の尾を踏んだのだと痛感した。
「小山田勢が攻めてきたら、逃げるか降伏するしかない」
 平山伊賀守氏重は絶望を口にした。それが、国境の豪族が抱く本音だった。
 しかし、小山田勢は数馬にこなかった。代わりに、津久井方面を加藤勢が奇襲した。侵攻を準備していた氏照は、この奇襲に手も足も出なかった。
「いつでも喉元に刃を立てるぞ」
という、信茂の意思を氏照は感じた。そしてそれは、とっくに忘れていた、滝山城のときに抱いた恐怖を思い出すこととなった。長篠で損耗激しい武田勢のなかでも、郡内の勢力は温存されている。すなわち信玄以来の強者が現存し、信茂の采配ひとつで、変幻自在にいつでも攻めることが易いことを意味していた。
 今更ながら、氏照は信茂の凄味に戦慄した。
 正面から戦えば犠牲を払い、知略においても才は負ける。北条氏照は賢い男だ。冷静に敵を分析し、勝ち目のない戦さを避けることを選ぶ勇気があった。
 西原峠はこの威嚇以後、攻め込まれることはなくなった。信茂は手を緩めず、槇寄山をはじめ笹尾根の要所には一層の備えを指図した。
 その報告に、勝頼は不服そうな表情で
「どうせ郡内だ」
と、悪態を吐いた。郡内のことだから、武田は無関係だと云わんばかりの侮蔑ともいえた。
「郡内も甲斐ゆえ」
 傍衆の小山田八左衛門がつい口を開いた。
「そうだったな。すまぬ、他意はない」
 勝頼はそう云って、作り笑いを浮かべた。


                  二


 八月に入った。
 真田昌幸の上州攻略は破竹の勢いだった。北条勢は為す術もなく、沼田領一帯を真田勢に奪われてしまった。
 上州の勢いとは裏腹に、遠江は逼迫する焦燥感が戦場に漂っていた。それは、厭戦と呼ぶに等しかった。高天神城からは救援を求める声が重なった。
「いや、今動くと、織田徳川連合軍を引き込んで、長篠の再来になりかねません。応じる声だけで、動かぬことが得策です」
 長坂釣閑斎は声に出した。
 たしかに、今は大規模な軍事行動に及ぶことが難しい。勝頼は渋った。父・信玄が落とせなかった高天神城を落したことは、自信への誉だ。その誉を維持することが出来ぬ歯痒さが、居た堪れなかった。
「手放したくないものだ」
「手放すのではございません。与えてやるのです」
 釣閑斎の言葉は、自尊心を守るための云い訳にすぎない。こんな見栄のためだけで、犠牲にされる兵たちは憐れである。
 
 小山田信茂は再三の雑務を勝頼から押し付けられ、嫌気を覚えていた。
「国中が厳しいのに、郡内が安定した経済であることは、忠勤が足らぬ所為だ」
 そういう暴言を勝頼は吐いた。
 それを耳にした小山田八左衛門は、他意もなく、ただ聞いたこととして四長老家に告げる。当然、彼らは勝頼への不満を抱いた。甲斐国はもともと国中・郡内・河内の三地区で気候封土が異なる。民情も生活も支配体系さえ異なる。
 あくまでも信玄の懐のなかで一統を保っていたに過ぎず、今も昔も武田へ従属したわけではない。限界だった。郡内は、民衆の人心さえも武田より離れ始めていた。信茂が宥めているからこそ、ギリギリ保っているだけで、現実的には、独立の気運さえ漂っていた。
 河内もそうだった。穴山信君は水面下で織田・徳川と通じていたのだから、自然と家臣にもその意識は伝播する。駿河国境に近い者ほど、その傾向が強い。
「谷村殿、我らは武田を見限り北条に附くべきではないか?」
 郡内でも、それを公言する者が現れた。小林和泉守房実もその一人だった。
「郡内は信玄公の御代においても、独自の自治を許されました」
「そうだな。甲州枡を用いずともよいことになっている」
「北条取次の役があり、陪臣さえ当主と言葉を交わしたのも、小山田家だけでござる。今なら、小田原も高い俸禄で迎え入れてくれるだろう」
 小林房実の云うことは、四長老家にも広まっている考えだ。
 信茂も、このことを思わぬでもなかった。優先するのは領内だ。皆の考えも同意できる。しかし、天正八年のこの時期、武田家から離反する者はいない。
「思うは易いが、行うは難い」
 信茂はそう呟いた。これが精一杯だ。
 小林房実は不服そうに、それでも一度は引き下がった。二度、三度、同じことを繰り返し、その都度、信茂は面倒臭がらずに接した。
「あまり谷村様を困らせることは出来ないな」
 小山田弾正有誠がそう云うと、誰も文句を云えなくなった。
 しかし、郡内の空気がその色に染まりつつある現実を、信茂は肌に感じていた。そしてこれは、決して郡内に限らない話だと洞察した。この積み重ねが、如何に大きな大国といえども崩れゆくことを、今川家の前例を通じて、信茂は知っていた。
(郡内は明け透けで、上も下も思ったことを云い合えるからいいが、余所はどうだろう)
 信茂は不安を覚えた。
 信頼関係がない領主には、とかく民衆が不服を覚える。その頂点の国主が抑えるから、不満は最小に留まるのだ。領主も国主も信頼を失ったら、そこはもう、国の体を成さぬこととなる。
勝頼に対する冷やかな感情は、長篠以降、重臣の内にも燻っている。信茂は桃陽と小林尾張守家親を内々に招き、郡内の感情をそれとなく探らせた。それとともに
「府中へ行き、領内の負担を和らげるよう進言する」
「聞いて貰えるかの」
「どうにも、このままでは、収まらぬ気がするずら」
 信茂の危惧は御尤もだ。
 武田家が瓦解すれば、同盟関係にある郡内とて、ただでは済まされない。武田を維持させる必要はあった。そのうえで、北条家と内通するならば、早い方がいい。
 郡内の安泰を保つ見極めは、微妙にして難しい。
「出来るならば、武田が立ち直ることがいいずら。先代にも、古典厩様にも、道鬼入道殿にも、多くの先達に儂は恩義を感じておる。心情においては、武田を見捨てられぬでよう」
 信茂は力なく笑った。
 翌日、信茂は勝頼に人心掌握の施策を諌言した。何でもいい、さすがは武田家と、民衆が感嘆することを形に示すべきだと訴えた。勝頼は億劫そうに、そんなことが出来るならやっていると吐き捨てた。
 租税は足りず、兵役の民にも課している有様だ。その全ては軍費に消え、手元に残るものなど何一つない。これで何をしろというのだ。
 むしろ勝頼は苛立ちを隠せなかった。
「郡内はいいよな。好き勝手云えば気が済むのだろう」
 さすがに、その物云いは腹が立った。
「武田家がしっかりして下されば、郡内も苦労はしませぬ」
 しらっと云ってのけた信茂に、勝頼は激昂した。
 いかなる大声も、もはや信茂の耳には留まらなかった。小さい器だと、憐みの情さえ浮かんできた。
 信茂の諌言は、無意味に終わった。
 そして、新府新城普請のことを、信茂はこのとき知ることもなかった。この普請を行えば国転びとなる。知っていれば、このときの信茂なら必死で止めたに違いない。
 その機は、失われたのである。

 程なくして、小林和泉守房実が没した。色々騒いだことも、結局は郡内の為を思っての事なのだ。
「鬼子の頃から、和泉守には世話になったなぁ」
 信茂は焼香の彼方に微笑んだ。家督は子の右京亮に相続を許し、遺領である信濃岩村田五〇貫文も安堵された。この報告に対する勝頼の返事も、事務的で素気ないものだった。嫌われたものだと、信茂は苦笑した。

 一〇月二二日、徳川勢は高天神城への包囲網を強化するため、全軍を配置し、堀・土塁・柵の構築を開始した。少なくともこの時点で、徳川家康は全力を対武田に向けることが出来た。信玄ではない、勝頼が率いる武田家は、策も読みとけるから、少しも恐ろしくはない。それに、穴山信君から軍に関する情報が提供されている。全てにおいて先手を用いることが適った。戦う前から主導権を握っていたのである。
 対する勝頼は、徳川へ全力を用いる事が出来ない。上信越に兵を割き、武蔵・相模・伊豆に対する北条への備えにも忙殺された。動員できる兵力は、よくて全体の三割ほど。これでは、まともに戦える筈などない。
 この頃になると、徳川家康はもう漂白民〈わたり〉の血筋も忘れ、一国の大名として振る舞った。埒外への関心すらない。このときの家康は〈無縁〉とは遠い存在だった。
 高天神城の包囲から逃れる術はない。
 城主・岡部五郎兵衛元信は、もともと今川水軍の海将である。陸に上がった河童のようなものだが、多くの宿老亡きいま、こういう人事をせざるを得ないのが、勝頼の現実だった。そして、岡部元信の上役は穴山信君である。すなわち、高天神城のすべては、信君から信長・家康へと伝えられたことになる。
 兵站をも断たれた高天神城は、援軍なき籠城という環境だった。
 信君は救援に応えようとはしなかった。当然、勝頼も危機感を抱かない。勝頼は新しい城を造ることに夢中だった。
 やがて、土屋惣蔵昌恒の口より、高天神城の実情が勝頼に報じられた。昌恒は岡部元信の婿である。その書簡には、ただちに高天神城を明け渡して城兵を救って欲しいという懇願が記されていた。
「どうか舅殿をお救いたまえ」
 土屋昌恒は勝頼に訴え出た。
 このときになって、初めて高天神城の窮乏がわかった。勝頼は跡部勝資・長坂釣閑斎に是非を尋ねた。両者は援軍を拒んだ。そのような軍費など、どこにもなかった。財政は破綻寸前で、合戦などしている場合ではない。
「命には代えられぬ、開城するがよい」
 勝頼は無念そうに呟いた。
 信玄よりも優れている証。その面子のため、高天神城を支配してきた。しかし、もう面子を保つことは出来なかった。
 土屋昌恒は安堵した。このことはただちに穴山信君に知らされた。信君はこれを高天神城に知らさず、安土の織田信長に届けた。信長は、武田の末期症状を悟った。
 援軍はない、放っておいても高天神城は落ちる。しかし、それでは意味がない。救援を望む家臣を見捨てた国主として、諸国に勝頼の無能ぶりを晒す必要があった。
「穴山という男は、もう完全に武田から心を離したのだな。こんなことを儂に知らすのだ、もう、帰る場所はねえだがや。ならば、四郎亡き後の武田の家督を、許してやらにゃあならぬな」
 信長は、傍らの小姓・森蘭丸にそう呟いた。
「上様も、気前がよろしいですな」
「家督など、実もねえ」
「穴山という男、心底がまことに上様に傾いておるものやら」
「わからいでか。あれは血だけを守れば満足な小者だがや」
 信長は大笑いした。
 降伏の声があっても応じぬ厳命が、その日の内に、徳川家康へと発せられた。家康はこれに従うよう、各出城へと周知を徹底した。岡部元信は遠州の強い寒風を肌に受けながら、援軍のこないことを強く噛み締めた。
 一二月九日、穴山信君は躑躅ヶ崎に参上した。
「思うところ有りて、本日、入道いたします」
 その頭頂は剃髪されていた。突然のことで、勝頼には言葉もない。
「これよりは〈梅雪斎不白〉と号したゆえ、御承知あれ」
「う、うむ」
 このことは、すぐに広まった。入道するほどの心境の変化とは何か。そのことで多くの者が囁き合ったが、諸事雑多の御時世で、多くの者はすぐにこのことを忘れた。
 穴山梅雪はこの日、城普請の念押しをした。気持が固まっていた勝頼は、具体的に普請奉行へ命じる時機を窺った。年明けが恰好という梅雪の言葉に、勝頼は大きく頷いた。


                  三


 天正九年(1581)正月。
 武田勝頼は賀詞の場にて
「外敵に備え城を構える」
と公言した。外敵は織田信長に他ならない。それは誰もが理解できた。
「城は韮崎である」
 ここで七里ヶ岩に軍事拠点を設けるという構想が告げられた。
「甲斐の内に敵を入れることなど、考えられぬ」
 叔父にあたる逍遙軒信綱が不服を唱えた。親族たちが次々とこれに倣った。
「甲斐はとっくに敵の侵攻を許しております」
 明瞭な言葉に、彼らは静まり返った。声の主は、小山田信茂である。昨年の西原峠の一件は、武田の家中に知られていなかったのである。きまりの悪い逍遙軒は、立ち上がると、小山田信茂の面前に歩み寄り
「郡内は甲斐とは考えておらぬ。それよりも北条を抑えられぬとは、もう少し精進すべきではないか?」
と、罵倒した。信茂は顔色ひとつ変えず、申し訳ないとだけ答えた。しかし、都留郡内とはいえ、侵入のあった事実は変わるものではない。城が必要だという気運は高まった。穴山梅雪はこれについて
「鉄壁の要害を以て敵を退けること。強く御支持申し上げます」
と明言した。御親類衆筆頭の言葉は重い。これが普請を公然と為したことは間違いない。
 小山田信茂は、じっと穴山梅雪を見た。
 同じように、真田昌幸も穴山梅雪を見ていた。
 二人とも、梅雪がどこか変わったような、根拠のない疑いを抱いていた。
 賀詞のあと、原隼人佑貞胤と真田昌幸、木曾義昌が別室に呼ばれた。別室には勝頼と側近衆そして梅雪がいた。
「普請奉行は原隼人佑、その与力は真田安房守に命ずる」
 勝頼の命令に、昌幸は戸惑った。上州が手薄になると訴えたが、聞き入れられるものではなかった。木材調達は木曾檜ということで、その手配が木曾義昌に命じられた。木曾義昌は外様だが勝頼の妹婿で、御親類衆とされている。理不尽だという義昌の耳元で
「安土の檜よりいいものがあれば、よろしいですな」
と、梅雪が小声で囁いた。義昌は顔色を変えた。梅雪は冷徹に微笑んでいた。何もかもを見透かした笑みだ。従わざるを得なかった。
 原隼人佑貞胤は陣場奉行で名を馳せた父・昌胤の三男だ。長篠で討たれた父を継いだ兄・昌栄は、三年前の上州出兵で討死にした。そのため急いで家督を継いだ。右も左も分からず、そのため命令だけに従う実直な男だった。
「城普請はいつまでに?」
 真田昌幸が割って入った。現実的な昌幸は、このことが武田にとって有為か無為か、冷静に見極めようとした。工期は早いほどいいという勝頼の言葉に、昌幸は呻った。原貞胤は甲州流築城術を知らぬだろう。譜代という金看板だけで普請の代表を務めるのだ。そして、実際には普請の実務をやるのは昌幸だ。必要なものは、人も材料も資金もだが、いちばんは〈時間〉だった。短期で普請をするためには、近在からの材料調達がいい。木曾は遠すぎる。
「いや、是非とも当方が負う」
 木曾義昌が譲らなかった。弱みを握られたゆえの意固地である。
 一月二二日、勝頼は新城普請のための人足徴収を開始した。この普請は、軍事拠点としての要害建築という触れ込みだった。少なくとも着工当初、真田昌幸はそう思っていた。思った通り、原貞胤は築城のことも陣所の目利きすら学んでいない人物だ。実績はすべて原貞胤に譲る覚悟で、昌幸は巧みに人を采配した。少なくとも当初は、円滑に普請を進めることが出来た。そう、当初は、であった。

 高天神城が降伏を訴えたのは暮れのこと。年を明けても、徳川家康からは音沙汰がなかった。
 城将・岡部元信は不安を覚えた。よもや徳川勢は、降伏に応じるつもりがないのではないか。
その予感は、現実となった。織田信長からの正式な文書で、高天神城根切りが達せられたのは、一月二五日のことだった。その情報は、それとなく城内にも伝わり、やがてそれは失意へと変わっていった。
「四郎が武田を継いでから、駿河の者はいいことがねえ。ちくしょう、四郎なんか、四郎なんか!」
 激しく勝頼を罵る孕石主水佑元泰の声を、岡部元信はやんわりと制した。
「武田の先代は立派だった。戦さが強いのは、民政が優れたがゆえじゃ。御大将のためにという内なる励みが、強さの源だった。それは今川治部(義元)様も同様じゃあ。戦うしかないのなら、儂は亡き二君のために戦おう。それが、我が名を敵に知らしめることとなる。武功を立てて死んでやるまでだ」
 言葉は厳しいが、表情は穏やかだった。その笑みを見た者たちは、我も我もと、戦意を昂ぶらせた。しかし、既に兵糧は尽きていた。馬すら食い尽くしたし、死体を漁る者もいた。木の皮は殆ど残っていない。意思だけが、彼らを動かしていた。
 三月二二日、高天神城の門が開いた。
「このまま餓死するくらいなら」
 生き残った城兵は打って出た。岡部元信をはじめ軍監・江馬直盛以下残兵八〇〇は、二手に分かれて突貫した。岡部元信は徳川勢の一翼にあたる大久保七郎右衛門忠世の陣へ殺到した。大久保忠世の弟・彦左衛門忠教は驚愕し、迫る敵を槍でなぎ倒した。手応えは軽かった。見ると、骨と皮ほどに痩せた兵だった。
「ここはお任せを」
 大久保忠教を守るように立ちはだかったのが、家臣・本多主水だった。その面前に、岡部元信がいた。元信は懇親の力で長巻を振った。しかし、体力の差は大きい。組み付く本多主水に圧されて、林の谷池まで転がった。そこで討ち取られた。名乗りを挙げる余裕すらなく、首実検で正体が判明した。
 このことを『三河物語』はかく記す。

   城の大将にて有ける岡部丹波をば、平助が太刀づけて、寄子の本多主水に打たせけり。
   丹波と名のりたらば、寄り子に打たせましけれども、名のらぬうへなり

 このことで、大久保忠教は地団駄踏んで悔しがった。大久保彦左衛門忠教は『三河物語』の作者であり、この言動は生の本音といってよい。
 無謀ともいえるこの突撃は、軍監・横田甚右衛門尉尹松を逃すための大芝居でもあった。横田尹松は馬場平から細い尾根を奔り、城外に脱し、甲斐へ向かった。同様に脱出する者もいた。横田尹松をはじめとする僅か一一名が府中へ生きて戻った。
「よく戻った」
 勝頼は彼らを讃えた。
「城の実情を甲斐へ訴えるため、死に損なったまで」
 横田尹松の恨み言を、勝頼は黙って聞くしかなかった。
 横田尹松以外の逃れた軽輩たちは、村へ帰ると、勝頼から見捨てられた不服を口々に吐いた。ただでさえ信望を失いつつある勝頼にとって、この風聞は辛かった。更にこの風聞は、織田・徳川により、駿河・遠江・信濃へと流布された。
 重税に苦しむ領民は、更に兵役に立っても見殺しにされる。このことで暴動に近い騒動が、随所で見受けられた。遠江は勿論、南信州も同様だ。ここは三河に接し、山を越えれば美濃である。敵地に隣り合った場所は、安心の担保が大きい方に民衆は傾れるものだ。
 その点でいえば、勝頼という棟梁は地に堕ちた存在だった。
 人の心は、城にも等しい。
 勝頼は知らない。その、人の心の脆さ危うさを。この場合、民衆こそドラスティックな発想を持ち、かつ現実的だった。頼るに能わぬ大樹からは離れて顧みぬ、これが人の心の本質だ。
 織田信長はそういう機微を見抜く聡さを持つ。
 その心理を操れる場所こそ、駿河遠江であり、南信州だった。
 民衆の心は、天正九年のこのとき、早くも武田から離れつつあった。その民衆を抑えきれぬことを自覚したとき、在地領主もまた、傾れる決断に迫られることとなる。
 高天神を制する者は遠江を制する。この言葉は正しい。たかが一城ではなく、遠江における武田所有の城は、その維持だけで相当の労力を強いられることとなった。

 三月、武田勝頼は佐竹義重を介して、里見義頼と同盟を結んだ。これは北条氏政に対する布石に過ぎないが、当時の里見家は北条と停戦状態にあった。長年続いていた江戸湾の制海権を巡る争いを僅かながらに解決したばかりだ。武田家のために、その利を損なう真似は出来なかった。
里見義頼は現実主義者だ。情に左右される甘さを持たない。この房甲同盟は軍事的には無益であることを看破している。それでも同盟に応じたのは、偏に佐竹義重の顔を立てただけであり、また、富士山信仰を重視する民衆の期待に応えただけに過ぎない。
 武田と結べば御師がまた渡ってくる、赴かずとも講和が聴ける。
 かつて小猿屋新之丞が、庁南や佐貫で講和したという話は、安房国内では羨望となって伝わっていた。
「御師が渡ることを、望む」
 その要望を満たすことは、このときの勝頼には出来なかった。

 三月二九日、高天神から落ちてきた雑兵を収容する持舟城に、動員令が飛んだ。ここは海賊衆の統轄下にあり、若き城主・向井政綱は小浜伊勢守景隆に従い、出陣の下知を放った。武田海賊衆は小浜景隆指揮のもと、向井政綱・伊丹虎康等が伊豆久料津(静岡県沼津市)まで舟を出し、高天神落城の隙を伺う北条水軍・梶原備前守を撃破した。武田の水軍に関する記録は今日乏しいが、無用の長物だったという見方は間違いだろう。日々の戦局に対応し、記録にない水軍の活躍は常にあった筈である。このときも、彼らは己の仕事をきちんと遂行した。
 迷うことなく武田の仕事をする。
 そういう者も、まだこの時期には存在していた。

 しかし、民衆の心は総じて武田勝頼から離れた。高天神を見捨てたという風聞が何よりも大きい。加えて重税、兵役、苦力、いいことがひとつもない。財政難ゆえ商人も掛け売りの支払いを回収できず、苛立ちを隠さない。国内はピリピリしていた。
 このような国は、些細なことで、誰もが当主に叛く。その土壌は、すっかり完成していた。
 織田信長は武田家が想像以上に〈洞の大樹〉だったことを、むしろ哀れに思うのであった。密かに引き入れたい人材、根切りたい人材、その選別をしようと考えた矢先、嫡男・信忠は勇ましい諫言を口上した。
「武田に関わる者はすべて焼き払うべし」
 使える人材は残して用いるなど、手緩いことだと訴えてきた。信忠は短慮である。先を考えずに、今がよければいいのだ。
「武田にはかつて、そなたの許嫁がいたぞ」
「ああ、松とかいいましたな。甲州攻めを為した際は、公衆の面前で辱めるべきかと。憎むべきは武田、再起の芽を摘むことが肝要なり」
「穴山には武田の名跡を許すつもりだ」
「そんなものは一利もなきゆえ、生かすことなどおやめ下さい」
 信長は苦笑した。
 この短慮な嫡男は、このままでは勝頼と同じ憂き目を見ることだろう。しかし、これも必然なのだ。徳川家康の嫡男を廃したところで、やはり織田家にも安泰はないのかも知れない。
 それが、戦国だ。
 明日は我が身。勝頼の無様は、織田家の将来を写す鏡かも知れない。信長はじっと己の手を見つめた。
                                 つづく
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登場人物紹介

小山田信茂    

甲斐国郡内領主。武田二十四将。武田家を裏切ったと定説される文武の才に秀でた武将。

父・信有に嫌われて育つが、それは出自にまつわる秘密があった。

小山田弥三郎信有

小山田信茂と腹違いの兄弟。嫡流として小山田家を相続するが、のちに病没。ということになり、信茂を支える影の参謀となる。

武田信玄

甲斐国主。智謀に長けた戦国最強の武将。小山田信茂を高く評価し、その出自も含めて期待している。

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