第11話「小田原(前)」

文字数 19,336文字


小田原(前)


                  一


 永禄一一年(1568)二月。信玄は未だ駿河侵攻の動きを形にしていない。が、これは表向きのこと。水面下では、既に周到な策が幾重にも練られていた。山縣三郎兵衛尉昌景と穴山左衛門大夫信君は信玄の密命を帯び、徳川家康を訪れていた。家康は松平から改姓していたが、それは今川との縁切りが本気という意思表示でもあった。
 若い家康は、血気盛んな猪突武者だ。ちょっとのことで激昂し、些細なことで頭に血が上る。こういう人間だからこそ、織田信長のような成り上がりに惹かれ、同盟を結んだのだろう。
 ともあれ、武田という戦国の綺羅星に臆することない家康の鼻息は、半分は性分であり、半分は対等だという勘違いから来るものだった。
 すべては、若さゆえの物種である。
「天竜川を境に、東は武田で西は徳川というのは、どうずらか?」
 山縣昌景の言葉は、魅力的だった。
 今川から取り戻した三河旧領を遥かに凌駕する遠江獲得は、名もなき一人の土豪にとって、夢のような話だ。
 断る理由はひとつもない。家康は即時に頷いた。
 この交渉の事実を、今川氏真はまだ知らない。

 信玄にとって大きな課題がある。後継者の是非だ。義信が死んでしまったことは、現実として受け止めなければならない。合理性を重んじる信玄は、その悲しみを抑えて、次の後継者を定める必要が迫られていた。
 この決断は一人では出来ない。
 御親類衆が躑躅ヶ崎に集められ、厳重な人払いのもと協議を行った。誰も代わるべき者の意見を持たず、協議は難航を極めた。
「上総より三郎殿を呼び戻しては?」
 信廉の意見は、現実味に乏しい。
 信玄三男・三郎は、幼少より上総国の同族である庁南武田家に養子とされ、現在は当主・兵部大輔豊信として群雄割拠の房総半島にある。第二次国府台合戦の後は北条陣営にあって、里見義堯・義弘父子と戦っている状況だ。今更、甲斐復帰の声を掛けることなど、出来るものではない。
「御聖道様なら血筋に申し分、これなし」
 穴山信君の言葉も、道理ではあるが現実味が薄い。御聖道こと龍芳は信玄次男、母親も義信と同じで申し分のない逸材だが、幼少より目を患い、いまは盲目である。ゆえに海野の家名再興に尽力するものの、表舞台に立つことはない。
「その儀は御容赦あれ」
 龍芳はきっぱりと辞退した。
「補佐が確かなら申し分はないものと」
 信君は食い下がった。龍芳は傍らで介助する山下又左衛門尉に耳打ちして、代弁させた。
「御聖道様曰く。総大将は常に外交合戦という場に晒される。盲いた姿は、敵に軽んじられ味方に侮られること必定。武田は名門、惜しいことではあるが、後世に恥辱を残すことを好まぬものなり」
 信玄を継ぐからには、五体満足な有望なる者が望ましい。山下又左衛門尉の言葉が龍宝の代弁なら、至極道理である。かといって、代わるべき然る者は、容易に思い浮かばなかった。
「いっそ、古典厩殿の子では?」
 河窪兵庫助信実が呟いた。躑躅ヶ崎の上流筋を固める河窪信実は浪人の扱いが得手な信玄の弟である。典厩信繁から精神修養を叩き込まれた信豊こそ、後継者にふさわしいのではと話題を振ったのだ。
「叔父上、それでは儂は腹を斬って亡き父に詫びねばなりません!」
 信豊が悲鳴を上げた。信玄と後継者に生涯仕える遺訓に叛けば、信豊は生きていられないと訴えた。
「御館様の確かな御子はおらぬのか?」
 一条右衛門大夫信龍が語尾を荒げた。
 成人する者はもう一人いたが、条件は三男と一緒だ。諏訪家再興のため、名跡を継いでいるのだから、問題外である。
「されど、諏訪には代わる姻戚がいる。四郎でなくてもよいのでは?」
 信玄が呟いた。
 他に恰好の後継者がいないのなら、強引に序列を重んじるしかない。次男は盲、三男は他国の主、四男にお鉢が巡るのは道理である。信玄の弟・松尾民部少輔信是もこれを支持した。
 しかし、信廉と一条信龍が難色を示した。
 勝頼が婚姻してのちの、あの性癖を例に挙げ
「狭量このうえなし」
と、糺弾した。
 確かに諏訪家でも辟易し、持て余したからこそ、躑躅ヶ崎に身柄を引き取ったことは記憶に新しい。
「折衷案がござる」
 龍芳が言葉を発した。
 表向き、四郎殿の赤子を後継者といたし、四郎殿は成人までの陣代というのだ。折衷案とはいうが、生まれたばかりの赤子の成人を待つのは、どうしたものか。
「それまでの陣代が武田家を支える以上、御館様は四郎殿に対し、跡を継ぐ者と同等の薫陶を授けることが適当。親族ならびに重臣一同は当主の器を育てるため、四郎殿を中心とする際は合議を以て裁決することを徹底する。これなら如何?」
 すぐに頷けることではなかった。
 しかし、折り合いをつけるなら、それしかない。
「せめて太郎殿に、男子がいたならな」
 義信は男子を得ていない。女子を得たが、母親が駿河へ連れて行ってしまった。義信の子は、甲斐にいない。
「御聖道殿には、男子がおらぬのか?」
 未練そうに信廉が呟いた。勝頼の赤子より、こちらがいいという未練だ。少なくとも龍芳は義信の同腹、血は正統であった。
「勘弁してくんにょう。半俗とはいえ、まだ妻もねえずら」
 これでは、仕方がない。
 信廉は諦めざるを得なかった。
「すぐには、出来ぬこともあるでよう。当分は四郎を諏訪の棟梁に留めおく」
 信玄の決断に、皆は頷いた。

 信玄が内々に外交を取り結んだ相手がいる。
 石山本願寺一一世門主・顕如光佐。当時、日本で最大規模の宗教兵力を全国の在野に伏せ、事あるときに号令を発すれば、国崩しも厭わぬ勢力となる実力者だ。その愛妻である如春尼は京の公卿・三条公頼の三女。そう、武田信玄の正室・華子の妹にあたる。教団は経済の中心地である石山(大坂)を城塞化し、幕府も無視できぬ勢力を維持していた。
 この当時、織田信長はまだ無名であり、畿内の中心勢力は三好三人衆や松永久秀、それに各々の領地で威勢を挙げる者どもだった。これらと結ぶか、或いは敵対し、本願寺は栄えた。信玄が遠交近攻を誘い誼を通じてきたとき、顕如光佐は躊躇わず同盟を約した。戦さ得手で名を馳せる武田と結ぶことは、畿内の優位を意味していた。
 この盟約交渉に携わった者は、ごく限られた信玄の手駒だ。そのなかに、大蔵藤十郎も含まれていた。このときの縁で、のちに藤十郎は本願寺有力者の娘を妻とするのである。信玄の狙いは、徹底した今川の退路を奪う工作だった。京を逃げ場にさせない為の威圧といってもよい。本願寺に逆らう勢力は、畿内に少なかった。信玄の狙いは充分に浸透していた。

 三月八日、信茂は掛斗帳一流を岩殿山七社権現に奉納した。
 岩殿山は山岳修験道の道場であり、その急峻な岩肌は見る者を圧倒する。その頂は眺望に長け、昨今設置された都留郡の狼煙網はここに情報が集約された。
 岩殿山からは笹子峠が視認できる。この笹子峠から先は、国中への狼煙網が続く。岩殿山から発した情報は、四半刻もせぬ間に、信玄の知るところとなるのだ。
 岩殿山はただの狼煙台ではない。
 信虎時代、ここは北条勢に攻め込まれた。それを阻止するため、要害機能を完備した山城が設けられたのだが、実は、武田直営でもある。小山田家はこの寄騎に過ぎず、一切の主導権は武田家が握っていた。城下には街区としての機能は薄く、常に谷村や国中からの補給で兵糧を維持していた。七社権現は小山田家代々の信仰が厚く、信茂も例に洩れることなく義務を果たしていた。
 日中、吉田より仁科六郎右衛門と猿屋宝性が訪れ、移転協議の経過を報告した。三五年前に伽藍焼失した西念寺を移転に組込み、新築するという意見が出ているという。それはいいことだと、信茂は頷いた。
 夜。
 伊勢大夫が不意に谷村を訪れた。
「躑躅ヶ崎には寄らぬ。お忍びということで」
 何か火急のことだろうと、信茂は中津森の母がいる庵へ案内した。ここなら誰にも聞かれない。伊勢大夫は懐から二通の書簡を出した。ひとつは勧進聖・清順からの礼状だった。無事に遷宮を終えたこと、次の式年に向けた動きが綴られていた。もう一通は、宛名がない。
「それ、儂じゃ」
「は?」
「誰にも聞かれたくないから書いた。読んだら、焼いてくれ」
 綴られた内容は、織田信長が近々上洛するというものだった。理由も書いてある。三好衆に追われていた足利家の貴賓を匿っているがゆえだ。暗殺された足利義輝の弟・覚慶、いまは還俗し足利義秋を名乗っている。
「上総介は美濃を落としたそうじゃの?」
「うむ」
「随分と気忙しいことだ」
「酔狂で動く御仁ではあるまい。ほれ、最後のところを読まれよ」
 信茂は目を走らせた。信長は秘かに堺へ人を送り込み、経済基盤の掌握を望んでいる旨が記されていた。既に御当地である尾張の熱田・津の商工業地帯を信長は掌握している。しかも美濃に自由交易の座を設ける構想を公言している。
「上総介は商人の親玉になるつもりか?」
「恐らく」
「妙なことよ」
「伊勢より畿内を旅したお主なら、意味が分からぬ筈がない。これは、天地の引っ繰り返ることぞ」
 信茂は一瞬、困ったような表情を浮かべた。
 商工業を掌握して得することは、銭の流通を支配することに繋がる。農作は四季や天候で左右されるが、銭は遠国から物資を買うことが出来る。銭を応用すれば、兵さえ買うことが出来る。
「まさか」
 信茂は顔色を変えた。
「その、まさかだ」
 当時の常識は、農繁期に生産を行い農閑期に兵を繰り出す軍制だった。この軍制は年間を通じて戦うことの難しい条件に縛られている。ゆえに兵農分離は理想であり、分っているが為し難い諸国の課題だった。
 信長は、銭で兵を養うのか。
「この軍制改革が為されれば、京へ上るのも易かろう」
「こんな大事、御館様にこそお伝えすべきだろう」
「無理じゃ」
「無理?」
 伊勢大夫は諸国の情報を知っている。義信の死、それに伴う武田家内の問題、これが解決せぬうちは信玄の気を急かすべきではない。足元疎かな者は逆向けに倒れるのが、世の常だ。人の親である以上、いまの信玄は慎重に欠くというのが、伊勢大夫の云い分だった。
「ああ、そうかも知れぬな」
「ゆえに、そなたにだけ伝えたかった」
「状況が許さぬなら、今の半農のままでも精強な軍勢であればいい。儂ならば、そうする。少し考えていたこともあるしな。そのことに手を出すには、丁度いい頃合いかも知れんずら」
「考えていたこと?」
 それは、印地の技を武力に用いる小隊の編成だった。家柄に関係なく、使える者は登用したいという信茂の考えに、伊勢大夫は大いに賛同した。
「弥五郎殿は、どこか上総介に考え方が似てるのかもなぁ」
 その意味を明かすことなく、伊勢大夫は笑った。
 信長が上洛の支度をしていることなど、信玄はとっくに知っているだろう。それくらいは報じてもいいかと、信茂は考えた。
「で、大夫殿は、こののち何処へ?」
「安房へ行く」
「里見か」
「里見は国府台で敗れて後はいいところがない。が、里見は息を吹き返すぞ。武田が盟約を結ぶなら、早い方がいい。早いほど、利害関係は一致するだろうよ」
「独断は出来ねえが、その通りだな」
 伊勢大夫は対北条戦略を仄めかしているのだ。
 武田と里見が結べば、北条の動きを制することが出来る。里見家では盟約関係にある上杉輝虎への不信感がある。輝虎が合力を約しながら間に合わなかったことが、国府台敗戦の原因だ。房総に檀家を抱える御師が、そのことを十分に掴んでいる。
 塩止めの一件で、北条は今川寄りであることは明白となった。
「こののち、北条が今川に同盟するなら、里見との縁は有効なものとなるだろうな」
「そうだろう」
 伊勢大夫を送り出してのち、信茂は母親を諭して躑躅ヶ崎の小山田屋敷へ移すこととした。起請文以後、家臣引締め策に迷う信玄に対し、人質同然に肉親を置くことこそ、一番の信頼の証だ。
「一人じゃ嫌だ」
 信有の寵姫も連れていくと、駄々をこねた。もっとも二人とも尼の体で、寵姫というのは相応しくない。こののちは葛野尼とよびたい。
 さて、中津森から離れることを渋る母が訴える葛野尼の同行に頷いた信茂は、翌日、共に府中へと向かった。
 伊勢大夫の齎した信長の一件は、やはり信玄も知っていた。安房との同盟案の有効性も同意した。あとは時期だが、その是非は信玄の匙加減でいい。
 母親の府中入りの真意も、信玄はすぐに察しが付いた。
「似たようなことを皆が一斉にやるのは、面白きことよ」
 聞けば、山縣・馬場・内藤といった重臣たちも、勝手にそういう動きを取っているという。穴山信君は昨日、妻を府中に入れたそうだ。
「おまんの心根を嬉しく思う」
 信玄はつるりと頭を撫でながら、笑った。
 人伝てだろうか、家臣たちが躑躅ヶ崎の屋敷へ身内を留める風潮が自然と確立したのは、程なくのことだった。今度は信濃先方衆も、我先にと動いた。二度と信頼を失うことなかれと、真田一徳斎や相木市兵衛等が働きかけたのだ。
 信玄は家臣引締めのため、多くの時間と人材を浪費した。府中への人質が、浪費を礎とした家臣結束の結果だとしたら、何という無益な遠回りだろう。その無益に武田家は振り回されたのだ。代償は、大きかった。
 信玄が睨む駿河の絵図は淡く白い。その図を睨む信玄の瞳は、ギラギラとしながらも、静かに青い炎を宿していた。

 四月、足利義秋は〈義昭〉と名を改めた。
 その頃、安房の里見家は悲運が続いていた。当主・義弘の父・義堯の御台所は病床にある。『安房妙本寺文書』によれば、御台所は八月一日に没すると記されているから、余程の重病だったと思う。伊勢大夫が訪れた際、ちらと溢した甲斐武田との同盟交渉を検討する余裕は、当時の里見家にはなかったかも知れない。
 武田側もその交渉を現実に行うことはなかった。粛々と、駿河侵攻の準備が急がれていた。小山田信茂は北条に備えつつ、新たな歩兵である〈投石〉の隊を秘かに調練していた。印地を雇いたいところだが、〈上ナシ〉の漂白民を取り込むことは無理な話だ。ならば、一から作ればいい。その威力は、畿内の旅で自身が承知していた。弓矢のような修練をせず、鉄砲のような面倒くさい操作もない。礫ならどこにでも落ちているのだから、こんなに安上がりなものはなかった。飛距離と命中精度さえ確保できれば、あとは身ひとつの気楽なものだ。
 この調練は、母が不在となった中津森の館で行われた。このことを知る小山田家中の者は、まだいない。
 七月、信玄は信濃飯山城を攻めた。さては六度の川中島合戦かと、近隣諸国は固唾を呑んで見守った。しかし、これが陽動である。一一月一三日、小山田信茂は平野(山中)住民に対し、甲駿通行不自由の間は諸役免除を約した。厳密には信玄の命令である。これは、戦時による不便の救済を意味する。
 そして、一二月六日。
 武田勢は駿河へ電撃的に侵攻した。この先陣に小山田信茂は加わった。一二月一二日、信玄は内房(芝川町)に布陣した。今川氏真は薩埵峠に防衛線を布いたが、信玄に呼応する背信者があまりにも多く、駿府へ撤退した。翌日、信玄は府中へ攻め入り、氏真は戦うことなく、なんと妻を置き去りにして掛川城へと逃げた。妻は北条氏康の娘である。輿もなく徒で掛川へ逃れる不自由を強いられたことを、程なく氏康は知った。
 氏康は怒りを覚えた。
 本来なら、その怒りは不甲斐なき婿に傾けるところである。しかし、今川救済の気運がある以上、それは叶わないことだった。信玄への怒りを口にするものの、それは氏康自身の偽りに過ぎない。しかし、それが北条方の大義名分になった。今川への加勢の、それは十分な理由付けであった。
 信玄は駿府城を入手し、越年した。
 年が明けると、北条勢が興津に迫った。兵站の確保が不十分という理由から、一度は手にした駿府を放棄し、信玄は帰国を余儀なくされた。その間、別働隊が関東に乱入し、鉢形城を攻撃して攪乱を試みた。更には四月、都留郡の兵が岩殿城番・荻原豊前守昌明の指揮下、檜原へと侵攻した。都留方面の武田直轄地の指揮権は岩殿城にあり、こういう場合の取り決めを小山田信茂は事前に承知していたのである。
 笹尾根を経て檜原へ至る大きな進入路は、浅間峠と西原峠だ。このときの主体兵力は加藤丹後守景忠だから、浅間峠を用いたものだろう。軍勢は西原武田勢と小菅勢も加わっている。これらは西原峠を経て侵攻し、敵地で合流した。浅間峠から檜原城下までは、距離にして約二里足らず。山を下る勢いだから、襲来を察知したときは軍勢が目前に迫っていた。
「あれが……武田」
 檜原城主・平山伊賀守は噂に聞く武田勢の恐怖に震えながら、籠城に徹し、滝山城の北条氏照へ救援を求めた。
 この局地戦は、相手に武田への恐怖を植えつけることが目的だ。その目的を達成し、軍勢は潮が引くように笹尾根の彼方へ去って行った。
 信玄の駿河侵攻は、三国同盟の手切れを意味した。
 北条は敵として位置付けられ、郡内都留は甲斐における最前線となったのである。主要進撃路である浅間峠と日原峠中間を見上げる猪丸城山には、以後、狼煙台が置かれた。北条勢への最前線を担う要として、これの維持は加藤景忠が負い、狼煙番が駐屯した。その兵糧を西原武田源左衛門尉有氏が担った。
 この四月の間に、北条氏政は上杉輝虎に交渉を持ちかけた。信玄を封じ込めるためには、戦さだけは強すぎる者を利用しない手はない。長年の確執を水に流し、弟・氏秀を人質に差し出すことまで持ち出した。その成果があり、六月九日、相越同盟が結ばれた。
 この相越同盟が結ばれるより早い四月一九日、信玄は江尻城番に穴山信君を任じた。十五条の守則を与えて籠城に徹する旨を厳命し、二四日、信玄は甲斐に帰国した。
 駿河攻めが一時的でないことの表れは、江尻をはじめとする攻略下に置いた諸城へ有力家臣を配し、籠城策を命じたところに垣間見える。事実、信玄が動くときは現地の民意を揺さぶり、調略を終えたうえで軍を用いた。
 信濃・西上野で、既に実証済である。
 よって、駿河の情勢もこれに準じていた。弓矢の外で、昼夜を問わぬ見えない攻防戦を信玄は仕掛けていた。撤退はあくまでも、北条という部外者の介入が理由だ。調略戦は軍勢がなくとも展開されており、駿河の民意を揺さぶっていた。
 誤算といえば、徳川家康だ。
「天竜川を境に東は武田で西は徳川というのは、どうずらか?」
 山縣昌景の交渉に一度は応じた家康だが、秋山勢が勢いに乗じて天竜川を渡り戦場を掠め取った不実に、怒りを露とした。このままでは信玄は三河をも奪うものかと、大きな脅威を覚えたのである。
 結果、家康は北条氏政と和議を結び、掛川の今川氏真を相模へ引き渡した。
 駿河攻略を巡り、見た目、信玄は完全に包囲された。ただしその先の、更なる手を既に配っていることは、未だ誰も気づいていない。

 帰国した後も、信玄は駿河への手を緩めなかった。
 民意掌握の要は宗教であり、経済の要は信仰だ。そして駿河には大きな信仰の柱である〈富士山〉がある。甲斐と駿河、二面性ある浅間社を完全掌握することは重要であり、信玄がこれを重視せぬ筈がない。ここで、吉田御師の暗躍が、歴史の奥底で発揮された。立場は違えども、同じ富士を信仰する者という誘いは、富士浅間神社の氏子や信者の心に響いた。
 心安んじた信仰への傾倒を託すに足る盟主として、今川家は重くはなかった。北条も徳川もその器ではない。頼るべきは武田であると、吉田御師たちは口説いた。
 六月一六日、信玄は再び駿河へ進撃した。今度は駿東方面である。古沢新城を囲むと、北条氏政はただちに越後へ急報し、信州へ進軍する要望を求めた。相越同盟の正式締結は六月九日。まだ七日しか経っていない。上杉輝虎は越後国内が信玄の調略で乱れたことを理由に、動かなかった。古沢新城が堅固と知った信玄は、囲みを解いて軍勢を三島城へ向けた。北条勢が襲来すると、ただちに野戦に転じ、これを撃退した。信玄の強さは、瞬く間に駿東方面の認知するところとなった。
 信玄は一気に伊豆から小田原を攻めると見せかけ、二五日、軍勢を大宮城へと転じた。
 大宮城は、富士浅間神社大宮司をも兼ねる富士兵部少輔信忠の城である。富士信忠の士気は高く、屈する態度を示さなかった。しかし、穴山信君・葛山氏元の昼夜を問わぬ猛攻や、既に民意を揺さ振られた調略が功を奏し、大宮城は戦闘を維持できぬ事態に陥った。七月三日、富士信忠は遂に開城したが、自らは北条へ下り武田に抗した。
 大雑把ながらも、駿東富士山麓は武田信玄の支配下となった。
 このことは、富士山という信仰経済を信玄が完全に握ったことを意味した。甲駿両国の支配は、莫大な利権を生む。この山開きして間もない時期の掌握により、この年から信徒の落とす銭は武田の財となっていく。


                  二


 信玄は駿河攻略の前に為すべきことを重視していた。
 北条氏政へ釘を刺しておかねば、こののちも背後から邪魔をされるだろう。氏康は弁えているが、若い氏政は武田と本気で戦ったことはない。
(餓鬼を、躾けてやるか)
 信玄は脂ぎった瞳を輝かせた。
 もし領内に突如押し入り、長躯小田原を攻められたら、氏政はどんな顔をするだろう。震えるだろうか、狼狽えるだろうか。城は落とさずともよい、武田の本気を見せつけさえすればいいのだ。それだけで、氏政を黙らせることが出来る。
(駿河経略に賭ける我が意地は、横槍くらいで揺るがぬ)
 こちらが本気だと、恫喝する必要があった。
 そのために効果的な方法が求められた。ただ攻めるだけでは、上杉輝虎が長駆した前例と重なる。ただの遠征では、舐められるばかりだ。信玄の本気がどれほど恐ろしいか、それを形に表したかった。
 八月、弓矢の御談合として、信玄は識者である重臣数名を秘かに召集した。そのなかに小山田信茂の顔もあった。参じた者は、山縣三郎兵衛尉昌景・馬場美濃守信春・内藤修理亮昌秀・原隼人佑昌胤である。小山田信茂は彼らと面識もあり、砕けた会話も出来る関係だった。
「小田原だけを攻めても、滝山、更には鉢形に兵が温存すれば、きっと押し寄せる。これは挟撃となりて宜しからず。鉢形は、真っ先に落とす必要がある」
 武蔵進出のためには鉢形城は邪魔だと、山縣昌景は呟いた。そのための足掛かりとして、至近の御嶽城を確保すべしと断じた。
「小田原を攻める話だが?」
 原昌胤が首を傾げた。
 山縣昌景は、鉢形・滝山を拠点攻撃し、小田原へ向かうと断じた。
「無茶だ」
 陣場奉行である原昌胤にとって、無謀な企てであった。
「相手が武田に恐怖すればいい。落とすことは、ついでじゃ」
「そう旨く行くものか。美濃殿は、如何か?」
 馬場信春は腕組みしたまま、落とさぬならば出来るだろうと笑った。ただし
「面白味がないのう」
と呟いた。
 やるからには、大いに震撼せしむ事こそ必定だ。そのためには、戦術の極みを発揮するべきだとも告げた。
「成る程」
 黙って聞いていた信玄が、ぼそりと呟いた。
「鉢形へは碓氷峠より攻め寄せるものなり。落さずともよい、武田への恐怖を刻み付けるだけでいい。追撃を躊躇うほどの恐怖をくれてやろうず」
 信玄の目が輝いた。この瞬間、幾重もの策を既に巡らせているのだろう。一同は神妙に頷いた。
「さて、滝山であるが」
 信玄は顔を上げた。
「弥五郎よ」
「は」
「孫子の旗の続き詞を、知っておろうな」
 これまで黙っていた信茂は背筋を立てて、信玄の問いに答えた。
「知りがたきこと陰の如く、動くこと雷霆の如し。味方の戦略は闇中同様に敵に知られてはならず、兵を動かすときは雷のように激しきものなり。これこそ我が軍の旗、孫子の至極にござる」
「勘助に習ったか?」
「はい」
「あいわかった。別して弥五郎に命じたい」
「なんなりと」
「滝山城へは奇襲の別働隊を設け、小山田兵衛尉が軍配者となるべし。本隊が滝山を攻める最中、思いも寄らぬ方より出没し敵を驚嘆せしむのだ。どうだ、この大任、お前なら出来るか?」
「出来ます」
「わかった。このたびは滝山城の小僧めが鼻柱を折ってやろうず」
 この奇襲する別動隊は信茂の希望で、都留郡の兵力が投入された。今度は荻原豊前守昌明が信茂の指揮下に入る。本隊が九月頭に碓氷峠を越えるためには、遅くとも出陣は八月末。策は急がねばならない。滝山城の外へ兵を引き出すための虚偽情報を流布する必要があった。
 信茂は岩殿城に赴き、小菅五郎兵衛忠元を呼び寄せ荻原昌明と軍議を行った。
「小河内峠を越えて小菅より軍勢が侵攻すると流布する。檜原や杣保はさぞや混乱することだろう。そこが狙いずら。そこで、払暁、小菅勢をひそかに岩殿へ集める」
「岩殿へ?」
 小菅五郎兵衛忠元は怪訝そうに訊ねた。
「小菅勢は昼寝をしたのち、夜陰を以て自領へ戻るのじゃ。盛大に松明を掲げると、遠目にはどう映るか、くくく、このこと、豊前守殿の祖父殿が戦術ぞ」
 ああと、荻原昌明は膝を叩いた。
 荻原常陸介昌勝は昌明の祖父にあたり、信玄の父・信虎が甲斐統一を為した際の軍師的役割を果たした知将だ。信茂の案は、〈合図の小旗〉という、小兵を大軍に見せる常陸介の策である。北条の物見は、夥しい大軍が小菅へ向かったと錯覚するだろう。
「なにも小菅勢を岩殿に呼ばずとも」
「こちらの手勢を割けぬのでな」
 小菅勢は岩殿と往復してくれるだけでいいのだと、信茂は笑った。
「そのうえで、こうするつもりぞ」
 津久井方面へは、千喜良口(大垂水峠)に郡内主力が攻め入ることを流布する。無論、これは虚報だ。更に浅間峠から攻め入るという虚報を流す。これは加藤丹後守景忠による大規模な陽動だ。そして小菅勢による小河内峠への陽動。この攪乱で北条は備えの兵を分散せざるを得ない。
「実際は、どこから攻めるのだ?」
 荻原昌明が怪訝そうに呟いた。案下口(和田峠)かとの問いに、信茂は笑いながら
「小仏口」
と答えた。
「あれは野良道で、土地の者が山に入るときの獣道じゃ。あんなところ、軍勢が通ることなど、無理であろう」
「そうでもねえずら」
 信茂は図面を指した。
 上野原から鷹取山の北麓を廻って小佐野川に出る。この上流へ向かう路が、案下峠を経て浄福寺城下へ向かう主要道だ。陣場山(陣馬山)を武田勢が抑えているから、ここまでは安全に進軍できる。
「ならば、案下を用いれば、容易に進撃が能う」
「駄目じゃ。主要な道を用いては奇襲にならぬ」
 栃谷を経て奈良子峠へ至り、尾根を進む。明王峠(現在の底沢峠)より小仏口へ攻め下る。ただし、状況や情報次第でいくらでも打つ手を変えていく。
「無理なことを」
 呆れたように荻原昌明が批判を吐いた。薮漕ぎしながらの踏破は神速に劣り、荷駄を切り離すことは危険だとも云った。
「薮漕ぎは、もう終わっている」
「なに?」
「この奇襲の正否は早さずら。既に、小佐野の者にやらせておる」
「いつから」
「駿東攻略した七月から」
 これは、信茂の先見の明だった。
「長蛇の軍勢は脆いという。荷駄隊の警備は?」
「それも、大丈夫」
 高尾山の僧兵は修験道に通じている。岩殿山円通寺とは同じ宗派だから、この繋がりを以て、小山田の荷駄が千喜良口を通過するらしいと偽の密書を送らせている。
「本物は案下から運ばせる。荷駄の護衛には投石部隊を投入する。抜かりはねえし」
 信茂の策は状況に応じて二手三手と変えていくものだ。下手に固定しては取り返しが付かなくなる。まずは、陽動次第で、どうとでもなるものだった。
 荻原昌明は腹を括った。
 これは知略と、それに基づく神速の勝負だ。迷いは敵だ。判断の遅れが命取りになり、失敗につながる。情報こそがその全てを左右した。その情報を得るために、無数の間者が山に入っている。彼らは臨機応変に変化する作戦のことを知らない。仮に捕らえられても千木良口への備えという口裏があり、小山田勢に不利はなかった。

 八月二四日、信玄率いる武田勢は府中を出陣した。九月一日、軍勢は悠々と碓氷峠を越える。西上野は平定済みの地だから、敵襲の心配もない。途中、兵糧や兵の補充をしながら、更に南下した。
 この間、小規模の別働隊が雁坂峠を越えて栃本に至った。こちらは時間に縛られない陽動部隊である。この別働隊は秩父の寺社仏閣に火を放ち、鉢形城支配圏の不安を煽った。もっとも領民には、早々に武田への臣従を勧める声が流布されている。数多の焼いた寺社についても、新しく修築することを約した上でのことだ。すなわち民衆が同意した上での出来レースのようなものである。この戦闘の犠牲になったのは、北条に与し抵抗した者だけで、民の被害はない。後年〈信玄焼〉と呼ばれる秩父の逸話は、北条方が上塗りした情報操作とも考えられるが、ここではそのことに触れない。
 一〇日、武田勢は鉢形城を攻撃した。
 鉢形城は室町中期の上杉家内紛時に相続を否定された長尾景仲が築城した。太田道灌の時代だ。以後、この城は大局に応じて主を変え、河越夜戦ののちは北条の拠点となった。城主・北条氏邦は氏康四男、当時二八歳である。鉢形城を支える家臣団もまた、領内居住の強者揃いだ。坂東武者の気風を受け継ぐ彼らは、愚直で純朴であり、一徹だった。直接甲斐に接する秩父衆と異なり、武田のことはどこか他人事である。鉢形城が天嶮の要害という過信もあっただろう。
 大手口の攻撃を示す信玄の布陣は、荒川対岸から丸見えだ。
「武田信玄とは、思うより大したことねえな」
 鉢形衆は、高見の見物にも似た気楽さを覚えた。丸見えの布陣に対し先手で兵を配れば撃退も易いと、彼らは笑った。秩父を越えてきた部隊は玉淀の浅瀬をみつけて、続々と河を渡った。
「なりふり構わぬようじゃ。力任せで攻めると見得る」
 待ち伏せのため、大手方面に兵が動いた。
 氏邦は北条勢の駿河出兵の際、薩埵峠にて信玄が退却する手際を見ていた。鮮やかな退き陣だった。あのような兵配りをする者が、このような猪突猛進などするだろうか。どこか褪めた目で、氏邦は違和感の行方を摸索していた。
 氏邦の懸念は正しい。
 まさしくこれは、これは陽動だった。既に信玄は精鋭を選り、荒川下流赤浜渡しより密かに渡河させていた。奇襲部隊は突如、深沢川を越えて鉢形城に攻撃を仕掛けた。それはまさに、電撃的なものだった。この攻撃により、たちまち外曲輪が武田の手に落ちた。
「油断なかれ、信玄入道はあらゆる手を用いて当方の隙をつく」
 氏邦の檄に、鉢形衆は戦慄した。
 敵を侮ると痛い目に遭う、まさにその通りだった。外曲輪奪回の兵を仕立てると、今度は手薄の大手口に攻撃が仕掛けられた。
「まるで、こちらの呼吸が読まれているようだ」
 氏邦の評は正しい。こののち内通者が露見すると、いよいよ城内は互いに疑心暗鬼となった。この手の攪乱は、信玄の得手だ。
 更に信玄は鉢形対岸の寄居に対し、蹂躙を指示した。
「城から出ない北条勢は土地の者を見捨てた」
 この流言飛語は、状況はどうあれ、結果はその通りとなった。鉢形城は野戦に出ることが出来なかったのである。敵地で兵糧を奪い田畑を荒らし、婦女子の乱暴さえ行うことは、古今東西の常である。戦国の出兵は、おおよそこれが相当する。それを楽しみにする兵もいたが、これは略奪により日頃の不満を逸らすためでもあった。綺麗事では済まぬ世の倣いだ。そしてこれが、兵農分離出来ない東国の現実である。
 武田本隊はおよそ二万の軍勢であり、布陣すればそこに夥しい量の糞尿が残される。一応は定められた箇所に排泄されるが、野にも落とされる。
 これは極めて後始末が困難な、侵略者の置き土産だった。
 放置すれば悪臭が漂い、疫病の原因にも繋がる。武田勢も鉢形攻めで、相当な糞尿を残したことだろう。野戦も出来ず、気を抜けば攻められる。信玄の鮮やかな軍配を前に途方に暮れていた北条氏邦は、五日目の朝、その目を疑った。
 なんと、武田勢は忽然と城下からその姿を消したのである。
 やがて物見の伝令で、武田勢は夜のうちに赤浜渡しを越えて南へ移動したことが判明した。信玄の行軍路は毛呂山方面だ。後世、滝山古道と称される道へ合する鎌倉街道脇道である。この道は拠点となる城を避けるもので、余所者は用いるものではない。明らかに信玄は土地の者を手懐けている。鎌倉街道脇道をこのまま進むと、箱根ケ崎村で滝山古道に合流する。起伏の少ない平原を真っ直ぐ進めば、滝山城対岸の拝島に至った。
 信玄は、滝山城へ向かっている。
 氏邦はすぐに気付いた。
「ただちに追撃あれ」
「いや、これは野戦の誘いなり」
 鉢形城中は騒然となった。結論に困った氏邦は、日を遅らせて信玄を追った。野戦を仕掛けても勝機はない。あわよくば滝山城と挟撃し
(ひょっとする事もある)
という、虫が良すぎる功名心だけを胸中に秘め、精鋭を率いて信玄を追った。
 この頃、信玄は佐竹義重と通じていた。
 もしもこのとき、佐竹が呼応したら厄介だった。その警戒のため、氏邦は大半の平を城に残す必要があった。


                  三


 永禄一二年九月一六日。
 武田勢襲来の報せに、毛呂山の民衆は狂乱となった。既に寄居の噂は耳にある。女子供は山の中に逃げ込み、男たちは兵糧を担いで竜谷山城へと集められた。とにかく戦えば勝ち目がないことを、毛呂佐渡守顕季は弁えていた。こちらから手を出さぬよう叫び、じっと城に籠もって、嵐が通り過ぎるのを待った。
 武田勢が通過したのは、翌日だった。兵糧を差し出せと云う勧告に応じると、事もなく軍勢は通り過ぎていった。小豪族はこうして生きるしか術がない。
 これが戦国だった。

 武田信玄が鉢形城を攻撃した。その報を滝山城が察知したのは、襲撃より一日置いたあとのことだ。
「ただちに援軍を差し向けたい」
 城主・北条氏照の言葉に、城内家老たちも同意を示した。そのときである、丹波筋から武田勢が襲来するという情報が届いた。
「さては鉢形と滝山の同時攻撃か?」
 鉢形を信玄が攻めるなら、それに匹敵する大将が出てくる可能性がある。とても援軍どころではあるまい。急ぎ籠城の触れを発し、杣保方面へ軍勢を差し向け防ぐ手配を急いだ。在地衆で川野の杉田次郎兵衛尉入道淨泉の一族が最前線だ。これの加勢に一原郷の原島七郎左衛門尉を任じると、滝山城からも兵を送った。
 本丸から眼下の多摩川を見下ろすと、川筋上流の彼方に、特異な大岳山の稜線がくっきりと映える。あの山系の彼方から、武田勢がこちらへ攻めてくるのだ。北条氏照は三田征伐後に取り込んだ旧臣たちに期待するしかなかった。
「申し上げます」
 中山勘解由家範が参上した。
「如何したか」
「郡内勢が千喜良口より進軍するとの情報を入手した由」
「郡内……あの小山田弥五郎か。さもありなん」
「廿里砦を後詰とし、椚田城を前衛。津久井衆を相模川対岸に備えたく存ずる」
「わかった、采配はそなたに任せよう」
 主将は中山家範、これに横地監物吉信・布施出羽守康則を脇将とした。廿里砦は高尾山と浄福寺城を結ぶ路の途中にあり、滝山城との伝馬を中継する場所だ。敷地内には、加賀一之宮より勧請した白山神社が鎮座する。その近くが本丸であるが、城塞機能としてのそれは、あくまで室町中期の野戦の延長というべき、毛の生えたような砦だ。ただ、台地の高所にあり、南浅川を天然の濠に見立てた高低差が特徴だった。千喜良口から攻めてくる郡内勢は椚田城を抜かねばならない。その背後から、怒濤の勢いで廿里の兵が攻め下れば、挟撃による殲滅も易かった。
「孫子曰く、軍は高きを好みて下(ひく)きを悪(にく)み、陽を貴びて陰を賤しむ。生を養いて実に処(お)り、軍に百疾なし」
 この軍略は、当時の常識ともいえた。
 この常識に照らせば、小山田勢の迂闊さは、きっと後世まで物笑いの種となろう。しかし、中山勘解由家範は思う。小山田信茂という人物はよく分からぬが、仮にも一軍の采配を託される者が、このような無策を、この場面でわざわざ行使するものだろうか。
「まことに、千喜良口へ備えればよろしいのですな?」
 中山家範は二度、念を押した。氏照の決定に変わりはなかった。
「丹波筋と津久井が敵の進路じゃ。滝山に近付けることはならぬぞ」
「は」
 中山勘解由家範が去ったすぐあとに、新手の情報が飛び込んだ。
 なんと、浅間峠より郡内勢が攻め入る噂があることを、檜原城主・平山伊賀守氏重から早馬で届けられたのだ。
「浅間峠か。そうか、この手もあったか」
 氏照は困惑した。
 当時の多摩と都留郡内を結ぶ幹線道路は、荻原路(のちの旧青梅街道)と甲州路(のちの古甲州街道)である。大規模な軍勢がここを攻め入ることは予想の範疇だった。しかも、小菅氏と西原武田氏は綿密な示し合わせも出来る関係であり、上野原の加藤氏と歩調を合わせれば、長大な笹尾根のどこを越えてくるものか見当もつかない。
 丹波筋には兵を配ったばかりだ。
 千喜良口の備えも済ませたばかりだ。
 果たして檜原城に援軍を差し向ける必要があるか、否か。
「津久井衆を椚田城の後詰めとし、廿里の兵を割いて檜原へ回せぬものか。いや、まてよ、敵は如何ほどの兵力なのだ」
 情報が足りなかった。
 やがて、重要な一報が滝山城に届いた。
 一六日未明、夥しい松明の夜間行軍が岩殿城を発し、小菅方面へ向かったのを、乱波が遠目で視認したというのだ。報せは一八日早朝、滝山城にもたらされた。焦れったいことだが、北条の伝達方法の主流は伝馬だ。軽微な烽火も用いるが、委細の情報量を詰めることが出来ない。これが、武田の狼煙との違いだ。火薬量、狼糞の調合、発光時間、色。全てにおいて、武田の種類は豊富だ。ゆえにそれひとつで、誰が、いつ出陣し、軍勢の規模に至るまで、あらゆる情報が狼煙に詰め込まれている。現にこの伝達手法で、永禄四年の川中島合戦を信玄は制した。これに匹敵する手法がない以上、早雲以来の伝馬制で情報を送るしかない。
 この時間差が、氏照を後手に廻すこととなった。
 今の夜間行軍が事実なら、郡内の主力は丹波筋へ向かったと判断してよい。現に津久井方面からは郡内勢の動きを示唆する報告は未だない。これに一刻ほど遅れて、今度は檜原城からの情報が届いた。浅間峠の麓・棡原に加藤丹後守景忠の軍勢が結集していることを、笹尾根まで分け入った間者が直接視たというのだ。こちらは払暁に得た情報だから、やや新しい。
「郡内勢は、丹波筋と檜原から攻め入ると考えていい」
 氏照はそう結論付けた。
 荻原路と甲州路という主要道路を大規模な軍勢が攻め入ることは、考えてみれば自然なことだった。迷いが判断を鈍らせたことを、氏照は悔やんだ。
 ただちに杣保の下流にいる豪族すべてを丹波筋へと出陣させ、秋川流域の豪族を時坂峠まで布陣させ、主力を檜原城に据えて主要幹線の交通を遮断した。鉢形への援軍は松山城・河越城から差向けることとし、氏照は籠城の準備を急がせた。多摩川に面する耕作地は収穫を急がせた。農民は城の外れにある山の神曲輪に避難し、じっと嵐が通り過ぎるのを待つよう命じられた。
 数刻後、厄介な報せが届いた。
 鉢形城を包囲していた武田勢が、滝山城に向けて移動を開始したというのだ。松山・河越から向かった軍勢は、信玄との戦闘を避けて遠巻きにしているばかりという。
(なんとも不甲斐ない)
 氏照は更に情報を求め、信玄の動きに注目した。二報三報、それらから整理すると、武田勢の速度は思うより遅い。
 氏照は考えた。
 よもや、丹波筋からの軍勢と合流するつもりだろうか。だとすれば、それは補給部隊も兼ねていよう。長躯の武田本隊は、或いは兵糧が不足しているのかも知れぬ。従来の力が発揮されない可能性すらあった。
 ならば、勝機も見出せようか。
 氏照は急ぎ城将を集め、このことの是非を質した。総じて、城将たちは合流の可能性を即座に結論付けた。ならば、合流させることなく、丹波・檜原からの別働隊を途中で殲滅することが出来れば、大きな戦功となろう。
「中山勘解由へ伝えよ。廿里は空けてよい。兵の一部は浄福寺城に留め、残りの兵全てを急ぎ檜原へと差し向けるべし。千喜良口の警戒は椚田城だけでよい。これは敵の流した攪乱の報である。丹波・檜原にこそ兵を配るべし」
 多摩川という天嶮を生かせば、滝山城は要害である。武田信玄と云えども、恐れることはない。そして鉢形・松山・河越の兵が武田勢の背後を突けば……。
 あわよくば、上杉輝虎でさえ討てなかった、あの武田信玄の御級を挙げることも
(夢ではない!)
 若い氏照の心は、功名に急いた。
 急いた方策は、些細なことで混乱する。その青いほろ苦さを、氏照はこののち痛感することとなる。

 二〇日、小山田信茂の本隊は岩殿城を出て羽置城(上野原城)へ入った。加藤景忠は陽動の挙兵をしており、檜原方面が騒がしいという報せがあった。恐らく大軍が檜原城へと集められたのだろう。それだけ案下方面が手薄となる筈だ。
「策を用いよう。豊前殿に頼みがある」
 信茂は図面を拡げ、栃谷の南東にあたる孫山の麓を指した。
「ここに大きな陣を張るよう」
「陣を?」
 荻原豊前守昌明は首を傾げた。
「祖父殿の秘策を頼みたい。〈合図の小旗〉ぞ」
 ここは桂川の対岸にあたる嵐山からよく見える。津久井に属する小豪族は、よもや虚報と信じていた軍勢が突如現れたことに、さぞや驚くことだろう。千喜良口へ向かうと思われる大軍が出現すれば、山を越えた先の布陣を誘導することも易い。
 敵の本営は廿里砦となる。
「しかし、〈合図の小旗〉だけではないぞ。夜陰に乗じて松明を持たせ、軍勢は山へ移動するのだ。されど、それは千喜良口にあらず」
「なんと?」
 拡げた図面に向け、扇を指した場所は、小仏峠だった。〈合図の小旗〉で引きつけた目を二四日夜、ここへ引きつける。しかし、本当の軍勢ではない。村の者に碁石金を握らせ、松明を掲げて小仏峠に登らせるのだ。
「豊前殿はこの隙に上野原へ全軍撤退。もしも津久井衆が桂川を渡ったら、これを討つべし。渡らずば、静観あるべし」
 全ての目が丹波口・檜原口に向いている。
 この虚報操作は、氏照を混乱させるには充分なものだ。その間に、信茂率いる本隊が意外な道から廿里を奇襲する。
「しかし、〈合図の小旗〉な。急に指物など用意はできぬ」
「そのことなら、馬標を除いて我らは全て置いていく。兵一〇〇〇を装うことは能うずら」
 成る程と、荻原昌明は頷いた。
「我らは案下へ行く道で荷駄と奇襲の兵とに分ける。奇襲の兵は栃谷から奈良子峠で尾根に出る。明王峠より狐塚峠を廻れば、一晩もあれば廿里の裏山に至るだろう。二六日払暁を以て、当方は廿里を攻めるものである。荷駄は案下峠より悠々と下るべし。我らは一戦終えてこれと合流するだろう」
 見事な戦略だ。
 うまく行けば、の話である。
「兵は兵糧もないのか。それでは保たぬぞ」
「全員、干し芋を持参すべし」
 郡内では芋の需要は売買や年貢の対象から外されている。これを兵糧に用いるよう、信茂は工夫を凝らしていた。干し芋にすれば重量は軽くなる。腹持ちもいいし、重宝する糧だ。これを個人の消費量二日分、芋がらを干して結った紐で縛り、身体に巻いていくのだ。芋がらも充分な食糧になる。無駄はない。
「道案内の手筈は?」
「抜かりなし」
 信茂はにっこりと笑った。
 先手にある以上、後手よりは有利なのだと呟いた。それは不安を感じぬ明るい印象を誰にも与え、勇気を抱かせた。何となく思う儘にいく気がすると、荻原昌明は呟いた。
「すべては豊前殿の〈合図の小旗〉次第ずら。せいぜい気持よく敵を騙してくんにょ。されど、断じて寡兵であることを気取られますな」
「心得て候」
 二一日、小山田勢の主力は羽置城を発ち、一定の速度を保ちながら鷹取山の北麓を廻り、上河原に達した。その間、荻原昌明の小隊五〇は、孫山麓の八坂神社へ秘かに入り、日暮れを待って、陣幕を長く張込むと、その内側へ指物を立てた。桂川対岸からみれば、一夜にして孫山の麓に小山田勢一〇〇〇騎が布陣した様となろう。
 二二日、嵐山周辺の百姓は桂川対岸の軍勢に驚き、石老山北麓にある関所へと知らせた。次々と驚きが連鎖し、津久井城から城兵が駆けつけ、これを認めて急ぎ滝山へと報じられた。この日は薄暗い小雨で煙る天候だった。これがいよいよ功を奏した。夕刻よりは盛大に篝火を焚き、五〇騎は大声を張上げて大軍を装った。
 滝山城にこの報せが届いたのは、その日の夕刻のことだ。
「小山田勢一〇〇〇が千喜良口に?馬鹿を申すな」
 氏照は耳を疑った。
 しかし虚報でないことが確実となり、氏照は頭を抱えた。対策を練り直す必要があった。浄福寺城へ伝令を発し、廿里砦への布陣を命じた。これを後詰とし、椚田城に詰める大半の兵を以て、急ぎ千喜良口に向かわせた。千喜良峠は津久井・高尾からの四つ辻でもある。神出鬼没の武田兵に備える兵は、多い方がいい。
 とにかく、小菅や浅間峠に武田勢が出没している事は間違いない。
(いったい、なにがどうなっているのだ)
 氏照は激しい焦りを覚えた。
 信玄と小山田信茂、双方の動きが全く読むことが出来なかった。その焦りが、つい言葉を乱れさせた。
 丹波・檜原が小山田の本隊か。
 それとも千喜良口が本隊か。
 二方向への警戒は同等でなければならない。しかも、信玄が迫る現実も忘れてはならぬ。これ以上、兵を城から割くことは出来なかった。
 これが、武田信玄とその精鋭の実力だというのか。
 氏照はこれまで楽観視していた己を悔いた。武田を甘く見ていたつもりはないが、やはり迂闊な思い違いをしていたことに打ちのめされた。氏照はこのとき、完全に後手に回されていたことを、強く認識していた。
 二三日、荻原昌明は半刻に一度、馬を走らせ連絡を取り合う風を装った。これにより、まだ増援が来るかも知れぬという錯覚を与えるためだった。滞在する兵の規模が読めぬ以上、北条方はただ遠巻きに見ているより術はない。
 その間、信茂の荷駄隊は陣場山の陣所へと収容され、予ての出立まで待機となった。この陣場山より眼下を見下ろせば、上野原に向けた視界が拡がり、白い富士の頂が顔を覗かせる。荷駄を率いる奥秋加賀守房吉は、信茂が揮う軍配の呼吸を念頭に置きながら
「これほど正確な刻を求める行軍は覚えがねえら」
と、緊張した面持で天を仰いだ。
 蒼天を奔る雲の流れは、早かった。
 信茂が率いる部隊は、栃谷にて編成を改めつつ一泊。その後は奈良子峠へ至り、尾根伝いに明王峠へ向かった。広葉樹は葉を落とし、視界は良好だ。気配を消しながら狐塚峠に向かう。
「芋ばかりでは、屁が出るな」
 小山田弥七郎が不服そうに呟いた。
「叔父上、我慢なされよ。それに、屁が臭ぅござるぞ」
「ややこれは。弥五郎殿も臭い」
「なんと、臭いか」
「臭い、臭い」
「適いませぬな」
 周囲は笑いを堪えるのが大変だった。
「音を立てるなと云う当主が、皆を笑わせてなんとするか」
 呆れたように、従兄弟の小山田八左衛門が窘めた。すまんと呟く信茂は、つるりとおでこを撫でた。
 さて、現代でこそ整備されているこの山系の登山道も、当時は地理に熟した者以外は踏み込まぬ獣道である。先導する栃谷の猟師は、この山に詳しかった。彼の先導が、信茂の行軍を計画通りに実現させた。
 深沢山の裏手に至ったのは二五日の夕刻、すぐ裏手を下りれば、そこは目指す廿里である。すぐ攻め下りたい衝動を抑え、軍勢は音を立てることなく、窪地に身を寄せて風を避けた。この日は雲も厚く、寒さを感じることもなかった。月明かりは雲を隔てて薄いが、暗さに慣れればどうということはなかった。
                              つづく
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登場人物紹介

小山田信茂    

甲斐国郡内領主。武田二十四将。武田家を裏切ったと定説される文武の才に秀でた武将。

父・信有に嫌われて育つが、それは出自にまつわる秘密があった。

小山田弥三郎信有

小山田信茂と腹違いの兄弟。嫡流として小山田家を相続するが、のちに病没。ということになり、信茂を支える影の参謀となる。

武田信玄

甲斐国主。智謀に長けた戦国最強の武将。小山田信茂を高く評価し、その出自も含めて期待している。

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